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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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第33話 五人で足りるのか

 部屋に入って、最初に見えたのは、長机だった。


 白い長机が二つ、横に並べてある。その向こうに、椅子が五脚。人が五人座っている。


 全員、手元を見ていた。


 紙の束が、五人ぶん置いてある。俺の履歴書と写真だ。撮ったのは六月の二日で、三階の簡易スタジオだった。あのとき「もう少し口角を」と言われて、上がらないので、そのまま撮った。


 その写真が今、五人の手元にある。


 誰も、顔を上げなかった。


   ◇


 五人の並びを、俺は左から順に見た。


 左端の人は、たぶんいちばん喋る人だ。台本を横に置いて、紙を指で押さえている。


 その隣は、細い眼鏡をかけた人で、書き込みの多い台本を持っていた。四十一ページ目に、赤い線が見えた。待合室の子と同じ場所である。


 真ん中の人は、椅子の背にもたれていた。腕を組んでいる。この人だけ、何も持っていない。


 右から二番目の人が、俺の履歴書をめくっていた。


 右端の人は、ボールペンを持っていた。何も書いていないが、いつでも書ける持ち方をしていた。


 誰が偉いのかは、わからなかった。犬飼さんに「真ん中がいちばん偉いとは限らん」と言われている。言われたところで、判別できるようになるわけではない。


   ◇


 部屋の真ん中に、テープで印が貼ってあった。


 バツの形だ。ここに立て、という意味だと思ったので、俺はそこに立った。


 立ってから、犬飼さんの言葉を思い出した。名前と番号を言わされる。それから読む。


 俺は、番号と名前を言った。


 噛まなかった。噛む要素がなかった。数字が一つと、自分の名前だけである。俺は十七年間これを名乗ってきた。名乗るのが下手だったら、そのほうが問題だ。


 紙をめくる音がした。


 右から二番目の人が、俺の履歴書を一枚めくって、写真と見比べた。見比べて、また下を向いた。


「高町くんね。じゃあ、三十六ページから」


 左端の人が言った。顔は、上げなかった。


   ◇


 俺は台本を開いた。


 三十六ページ目に一行ある。四十一ページ目に二行、四十二ページ目に三行、五十ページ目に一行。九月三日の夜から数えて、七日と半日ぶん見てきた四つのページだ。


 俺は読んだ。


 声は、出た。


 出たが、それだけだった。


 エアコンの音は、そのまま聞こえていた。五人の輪郭はぼやけたままで、背中はいつもどおり丸まっている。


 自分の声を聞きながら、俺は、これが九月五日の風呂場で出したのと同じ声だということに気づいた。


 三十六ページ。四十一ページ。四十二ページ。五十ページ。


 七行、読み終わった。


   ◇


 誰も、何も言わなかった。


 右端の人が、ボールペンで紙に何か書いた。書いた時間は、二秒くらいだった。二秒で書ける情報の量は多くない。


「はい、ありがとう」


 左端の人が言った。


 真ん中の人が、初めて顔を上げた。


 上げて、すぐに下ろした。〇・五秒くらいだった。


   ◇


 俺は台本を持ったまま、バツの上に立っていた。


 立ちながら、腹のことを考えていた。


 握られている感じは、完全に消えていた。犬飼さんの粉薬が効いている。あれは口の中でひどいことになったが、効き目は本物だった。今度から自分で買おうと思った。


   ◇


「じゃあ、もう一回いい?」


 左端の人が言った。


「はい」

「今度は、自由にやっていいよ」


 俺は動かなかった。


 自由。


 自由というのは、何をしてもいいという意味だと思う。


 何をしてもいい、というのがいちばん困る。自由研究のときもそうだった。何をしてもいいと言われて、俺は八月三十日に台所の塩を舐めていた。


 俺は台本を開いたまま、バツの上で止まっていた。


 止まったまま、いくつか考えた。


 一つ、さっきと同じように読む。だが、犬飼さんに「同じようにやったらダメだ」と言われている。


 二つ、大きい声で読む。ミューナに「後ろの壁に当てるつもりで」と言われている。だが、あの人の助言は今日、九割が使えなかった。


 三つ、動く。どこへ動けばいいのかがわからない。バツから外れたら、たぶん怒られる。


 三つとも、決め手にならなかった。


 三秒経った。


 五秒経った。


   ◇


 部屋が、静かになった。


 紙をめくる音が止まった。


 右から二番目の人が、履歴書から目を離した。真ん中の人が、椅子の背から体を起こした。右端の人がボールペンを置いた。左端の人が、少し首を傾けた。


 いちばん端の、それまで一度もこっちを見ていなかった人が、顔を上げた。


 五人が、五人とも、俺を見た。


   ◇


 会議室の音が、遠のいた。


 エアコンも、廊下の足音も、外を走る車の音も、全部が薄い膜の向こうに行った。


 代わりに、輪郭がはっきりした。


 長机の継ぎ目に、細い隙間があるのが見えた。右端の人のボールペンが、置かれたときに一度だけ転がって止まったのが見えた。真ん中の人の紙の、右上の角が折れているのが見えた。俺の写真の中の俺が、口角の上がっていない顔で、まっすぐ前を見ているのが見えた。


 背筋が、伸びた。


   ◇


 俺は台本を、下ろした。


 下ろした理由はない。手が、勝手に下がった。


 それから、七行を言った。


 どう言ったかは、うまく書けない。


 息をどこで吸ったかは覚えている。どこで止めたかも覚えている。覚えているのに、なぜそこで吸ったのかは説明できない。ただ、そこで吸うのが正しかった。四十二ページ目の三行のうち、二行目の途中で一度だけ声を落としたが、落とすのが正しかったからそうした。


 三十六ページ目の一行を言ったとき、右端の人が置いたボールペンに手を伸ばして、途中でやめた。


 四十二ページ目に入ったとき、真ん中の人が腕を解いた。


 五十ページ目の一行を言い終わったとき、部屋の中で動いているものは何も無かった。


 俺は自分が一歩も動いていないことに気づいた。


 バツの上に、立ったままだった。


   ◇


 誰も、動かなかった。


 真ん中の人が、口を半分開けていた。


 左端の人が、椅子の上で少しだけ前に出た。


 細い眼鏡の人が、自分の台本の四十二ページを開いて、赤い線の引いてあるところを見ていた。それから、俺を見た。それから、また台本を見た。


 四秒くらい、そのままだった。


 俺は、その四秒のあいだ、こう思っていた。


 ――喉が渇いた。


 鞄には緑と青が残っている。青は甘くない。緑だと思う。


   ◇


「……高町くん」


 左端の人が言った。


「はい」

「今の、誰かに付けてもらった?」

「いいえ」

「事務所でレッスンは」

「受けてます。ストレッチと、発声と、ダンスです」

「芝居は」

「習ってないです」


 左端の人は、何も言わずに、机の上の履歴書の生年月日のところを指で押さえた。


「高町くん、十七か」

「はい」

「一回目と二回目で、何を変えた?」


 俺は考えた。


 考えて、正直に言った。


「わからないです」


   ◇


 部屋の空気が、少しだけ動いた。


 右から二番目の人が、小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。


「わからない」

「はい」

「二回目のほうが良かったよ。だいぶ良かった」

「はい」

「本人がわからないのは、まあ、ある」


 その人は隣に何か短く言った。聞き取れなかった。


 真ん中の人が、初めて口を開いた。


「間が、取れてるね」

「はい」

「あそこ、普通は待てないんだ。待つと不安になるから。君は待てる」


 俺は「はい」と言った。


 言いながら、その説明を、頭の中で二回読み返した。


 二回読み返しても、心当たりは一つもなかった。


 待っていたのではない。待たされていたのでもない。ただ、そこで息を吸ったら、そうなっていた。


 説明できないので、俺は「はい」と言った。今日、何回目の「はい」かは数えていない。


   ◇


「はい、じゃあ、ありがとうございました」


 左端の人が言って、紙を揃えた。


 俺は頭を下げた。


 下げて、上げて、それから困った。


 この部屋を出るまでに、あと何回ありがとうございましたと言えばいいのかがわからない。今言った。ドアのところでも言うのか。ドアを開けてからも言うのか。多すぎるのも変だし、少なすぎるのはもっと変だ。


 俺はバツの上から一歩下がって、もう一度頭を下げた。


 二回目である。


 誰も何も言わなかったので、正解も不正解もわからなかった。


 ドアまで、四歩あった。


 四歩のあいだ、誰も何も言わなかった。


   ◇


 ドアを閉めた。


 閉めてから、鞄の中の声を思い出した。


 ――帰るとき、ドアを閉めたあとに、もう一度お辞儀をするの。


 俺は、閉まったドアに頭を下げた。


 廊下には誰もいなかった。


 傍から見れば、誰もいない廊下で、閉まったドアに向かって頭を下げている高校生である。


 実際には、四十年前の助言を実行しているだけだった。


 鞄の中から、小さい声がした。


「……悪くないわ」


   ◇


 廊下を歩き出して、五歩目で、膝が笑った。


 来た。


 俺は壁に手をついた。手をついた瞬間、指先の力が抜けているのがわかった。腹の底に穴が空いている。視界の端が白い。


 痛くはない。痛くはないが、動かない。


 エレベーターまで、あと二十メートルくらいある。二十メートルというのは、体育の授業では何でもない距離だが、今日は違う。


 俺は壁伝いに歩いた。


 歩幅を半分にして、右手を壁につけたまま、一歩ずつ進んだ。途中に、消火器の箱が壁から出っ張っていた。手を離すのがいやだったので、俺はその上に手を置いて越えた。


 鞄の中から声がした。


「そこ、消火器よ」

(見えてる)

「押さないでね」

(押さない)


 誰にも会わなかった。


 会わなかったのは、運が良かった。人が来たら立たなければならない。八月の終わりに、俺はそれを一度やっている。あれは十五分、正確には十五分と少しだった。


 エレベーターのボタンを押した。


 押して、鏡張りの箱に乗った。


 扉が閉まった瞬間に、膝から力が抜けた。


 俺は手すりを掴んだ。掴んだまま、床が下がっていくのを感じていた。


 鏡の中に、青い顔をした男が立っていた。


 顔は、いつもどおりだった。


   ◇


 一階で扉が開いた。


 俺は普通に歩いて出た。


 二歩だけ普通に歩いて、いちばん近いソファに座った。ロビーの端の、観葉植物の横だ。座ってから、鞄を膝に乗せた。


「あんた」

(うん)

「……よく声が出たわね」

(出た)

「わたし、あんまり期待してなかったの」

(知ってる)

「あんた、さっき膝が笑ってたわね」

(見えてない)

「音でわかるのよ」


 俺はゼリー飲料を出した。


 緑を選んだ。糖が要った。緑は言われないと気づかない味だが、糖は入っている。


 一本飲み切って、二本目に手をかけた。


 やめた。残りが一本になるからだ。


   ◇


 十五分くらい、そこに座っていた。


 途中で、局の人が二回、目の前を通った。二回とも、こっちを見なかった。ロビーのソファに座っている高校生は、この建物では珍しくないらしい。


 鞄の中でミューナが何か言いかけて、やめた。


 やめたのは、気が変わったからだと思う。この人はいつもそうだ。


 十六時二十分に、犬飼さんが来た。


「歩けるか」

「歩けます」

「顔が白い」

「地顔です」

「地顔はもう少し黄色い」


 よく見ている人である。


 犬飼さんは、それ以上は聞かなかった。


「出口、遠いほうを使う。あっちは空いてる」

「はい」


 俺はその背中を見ながら、駐車場までを歩いた。


 噴水は、まだ出ていた。


   ◇


 車に乗ってすぐ、鞄を膝に乗せた。


 鞄が、重かった。中身は台本とゼリー飲料が二つと、十五センチの人形だけである。それが重い。


 足元に下ろして、寝た。


 起きたら、外が暗くなっていた。


「どこですか」

「そろそろ着く」


 窓の外に、見たことのある看板があった。ハミングマート桜坂店だ。店の前で肉まんを食べたのは、五月の話である。今はまだ肉まんの季節ではない。


「犬飼さん」

「なんだ」

「今日、どうでしたか」

「わからん」

「はい」

「連絡は、早くて三日後だ。長ければ二週間かかる」

「はい」

「その間、何もするな。普通に学校へ行け」


 俺は頷いた。


 言われなくても、普通に学校へ行く。他に行く場所がない。


   ◇


 家に着いたのは、十九時前だった。


 玄関を開けたら、妹が階段の途中に座っていた。上から三段目である。


「兄ちゃん」

「なんだ」

「何分」

「知らん」

「知らんって」

「車で寝てた」


 妹はスマホを出して、画面を見て、それから唇を横に引いた。


「じゃあ測れないじゃん」

「そうだな」

「じゃあ今日、ノーカウントじゃん。最悪」


 妹は不服そうだった。


 この子は五月から、俺が帰ってきてからいつもの調子で喋りだすまでの時間を測り続けている。八月二十八日は百八十七分だった。九月三日は四分だった。今日は、車の中で全部済ませてしまったので、ゼロでもないし、記録もない。


 妹はスマホに何か打ち込んだ。何を打ったのかは見せてくれなかった。


 空欄が一つできたことだけは、たぶん確かである。


   ◇


 夕飯は、鶏の照り焼きだった。


 俺は三杯食べた。


 母さんが何か言いかけて、やめた。今日は感心されなかった。


 父さんは俺の茶碗のほうを見ていた。何も言わなかった。今日は二語も使わなかった。


   ◇


 部屋に上がって、スマホを見たら、美咲からメッセージが来ていた。


 〈数学、返ってきた〉

 〈三十八点〉

 〈平均は六十一〉


 俺はしばらく画面を見た。


 見てから、返信した。


 〈わかった〉

 〈それだけ?〉

 〈それだけだ〉

 〈あなた、今日オーディションだったんでしょ〉

 〈うん〉

 〈で、三十八点なの〉


 関係がない。


 オーディションと数学は関係がない。二次関数は俺の敵である。


 俺はスマホを置いた。


 置いてから、ドアが閉まっているのを確かめて、机の右奥を見た。


「あんた、点数悪いのね」

「見るな」

「見えるのよ」


   ◇


 二十一時十分に、スマホが鳴った。


 犬飼さんだった。


「高町」

「はい」

「決まった」


 俺は椅子から立ち上がらなかった。立ち上がる理由が、すぐには浮かばなかったからだ。


「……何がですか」

「役だ。広瀬だ」

「はい」

「受かったんだ」

「はい」


 電話の向こうで、犬飼さんが少し黙った。


「返事が短いな」

「たぶん、まだ実感がないので」

「そうか」


 犬飼さんは、そこで一度、息を吸った。


「言っておくが、これは早い」

「早いんですか」

「今日の今日で連絡が来ることは、まず無い。俺は十五年やってるが、二回目だ」

「はい」


 電話の向こうで、椅子が鳴った。


「……代わります」


 有本さんの声になった。


「高町さん。わたし、今日、局に四回、犬飼さんに十一回かけました」

「はい」

「十一回目で、つながりました」

「はい」


 有本さんは、そこで一度、鼻をすすった。


「……もう、かけません」


 俺は「はい」と言った。


 何本かけるのが普通なのかを知らないので、四回と十一回が多いのか少ないのかは、判断がつかなかった。


 電話が、犬飼さんに戻った。


 二回目。


 一回目が誰なのかは、聞かなかった。聞かなくても、たぶん五階にいる人である。


 俺は台本を手に取った。


 三十六ページ目に一行。四十一ページ目に二行。四十二ページ目に三行。五十ページ目に一行。


 この七行を、そのうち、もう一度言うことになる。今度は、五人ではない場所で。


   ◇


「高町」

「はい」

「一つだけ、先に言っておく」

「はい」

「共演者に、室井隆之さんが入ってる」


 俺は、少し考えた。


 考えたが、出てこなかった。


「誰ですか」


 電話の向こうが、静かになった。


 三秒くらいだった。


 それから、犬飼さんが言った。


「……明日、事務所に来い」


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