第32話 励ましが古すぎる
原因を絞り込むことにした。
俺の腹の、みぞおちの少し下が、握られている。握られはじめたのは十五時ちょうどで、それまでは何ともなかった。したがって、原因は今日の中にある。
一つ、朝のトースト。二枚。母さんが焼いたやつで、家族全員が同じものを食べている。母さんが腹を押さえていたという情報はない。除外。
二つ、車の中のおにぎり。二個。コンビニの袋に入っていた。有本さんが買ったものだ。あの人は自分の分も同じ棚から買っている。除外。
三つ、紙コップの水。二杯。局の給水機である。テレビ局の水で腹を壊したら、たぶん今ごろ廊下が大変なことになっている。除外。
四つ、エアコン。この部屋は寒い。冷えは腹に来ると母さんが言っていた。
四つ目が、いちばんありそうだった。
俺は椅子に座ったまま、シャツの上から腹を押さえた。
傍から見れば、開始を待ちながら静かに姿勢を整えている子である。
実際にやっていたのは、腹の温度を手で上げようとするという、極めて原始的な処置だった。
◇
「あんた、それ、緊張よ」
鞄の中から声がした。
(エアコンだ)
「エアコンで腹は握られないの。緊張よ。四十年前は、みんな醤油を舐めて治したわ」
(醤油)
「一滴でいいの。指につけて、舐めるのよ」
(持ってない)
「なんで持ってこなかったの」
醤油を持ってオーディションに来る高校生は、たぶん日本に一人もいない。
ミューナは、そんなことはお構いなしに喋り続けた。
「いい? こういうときはね、まず楽屋に一番乗りするのよ」
(楽屋は無い)
「無い?」
(会議室だ)
「……鏡は?」
(無い)
「鏡が無いところで芝居をさせるの?」
させるらしい。
ミューナは黙った。鏡の話は、しばらく引きずると思う。
◇
二分後に、ミューナが復活した。
「じゃあ、これは使えるわ。監督さんの奥さんの好きな色を調べておきなさい」
(なんで)
「その色の服を着ていくのよ。人は、自分の家にある色を信用するの」
(今から着替えられない)
「明日でいいわ」
(明日は無い)
無い。今日である。
「じゃあ、終わったらお中元を送りなさい」
(九月だ)
「お歳暮」
(まだ九月だ)
「……日本は、贈り物の月が少なすぎるのよ」
多すぎるほうだと思う。
◇
「泣きなさい」
(は?)
「泣ける子は強いわ。わたしの時代はね、泣ける子から順に決まっていったの」
(泣けない)
「泣きなさいよ」
(涙は出るけど、顔が動かない)
「じゃあ余計に効くじゃない。無表情で涙だけ流す子なんて、四十年前にいたら大騒ぎよ」
たぶん、今もそうだ。
だが、俺は自分の意思で涙を出せない。出せていたら、去年の家族写真はもう少しマシになっている。
「ああ、そうだ。断られたら三日通いなさい」
(三日)
「三日よ。三日続けて同じ場所に立っていれば、向こうが折れるわ」
(今それをやると、たぶん警察が来る)
「なんで?」
(説明が難しい)
難しい。四十年前の熱意には、今、別の名前が付いている。
◇
「名前は?」
(高町灯真だ)
「変えなさい」
(なんで)
「覚えにくいもの。もっと短くて、聞いたことのない名前にするの。わたしもそうしたわ」
(ミューナか)
「そう。誰も忘れないでしょ」
忘れない。
忘れないが、たぶんそれは名前のせいではなく、コンビニのくじで出てきて喋りだしたせいである。
「はきはき喋るのよ。マイクは無いんだから、後ろの壁に当てるつもりで出しなさい」
(会議室だぞ)
「壁は壁よ」
それは、少し正しい気がした。
◇
「お辞儀は四十五度」
(測れない)
「測るのよ。鏡の前で百回やれば身につくわ」
(鏡は無いって言っただろ)
「家にあるでしょ」
(今日は家じゃない)
ミューナは咳払いをした。
「じゃあ、差し入れ」
(差し入れ)
「みんなの分のお饅頭を持っていくの。二十個。多いほうがいいわ」
(今、手ぶらだ)
「なんで持ってこなかったの」
(誰も持ってきてない)
この部屋にいる二十人のうち、饅頭を持ってきている人間は一人もいない。全員、台本と鞄だけである。
「……時代が変わったのね」
(たぶん)
「わたしの頃はね、饅頭で決まった役があったのよ」
(それはさすがに嘘だろ)
「嘘よ」
嘘だった。
◇
「最後に、いちばん大事なことを教えるわ」
(うん)
「歯を見せて笑いなさい」
俺は天井を見た。
(無理だ)
「無理じゃないわ。口の端を、こう、上に」
(上がらない)
「上げるのよ」
(上がらないんだって)
鞄の中が静かになった。
五秒くらいだった。
「……ごめん」
(いい)
「忘れてたわ」
(いい)
この人は、たまに忘れる。
俺の顔が動かないことを、ずっと隣にいるのに、まだ完全には覚えていない。四十年前には、笑えない役者という前例が一人もいなかったのだと思う。
俺は台本の角を指でめくった。
めくりながら、鞄のゼリー飲料のことを考えていた。今飲むか、終わってから飲むか。終わってから飲むほうがうまい気がする。理由はない。
◇
俺は台本を開いた。
四十一ページ目。二行ある。
隣の子の台本は、このページが赤と青で埋まっていた。俺のページは白い。何も書いていない。書くことが思いつかなかったからだ。
俺の役は、広瀬という。隣の部屋に住んでいる高校生である。台本にはそれ以上のことが書いていない。歳も、学校も、何をしているのかも書いていない。
一度だけ、風呂で声に出したことがある。
九月五日の夜だった。湯の中で、広瀬という名前を三回言った。名前があって、隣に住んでいて、七行喋る。台本に書いてあるのは、それだけだった。
湯が熱くなってきたので、上がった。
上がってから、母さんに「長い」と言われた。長くはない。
俺は台本の白いページを見た。
隣の子は、このページに何かを書けたらしい。赤と青の両方で書けたらしい。何を書いたのかは見えないし、見ようとも思わなかったが、書けるという事実だけが、少しだけ不思議だった。
「あんた」
(なんだ)
「あの子たちより下手よ」
(知ってる)
「壁の向こうの子も上手かったわ」
(聞こえてたのか)
「聞こえるのよ」
「じゃあ、饅頭を配りなさい」
(さっき無理だと言った)
「二十個よ。今からでも買ってきなさい」
押し切られたまま、話が饅頭に戻った。
◇
十五時二十分に、廊下へ出た。
腹は、まだ握られていた。
廊下には、部屋を出てきた子が何人か立っていた。あの静かさに耐えられなかったのだと思う。壁にもたれて台本を見ている子と、床に座っている子がいる。床に座っている子は靴を脱いでいた。
突き当たりのほうで、女の子が電話をしていた。
「――うん、まだ。……うん、三時二十分。……わかんない。……だから、わかんないんだって」
声が高くなって、それから下がった。
俺と同じくらいの歳の子だった。壁のほうを向いて、片手で耳を押さえている。
「……ごめん。うん。終わったらかける」
電話を切って、その子はしばらく壁を見ていた。それから振り返って、待合室のほうへ歩いてきた。
俺の横を通るときには、もう顔が普通に戻っていた。
早い、と思った。
俺の顔が動かないのは故障だが、この子のは技術である。
◇
犬飼さんは、さっきと同じ場所に立っていた。
三脚並んだ椅子は、まだ空いている。
「高町」
「はい」
「腹か」
俺は自分の手を見た。
シャツの上から、みぞおちの少し下を押さえたままだった。廊下に出るときに離したつもりだったが、離していなかったらしい。
「はい」
「痛いか」
「痛くはないです。握られてます」
「握られてる」
「はい」
犬飼さんはポケットに手を入れた。
出てきたのは、胃薬の箱だった。中から一包み取り出して、俺に差し出した。
「飲め」
「犬飼さんの薬ですよ」
「予備だ」
予備。
九月三日に、机の右奥で二つになっていたやつだ。あのとき犬飼さんは「一つは予備だ」と言った。予備が必要な薬というものについて、俺はあの日、しばらく考えた。
考えていた結論が、今、俺の手の上にある。
「水は」
「下の給水機です」
「持ってきてやる」
「大丈夫です」
俺は袋を破って、そのまま口に入れた。
粉だった。
◇
三十秒くらい、何も言えなかった。
粉薬というのは、水なしで飲むと口の中に貼り付く。上顎に張り付いて、舌で剥がすと今度は舌に付く。付いたところが、順番に苦くなっていく。
犬飼さんが、無言で紙コップを持ってきた。
突き当たりまで往復して、十五秒だった。この人は、走らずに速い。
俺は水を飲んだ。二杯目で、ようやく口の中が元に戻った。
「高町」
「はい」
「粉は水と一緒に飲むものだ」
「はい」
「知らなかったのか」
「うちの薬は、全部錠剤なので」
犬飼さんは、俺の顔を三秒見た。
それから、紙コップを潰して、ポケットに入れた。
◇
犬飼さんのスマホが鳴った。
画面を見て、犬飼さんは俺に背を向けてから出た。背を向けたが、廊下は静かなので、全部聞こえた。
「――はい。……いや、まだだ。押してる」
有本さんだと思う。喋る速さでわかる。
「……ああ。……今、十二番目あたりだ。……いや、飛ばされた。三回」
少し、間があった。
「有本。落ち着け」
「……」
「まだ入ってもいない」
「……」
「うちの新人が三回飛ばされたくらいで会社に電話するな」
犬飼さんは通話を切って、ポケットに入れた。
入れてから、こっちを向いた。
「事務所からだ」
「はい」
「何でもない」
「はい」
九月に入ってから、この人が「何でもない」と言うのは三回目である。
俺は廊下の壁にもたれた。
三階の電話が三台とも鳴っていた日から、まだ七日しか経っていない。七日で、この人たちは俺の番号が三回飛ばされたことを本社で共有している。
俺のほうは、その間、風呂で名前を三回言っただけである。
◇
五分後に、腹の握られている感じが、少し緩んだ。
薬が効いたのだと思う。効くのが早い気もするが、こういうものは早いほど良い。
俺は壁にもたれて、鞄からゼリー飲料を出した。
三つ入っている。青と、白と、緑。俺は白を選んだ。重いが、腹に何か入れておきたかった。
さっき、終わってから飲むと決めたばかりだった。
決定は、七分で覆った。
半分飲んで、キャップを閉めた。
「犬飼さん」
「なんだ」
「中に、何人いるんですか」
「五人だ」
俺は口を止めた。
「五人ですか」
「プロデューサーと、監督と、脚本の人と、キャスティングと、局の人。五人だと聞いてる」
「はい」
「ドアの向こうに五人並んでる。真ん中がいちばん偉いとは限らん」
五人。
俺は指を折った。
教室のときは、二十人だった。熊沢が拝んできて、周りが集まってきて、他のクラスからも人が入ってきて、二十人になった。
CMのスタジオのときは、三十人だった。あれは自分で数えた。カメラの後ろに六人、脚立が二人、壁際に十二人、モニターの前に六人。犬飼さんと有本さんと監督と、記録の人。
今日は、五人だ。
「五人?」
鞄の中から声がした。
(五人だ)
「少ないわね」
(少ないな)
「あんた、八人でも点いたじゃない。問題は数じゃないの。あの五人が、ちゃんと見るかどうかよ」
(知らん)
「知らないの?」
(知らん)
本当に知らない。
二十人のときは点いた。三十人のときも点いた。八人のときも点いた。美咲が一人のときは、点かなかった。だから数ではないらしい。
「あんた」
(なんだ)
「顔が真剣よ」
(いつもどおりだ)
「そうだったわ」
◇
「犬飼さん」
「なんだ」
「受かったら、どうなるんですか」
犬飼さんが、こっちを向いた。
向いたが、すぐには答えなかった。
「……気が早いな」
「はい」
「受かったら、来週から動く。衣装合わせがあって、本読みがあって、それから現場だ」
「ほんよみ」
「台本を、全員で声に出して読む日がある」
「わからないです」
「今はわからなくていい」
犬飼さんは廊下の先を見た。
「高町」
「はい」
「一つだけ言っておく。ここで受かったら、君は端役だ」
「はい」
「七行の役だ。台本の後ろのほうに名前が載る。誰も君を待っていない」
「はい」
「それでいいなら、入れ」
俺は頷いた。
誰も待っていないのは、たぶん、いいことだと思う。待たれると人は困る。俺は待たれるのが面倒くさい。
◇
待合室に戻った。
隣の席が、空いていた。
四十七回目の子が呼ばれたらしい。
俺は自分の席に座って、台本を膝に置いた。ドアの向こうから、また音の塊が聞こえてきた。低くなって、高くなって、途中で一度止まった。
止まったあとが、長かった。
膝の上の台本が、四十一ページ目で半分めくれていた。
◇
ドアが開いて、四十七回目の子が戻ってきた。
その子は自分の鞄を取って、俺の横を通った。
通るときに、一度だけ、こっちを見た。
今日はじめて、目が合った。
「がんばって」
それだけ言って、出ていった。
俺は「はい」と言った。言ってから、たぶん「ありがとうございます」のほうが正しかったと気づいた。
ドアが閉まった。
閉まったドアを、俺はしばらく見ていた。
あの子は四十七回目だった。今日は四十二回目の外れかもしれない。
それでも「がんばって」と言っていった。
俺は事務所の名前を言っただけである。
◇
(ミューナ)
「なによ」
(あんた、面接は受かったのか)
鞄の中が、少し静かになった。
「……二十いくつ受けて、一つも通らなかったの」
(じゃあ、参考にならないな)
「ならないわね」
俺は台本を持ち直した。
持ち直しながら、腹のことを考えた。握られていたのが取れたら、今度は減ってきた。
「でもね」
(なんだ)
「一つだけ、覚えときなさい」
声が、少しだけ低くなった。
「帰るとき、ドアを閉めたあとに、もう一度お辞儀をするの」
(誰も見てないだろ)
「見てるわよ。見てなくてもいいの。あんたは頭を下げなさい」
役に立つのか立たないのか、判断がつかなかった。
今日の中ではいちばんまともに聞こえた。それは認める。
◇
十五時三十五分。
待合室の椅子が、半分になった。
終わった人から順に帰っていくので、部屋はだんだん空いていく。
残っているのは七人だった。紙をめくる音が、七人ぶんになった。
七人が、四列のパイプ椅子に、ばらばらに座っている。前と後ろが離れている。誰も詰めない。
俺は自分の膝を見た。
膝の上の台本は、ずっと同じページで開いている。四十一ページ目だ。半分めくれかけたところが、そのままになっている。
直そうと思って、指を伸ばした。
伸ばして、やめた。
やめた理由は、直したところで、五分後にはまためくれるからである。
◇
十五時四十分。
ドアが開いた。
スーツの人が紙を見て、俺の番号を読んだ。
三回飛ばされたあとの、四回目だった。
俺は立ち上がった。立ち上がって、台本を持って、シールの端を指で押さえた。まだ浮いていた。
腹は、もう握られていなかった。
薬が効いている。それだけだ。
俺はドアのほうへ歩いた。
七歩だった。入ってきたときと同じ歩数である。
歩きながら、一つだけ思った。
――今から帰れば、夕飯に間に合う。
母さんは今日、鶏だと言っていた。鶏の日は、たいてい唐揚げか照り焼きのどちらかで、どちらでもうまい。十七時に電車に乗れば、十八時半には食卓に着ける。
間に合う。
間に合うが、帰らなかった。
理由は思いつかなかった。
スーツの人が、ドアを押さえて待っていた。
俺は台本を左手に持ち替えた。
持ち替えてから、シールの端をもう一度押さえた。
やっぱり、浮いていた。
ドアが、開いた。




