第34話 二時間早い
九月十一日の午後三時、俺は事務所の四階で、知らないおじさんの顔を見ていた。
会議室2である。六人しか入らない部屋で、犬飼さんはここを「小部屋」と呼ぶ。悪い話をするときに使う部屋だと聞いたことがあるが、今日は悪い話ではないらしい。
机の上に、紙の束が置いてある。上から二枚目に、白黒の写真が印刷されていた。短い髪に白いものが混じっている。目は笑っている。口のあたりは笑っていない。
「この人だ」
「はい」
「見たことあるか」
「あります」
「どこで」
「今」
犬飼さんは俺の顔を見た。それから、椅子の背に体を預けた。
「高町、君は本当にテレビを見ないな」
「見ます」
「何を」
「天気予報」
◇
「室井隆之さんだ。芸歴は三十六年ある」
犬飼さんは紙を一枚めくった。
「十八で劇団に入って、十年は裏方と脇だ。二十八で舞台の代役をやって、三十二で映像に移った。悪役と父親役ばかりやってる」
「はい」
「若手を育ててる。俺がすぐ名前を挙げられるだけで十人いる」
「はい」
「君は、その人と同じ現場に立つ」
「はい」
犬飼さんが黙った。
「返事が全部、同じ形をしてるな」
「他の形を知らないです」
犬飼さんはもう一度紙をめくって、めくった手をそのまま止めた。
「一つだけ言っておく」
「はい」
「あの人は、返事をしない。芝居を見て、何も言わずに次に行く」
「はい」
「何も言われなかったときに、悪く取るな」
「はい」
俺は頷いた。
何も言われないほうがいい。学校でも家でもそうだ。
◇
「それで、明後日が衣装合わせだ。本読みはその次の日になる」
「ほんよみ」
「本読みだ。台本を、みんなで座って読む」
「立たないんですか」
「立たない」
「動かないんですか」
「動かない」
動かなくていいなら、やることが減る。
「弁当は出ますか」
「出る」
「はい」
犬飼さんは俺の顔を三秒見て、それから、机の下で何かを開ける音をさせた。袋の端を歯で切る音だった。
◇
ドアが開いて、有本さんが入ってきた。手にタブレットを持っている。
「高町さん、スケジュールです。共有しますね」
「はい」
「あと、作品のグループチャットに入っていただきました」
「はい」
「前の日の夜に、香盤表がPDFで流れてきます」
「CMのときのやつですか」
「そうです。ただ、今回は毎日来ます」
「はい」
「必ず見てくださいね。必ずです」
「はい」
有本さんは「必ず」を二回言った。二回言われたので、覚えた。
有本さんはタブレットの画面を俺のほうに向けた。細かい字が縦にも横にも並んでいて、色が三つ使ってある。俺の名前が入っている行だけ、色が付いていた。付いていない行のほうが、ずっと多かった。
「学校のほうは、こちらから連絡します」
「はい」
「休む日は、朝いちで担任の先生に」
「はい」
犬飼さんが横から言った。
「授業のノートは、誰かに借りろ」
「はい」
「あてはあるか」
「あります」
あてというより、向こうから来る。断ると面倒なことになるので、断らない。
◇
衣装合わせは、想像していたのと違った。
俺は着替えて、出て、見られて、戻って、また着替えた。三回やった。決まったのは二回目に着たやつだった。決めたのは俺ではない。
途中で衣装の人が俺の腕の長さを測った。測って、何も言わずに、もう一度測り直した。二回目のほうが長かったわけではないと思う。
「高町くん、何センチ?」
「百八十二です」
「そう見えない」
「はい」
どう見えているのかは聞かなかった。聞いても、たぶん直せない。
◇
本読みは、机をロの字に並べた部屋でやった。
俺は端に座らされた。隣の椅子は空いていて、最後まで誰も来なかった。室井さんは別の現場が入っていて、この日は来なかった。
順番に読んでいく。俺の番が来た。
三十六ページの一行を読んだ。四十一ページの二行を読んだ。四十二ページの三行を読んで、五十ページの一行を読んだ。
全員が、自分の台本を見ていた。
「はい、じゃあ次」
それで終わった。
俺はその日、弁当の中身を先に見てしまったせいで、後半はずっと唐揚げのことを考えていた。二個入っていた。
◇
日曜の夜、グループにPDFが来た。
俺は自分の部屋で、机の上にスマホを置いて開いた。
いちばん上に、大きい字で書いてあった。
〈集合 6:30〉
その下に、細かい表があった。左から数字が並んでいて、右のほうに人の名前と、たくさんの記号がある。いちばん右の欄は字がさらに小さくて、そこに何かが二行、詰め込んで書いてあった。
CMのときの紙は一枚で、俺の行は真ん中あたりにあった。今度の紙は、行が多い。
俺は上のほうを見た。
ほとんど同じころに、有本さんからメッセージが来ていた。
〈明日、ゲート前に八時半でお願いします〉
〈わたしもそこにいます〉
俺はしばらく画面を見ていた。
紙には六時半と書いてある。有本さんは八時半と言っている。
紙のほうが、字が大きかった。
俺は目覚ましを四時二十分に合わせた。
下から妹のタブレットの音が聞こえた。ドアは閉めてある。
「あんた」
「なんだ」
「それ、間違ってない?」
「紙に書いてある」
「紙は喋らないのよ」
「有本さんも紙を見てるはずだ」
ミューナは何か言おうとして、そのまま黙った。
◇
階段を下りて、台所で水を飲んだ。
妹が冷蔵庫の前に立っていた。扉を開けたまま、中を見ている。何も取らずに閉めた。それからもう一度開けた。
「兄ちゃん、明日いつ出るの」
「四時四十分」
「四時四十分?」
「うん」
「朝の?」
「朝の」
妹は冷蔵庫を閉めた。
「早すぎない?」
「紙に書いてある」
「ふうん」
妹はそれ以上聞かなかった。かわりにスマホを出して、何か打ち込んだ。何を打ったのかは見せてくれなかった。
母さんが風呂場から出てきて、俺の顔を見た。
「朝ごはん、どうするの」
「いらない」
「いる」
「いらない」
「いるでしょう」
朝の五時に食べるものについて、この家では俺に決定権がない。
◇
始発の一本あとに乗った。
桜坂駅の階段は二十七段ある。上から九段目が少し欠けていて、雨の日に滑る。今日は雨ではなかったので、普通に降りた。
電車の中はがらがらだった。座っている人は全員寝ていた。俺も寝たかったが、乗り換えを間違えると終わるので、起きていた。
豊洲に着いた。
みなと撮影所は、駅から歩いて少しのところにある。看板があって、ゲートがあって、ゲートは閉まっていた。
時計を見た。六時二十分だった。
ゲートの横に小さい窓があって、そこが開いた。
「どこの子」
「高町です」
「どこの」
「ソレイユです」
「今日、何時入り」
「六時半です」
守衛のおじさんは、俺の顔をしばらく見た。
「まだ誰も来てないよ」
「はい」
「ほんとに誰もいない」
「はい」
窓が閉まった。
◇
俺はゲートの横に立った。
立って、待った。
やることがなかったので、見えるものを順番に見た。
自販機が二台あって、片方は電気がついていて、片方はついていなかった。ついていないほうの前に、空き缶を入れる箱が置いてあった。塀の上を鳥が歩いていた。電線に別の鳥がいた。空が、灰色から白に変わっていく途中だった。
鞄からゼリー飲料を出した。青にした。青は甘くない。朝に甘いものを入れると、そのあとがつらい。
半分飲んで、キャップを閉めた。
六時四十分になった。
誰も来なかった。
「ねえ」
(なんだ)
「あんた、それ、待ってるつもり? 立ってるだけよ」
(待ってる)
「帰ったら? まだ誰も来ないわよ」
(うん)
「好きになさい」
俺は帰らなかった。
帰ると、また来なければいけない。
◇
六時四十五分に、塀の向こうから音楽が聞こえた。
パン屋か何かの、開店前の掃除の音だと思う。誰かが誰かに向かって、まだ眠そうな声で挨拶をしていた。
塀の向こうで、誰かがホースの水を出しっぱなしにしていた。三分出ていた。門の内側では、まだ誰も来ていない。
俺は残りのゼリー飲料を飲んだ。
◇
六時五十分に、白いワゴンが来た。
ゲートが開いて、車が入って、少し先で止まった。降りてきたのは若い人だった。俺より少し年上に見える。眼鏡をかけていて、上着の前が開いていて、開いたまま走ってきた。
その人は俺を見て、止まった。
「……え」
止まったまま、俺の足元から顔まで、一回だけ視線を上げた。
「キャストの方ですか」
「高町です」
「高町……あ、広瀬の。え、何時からいらっしゃいます?」
「六時二十分です」
その人は、口を開けた。
「ごめんなさい」
「はい」
「本当にごめんなさい」
「はい」
なぜ謝られているのかがわからなかった。
俺が時間を間違えたのだから、謝るのは俺のほうだと思う。そう言おうとしたら、その人はもう車のほうへ走っていた。
◇
車の後ろが開いていた。
中に箱が積んであった。お茶のペットボトルが、箱ごと入っている。
「これ、運ぶんですか」
「あっ、いいですいいです、座っててください」
「どこに」
「あ」
座る場所は、まだ、どこにも無かった。
俺は箱を一つ持った。思ったより重かった。
「本当にいいです、大丈夫です」
「軽いです」
「軽くないです、それ」
「軽いです」
俺たちは箱を運んだ。全部で十いくつあった。四往復した。
運びながら、その人は喋り続けていた。制作進行という仕事らしい。今朝は三時に起きて、お茶を積んで、途中で二か所寄って、ここに来た。今日はこのあと道を封鎖して、人を止めて、車を止めて、それから明日の弁当を頼む。
「寝てないんですか」
「寝ました。二時間くらい」
「はい」
二時間。
俺は四時二十分に起きた。それは言わなかった。
◇
七時半を過ぎると、人が急に増えた。
車が次々に入ってきて、機材が降りてきて、脚立が立って、太いケーブルが地面を這った。誰かが何かを叫んで、別の誰かがそれに答えた。
俺は隅に立っていた。
立っていると、制作進行の人が、来る人来る人に同じことを言っているのが聞こえた。
「あの子、六時二十分から立ってました」
言われた人が、俺のほうを見た。
次の人も見た。その次の人も見た。
「マジで?」
「マジです」
「新人?」
「今日が初日らしいです」
誰かが「へえ」と言った。
別の誰かが「最近の子は」と言いかけて、途中でやめた。やめてから、俺のほうにもう一度顔を向けて、軽く頭を下げた。
俺も下げた。
◇
八時二十分に、有本さんが来た。
有本さんはゲートを入ってきて、俺を見つけて、笑って、それから止まった。
「……高町さん」
「はい」
「何時に来ました?」
「六時二十分です」
有本さんの手からタブレットが落ちかけた。落ちる前に掴んだ。掴み方が上手かった。
「なんでですか!」
「紙に書いてありました」
「それ、スタッフさんの集合です!」
「はい」
「高町さんの入りは八時半です! 備考の欄に書いてあります!」
「はい」
いちばん右の、字の小さいところである。
「見てないんですか」
「上のほうを見ました」
「上のほうを……」
有本さんは息を吸って、吐いて、それからスマホを出した。
電話がつながる音がした。
「あ、犬飼さん。すみません、高町さんが……はい……いえ、無事です。無事なんですけど、二時間早いです」
しばらく間があった。
「はい……はい……わかりました」
有本さんは電話を切って、俺に渡した。
「高町」
「はい」
「怪我はないな」
「ないです」
「ならいい」
「はい」
「明日から、俺が乗せる」
「はい」
電話が切れた。
傍から見れば、朝から現場に立っている高校生である。実際には、乗り換えを間違えなかったことのほうが、俺にとっては大きかった。
◇
メイクの部屋に入れられた。
鏡の前に座らされて、髪をいじられ、顔に何かを塗られた。塗ったあと、メイクの人が鏡ごしに俺の顔を見て、少し首をかしげた。
「んー」
「はい」
「もともと、あんまり動かないタイプ?」
「動かないです」
「わかった。じゃあ、いいや」
いいらしい。
◇
そのあと、助監督の人に連れられて、挨拶に回った。
「監督です」
「高町です。よろしくお願いします」
「はい」
「カメラの方です」
「よろしくお願いします」
「照明です」
「よろしくお願いします」
「録音」
「よろしくお願いします」
俺は頭を下げ続けた。
途中から、誰がどの部署なのかがわからなくなった。わからないまま下げていたら、最後に台車を押している人がいたので、その人にも下げた。
その人は弁当を届けに来た人だった。
「あ、どうも」
「よろしくお願いします」
「はい、どうも」
助監督が横で、小さく咳をした。
◇
俺の出番は、廊下のセットだった。
アパートの外廊下を、そのまま建物の中に作ってある。ドアが四つ並んでいて、そのうち一つだけが本物の部屋につながっている。あとの三つは開かない。開かないドアの向こうには何もない。
床に黄色いテープでバツが貼ってあった。
「そこがバミリね」
「はい」
「板付きだから、頭から立っててもらいます」
「はい」
いたつき。
「わかりません」
「あ、最初から画の中にいるってことね」
「はい」
俺はバツの上に立った。
前もこれだった。会議室の真ん中に貼ってあったやつだ。
「回します」
現場の音が、一斉に消えた。
さっきまで誰かが何かを叫んでいたのに、その全部が止まった。脚立の上の人まで動きを止めていた。
全員が止まっていたが、誰も俺を見ていなかった。見ていたのはモニターとカメラである。
「ヨーイ、スタート」
俺はドアのほうを見た。
「……いますよ」
「はい、カット」
音が戻ってきた。
記録の人が台本に何か書いた。照明の人が脚立を動かした。誰かが「もう一回だけ」と言った。
もう一回やった。
「OKです」
それで終わりだった。
◇
時計を見たら、十一時十分だった。
制作進行の人が横を通って、止まった。
「六時二十分から?」
「はい」
「まだ何も喋ってないでしょ」
「六文字喋りました」
弁当が配られた。
俺のところに来たのは、白い箱に入ったやつだった。少し離れたところで、スタッフの人たちは違う箱を開けていた。中身が違うらしい。
「これ、違うんですか」
「あー、キャストさんはそっちなんですよ」
「はい」
「いいでしょ、そっち」
「同じのがいいです」
制作進行の人が、俺を見た。
見て、それから、少し笑った。
「明日、聞いてみます」
「はい」
俺は白い箱を開けた。唐揚げは三個入っていた。本読みの日より一個多い。
◇
午後は、俺の出番がなかった。
帰ってもいいと言われたが、車が来るのは十七時である。俺はセットの端の、機材の箱が積んである陰に立って、他の人が撮っているのを見ていた。
同じ場面を、何度も撮っていた。
同じ台詞を、同じ人が、同じ場所で言う。それが終わると、みんな一斉に何かを動かしはじめる。記録の人が台本に書き込み、照明が脚立を動かし、美術の人が机の上の湯呑みの位置を元に戻す。「カット」のあとの三分が、いちばん騒がしい。
俳優はその間、ただ立っている。立っている時間のほうが長かった。何をしているのかは、俺にはわからなかった。
膝が痛くなってきたので、俺は箱に寄りかかった。
「そこ、見切れます」
後ろから声がした。
みきれる。
「わかりません」
「あー、映っちゃうってことです。カメラに」
「はい」
俺は五十センチ横に動いた。
「そこも見切れます」
「はい」
もう五十センチ動いた。
三回目でようやく、誰も何も言わなくなった。
◇
夕方、制作進行の人が走ってきた。
走ってきて、俺の前で止まって、膝に手をついた。
「高町くん」
「はい」
「弁当の件、聞きました」
「はい」
「明日から、同じのでいいですか」
「いいです」
「ほんとにいいんですか。あっちのほうが、いいやつなんですけど」
「同じのがいいです」
その人はしばらく俺の顔を見て、それから何度か頷いた。
頷いてから、また走っていった。
誰かが遠くで「押してまーす」と叫んだ。
押す、というのは、たぶん遅れているという意味だと思う。今日一日で、六回聞いた。
◇
十七時に、犬飼さんの車が来た。
俺は助手席に乗った。
車が動き出してすぐ、犬飼さんが言った。
「高町」
「はい」
「明日、室井さんが入る」
「はい」
「君のシーンだ。四十一ページと、四十二ページ」
「はい」
犬飼さんは前を向いたまま、ウインカーを出した。
「……返事が同じ形だな」
「はい」
しばらく、誰も何も言わなかった。
それから、犬飼さんはコンビニの駐車場に車を入れた。
戻ってきた犬飼さんの袋の中に、胃薬の箱が二つ入っていた。
車の中には、これで三つある。




