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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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31/194

第31話 待合室では誰も俺を見ない

 三時間目の途中で、俺は職員室に呼ばれた。


 宮坂先生が、机の上に紙を一枚置いた。


「高町」

「はい」

「早退届」

「はい」

「保護者の署名はもらってきたな」

「もらってきました」

「なら、いい」


 先生は判子を押した。押して、書類の山のいちばん上に載せた。


 それで終わりだった。


 俺は立っていた。話が終わったのかどうかは、いつもわからない。


「戻れ」

「はい」


 ドアに手をかけたところで、後ろから声がした。


「高町」

「はい」

「来週、漢字の小テストがある」

「はい」

「範囲は教科書の巻末だ」


 それだけだった。


 この人は、俺がテレビに映ろうが、オーディションに行こうが、たぶん同じ顔で巻末の話をする。おかげで俺の生活の中で、この職員室だけが一ミリも変わっていない。


   ◇


 教室に戻って、鞄を取った。


 誰も、こっちを見なかった。


 九月二日にあのCMが流れて、二日目には廊下で人が振り返って、三日目には知らない一年生が窓から覗いていた。それが今日はもう無い。


 人の噂も七十五日というが、高校生の集中力はもっと短い。前にも一度、同じことを思った。


「高町くん」


 美咲が黒板の前から呼んだ。日直の欄を書いている途中だった。


「今日、五時間目の数学、小テストの返却」

「はい」

「いないなら、私が預かっておく」

「頼む」

「点数は見るからね」

「見るな」

「職員室で見えた」


 早い。


 俺は鞄を肩にかけて、廊下に出た。出るときに一度だけ振り返ったが、誰も顔を上げていなかった。熊沢は寝ていた。


 それでいい。


   ◇


 校門の外に、黒い車が停まっていた。


 助手席の窓が開いて、犬飼さんが顎で後ろを指した。俺は後部座席に乗った。


 車の中は涼しかった。九月の十日で、まだ暑い。


「昼、食ったか」

「食ってないです」

「なんで」

「早退届を出しに行ってました」


 犬飼さんは何も言わずに、コンビニの袋を後ろに寄越した。


 中に、おにぎりが二つと、ゼリー飲料が三つ入っていた。青と、白と、緑だ。有本さんが詰めたやつだと、見ればわかる。あの人はいつも三種類とも入れる。俺が青から先に取ることは、たぶんまだ知らない。


 俺はおにぎりを食べた。


 食べながら、鞄の口を五センチだけ開けた。


(今日、豊洲だ)

「なにそれ」

(東京の東のほう)

「東京の東は、海よ」

(今は建物が建ってる)

「……埋め立てたの?」

(たぶん)


 ミューナは黙った。


 この人は、自分の知っている東京が無くなっている話になると、しばらく黙る。四十年で消えたものは、たぶん橋の数より多い。


「高町」


 犬飼さんが前を向いたまま言った。


「今日は、何人来る」

「知りません」

「二十人だそうだ」

「はい」

「そのうち、事務所の推薦で来てるのが半分。あとは公募だ」

「はい」

「二十人で、一つの役を取る」


 俺は計算をした。


 二十分の一である。


 くじを二十本引いて、当たりが一本しかないなら、それはかなり悪いくじだ。だが、ここでは一本当たればいいらしい。


 なんとなく、割のいい話に思えてきた。たぶん間違っている。


「犬飼さん」

「なんだ」

「オーディションって、何をするんですか」


 運転席の肩が、わずかに動いた。


「台本を読む」

「それだけですか」

「たぶん、名前と番号を言わされる。それから読む。読んだあとに、もう一回やらされることがある」

「二回やるんですか」

「言い方を変えて、もう一回やれと言われる。同じようにやったらダメだ」

「同じようにやったらダメなんですか」

「たぶんな」


 たぶんが多い。


 この人はいつも、知らないことを知らないと言う。俺が最初に会った日からそうだ。名刺を渡すとき、犬飼さんは「一度だけでいい」と言った。あれも、たぶんの言い方だった。


「犬飼さんは、行ったことないんですか」

「俺は受ける側じゃない」

「あ」

「廊下で待ってる側だ。十五年、ずっとそっちだ」


 十五年。


 俺は窓の外を見た。高速の防音壁が、途切れずに続いていた。


 鞄の中でミューナが言った。


「わたしの時代はね、オーディションなんて言わなかったのよ」

(じゃあ何て言ってたんだ)

「面接」

(そのままだな)

「そのままよ。着物を着ていく人もいたわ」

(着物)

「今は?」

(たぶん、いない)


 いないと思う。


 俺は自分の服を見た。白いシャツと、灰色のズボンだ。犬飼さんが「制服でいい」と言ったので、制服で来た。上着は車に置いていけとも言われた。理由は聞いていない。


   ◇


 みなとテレビの本社は、大きかった。


 全面がガラスで、上のほうが少し細くなっていて、車の窓から見上げると首が痛くなる。前の広場に噴水があって、水が出ていた。平日の昼過ぎなのに、人がやたら歩いている。


「犬飼さん」

「なんだ」

「あの噴水、誰が掃除するんですか」

「知らん」


 犬飼さんは前を向いたまま、ウインカーを出した。噴水の話は、それで終わった。


   ◇


 中に入ると、天井がやたら高かった。


 一階が全部、吹き抜けになっている。真ん中に案内板が立っていて、その周りを人が歩いていた。首から札を提げた人が多い。スーツの人もいるし、Tシャツの人もいるし、台車を押している人もいる。台車の上には、木の板みたいなものが積んであった。


 誰も、走っていなかった。


 テレビ局というのは、もっと全員が走っている場所だと思っていた。実際に見てみると、みんな普通に歩いている。ただ、歩く速度が、駅より少しだけ速い。


 壁に、大きい写真が並んでいた。


 番組の宣伝らしい。人が笑っている写真だ。全員が歯を見せて笑っていた。何本見せるかは決まっているんだろうか。


「高町」

「はい」

「見るな」

「はい」


 俺は見るのをやめた。


   ◇


 受付で名前を言った。


 女の人が名簿を確認して、シールを一枚くれた。丸いシールで、真ん中に数字が印刷してある。


「胸のあたりに貼ってください」

「はい」


 俺は貼った。


 貼ってから、ガラスに映った自分を見た。曲がっていた。


 剥がして、貼り直した。今度は高すぎた。


 剥がして、貼り直した。三回目で、粘着が弱くなった。端が浮いている。


 俺は指で押さえた。押さえたが、離すとまた浮いた。


「高町」

「はい」

「何をしている」

「シールが浮きます」

「浮いててもいい」

「はい」


 犬飼さんは先にエレベーターのボタンを押した。


 俺は指を離した。シールの端は、やっぱり浮いていた。


   ◇


 待合室は、同じ階の小会議室だった。


 ドアに紙が貼ってあって、〈オーディション 控室〉と印刷されている。その下に、もう一枚、手書きの紙があった。


 〈私語はご遠慮ください〉


 中に入った。


 パイプ椅子が、七脚ずつ、四列に並んでいた。四分の三ほどが埋まっている。


 静かだった。


 誰も喋っていない。窓は閉まっていて、エアコンの音だけがしている。人がこれだけいて、この静かさになる場所を、俺は他に知らない。図書室でももう少し音がする。


 全員が、膝の上に同じ台本を開いていた。


 同じ表紙だ。〈春待ちアパート 第一話〉。厚さも同じ。俺の鞄に入っているのと、一ページも違わないやつが、この部屋に二十冊近くある。


 紙をめくる音だけが、ときどきした。


   ◇


 俺は、いちばん後ろの列の端に座った。


 座って、台本を開いた。


 三十六ページ目に一行。四十一ページ目に二行。四十二ページ目に三行。五十ページ目に一行。合計七行。この四つのページには、もう指の跡が付いている。九月三日の夜から、七日ぶん開いたり閉じたりしているからだ。


 覚えている。


 覚えているだけなら、九月四日の朝には終わっていた。


 俺は台本を膝に置いて、部屋を見た。


 斜め前の子が、声を出さずに口だけを動かしていた。台詞をさらっているらしい。唇の形だけが動いて、音は一切出ていない。器用な人だと思った。俺がやったら、たぶん息の音が出る。


 その隣の子は、目を閉じて座っていた。眠っているわけではないと思う。背筋が伸びている。


 いちばん前の列の子は、手のひらで自分の頬を押していた。上に押し上げて、また下ろして、また押し上げる。


 顔を、ほぐしているらしい。


   ◇


 俺は、真似をしてみた。


 右の頬に手のひらを当てた。押した。離した。もう一度押した。


 何も起きなかった。


 三回目で、やめた。


   ◇


 隣の席に、人が座った。


 俺と同じくらいの背丈の子で、髪を短く切っていて、台本の角がぼろぼろになっていた。開いたページに、赤と青で線が引いてある。線の上に、さらに小さい字で何か書いてある。


 その子は、台本を見たまま、小さい声で言った。


「事務所どこ」

「ソレイユです」

「へえ」


 台本から目は上がらなかった。


「うち、クロスロード」

「はい」

「ソレイユって、あの、神楽坂澪の」

「はい」

「じゃあ強いね」


 強いのか。


 俺は事務所が強いとか弱いとか考えたことがなかった。うちの事務所について俺が知っているのは、二階の床板が鳴ることと、社長が真夏でもセーターを着ていることくらいである。


「そっちは、何本目」

「何本目、というのは」

「オーディション。何回目」

「一回目です」


 そこで、その子の指が止まった。


 止まったが、顔は上げなかった。


「……一回目」

「はい」

「俺、四十七回目」


 四十七。


 俺は、その数字をしばらく持っていた。


「受かったのは」

「六回」

「多いですか」

「少ない」


 その子はページをめくった。めくって、赤い線の引いてあるところを指でなぞった。


「六歳から出てるけど、去年は一本もなかった」


 それだけ言って、その子は口を閉じた。


 閉じてから、また声を出さずに唇だけを動かしはじめた。さっき斜め前の子がやっていたのと、同じやり方だった。


 俺は台本を膝に置いたまま、その横顔を見ていた。


 この子は、俺と一度も目を合わせていない。


 合わせないまま、四十七回目の話をした。


   ◇


 誰も、俺を見ていなかった。


 俺は入口から自分の席まで七歩歩いたが、その七歩のあいだに顔を上げた人間は一人もいなかった。全員が自分の台本を見ていた。


 当然だ。ここにいる二十人は、全員が競争相手である。他人を見ている時間があったら自分の四十一ページ目を見る。


 俺は、台本の三十六ページ目を開いた。


 小さい声で、一行目を言ってみた。


 息の音のほうが大きかった。


 言い終わったあと、自分でわかった。下手だ。今日の中でいちばん下手ということはない。なぜなら、今日はこれが一回目だからだ。


 部屋の音は、遠のかなかった。


 輪郭は、ぼやけたままだった。エアコンの吹き出し口も、隣の椅子の脚のゴムも、全部ふつうにぼやけていた。


 背筋は、丸まっていた。丸まっているほうが楽だった。


   ◇


 俺は台本を閉じて、膝の上に置いた。


 置いて、動かなくなった。


 ドアの脇に立っている係の人が、名簿を抱えたまま、隣のスーツの人に小声で言った。


「後ろの子、ずっと動かないね」


 俺は眠気と戦っていた。おにぎり二個が効いていた。おにぎりというのは移動中に食べると必ず効く。車の揺れと米は相性がいい。


 斜め前の子が、俺のほうを一度だけ見た。


 見て、また台本に戻った。


 三秒後に、もう一度見た。


 二度目のときに、その子は少し眉を寄せた。どこかで見た顔だが思い出せない、という寄せ方だった。それから、思い出すのをやめて、台本に戻った。


 俺はほっとした。


 ほっとした理由は、思い出されたら面倒だから、というだけである。面倒は少ないほうがいい。


   ◇


 十四時になった。


 スーツの人がドアを開けて、番号を読み上げた。


 いちばん前の列の子が立ち上がって、台本を持って出ていった。ドアが閉まった。


 部屋の静かさが、一段濃くなった。


 十分くらい経って、ドアが開いた。その子が戻ってきて、荷物をまとめて、そのまま出ていった。誰とも目を合わせなかった。


 次の番号が呼ばれた。


   ◇


 三人目が入ったとき、ドア越しに音の塊が届いた。


 厚いドアなので、言葉としては聞き取れない。低くなったり高くなったりする音が、壁を通って届いてくるだけだ。


(今の、どうだ)

「上手いわよ」


 わからなかった。俺には全部、同じ大きさの音に聞こえる。


 部屋の中の全員が、ドアのほうを見ていた。


 俺もドアを見た。


   ◇


 途中で一度、廊下に出た。


 水を飲みに行くつもりだった。給水機が突き当たりにあると、受付で聞いていた。


 廊下に出て、右を見たら、犬飼さんが立っていた。


 壁際に、まっすぐ立っていた。椅子が三脚並んでいるのに、座っていない。手にスマホを持っているが、画面は点いていない。


 俺に気づいて、犬飼さんはスマホをポケットに入れた。入れる途中で、別のものが指に引っかかって出てきた。


 胃薬の箱だった。


「どうした」

「水を飲みに来ました」

「そっちだ」


 犬飼さんは突き当たりを指した。俺は水を飲んだ。紙コップが小さくて、二杯飲んだ。


 戻ってくると、犬飼さんはまだ同じ場所に立っていた。


「犬飼さん」

「なんだ」

「座らないんですか」

「座ると、腹が痛くなる」


 初めて聞く理屈だった。


「押してるらしいです」

「聞いてる」

「まだ六番目です」

「聞いてる」


 犬飼さんは廊下の先を見ていた。


 その先には何もない。窓があって、外にビルが見えるだけである。


「高町」

「はい」

「二十人で一人だ。落ちるほうが普通だぞ」

「はい」


 そう言われながら俺が考えていたのは、紙コップの底が二重になっている理由についてである。あれは水が漏れないようにするための構造だと思うが、だとすると、なぜ縁のほうまで二重になっているのか。


 だが、そういうことを言う場面ではない気がした。


 俺は「はい」と言って、待合室に戻った。


 ドアを閉めるとき、犬飼さんはまだ立っていた。


   ◇


 十四時四十分になった。


 まだ、六番目だった。


 スーツの人がドアを開けて、こう言った。


「大変申し訳ありません。少々押しております」


 誰も何も言わなかった。


 だが、部屋の空気が動いた。台本をめくる音が、一斉に増えた。それまで一人ずつばらばらに鳴っていた音が、急に重なった。


 俺は膝の上の台本を見た。


 押している。押しているというのは、待ち時間が伸びるということだ。待ち時間が伸びると何が起きるか。俺は今日、朝から何も予定を入れていない。今日は火曜で、そもそもレッスンが無い。だから何も困らない。


   ◇


 十五時になった。


 九番目が呼ばれた。俺の前の番号だった。


 俺は椅子から少しだけ腰を浮かせた。台本を持ち直して、シールの端を押さえて、ドアのほうを見た。


 次だ。


 九番目が出てきた。


 スーツの人が、紙を見た。


 それから、俺の番号を飛ばして、別の番号を読んだ。


 部屋の後ろのほうで、誰かが立ち上がった。俺の二つ後ろの番号の子だった。その子が台本を持って、俺の横を通って、ドアの向こうへ消えた。


 俺は腰を下ろした。


   ◇


 鞄の中で、ミューナが小さく言った。


「……順番って、番号どおりじゃないの?」


(じゃないらしい)


「なんでよ」


(知らん)


 知らないので、考えた。


 考えて、いくつか思いついた。一つ、事務所の推薦と公募で分けている。二つ、前の人が長引いたので短く済みそうな人を先に入れた。三つ、単に紙の並びが番号順ではない。


 三つ目が、いちばんありそうだった。


 世の中の順番の大半は、深い理由で決まっていない。日直の順番も、体育の点呼の順番も、うちの家でカレーを食う順番も、全部そうだ。


 俺は膝の上の台本を見た。


 隣の子が、四十一ページ目を開いていた。指が、赤い線の上で止まっている。さっきより、線を長くなぞっていた。


   ◇


 十五時十分になった。


 俺の番号は、まだ呼ばれなかった。


 その次も、俺ではなかった。


 三度目に飛ばされたとき、部屋の中の空気が少しだけ動いた。誰かが俺のほうを見た気がしたが、確認しなかった。首を回すと、シールがまた浮く。


 俺は椅子の背にもたれた。


 もたれて、天井を見た。四角い板が並んでいて、その一枚に、小さいシミがあった。


 俺は自分の腹のあたりに手を当てた。


 みぞおちの少し下が、きゅっとなっていた。


 握られている、という感じだった。誰かが内側から布を掴んで、少しだけ絞っている。痛いというほどではない。だが、確実に、さっきまでは無かった。


 俺は、その位置を指で押してみた。


 押しても、変わらなかった。


 今日食べたものを思い出してみたが、腹を握るような心当たりは無かった。


 俺は台本を持ち直した。


「あんた」


 鞄の中から声がした。


「顔、いつもどおりよ」


 知っている。


 握られているのは顔じゃない。エアコンだ、たぶん。


   ◇


 そのあと、ドアが一度だけ開いた。


 番号は呼ばれなかった。開いた隙間から、廊下が少しだけ見えた。


 犬飼さんは、さっきと同じ場所に立っていた。


 立ったまま、ポケットから胃薬の箱を出して、しまった。少ししてから、もう一度出して、もう一度しまった。


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