第37話 待ち時間に寝ていただけです
ゲートを入った時点で、もう押していた。
車を降りたところに制作進行の人がいて、俺の顔を見るなり言った。
「おはようございます。今、四十分押してます」
「はい」
「朝いちのが、雨で飛びました」
「はい」
「順番、入れ替わります」
「はい」
その人はもう別の方向を向いていた。向いた先に別の人がいて、その人にも同じことを言っていた。
空を見上げた。
雨は降っていなかった。降っていないのに飛んだらしい。理由は聞かなかった。聞くと、たぶんもっと押す。
◇
今日の俺の出番は、一つだけである。
五十ページの、一行。
アパートの部屋の前で、帰ってきた男に、俺が一言だけ言う。それで終わりだ。
夜のシーンなので、撮るのも夜になる。俺の行は、いちばん下にある。
俺は椅子に座った。
背もたれの紙は、昨日貼り直したところが少し浮いていた。押さえた。また浮いた。三回目でやめた。
◇
九時半に、最初のトラブルが起きた。
外の音である。
どこか近くで工事が始まったらしい。地面を叩く音が、一定の間隔で入ってくる。録音の人が手を上げて、監督が止めて、制作進行の人が走っていった。
二十分して戻ってきた。
「二時まで止めてもらいました」
「二時までか」
「はい」
「そこから先は」
「そこからは、また行きます」
撮影が再開した。
三分後に、救急車が通った。
「はい、もう一回」
その次は、飛行機だった。
「もう一回」
その次は、誰かのスマホが鳴った。現場の全員が一斉に自分のポケットを触った。
「もう一回」
◇
俺は椅子に座って、それを見ていた。
昨日は香盤表を広げたまま寝た。今朝は四時に起きた。まぶたが重い。
俺は寝た。
「高町くん」
肩を叩かれて、起きた。
助監督の人が横に立っていた。
「あ、ごめん、まだです。まだ全然です」
「はい」
「起こしちゃった」
「大丈夫です」
「寝てていいからね、ほんとに」
「はい」
助監督の人は行った。
行きながら、少し離れたところで誰かに何か言った。
「あの子、寝てる」
「マジで?」
「ぐっすり」
俺はもう一度目を閉じた。
◇
昼の弁当は、鶏の照り焼きだった。
三日連続の魚は来なかった。
俺は食べた。食べ終わって、箸を置いて、それから椅子に座り直した。
座り直した五分後には、寝ていた。
起きたのは十四時前である。起きたら、正面に制作進行の人が立っていて、俺の顔を見ていた。
「あ」
「すみません」
「いや、いいんです」
「はい」
「……いいなあ」
「はい」
その人は三時に起きて、ここに来ている。
俺は缶コーヒーを一本渡した。鞄に入れていたやつだ。微糖である。
「え、いいんですか」
「はい」
「うわ、ありがとうございます」
その人はそれをポケットに入れて、走っていった。
飲む時間があるのかどうかは、わからない。
◇
十四時十五分に、電球が切れた。
セットの天井に付いているやつではなく、部屋の中の、卓上のスタンドである。撮っている最中に、ふっと消えた。
「あ」
「切れた?」
「切れました」
照明の人が脚立を持ってきた。美術の人が箱を開けた。箱の中にはたくさんの電球が入っていて、その中から同じものを探すのに、七分かかった。
七分のあいだ、俺は椅子に座って、それを見ていた。
箱の中には、大きさの違う電球が二十個くらい入っていた。その横に、替えの湯呑みが三つ並んでいた。
◇
スマホが震えた。
美咲だった。
〈今日も撮影?〉
〈うん〉
〈何時まで〉
〈わからない〉
〈わからないの?〉
〈わからない〉
少し間が空いた。
〈明日の一限、小テストだって〉
〈範囲は〉
〈二次関数〉
俺は画面を閉じた。
閉じてから、もう一度開いて、〈わかった〉と打った。
わかっていないが、打った。
◇
十五時に、呼ばれた。
「高町くん、次いけそうです」
「はい」
俺はメイクの部屋に行って、顔を直してもらって、衣装に着替えて、セットの前に立った。
立って、五分待った。
十分待った。
「……あー、ごめん、飛びました」
「はい」
「明るいうちに外を押さえたいって」
「はい」
「もうちょっと、休んでてください」
俺は着替えたまま椅子に戻った。
着替えたまま座ると、椅子の背もたれが背中に当たる位置が変わる。少し前に寄って座り直した。
そして、寝た。
◇
十七時に起きたとき、現場に猫がいた。
白い猫である。誰かが抱いていて、その横に別の人が立っていて、床に細い線がテープで貼ってあった。
猫が、その線の上を歩くことになっているらしい。
猫は歩かなかった。
右へ行った。抱き上げられて戻された。左へ行った。戻された。座った。伏せた。動かなくなった。
「猫、休憩入りまーす」
誰かが言った。
現場の全員が、猫を待った。
十五分後、猫は起きて、線の上をまっすぐ歩いた。
「はい、OK!」
拍手が起きた。
俺も手を叩いた。叩きながら、猫は今日いちばん早く終わった出演者だと思った。
◇
十九時を過ぎた。
押しは、一時間五十分になっていた。
助監督の人が、ストップウォッチを持ったまま、監督のところと録音のところとカメラのところを往復していた。往復するたびに、A4を折った紙を見ている。
少し離れたところで、犬飼さんが電話をしていた。
「はい……はい。二十二時です。……ええ、そこは動かせません」
その反対側で、有本さんも電話をしていた。
「はい、そうです。未成年ですので……はい……はい、ありがとうございます」
二人とも、こっちを見ていない。
俺は椅子に座って、膝の上に台本を置いていた。
五十ページを開いている。開いているだけで、読んでいない。一行しかないものを、二時間読むことはできない。
鞄の中から声がした。
「あんた」
(うん)
「今日、まだ何もしてないわね」
(してない)
「わたしの時代は、こういう日は、朝から化粧を三回やり直したの」
(三回もか)
「待ってると、やることが無いのよ」
(うん)
「あんた、やることないとき、何してるの」
(寝てる)
「……そう」
ミューナは黙った。
俺は目を閉じた。
◇
二十一時に、犬飼さんが俺の横に来た。
「高町」
「はい」
「起きろ」
「起きてます」
「目が閉じてる」
「はい」
俺は目を開けた。
犬飼さんは俺の隣に立って、現場のほうを見ていた。
「あと一時間だ」
「はい」
「今日中に君のを撮らないと、別の日にもう一度来ることになる」
「はい」
「向こうもそれは避けたい。だから、来る」
「はい」
犬飼さんはそこで、ポケットに手を入れた。入れて、何も出さずに、手を出した。
「高町」
「はい」
「腹は減ってるか」
「減ってます」
「そうか」
この人は、こういうことを聞く。
減っていないときに聞かれたことがない。
◇
二十一時十分に、助監督の人が犬飼さんのところへ来た。
俺は椅子に座っていた。二人は俺から三メートルくらいのところで話していた。声を落としていなかった。落とす余裕が無かったのだと思う。
「犬飼さん、二十二時ですよね」
「二十二時です」
「前のが、あと二十分かかります」
「はい」
「そのあと、灯を組み替えます。十分」
「はい」
「……ぎりぎりです」
「ぎりぎりで結構です。ただ、二十二時は動きません」
「わかってます」
助監督の人は紙を見た。見て、ペンで一本、線を引いた。
「一つ落とします」
「どれを」
「明日に回せるやつです」
その人は走っていった。
走っていって、監督のところで何か言い、監督が頷き、それから現場の全員に向かって声を張った。
「すみません、順番変えます! 高町くんのを先に行きます!」
現場が、動いた。
脚立が動いて、コードが引っ張られて、誰かが誰かに何かを投げて渡した。壁が一枚外された。外した壁を四人で運んでいった。
俺は椅子に座っていた。
座っていて、自分がここで立ち上がって何かをすると、たぶん邪魔になるとわかった。だから座っていた。
通りかかった録音の人が、俺を見て言った。
「動じないねえ」
「はい」
◇
二十一時三十八分に、呼ばれた。
「高町くん、お願いします!」
声の出かたが、今日一日と違っていた。
俺は立ち上がって、セットのほうへ歩いた。
カメラの後ろにも、モニターの前にも、壁際にも人がいた。脚立の上の人が、下りていた。
助監督の人が、床のテープの上を指で示した。
「ここ、板付きで」
「はい」
「一回で行けたら最高です」
「はい」
「あ、ごめん、プレッシャーかけた」
「かかってないです」
助監督の人は俺の顔を見て、それから小さく息を吐いた。
◇
俺はテープの上に立った。
室井さんが、通路の奥に立っていた。
立って、こっちを見ていない。台本も持っていない。丸めた台本も、銀色のマグも、今はどこにもなかった。
その人の手が、一度だけ、上着の裾を握って離した。
「回します」
現場の音が、消えた。
工事も、救急車も、飛行機も、今は無い。あるのは、空調の音だけだった。
「ヨーイ、スタート」
足音が、こっちへ来た。
現場の音が、遠のいた。
空調の音も、天井の熱の音も、外の道路の音も、全部が薄い膜の向こうに行った。
代わりに、輪郭がはっきりした。
通路の壁に、蛍光灯の光が縦に一本入っているのが見えた。男の靴の底が、片方だけ減っているのが見えた。その人の肩が、歩くたびに右だけ少し落ちるのが見えた。手すりの塗装が、下から三十センチのところで色が変わっているのが見えた。
背筋が、伸びた。
男が、顔を上げた。
「おかえりなさい」
言った。
言ったあと、俺は動かなかった。動く理由が無かった。
男も動かなかった。
「……カット」
◇
監督の声が、いつもより小さかった。
それから、少し間があって、もう一度聞こえた。
「OKです。……OKです」
二回言った。
現場が動き出した。
動き出した音が、やたら大きかった。誰かが手を叩いた。誰かが「よし!」と言った。助監督の人がストップウォッチを止めて、それを両手で握った。
制作進行の人が、走ってきて、俺の前で止まって、何も言わずに走っていった。
時計を見たら、二十一時四十四分だった。
◇
俺はテープの上に立ったままだった。
立ったまま、こう思っていた。
――腹が、減った。
鍋に何か残っているはずである。今朝、母さんが「いる」と聞いて「いる」と答えた。だから残っている。何が残っているかは知らない。
肩を叩かれた。
振り向いたら、室井さんが横を通るところだった。
立ち止まらなかった。何も言わなかった。それだけだった。
◇
助監督の人が来た。
「高町くん、上がりです。お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
「いや、ほんと助かった」
「はい」
「一発で来てくれたから」
「はい」
その人は、俺の椅子のほうを見た。
「今日、ずっと座ってたでしょ」
「はい」
「あれ、いいと思う」
「はい」
「若い子はさ、待ち時間に立ったり座ったりして、消耗しちゃうのよ」
「はい」
「高町くん、本番まで温存してたでしょ」
「寝てました」
「うん、そうそう。省エネしてたんだよね」
「待ち時間に寝ていただけです」
「わかるわかる」
わかっていない。
その人は俺の肩を二回叩いて、行った。
◇
着替えて、外に出たのは二十一時五十五分だった。
ゲートまでの道を歩いているときに、膝が笑った。
俺は塀に手をついた。
ついた瞬間に、手のひらがざらついた。ざらつきだけが、はっきりしていた。痛くはないが、動かない。
「高町」
犬飼さんが横に来た。
「歩けます」
「塀から手を離してから言え」
犬飼さんは俺の左側に立った。
「こっちは風が来る」
来ていなかった。
「時間、大丈夫ですか」
「もう出てる」
「はい」
俺は塀に手をついたまま、十五分そこにいた。
途中で、有本さんがペットボトルを持ってきた。
「高町さん、これ」
「ありがとうございます」
甘かった。甘すぎた。
◇
車に乗った。シートに背中がつく前に、記憶が切れた。
起きたら、犬飼さんが名前を呼んでいた。コンビニの明かりだけが動いていた。
「犬飼さん」
「なんだ」
「終わりましたか」
「君のぶんは終わった」
「はい」
犬飼さんはウインカーを出した。
「放送は十月だ」
「はい」
「金曜の深夜、二十四時十二分から」
「二十四時十二分」
「深夜劇場という枠だ。全八話ある」
「はい」
「君が出るのは一話だ」
「はい」
俺は窓の外を見た。
「見ますか」
「見る」
「はい」
それだけだった。
◇
家に着いたのは、二十三時半だった。
玄関を開けたら、廊下の電気がついていた。
妹が階段の途中に座っていた。上から三段目である。膝にタブレットを置いて、画面を見ていた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「おかえり」
「起きてろって言ってないぞ」
「言われてない」
妹はタブレットを閉じた。
「何時に喋った?」
「知らん」
「また車?」
「寝た」
妹はスマホを出して、何か打ち込んだ。打ち込みながら、階段を下りてきた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「またじゃん」
「そうだな」
「車、ずるい」
「ずるくない」
妹は俺の顔を見た。
見て、それから、何も言わずに台所のほうへ歩いていった。
◇
鍋の蓋を開けた。
肉じゃがだった。
じゃがいもが、崩れていた。夜まで置いてあったせいである。
俺は皿に取って、そのまま立って食べた。座ると、たぶん立てなくなる。
妹が横に来て、俺の皿を見た。
「それ、あたしの分もあるやつだから」
「知ってる」
「半分残して」
「三分の一だ」
「半分」
「三分の一」
交渉は成立しなかった。
◇
部屋に上がって、ドアを閉めた。
机の右奥を見た。
「あんた」
「なんだ」
「今日、一行しか喋ってないわね」
「一行だ」
「十四時間いて、一行」
「そうだ」
「それが仕事なのよ」
俺は鞄を床に置いた。
置いてから、机の上のカレンダーを見た。
十月の欄には、まだ何も書いていない。
俺はペンを取って、金曜のところに丸を付けようとして、手を止めた。
十月の金曜は、四つあった。
どれか一つに丸を付けるには、日にちを聞かなければいけない。俺は明日、犬飼さんに聞くことにして、ペンを置いた。
置いて、そのまま寝た。
電気は、つけたままだった。
◇
翌朝、一限は数学だった。
小テストが配られた。二次関数だった。
俺は自分の名前を書いて、それから、机に突っ伏した。
突っ伏したまま、終わりまで起きなかった。
返ってきたのは三日後だった。
美咲が黙って自分のを裏返したので、たぶん、そういうことである。
◇
その日の夜、犬飼さんから連絡が来た。
放送日が決まったという話だった。俺はそれを聞いて、部屋のカレンダーの、十月の四つある金曜のうちの一つに丸を付けた。
付けているところに、妹が入ってきた。
「兄ちゃん、ペン借りる」
「持ってけ」
「あと消しゴムも」
「持ってけ」
妹は取るものを取ったあとで、俺の手元を覗き込んで、丸を見た。
「これ、何?」
「放送日だ」
「え」
「深夜だ。金曜の、二十四時十二分から」
「二十四時十二分って何時」
「土曜の、朝の零時十二分だ」
妹はしばらく黙っていた。
黙ってから、スマホを出して、何か打ち込みはじめた。打ち込む速さが、いつもの倍あった。
「おい」
「録画する」
「一回でいい」
「三回する」
「なんでだ」
「保険」
妹は打ち込みながら部屋を出ていって、階段の下から叫んだ。
「兄ちゃん、何分出るの?」
俺は台本を見た。
三十六ページに一行。四十一ページに二行。四十二ページに三行。五十ページに一行。
全部足しても、たぶん一分に届かない。
「知らん」
そう答えておいた。




