第35話 芝居の理屈がないらしい
朝の六時半に、家の前で車のドアが閉まる音がした。
俺が閉めた音である。犬飼さんはエンジンをかけたまま待っていた。
「おはようございます」
「乗れ」
「はい」
助手席のドアポケットに、胃薬の箱が三つ入っていた。きのうコンビニで買った二つと、もとから入っていた一つだ。三つとも、まだ封が切ってある。切ってあるということは、三つとも使いかけである。
俺はそれを見て、それから前を向いた。
「犬飼さん」
「なんだ」
「胃、どこですか」
「……ここだ」
犬飼さんは右手を離して、みぞおちのあたりを軽く押さえた。押さえてから、すぐハンドルに戻した。
「なんで聞く」
「場所を知らないと、押さえられないので」
「押さえる予定があるのか」
「ないです」
犬飼さんは何も言わなかった。
車は空いていた。空いている道を走るとき、この人は喋らない。
◇
ゲートは開いていた。
きのうは閉まっていたので、少し損をした気分になった。何を損したのかはわからない。
車を降りて、スタジオのほうへ歩いていくと、建物の前に人が一人立っていた。
背は高くない。目の高さが、俺の肩の少し上にある。短い髪に白いものが混じっていて、上着の前を開けていて、右手に丸めた台本を持っている。左手には銀色のマグを持っていた。
立ったまま、何も見ていない。
俺は写真を思い出した。会議室2の、机の上の紙の二枚目である。目は笑っていて、口のあたりは笑っていない。
写真と同じだった。
その人が守衛のほうを見て、何か言った。顔が、一度で三つくらい変わった。
俺は近づいて、頭を下げた。
「室井さん、おはようございます」
その人の目が、俺のところで止まった。
止まって、一秒くらい、そのままだった。
「……ああ」
それだけだった。
犬飼さんが俺の横に来て、深く頭を下げた。
「ソレイユの犬飼です。うちの高町が、お世話になります」
「聞いてる」
室井さんはマグの蓋を開けて、一口飲んだ。湯気が出ていた。九月の朝に湯気の出るものを飲んでいる人を、俺は初めて見た。
「いくつだ」
「十七です」
「ふん」
それで会話が終わった。
終わったのに、室井さんは動かなかった。俺も動かなかった。動いていいのかがわからない。
◇
待ち時間は長かった。
セットの前に、折りたたみの椅子が一つ置いてあった。一つだけである。
室井さんは座らなかった。壁のほうに寄って、立ったまま台本を丸めたり伸ばしたりしていた。
俺も立っていた。
椅子は一つしかない。一つしかない椅子に俺が座ると、たぶん何かが間違っている。だから立っていた。
三十分くらい経ったころ、助監督の人が来た。
「あ、高町くん、座ってていいよ」
「はい」
「座らないの?」
「はい」
助監督の人は、俺と椅子と室井さんを順番に見て、それから何も言わずに行った。
行ってから、少し離れたところで誰かに小声で何か言った。「立ってる」という言葉だけ聞こえた。
「おい」
室井さんが言った。
「はい」
「足、痛いか」
「痛くないです」
「そうか」
会話はそれで終わった。
この人の話は、犬飼さんより短い。犬飼さんより短い人がいるとは思っていなかった。
◇
少し離れたところで、犬飼さんと有本さんが喋っていた。
二人とも、こっちを見ていない。声も落としている。落としているつもりの声というのは、案外そのまま届く。
「……あの人、若いのに直接言うんですか」
「言う」
「うちの子にも?」
「うちの子だから、というのは無い人だ」
有本さんが何か言った。今度は聞こえなかった。
「有本」
「はい」
「言われたほうがいい」
「え」
「何も言われない子のほうが多い」
そこで俺は、壁のポスターの端が剥がれかけているのを見つけて、そっちを見た。
剥がれかけている紙を見ると、剥がしたくなる。剥がすと怒られる。小学生のときからそうだ。
◇
俺のシーンは、アパートの外廊下だった。
台本には、室井さんの役の名前が書いていない。「男」としか書いていない。その男が隣の部屋のドアを叩いて、返事がなくて、そこに俺が自分の部屋から出てくる。
段取りをやった。
助監督の人が床にテープを貼り直した。監督が来て、二つだけ指示を出した。
「高町くん、ドアは半分でいい。全部開けると出すぎる」
「はい」
「あと、上手に半歩」
「はい」
かみて。
「わかりません」
「あー、こっち。カメラから見て右」
「はい」
俺は半歩動いた。
「そうそう。そのまま」
監督は戻っていった。
俺は自分が半歩動いたことで何が変わったのかを、最後まで理解しなかった。
◇
一度、通しでやった。
本番ではない。カメラは回っていない。動きだけを合わせるやつである。
男がドアを叩いた。俺がドアを半分開けた。俺は台詞を言った。
言い終わった。
室井さんは、何も言わなかった。
俺のほうを見て、そのまま体の向きを変えて、元の位置に戻った。監督が何か言い、助監督が床のテープを一枚貼り足し、照明の人が脚立を五十センチ動かした。
全員が動いていた。
室井さんだけが、動いたあと、また立ち止まっていた。
俺はその背中を見ていた。
見ていて、腹が減っているのに気づいた。六時に食べたおにぎりが、そろそろ切れかけている。母さんが握ったやつで、中に何も入っていなかった。あれは正しい。朝の六時に具は要らない。
◇
「回します」
現場の音が消えた。
人が、きのうより多かった。
カメラの後ろに何人か立っている。モニターの前にも人がいる。壁際にも人がいる。廊下の端の暗いところに、さっき挨拶した人が何人か固まっていた。
全員がこっちを見ていた。
室井さんは、台本を持っていなかった。
「ヨーイ、スタート」
男がドアを叩く音がした。
三回叩いて、止まる。もう一度叩く。返事はない。
俺はドアを半分開けた。
現場の音が、遠のいた。
カメラのモーターの音も、外を走る車の音も、天井の空調も、全部が薄い膜の向こうに行った。
代わりに、輪郭がはっきりした。
ドアの木目に古い塗料が二度塗ってあるのが見えた。男の上着の襟の裏が少し擦れているのが見えた。廊下の手すりの塗装が、下から三十センチのところで色が変わっているのが見えた。目の前の人の、頬の皺が、四本あるのが見えた。
背筋が、伸びた。
「隣、うるさかったですか」
男が振り向いた。
「いや」
少し間があった。男は俺のほうへ、体ごと向き直った。
「隣の人と、話したことは」
「いえ」
男が一歩近づいた。
「どこに行ったか、知らないか」
「知らないです」
俺はドアの縁を持ったままだった。持っている手のことは、考えていなかった。
「その人、たぶんもう帰ってこないです」
男の顔が、止まった。
「なんで、そう思う」
「知らないですけど」
そこで、息を吸った。
どこで吸うかは決めていない。決めていないのに、そこで吸った。
「はい、カット」
◇
誰も動かなかった。
きのうは、「カット」のあとの三分がいちばん騒がしかった。
今日は、静かだった。
記録の人が、台本にペンを当てたまま止まっていた。照明の人が脚立の上で下を見ていた。モニターの前の人たちが、誰も顔を上げなかった。
俺はドアの前に立っていた。
立ちながら、こう思っていた。
――ドアの縁が、思ったより冷たい。
俺は手を離した。
「……OKです」
監督の声だった。
◇
現場が動き出した。
動き出したが、いつもの速さではなかった。誰かが機材を動かす音がして、その音がやたら大きく聞こえた。
録音の人が、ヘッドホンを片方だけ外して、隣の人に言った。
「今の、手の音入ってない?」
「入ってないです」
「ドアの縁、金属だろ」
「入ってないです」
「もう一回、頭から聞く」
俺は端に寄った。
寄ったところで、後ろから足音がした。
振り向くと、室井さんが立っていた。マグを持っていない。丸めた台本だけを持っている。
「お前」
「はい」
「名前は」
「高町です」
「ふん」
室井さんは俺の顔を、下から見上げた。
十二センチくらい、俺のほうが高い。高いのに、見下ろされている感じがした。
「お前、芝居の理屈がない」
俺は頷いた。
「はい」
室井さんの眉が、少しだけ動いた。
「……はい?」
「はい」
沈黙があった。
室井さんは俺の顔をもう一度見た。今度は長かった。四秒くらいあった。
それから、丸めた台本で自分の手のひらを一回叩いて、そのまま行ってしまった。
◇
その場に、何人かいた。
カメラの後ろに二人、モニターの前に三人、少し離れて助監督の人と、うちの二人。
全員が止まっていた。
モニターの前の人が、隣の人の腕を掴んでいた。掴まれたほうは気づいていない。助監督の人は、ストップウォッチを持った手を下ろしたまま、そこに立っていた。誰も何も言わなかった。
俺は自分の靴の先を見た。
きのう箱を運んだときに、右の甲のところが少し擦れていた。この靴は去年買った。まだいける。
◇
俺の横で、音がした。
犬飼さんが、ポケットから胃薬の箱を出したところだった。出して、袋を歯で切って、口に入れた。水は飲まない。
その隣で、有本さんがタブレットを胸に抱えたまま固まっていた。
「……高町さん」
「はい」
「今の」
「はい」
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
有本さんは犬飼さんのほうを見た。犬飼さんは口を動かしていた。粉が上顎に貼り付いているときの動かし方である。俺はそれを知っている。
助監督の人が、少し離れたところから近づいてきた。
「高町くん」
「はい」
「あの人、あれ、ふつうなんだよ」
「はい」
「若い子には、みんなあんな感じだから」
「はい」
「気にしなくていいからね」
「はい」
助監督の人は、言い終わってから少し待って、それから行った。
行きながら、隣の人に「効いてないのか」と言っているのが聞こえた。
何が効いていないのかは、わからなかった。
◇
立ち上がろうとして、途中で止まった。
パイプ椅子の背もたれを掴んだ。掴んだ時点で、指先に力が入っていなかった。椅子の背が、思ったより遠くにあった。
俺は座り直した。
「高町」
犬飼さんが横に来た。
「顔が白い」
「地顔です」
「そうか」
この人は、答えを一度で信じない。
「歩けるか」
「歩けます」
「座ってろ」
犬飼さんは、俺の隣に座った。
「明日は入りが同じだ」
「はい」
「学校には俺から連絡してある」
「はい」
それから、しばらく何も言わなかった。
鞄の中から声がした。
「あんた」
(うん)
「あの人、こっち見てるわよ」
(誰が)
「さっきの、背の低い人」
(見えてないだろ)
「音でわかるのよ」
顔は上げなかった。腹が減っていた。
◇
座っている時間は、思ったより長かった。
その間に、通りかかった人が三人、俺に話しかけた。
一人目はメイクの人で、「顔、直そうか」と言った。俺は「大丈夫です」と言った。
二人目は録音の人で、俺の頭の上にあるものを指して「これ、当たってない?」と言った。当たっていなかった。
三人目は制作進行の人だった。この人は何も言わずに、缶を一本置いていった。
置いていったあとで、遠くから「あ、微糖じゃないです、すみません!」と叫んだ。
微糖ではなかった。ブラックだった。
俺は開けて、飲んだ。
苦かった。
顔には出なかったが、けっこう助かった。
◇
弁当が配られた。
白い箱ではなかった。スタッフの人たちと同じ箱だった。
制作進行の人が俺のところへ持ってきて、渡すときに親指を立てた。
「言っときました」
「はい」
中身は海苔弁だった。片手で食べられる。休憩が短い現場では、こういうのが人気らしい。教えてくれたのも、この人である。
唐揚げは入っていなかった。かわりに白身魚のフライが入っていた。
俺はそれを食べた。
うまかった。
◇
十七時に現場を出た。
車に乗って、シートに背中をつけたところまでは覚えている。そのあとの記憶がない。
起きたら、外が暗くなっていた。
「着くぞ」
「はい」
窓の外に、見たことのある信号があった。
「犬飼さん」
「なんだ」
「今日、どうでしたか」
「悪くない」
「はい」
犬飼さんは前を向いたままだった。
「高町」
「はい」
「明日は室井さんが二本ある」
「はい」
車が停まった。
降りるとき、ドアポケットの箱が二つになっていた。朝は三つあった。
◇
家に着いたのは十八時半だった。
台所に入ると、鍋があった。
蓋を開けた。カレーだった。二日目である。表面に薄く膜が張っていて、その下でじゃがいもが完全に崩れている。
俺は皿に盛った。ごはんは軽く、ルーは多めに。
一杯目を食べているところに、妹が来た。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「何時に帰ってきた」
「十八時半」
「喋ったの、いつ」
「今」
妹はスマホを出して、画面を見て、それから何か打ち込んだ。
「十二分」
「そうか」
「先週より短い」
「そうか」
妹はスマホを伏せて、俺の向かいに座った。座って、俺が食べるのを見ていた。
「三杯食べる?」
「食べる」
「じゃあ、あたし一杯でいいや」
この子は、たまに譲る。譲ったあとで、必ず何かを取り返す。
俺は三杯食べた。
母さんが横を通ったとき、鍋の中を見て、それから俺の茶碗を見た。何も言わなかった。
◇
部屋に上がって、スマホを見た。
美咲からメッセージが来ていた。
〈今日の分、写真撮っといた〉
〈古典と、化学〉
〈化学は板書が三枚あったから、順番間違えないで〉
〈わかった〉
〈それだけ?〉
〈助かった〉
〈ならいい〉
少し間が空いて、もう一行来た。
〈今日、撮影だったんでしょ〉
〈うん〉
〈どうだった〉
〈弁当が同じになった〉
既読が付いて、しばらく何も来なかった。
〈そう〉
それで終わった。いつもはもう一行来る。今日は来なかった。
◇
有本さんからも、メッセージが来ていた。
〈高町さん、今日はお疲れさまでした〉
〈現場のみなさんが話してました〉
〈「理屈がないらしい」って〉
〈すごいです!〉
俺はその四行を、二回読んだ。
二回読んでも、心当たりは一つもなかった。理屈というものがあるということ自体、今日はじめて聞いた。
俺は返信の画面を開いた。
何と打つのかわからないので、〈はい〉と打った。
打ってから、机の右奥を見た。ドアは、さっき閉めたままだった。
「あんた、それでいいの」
「知らん」
「じゃあ直しなさいよ」
「明日、言う。間違ってる紙は直す」
「誰に」
「現場の人に」
「なんて言うの」
「間違ってますって言う」
「それだけ?」
「それだけだ」
ミューナは何も言わなかった。
言わないで、しばらくしてから、こう言った。
「言うなら朝いちよ」
「なんでだ」
「みんな機嫌がいいから」
「そうか」
「四十年前はね」
「もういい」
俺は電気を消した。
現場は明日もある。




