第36話 誰も訂正を聞かない
車が信号で止まったとき、犬飼さんが言った。
「高町」
「はい」
「昨日のことだが」
「はい」
信号が青になった。車が動き出した。
「……気にするな」
「はい」
犬飼さんは前を向いていた。前を向いたまま、左手でみぞおちのあたりを一度押さえて、すぐハンドルに戻した。
俺は昨日、この人に胃の場所を聞いておいてよかったと思った。押さえるところがわかると、見るところが決まる。
「犬飼さん」
「なんだ」
「気にしてないです」
「そうか」
「はい」
「……そうか」
二回言った。
◇
現場に着いたら、椅子が二つになっていた。
昨日まで一つだった折りたたみの椅子が、二つ並んでいる。片方の背もたれに、紙が貼ってあった。養生テープで留めてある。
〈高町様〉
様が付いていた。
俺の名前に様が付いた紙は、これで二枚目である。一枚目は八月の、パーテーションのドアに貼ってあった。
「おはようございます」
制作進行の人が来た。今日も上着の前が開いている。
「椅子、出しときました」
「ありがとうございます」
「美術さんに二脚目もらってきました。三回頼んで、三回目で出ました」
「はい」
「一回目は無いって言われて、二回目は明日って言われました」
「はい」
「立ってると、こっちが落ち着かないんで」
「はい」
俺は座った。
座ってから、言うなら今だと思った。
「あの、初日の話なんですけど」
「はい」
その瞬間、その人の腰のあたりでノイズが鳴った。トランシーバーである。何を言っているのかは俺には聞き取れなかったが、その人には聞き取れたらしい。
「はい、行きます!」
走っていった。
◇
メイクの部屋に入れられた。
鏡の前に座って、髪をいじられた。
「はい、目つぶってー」
目をつぶった。
「はい、口も閉じてー」
口を閉じた。
閉じている間に、メイクの人が喋りはじめた。
「高町くん、昨日すごかったんだって?」
「……」
「あ、いいよ、喋らなくて。動くから」
「……」
「室井さんが自分から声かけるの、あんまり無いのよ」
「……」
「よかったねえ」
俺は口を閉じていた。
声はかけられた。よかったかどうかは、俺には判断がつかない。
「はい、いいよ」
目を開けたら、その人はもう次の人のところへ行っていた。
◇
午前中は、俺の出番がなかった。
セットの端に、俺の椅子がある。俺はそこに座って、他の人が撮っているのを見ていた。
助監督の人が、隣に来て立った。
「高町くん」
「はい」
「昨日の、気にしてないよね」
「してないです」
「うん。あの人ね、褒めないから」
「はい」
「若い子に理屈の話をするのは、期待してるときなの」
「はい」
助監督の人は、ストップウォッチを手の中で回した。
「逆に言うとさ、理屈がある子はいっぱいいるんだよ」
「はい」
「理屈がないのに出来ちゃう子は、いない」
「はい」
俺は頷いた。
頷きながら、理屈というものが何なのかを考えていた。出てこなかった。
◇
昼前に、手だけのカットを撮った。
俺の手が、郵便受けを開けて、中を見て、閉じる。それだけである。顔は映らない。
「インサートね」
「わかりません」
「あー、手とか物だけ撮るやつ」
「はい」
「じゃあ、手だけね」
「はい」
「顔は入らないから、楽にして」
「はい」
カメラの前にいたのは、三人だった。カメラの人と、その横の人と、助監督の人である。あとの全員は、別のところで別の準備をしていた。
「回します」
現場は、静かにならなかった。遠くで誰かが脚立を動かす音がしていた。
「ヨーイ、スタート」
俺は郵便受けを開けた。中を見た。閉じた。
郵便受けの蓋が、思ったより軽かった。
「カット、OK」
誰も何も言わなかった。
俺は椅子に戻った。
少ししてから、記録の人が俺の前を通りかかって、立ち止まった。
「さっきの、よかったです」
「はい」
「郵便受け、閉じるときの間」
「はい」
「昨日と、同じ間でした」
その人は手元の台本を見せてくれた。細かい字がびっしり書いてある。何が書いてあるのかは読めなかった。
◇
そのあと、若いスタッフの人が二人、俺の椅子の横に来た。
照明の人だったと思う。二人とも軍手をしていた。
「高町くん、ちょっと聞いていい?」
「はい」
「あれ、どうやってんの」
「どれですか」
「昨日の廊下のやつ」
「はい」
「覚えてんの、全部?」
「一行です」
「一行か」
「はい」
「じゃあさ、なんかやってんの?」
「電車に乗ってます」
二人は顔を見合わせた。
「電車」
「はい」
「うわ」
「なんかすげえな」
二人は行った。
行ってから、少し離れたところで「電車だってさ」と言っているのが聞こえた。
電車には、乗る。乗らないと来られない。
◇
弁当が配られる前に、スマホを見た。
クラスのほうで、何かが起きていた。熊沢からメッセージが四件来ている。
〈高町〉
〈おい高町〉
〈お前ドラマ出るってマジ?〉
〈早坂が言ってた〉
しばらくして、五件目が来た。
〈返信おっそ〉
俺は〈撮影中〉と打った。
打ってから、これは訂正しなくていいやつだと気づいた。撮影中ではある。
熊沢からすぐ返ってきた。
〈うわ本物〉
◇
昼の弁当を食べているとき、監督が俺の前に座った。
弁当を持ったままである。監督も同じ箱を食べていた。
「高町くん」
「はい」
「君、考えてやってないでしょ」
「はい」
「うん。それでいい」
「はい」
「考えると死ぬからね、あそこは」
監督は箸で白身魚のフライを割った。
「俺が言うのもなんだけど、演出でどうにかできるとこじゃないんだ、ああいうの」
「はい」
「あの」
「うん?」
「俺は」
監督のスマホが鳴った。
監督は片手で取って、二言くらい喋って、それから立ち上がった。
「ごめん、あとでね」
「はい」
あとで、は来なかった。
◇
午後、室井さんが現場に入ってきた。
今日も立っていた。椅子は二つある。片方は俺の名前が貼ってあって、もう片方は誰も座らない。
俺は自分の椅子から立って、そっちへ行った。
「室井さん」
「なんだ」
「おはようございます」
「ああ」
「回しまーす!」
声が飛んだ。
現場の音が、一斉に消えた。喋っていた人が全員止まり、動いていた人が全員止まり、俺も止まった。
止まったまま、十秒くらい経った。
「はい、カット。OKです」
音が戻ってきた。
室井さんが俺のほうを見た。
「なんだ」
「……いえ」
「ふん」
室井さんはマグの蓋を開けて、一口飲んだ。
俺は自分の椅子に戻った。
◇
室井さんのシーンを、俺は端から見ていた。
部屋の中のシーンだった。男が、机の引き出しを開けて、中から何かを出して、そのまま座る。台詞は一言もない。
三回撮った。
三回とも、同じに見えた。
何が違うのかは、わからなかった。
三回目のあとで、監督が「はい、二テイク目でいきます」と言った。
記録の人が、台本から顔を上げずに言った。
「室井さん、今日は珍しい」
「なにが」
「三回いくの、久しぶりに見ました」
室井さんは何も言わなかった。俺のほうを一度も見なかった。
丸めた台本を脇に挟んで、壁のほうへ歩いていった。歩いて、立ち止まって、それから戻ってきた。
戻ってきて、また同じところに立った。
俺はそれを見ていた。何をしに行って、何をしに戻ってきたのかは、わからなかった。
俺は隣にいた記録の人に聞いた。
「どこが違うんですか」
「息です」
「はい」
「二回目だけ、座る前に一回吸ってました」
その人は台本を指で押さえた。
「一回目と三回目は、座ってから吸ってます」
「はい」
「順番が違うと、見てるほうの気持ちが変わるんですよ」
俺は頷いた。
頷いたが、わからなかった。息はどこで吸っても息である。
「高町くんも、そういうの、あるでしょ」
「ないです」
「またまた」
その人は笑って、台本に何か書き足した。
◇
俺は椅子に座って、鞄を膝に乗せた。
中から声がした。
「あんた、さっきの見た?」
(見た)
「あの人、全部決めてるわね」
(決めてるのか)
「引き出しを何センチ開けるかまで決めてるの。ああいう人が、いちばん長く残るのよ」
(残らなかった人は)
「……その話は、今日じゃないわ」
ミューナはそこで黙った。
黙ったあとの間が、いつもより少し長かった。
俺は鞄のファスナーを半分閉めた。全部閉めると文句が出る。
◇
夕方、新しく来た人が何人かいた。
あとから合流する部署があるらしい。俺には区別がつかないが、その人たちが来ると、現場の人がひととおり紹介して回る。
少し離れたところで、制作進行の人が喋っていた。
「あの子です。ソレイユの」
「へえ、若いね」
「初日、六時二十分から立ってました」
「六時二十分?」
「ゲートの前で。誰もいないのに」
「うそでしょ」
「うちのワゴン着いたとき、もう立ってたんですよ」
「始発?」
「始発より前じゃないですかね」
始発より前に電車は無い。
「で、お茶も運んでくれたんです」
「新人が?」
「四往復」
四往復は合っている。
◇
俺は椅子から立って、そっちへ歩いた。
歩いていく途中で、有本さんが横から出てきた。
「高町さん!」
「はい」
「これ見てください」
タブレットを差し出された。画面に、行がたくさん並んでいた。日付と、時刻と、短い文字が並んでいる。
「わたし、スケジュールと、言われたことだけ全部メモしてるんです」
「はい」
「今日の欄、見てください」
俺は見た。
〈現場 室井さんの一言が回っている〉
〈初日 制作進行さん「お茶を五往復運んでもらった」〉
「有本さん」
「はい」
「四往復です」
「あ、それ、もう書いちゃいました」
「はい」
「直しますね」
「はい」
有本さんのスマホが鳴った。
有本さんは画面を見て、「あ、局です」と言って、少し離れたところへ歩いていった。
歩きながら、もう「はい、お世話になっております」と言っていた。
俺はその場に立っていた。
立っている間に、有本さんの声が二回、高くなった。高くなったあとで、頭を下げていた。電話の相手には見えていない。
十分経ったので、椅子に戻った。
有本さんの電話は、終わってすぐにまた鳴った。二件目のほうが長かった。
終わったあとで、有本さんはタブレットを開いて、指で何度か画面を叩いた。叩いてから、また電話をかけていた。
◇
俺はまた立って、制作進行の人のところへ行った。
その人はもう別の話をしていた。明日の弁当の数の話である。数を言って、間違えて、言い直していた。
「あの」
「あ、高町くん、どうしました?」
「初日のことなんですけど」
「はい」
「あれ、時間を間違えただけです」
「え?」
「香盤表の、上のほうを見ました」
「はい」
「集合の時間だと思って来ました」
「はい」
その人は俺の顔を見ていた。
見ていて、それから、笑った。
「知ってますよ」
「はい」
「有本さんから聞きました。初日の夜に」
「はい」
「でも、来たじゃないですか」
俺は何も言わなかった。
その人は箱の山に手をついて、体重をかけた。
「間違えて六時二十分に着いて、そのあと二時間、ゲートの外で立ってたんですよ。ふつう帰ります」
「はい」
「帰らないで、お茶運んでくれたんです」
「はい」
「だから、そこは間違いじゃないです」
トランシーバーが鳴った。
「はい、行きます!」
走っていった。
◇
俺は椅子に戻って、座った。
訂正はした。話す材料が一つ増えた。
傍から見れば、椅子に座って前を見ている高校生である。
実際には、明日の弁当が何になるかを考えていた。今日は白身魚だった。三日連続で魚が来ることはあるんだろうか。
俺は椅子の背に体を預けた。
背もたれの紙が、少し剥がれかけていた。
押さえて、貼り直した。養生テープは、同じところに二度は付かない。少しずらして、上から押さえた。
押さえていたら、通りかかった衣装の人が足を止めた。
「それ、明日また剥がれるよ」
「はい」
「新しいの貼ろうか」
「これでいいです」
衣装の人は少し笑って、行った。
◇
十八時過ぎに、助監督の人が紙を持ってきた。
A4を折ったやつである。この人はいつもこれを持っている。
「高町くん、明日の香盤」
「はい」
「今日はデータ来るの遅くなるから、先に紙で渡しとくね」
「ありがとうございます」
「あと、明日は押すと思う」
「押す」
「あー、遅れるってこと」
「はい」
「わりと、長くなるよ」
「はい」
助監督の人は、紙の右のほうを指で示した。
いちばん右の、字がいちばん小さい欄である。
そこに、二行だけ書いてあった。
〈※高町 22時上がり〉
〈※夜のシーン 高町〉
「ここ、見てね。ここだけでいいから」
「はい」
俺は今度は、ちゃんと右のほうを見た。
◇
帰りの車で、犬飼さんが言った。
「明日で君は終わりだ」
「はい」
「夜のシーンが一つ残ってる。それだけだ」
「はい」
「早く終わるとは限らん」
「はい」
俺は膝の上の紙を見ていた。
時刻が、上から順に並んでいる。数字は途中から二十四を超えていた。二十五時と書いてあるところがある。二十六時と書いてあるところもある。
「犬飼さん」
「なんだ」
「二十六時って、何時ですか」
「朝の二時だ」
「はい」
俺の行のところには、二十二時と書いてある。
「二十二時までですよね」
「そうだ」
「その先が書いてあります」
「君の行じゃない」
「はい」
窓の外を見た。
道が混んでいた。混んでいる道で、この人は喋る。
「高町」
「はい」
「明日は、待つ時間が長い」
「はい」
「腹に何か入れておけ」
俺は頷いた。
言われなくても入れる。
◇
家に着いたら、玄関に妹が立っていた。
立って、腕を組んでいた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「今日、普通に帰ってきたね」
「うん」
「普通に喋ってるね」
「うん」
妹はスマホを出して、画面を見て、それから舌打ちに近い音を出した。
「ゼロじゃん」
「ゼロだ」
「ゼロは、記録として弱いんだよね」
「そうか」
「まあ、書くけど」
妹は何か打ち込んで、階段を上がっていった。
途中で振り返った。
「明日は?」
「明日は遅い」
「何時」
「二十二時まで」
「二十二時?」
「そこまでにしないといけないらしい」
「じゃあ、起きて待ってる」
「寝ろ」
「待ってる」
妹は上がっていった。
◇
夕飯は、豚肉と玉ねぎを炒めたやつだった。
俺は二杯食べた。三杯目に手を伸ばして、皿が空だった。
母さんが茶碗を出すとき、一度だけ手を止めた。
「明日、遅いんだって?」
「うん」
「何か作っといたほうがいい?」
「いる」
「そう」
それで終わった。
この家では、遅くなる日は、鍋に何かが残る。残っているかどうかは、開けるまでわからない。
◇
部屋に上がって、香盤表をもう一度広げた。
机の上に置くと、机からはみ出た。
行が上から下まで並んでいて、俺の行は、いちばん下にあった。
上の行は、たくさんあった。
寝られる。




