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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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34/210

第34話 二時間早い

 九月十一日の午後三時、俺は事務所の四階で、知らないおじさんの顔を見ていた。


 会議室2である。六人しか入らない部屋で、犬飼さんはここを「小部屋」と呼ぶ。悪い話をするときに使う部屋だと聞いたことがあるが、今日は悪い話ではないらしい。


 机の上に、紙の束が置いてある。上から二枚目に、白黒の写真が印刷されていた。短い髪に白いものが混じっている。目は笑っている。口のあたりは笑っていない。


「この人だ」

「はい」

「見たことあるか」

「あります」

「どこで」

「今」


 犬飼さんは俺の顔を見た。それから、椅子の背に体を預けた。


「高町、君は本当にテレビを見ないな」

「見ます」

「何を」

「天気予報」


   ◇


「室井隆之さんだ。芸歴は三十六年ある」


 犬飼さんは紙を一枚めくった。


「十八で劇団に入って、十年は裏方と脇だ。二十八で舞台の代役をやって、三十二で映像に移った。悪役と父親役ばかりやってる」

「はい」

「若手を育ててる。俺がすぐ名前を挙げられるだけで十人いる」

「はい」

「君は、その人と同じ現場に立つ」

「はい」


 犬飼さんが黙った。


「返事が全部、同じ形をしてるな」

「他の形を知らないです」


 犬飼さんはもう一度紙をめくって、めくった手をそのまま止めた。


「一つだけ言っておく」

「はい」

「あの人は、返事をしない。芝居を見て、何も言わずに次に行く」

「はい」

「何も言われなかったときに、悪く取るな」

「はい」


 俺は頷いた。


 何も言われないほうがいい。学校でも家でもそうだ。


   ◇


「それで、明後日が衣装合わせだ。本読みはその次の日になる」

「ほんよみ」

「本読みだ。台本を、みんなで座って読む」

「立たないんですか」

「立たない」

「動かないんですか」

「動かない」


 動かなくていいなら、やることが減る。


「弁当は出ますか」

「出る」

「はい」


 犬飼さんは俺の顔を三秒見て、それから、机の下で何かを開ける音をさせた。袋の端を歯で切る音だった。


   ◇


 ドアが開いて、有本さんが入ってきた。手にタブレットを持っている。


「高町さん、スケジュールです。共有しますね」

「はい」

「あと、作品のグループチャットに入っていただきました」

「はい」

「前の日の夜に、香盤表がPDFで流れてきます」

「CMのときのやつですか」

「そうです。ただ、今回は毎日来ます」

「はい」

「必ず見てくださいね。必ずです」

「はい」


 有本さんは「必ず」を二回言った。二回言われたので、覚えた。


 有本さんはタブレットの画面を俺のほうに向けた。細かい字が縦にも横にも並んでいて、色が三つ使ってある。俺の名前が入っている行だけ、色が付いていた。付いていない行のほうが、ずっと多かった。


「学校のほうは、こちらから連絡します」

「はい」

「休む日は、朝いちで担任の先生に」

「はい」


 犬飼さんが横から言った。


「授業のノートは、誰かに借りろ」

「はい」

「あてはあるか」

「あります」


 あてというより、向こうから来る。断ると面倒なことになるので、断らない。


   ◇


 衣装合わせは、想像していたのと違った。


 俺は着替えて、出て、見られて、戻って、また着替えた。三回やった。決まったのは二回目に着たやつだった。決めたのは俺ではない。


 途中で衣装の人が俺の腕の長さを測った。測って、何も言わずに、もう一度測り直した。二回目のほうが長かったわけではないと思う。


「高町くん、何センチ?」

「百八十二です」

「そう見えない」

「はい」


 どう見えているのかは聞かなかった。聞いても、たぶん直せない。


   ◇


 本読みは、机をロの字に並べた部屋でやった。


 俺は端に座らされた。隣の椅子は空いていて、最後まで誰も来なかった。室井さんは別の現場が入っていて、この日は来なかった。


 順番に読んでいく。俺の番が来た。


 三十六ページの一行を読んだ。四十一ページの二行を読んだ。四十二ページの三行を読んで、五十ページの一行を読んだ。


 全員が、自分の台本を見ていた。


「はい、じゃあ次」


 それで終わった。


 俺はその日、弁当の中身を先に見てしまったせいで、後半はずっと唐揚げのことを考えていた。二個入っていた。


   ◇


 日曜の夜、グループにPDFが来た。


 俺は自分の部屋で、机の上にスマホを置いて開いた。


 いちばん上に、大きい字で書いてあった。


 〈集合 6:30〉


 その下に、細かい表があった。左から数字が並んでいて、右のほうに人の名前と、たくさんの記号がある。いちばん右の欄は字がさらに小さくて、そこに何かが二行、詰め込んで書いてあった。


 CMのときの紙は一枚で、俺の行は真ん中あたりにあった。今度の紙は、行が多い。


 俺は上のほうを見た。


 ほとんど同じころに、有本さんからメッセージが来ていた。


 〈明日、ゲート前に八時半でお願いします〉

 〈わたしもそこにいます〉


 俺はしばらく画面を見ていた。


 紙には六時半と書いてある。有本さんは八時半と言っている。


 紙のほうが、字が大きかった。


 俺は目覚ましを四時二十分に合わせた。


 下から妹のタブレットの音が聞こえた。ドアは閉めてある。


「あんた」

「なんだ」

「それ、間違ってない?」

「紙に書いてある」

「紙は喋らないのよ」

「有本さんも紙を見てるはずだ」


 ミューナは何か言おうとして、そのまま黙った。


   ◇


 階段を下りて、台所で水を飲んだ。


 妹が冷蔵庫の前に立っていた。扉を開けたまま、中を見ている。何も取らずに閉めた。それからもう一度開けた。


「兄ちゃん、明日いつ出るの」

「四時四十分」

「四時四十分?」

「うん」

「朝の?」

「朝の」


 妹は冷蔵庫を閉めた。


「早すぎない?」

「紙に書いてある」

「ふうん」


 妹はそれ以上聞かなかった。かわりにスマホを出して、何か打ち込んだ。何を打ったのかは見せてくれなかった。


 母さんが風呂場から出てきて、俺の顔を見た。


「朝ごはん、どうするの」

「いらない」

「いる」

「いらない」

「いるでしょう」


 朝の五時に食べるものについて、この家では俺に決定権がない。


   ◇


 始発の一本あとに乗った。


 桜坂駅の階段は二十七段ある。上から九段目が少し欠けていて、雨の日に滑る。今日は雨ではなかったので、普通に降りた。


 電車の中はがらがらだった。座っている人は全員寝ていた。俺も寝たかったが、乗り換えを間違えると終わるので、起きていた。


 豊洲に着いた。


 みなと撮影所は、駅から歩いて少しのところにある。看板があって、ゲートがあって、ゲートは閉まっていた。


 時計を見た。六時二十分だった。


 ゲートの横に小さい窓があって、そこが開いた。


「どこの子」

「高町です」

「どこの」

「ソレイユです」

「今日、何時入り」

「六時半です」


 守衛のおじさんは、俺の顔をしばらく見た。


「まだ誰も来てないよ」

「はい」

「ほんとに誰もいない」

「はい」


 窓が閉まった。


   ◇


 俺はゲートの横に立った。


 立って、待った。


 やることがなかったので、見えるものを順番に見た。


 自販機が二台あって、片方は電気がついていて、片方はついていなかった。ついていないほうの前に、空き缶を入れる箱が置いてあった。塀の上を鳥が歩いていた。電線に別の鳥がいた。空が、灰色から白に変わっていく途中だった。


 鞄からゼリー飲料を出した。青にした。青は甘くない。朝に甘いものを入れると、そのあとがつらい。


 半分飲んで、キャップを閉めた。


 六時四十分になった。


 誰も来なかった。


「ねえ」

(なんだ)

「あんた、それ、待ってるつもり? 立ってるだけよ」

(待ってる)

「帰ったら? まだ誰も来ないわよ」

(うん)

「好きになさい」


 俺は帰らなかった。


 帰ると、また来なければいけない。


   ◇


 六時四十五分に、塀の向こうから音楽が聞こえた。


 パン屋か何かの、開店前の掃除の音だと思う。誰かが誰かに向かって、まだ眠そうな声で挨拶をしていた。


 塀の向こうで、誰かがホースの水を出しっぱなしにしていた。三分出ていた。門の内側では、まだ誰も来ていない。


 俺は残りのゼリー飲料を飲んだ。


   ◇


 六時五十分に、白いワゴンが来た。


 ゲートが開いて、車が入って、少し先で止まった。降りてきたのは若い人だった。俺より少し年上に見える。眼鏡をかけていて、上着の前が開いていて、開いたまま走ってきた。


 その人は俺を見て、止まった。


「……え」


 止まったまま、俺の足元から顔まで、一回だけ視線を上げた。


「キャストの方ですか」

「高町です」

「高町……あ、広瀬の。え、何時からいらっしゃいます?」

「六時二十分です」


 その人は、口を開けた。


「ごめんなさい」

「はい」

「本当にごめんなさい」

「はい」


 なぜ謝られているのかがわからなかった。


 俺が時間を間違えたのだから、謝るのは俺のほうだと思う。そう言おうとしたら、その人はもう車のほうへ走っていた。


   ◇


 車の後ろが開いていた。


 中に箱が積んであった。お茶のペットボトルが、箱ごと入っている。


「これ、運ぶんですか」

「あっ、いいですいいです、座っててください」

「どこに」

「あ」


 座る場所は、まだ、どこにも無かった。


 俺は箱を一つ持った。思ったより重かった。


「本当にいいです、大丈夫です」

「軽いです」

「軽くないです、それ」

「軽いです」


 俺たちは箱を運んだ。全部で十いくつあった。四往復した。


 運びながら、その人は喋り続けていた。制作進行という仕事らしい。今朝は三時に起きて、お茶を積んで、途中で二か所寄って、ここに来た。今日はこのあと道を封鎖して、人を止めて、車を止めて、それから明日の弁当を頼む。


「寝てないんですか」

「寝ました。二時間くらい」

「はい」


 二時間。


 俺は四時二十分に起きた。それは言わなかった。


   ◇


 七時半を過ぎると、人が急に増えた。


 車が次々に入ってきて、機材が降りてきて、脚立が立って、太いケーブルが地面を這った。誰かが何かを叫んで、別の誰かがそれに答えた。


 俺は隅に立っていた。


 立っていると、制作進行の人が、来る人来る人に同じことを言っているのが聞こえた。


「あの子、六時二十分から立ってました」


 言われた人が、俺のほうを見た。


 次の人も見た。その次の人も見た。


「マジで?」

「マジです」

「新人?」

「今日が初日らしいです」


 誰かが「へえ」と言った。


 別の誰かが「最近の子は」と言いかけて、途中でやめた。やめてから、俺のほうにもう一度顔を向けて、軽く頭を下げた。


 俺も下げた。


   ◇


 八時二十分に、有本さんが来た。


 有本さんはゲートを入ってきて、俺を見つけて、笑って、それから止まった。


「……高町さん」

「はい」

「何時に来ました?」

「六時二十分です」


 有本さんの手からタブレットが落ちかけた。落ちる前に掴んだ。掴み方が上手かった。


「なんでですか!」

「紙に書いてありました」

「それ、スタッフさんの集合です!」

「はい」

「高町さんの入りは八時半です! 備考の欄に書いてあります!」

「はい」


 いちばん右の、字の小さいところである。


「見てないんですか」

「上のほうを見ました」

「上のほうを……」


 有本さんは息を吸って、吐いて、それからスマホを出した。


 電話がつながる音がした。


「あ、犬飼さん。すみません、高町さんが……はい……いえ、無事です。無事なんですけど、二時間早いです」


 しばらく間があった。


「はい……はい……わかりました」


 有本さんは電話を切って、俺に渡した。


「高町」

「はい」

「怪我はないな」

「ないです」

「ならいい」

「はい」

「明日から、俺が乗せる」

「はい」


 電話が切れた。


 傍から見れば、朝から現場に立っている高校生である。実際には、乗り換えを間違えなかったことのほうが、俺にとっては大きかった。


   ◇


 メイクの部屋に入れられた。


 鏡の前に座らされて、髪をいじられ、顔に何かを塗られた。塗ったあと、メイクの人が鏡ごしに俺の顔を見て、少し首をかしげた。


「んー」

「はい」

「もともと、あんまり動かないタイプ?」

「動かないです」

「わかった。じゃあ、いいや」


 いいらしい。


   ◇


 そのあと、助監督の人に連れられて、挨拶に回った。


「監督です」

「高町です。よろしくお願いします」

「はい」

「カメラの方です」

「よろしくお願いします」

「照明です」

「よろしくお願いします」

「録音」

「よろしくお願いします」


 俺は頭を下げ続けた。


 途中から、誰がどの部署なのかがわからなくなった。わからないまま下げていたら、最後に台車を押している人がいたので、その人にも下げた。


 その人は弁当を届けに来た人だった。


「あ、どうも」

「よろしくお願いします」

「はい、どうも」


 助監督が横で、小さく咳をした。


   ◇


 俺の出番は、廊下のセットだった。


 アパートの外廊下を、そのまま建物の中に作ってある。ドアが四つ並んでいて、そのうち一つだけが本物の部屋につながっている。あとの三つは開かない。開かないドアの向こうには何もない。


 床に黄色いテープでバツが貼ってあった。


「そこがバミリね」

「はい」

「板付きだから、頭から立っててもらいます」

「はい」


 いたつき。


「わかりません」

「あ、最初から画の中にいるってことね」

「はい」


 俺はバツの上に立った。


 前もこれだった。会議室の真ん中に貼ってあったやつだ。


「回します」


 現場の音が、一斉に消えた。


 さっきまで誰かが何かを叫んでいたのに、その全部が止まった。脚立の上の人まで動きを止めていた。


 全員が止まっていたが、誰も俺を見ていなかった。見ていたのはモニターとカメラである。


「ヨーイ、スタート」


 俺はドアのほうを見た。


「……いますよ」


「はい、カット」


 音が戻ってきた。


 記録の人が台本に何か書いた。照明の人が脚立を動かした。誰かが「もう一回だけ」と言った。


 もう一回やった。


「OKです」


 それで終わりだった。


   ◇


 時計を見たら、十一時十分だった。


 制作進行の人が横を通って、止まった。


「六時二十分から?」

「はい」

「まだ何も喋ってないでしょ」

「六文字喋りました」


 弁当が配られた。


 俺のところに来たのは、白い箱に入ったやつだった。少し離れたところで、スタッフの人たちは違う箱を開けていた。中身が違うらしい。


「これ、違うんですか」

「あー、キャストさんはそっちなんですよ」

「はい」

「いいでしょ、そっち」

「同じのがいいです」


 制作進行の人が、俺を見た。


 見て、それから、少し笑った。


「明日、聞いてみます」

「はい」


 俺は白い箱を開けた。唐揚げは三個入っていた。本読みの日より一個多い。


   ◇


 午後は、俺の出番がなかった。


 帰ってもいいと言われたが、車が来るのは十七時である。俺はセットの端の、機材の箱が積んである陰に立って、他の人が撮っているのを見ていた。


 同じ場面を、何度も撮っていた。


 同じ台詞を、同じ人が、同じ場所で言う。それが終わると、みんな一斉に何かを動かしはじめる。記録の人が台本に書き込み、照明が脚立を動かし、美術の人が机の上の湯呑みの位置を元に戻す。「カット」のあとの三分が、いちばん騒がしい。


 俳優はその間、ただ立っている。立っている時間のほうが長かった。何をしているのかは、俺にはわからなかった。


 膝が痛くなってきたので、俺は箱に寄りかかった。


「そこ、見切れます」


 後ろから声がした。


 みきれる。


「わかりません」

「あー、映っちゃうってことです。カメラに」

「はい」


 俺は五十センチ横に動いた。


「そこも見切れます」

「はい」


 もう五十センチ動いた。


 三回目でようやく、誰も何も言わなくなった。


   ◇


 夕方、制作進行の人が走ってきた。


 走ってきて、俺の前で止まって、膝に手をついた。


「高町くん」

「はい」

「弁当の件、聞きました」

「はい」

「明日から、同じのでいいですか」

「いいです」

「ほんとにいいんですか。あっちのほうが、いいやつなんですけど」

「同じのがいいです」


 その人はしばらく俺の顔を見て、それから何度か頷いた。


 頷いてから、また走っていった。


 誰かが遠くで「押してまーす」と叫んだ。


 押す、というのは、たぶん遅れているという意味だと思う。今日一日で、六回聞いた。


   ◇


 十七時に、犬飼さんの車が来た。


 俺は助手席に乗った。


 車が動き出してすぐ、犬飼さんが言った。


「高町」

「はい」

「明日、室井さんが入る」

「はい」

「君のシーンだ。四十一ページと、四十二ページ」

「はい」


 犬飼さんは前を向いたまま、ウインカーを出した。


「……返事が同じ形だな」

「はい」


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 それから、犬飼さんはコンビニの駐車場に車を入れた。


 戻ってきた犬飼さんの袋の中に、胃薬の箱が二つ入っていた。


 車の中には、これで三つある。


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