第31話 待合室では誰も俺を見ない
三時間目の途中で、俺は職員室に呼ばれた。
宮坂先生が、机の上に紙を一枚置いた。
「高町」
「はい」
「早退届」
「はい」
「保護者の署名はもらってきたな」
「もらってきました」
「なら、いい」
先生は判子を押した。押して、書類の山のいちばん上に載せた。
それで終わりだった。
俺は立っていた。話が終わったのかどうかは、いつもわからない。
「戻れ」
「はい」
ドアに手をかけたところで、後ろから声がした。
「高町」
「はい」
「来週、漢字の小テストがある」
「はい」
「範囲は教科書の巻末だ」
それだけだった。
この人は、俺がテレビに映ろうが、オーディションに行こうが、たぶん同じ顔で巻末の話をする。おかげで俺の生活の中で、この職員室だけが一ミリも変わっていない。
◇
教室に戻って、鞄を取った。
誰も、こっちを見なかった。
九月二日にあのCMが流れて、二日目には廊下で人が振り返って、三日目には知らない一年生が窓から覗いていた。それが今日はもう無い。
人の噂も七十五日というが、高校生の集中力はもっと短い。前にも一度、同じことを思った。
「高町くん」
美咲が黒板の前から呼んだ。日直の欄を書いている途中だった。
「今日、五時間目の数学、小テストの返却」
「はい」
「いないなら、私が預かっておく」
「頼む」
「点数は見るからね」
「見るな」
「職員室で見えた」
早い。
俺は鞄を肩にかけて、廊下に出た。出るときに一度だけ振り返ったが、誰も顔を上げていなかった。熊沢は寝ていた。
それでいい。
◇
校門の外に、黒い車が停まっていた。
助手席の窓が開いて、犬飼さんが顎で後ろを指した。俺は後部座席に乗った。
車の中は涼しかった。九月の十日で、まだ暑い。
「昼、食ったか」
「食ってないです」
「なんで」
「早退届を出しに行ってました」
犬飼さんは何も言わずに、コンビニの袋を後ろに寄越した。
中に、おにぎりが二つと、ゼリー飲料が三つ入っていた。青と、白と、緑だ。有本さんが詰めたやつだと、見ればわかる。あの人はいつも三種類とも入れる。俺が青から先に取ることは、たぶんまだ知らない。
俺はおにぎりを食べた。
食べながら、鞄の口を五センチだけ開けた。
(今日、豊洲だ)
「なにそれ」
(東京の東のほう)
「東京の東は、海よ」
(今は建物が建ってる)
「……埋め立てたの?」
(たぶん)
ミューナは黙った。
この人は、自分の知っている東京が無くなっている話になると、しばらく黙る。四十年で消えたものは、たぶん橋の数より多い。
「高町」
犬飼さんが前を向いたまま言った。
「今日は、何人来る」
「知りません」
「二十人だそうだ」
「はい」
「そのうち、事務所の推薦で来てるのが半分。あとは公募だ」
「はい」
「二十人で、一つの役を取る」
俺は計算をした。
二十分の一である。
くじを二十本引いて、当たりが一本しかないなら、それはかなり悪いくじだ。だが、ここでは一本当たればいいらしい。
なんとなく、割のいい話に思えてきた。たぶん間違っている。
「犬飼さん」
「なんだ」
「オーディションって、何をするんですか」
運転席の肩が、わずかに動いた。
「台本を読む」
「それだけですか」
「たぶん、名前と番号を言わされる。それから読む。読んだあとに、もう一回やらされることがある」
「二回やるんですか」
「言い方を変えて、もう一回やれと言われる。同じようにやったらダメだ」
「同じようにやったらダメなんですか」
「たぶんな」
たぶんが多い。
この人はいつも、知らないことを知らないと言う。俺が最初に会った日からそうだ。名刺を渡すとき、犬飼さんは「一度だけでいい」と言った。あれも、たぶんの言い方だった。
「犬飼さんは、行ったことないんですか」
「俺は受ける側じゃない」
「あ」
「廊下で待ってる側だ。十五年、ずっとそっちだ」
十五年。
俺は窓の外を見た。高速の防音壁が、途切れずに続いていた。
鞄の中でミューナが言った。
「わたしの時代はね、オーディションなんて言わなかったのよ」
(じゃあ何て言ってたんだ)
「面接」
(そのままだな)
「そのままよ。着物を着ていく人もいたわ」
(着物)
「今は?」
(たぶん、いない)
いないと思う。
俺は自分の服を見た。白いシャツと、灰色のズボンだ。犬飼さんが「制服でいい」と言ったので、制服で来た。上着は車に置いていけとも言われた。理由は聞いていない。
◇
みなとテレビの本社は、大きかった。
全面がガラスで、上のほうが少し細くなっていて、車の窓から見上げると首が痛くなる。前の広場に噴水があって、水が出ていた。平日の昼過ぎなのに、人がやたら歩いている。
「犬飼さん」
「なんだ」
「あの噴水、誰が掃除するんですか」
「知らん」
犬飼さんは前を向いたまま、ウインカーを出した。噴水の話は、それで終わった。
◇
中に入ると、天井がやたら高かった。
一階が全部、吹き抜けになっている。真ん中に案内板が立っていて、その周りを人が歩いていた。首から札を提げた人が多い。スーツの人もいるし、Tシャツの人もいるし、台車を押している人もいる。台車の上には、木の板みたいなものが積んであった。
誰も、走っていなかった。
テレビ局というのは、もっと全員が走っている場所だと思っていた。実際に見てみると、みんな普通に歩いている。ただ、歩く速度が、駅より少しだけ速い。
壁に、大きい写真が並んでいた。
番組の宣伝らしい。人が笑っている写真だ。全員が歯を見せて笑っていた。何本見せるかは決まっているんだろうか。
「高町」
「はい」
「見るな」
「はい」
俺は見るのをやめた。
◇
受付で名前を言った。
女の人が名簿を確認して、シールを一枚くれた。丸いシールで、真ん中に数字が印刷してある。
「胸のあたりに貼ってください」
「はい」
俺は貼った。
貼ってから、ガラスに映った自分を見た。曲がっていた。
剥がして、貼り直した。今度は高すぎた。
剥がして、貼り直した。三回目で、粘着が弱くなった。端が浮いている。
俺は指で押さえた。押さえたが、離すとまた浮いた。
「高町」
「はい」
「何をしている」
「シールが浮きます」
「浮いててもいい」
「はい」
犬飼さんは先にエレベーターのボタンを押した。
俺は指を離した。シールの端は、やっぱり浮いていた。
◇
待合室は、同じ階の小会議室だった。
ドアに紙が貼ってあって、〈オーディション 控室〉と印刷されている。その下に、もう一枚、手書きの紙があった。
〈私語はご遠慮ください〉
中に入った。
パイプ椅子が、七脚ずつ、四列に並んでいた。四分の三ほどが埋まっている。
静かだった。
誰も喋っていない。窓は閉まっていて、エアコンの音だけがしている。人がこれだけいて、この静かさになる場所を、俺は他に知らない。図書室でももう少し音がする。
全員が、膝の上に同じ台本を開いていた。
同じ表紙だ。〈春待ちアパート 第一話〉。厚さも同じ。俺の鞄に入っているのと、一ページも違わないやつが、この部屋に二十冊近くある。
紙をめくる音だけが、ときどきした。
◇
俺は、いちばん後ろの列の端に座った。
座って、台本を開いた。
三十六ページ目に一行。四十一ページ目に二行。四十二ページ目に三行。五十ページ目に一行。合計七行。この四つのページには、もう指の跡が付いている。九月三日の夜から、七日ぶん開いたり閉じたりしているからだ。
覚えている。
覚えているだけなら、九月四日の朝には終わっていた。
俺は台本を膝に置いて、部屋を見た。
斜め前の子が、声を出さずに口だけを動かしていた。台詞をさらっているらしい。唇の形だけが動いて、音は一切出ていない。器用な人だと思った。俺がやったら、たぶん息の音が出る。
その隣の子は、目を閉じて座っていた。眠っているわけではないと思う。背筋が伸びている。
いちばん前の列の子は、手のひらで自分の頬を押していた。上に押し上げて、また下ろして、また押し上げる。
顔を、ほぐしているらしい。
◇
俺は、真似をしてみた。
右の頬に手のひらを当てた。押した。離した。もう一度押した。
何も起きなかった。
三回目で、やめた。
◇
隣の席に、人が座った。
俺と同じくらいの背丈の子で、髪を短く切っていて、台本の角がぼろぼろになっていた。開いたページに、赤と青で線が引いてある。線の上に、さらに小さい字で何か書いてある。
その子は、台本を見たまま、小さい声で言った。
「事務所どこ」
「ソレイユです」
「へえ」
台本から目は上がらなかった。
「うち、クロスロード」
「はい」
「ソレイユって、あの、神楽坂澪の」
「はい」
「じゃあ強いね」
強いのか。
俺は事務所が強いとか弱いとか考えたことがなかった。うちの事務所について俺が知っているのは、二階の床板が鳴ることと、社長が真夏でもセーターを着ていることくらいである。
「そっちは、何本目」
「何本目、というのは」
「オーディション。何回目」
「一回目です」
そこで、その子の指が止まった。
止まったが、顔は上げなかった。
「……一回目」
「はい」
「俺、四十七回目」
四十七。
俺は、その数字をしばらく持っていた。
「受かったのは」
「六回」
「多いですか」
「少ない」
その子はページをめくった。めくって、赤い線の引いてあるところを指でなぞった。
「六歳から出てるけど、去年は一本もなかった」
それだけ言って、その子は口を閉じた。
閉じてから、また声を出さずに唇だけを動かしはじめた。さっき斜め前の子がやっていたのと、同じやり方だった。
俺は台本を膝に置いたまま、その横顔を見ていた。
この子は、俺と一度も目を合わせていない。
合わせないまま、四十七回目の話をした。
◇
誰も、俺を見ていなかった。
俺は入口から自分の席まで七歩歩いたが、その七歩のあいだに顔を上げた人間は一人もいなかった。全員が自分の台本を見ていた。
当然だ。ここにいる二十人は、全員が競争相手である。他人を見ている時間があったら自分の四十一ページ目を見る。
俺は、台本の三十六ページ目を開いた。
小さい声で、一行目を言ってみた。
息の音のほうが大きかった。
言い終わったあと、自分でわかった。下手だ。今日の中でいちばん下手ということはない。なぜなら、今日はこれが一回目だからだ。
部屋の音は、遠のかなかった。
輪郭は、ぼやけたままだった。エアコンの吹き出し口も、隣の椅子の脚のゴムも、全部ふつうにぼやけていた。
背筋は、丸まっていた。丸まっているほうが楽だった。
◇
俺は台本を閉じて、膝の上に置いた。
置いて、動かなくなった。
ドアの脇に立っている係の人が、名簿を抱えたまま、隣のスーツの人に小声で言った。
「後ろの子、ずっと動かないね」
俺は眠気と戦っていた。おにぎり二個が効いていた。おにぎりというのは移動中に食べると必ず効く。車の揺れと米は相性がいい。
斜め前の子が、俺のほうを一度だけ見た。
見て、また台本に戻った。
三秒後に、もう一度見た。
二度目のときに、その子は少し眉を寄せた。どこかで見た顔だが思い出せない、という寄せ方だった。それから、思い出すのをやめて、台本に戻った。
俺はほっとした。
ほっとした理由は、思い出されたら面倒だから、というだけである。面倒は少ないほうがいい。
◇
十四時になった。
スーツの人がドアを開けて、番号を読み上げた。
いちばん前の列の子が立ち上がって、台本を持って出ていった。ドアが閉まった。
部屋の静かさが、一段濃くなった。
十分くらい経って、ドアが開いた。その子が戻ってきて、荷物をまとめて、そのまま出ていった。誰とも目を合わせなかった。
次の番号が呼ばれた。
◇
三人目が入ったとき、ドア越しに音の塊が届いた。
厚いドアなので、言葉としては聞き取れない。低くなったり高くなったりする音が、壁を通って届いてくるだけだ。
(今の、どうだ)
「上手いわよ」
わからなかった。俺には全部、同じ大きさの音に聞こえる。
部屋の中の全員が、ドアのほうを見ていた。
俺もドアを見た。
◇
途中で一度、廊下に出た。
水を飲みに行くつもりだった。給水機が突き当たりにあると、受付で聞いていた。
廊下に出て、右を見たら、犬飼さんが立っていた。
壁際に、まっすぐ立っていた。椅子が三脚並んでいるのに、座っていない。手にスマホを持っているが、画面は点いていない。
俺に気づいて、犬飼さんはスマホをポケットに入れた。入れる途中で、別のものが指に引っかかって出てきた。
胃薬の箱だった。
「どうした」
「水を飲みに来ました」
「そっちだ」
犬飼さんは突き当たりを指した。俺は水を飲んだ。紙コップが小さくて、二杯飲んだ。
戻ってくると、犬飼さんはまだ同じ場所に立っていた。
「犬飼さん」
「なんだ」
「座らないんですか」
「座ると、腹が痛くなる」
初めて聞く理屈だった。
「押してるらしいです」
「聞いてる」
「まだ六番目です」
「聞いてる」
犬飼さんは廊下の先を見ていた。
その先には何もない。窓があって、外にビルが見えるだけである。
「高町」
「はい」
「二十人で一人だ。落ちるほうが普通だぞ」
「はい」
そう言われながら俺が考えていたのは、紙コップの底が二重になっている理由についてである。あれは水が漏れないようにするための構造だと思うが、だとすると、なぜ縁のほうまで二重になっているのか。
だが、そういうことを言う場面ではない気がした。
俺は「はい」と言って、待合室に戻った。
ドアを閉めるとき、犬飼さんはまだ立っていた。
◇
十四時四十分になった。
まだ、六番目だった。
スーツの人がドアを開けて、こう言った。
「大変申し訳ありません。少々押しております」
誰も何も言わなかった。
だが、部屋の空気が動いた。台本をめくる音が、一斉に増えた。それまで一人ずつばらばらに鳴っていた音が、急に重なった。
俺は膝の上の台本を見た。
押している。押しているというのは、待ち時間が伸びるということだ。待ち時間が伸びると何が起きるか。俺は今日、朝から何も予定を入れていない。今日は火曜で、そもそもレッスンが無い。だから何も困らない。
◇
十五時になった。
九番目が呼ばれた。俺の前の番号だった。
俺は椅子から少しだけ腰を浮かせた。台本を持ち直して、シールの端を押さえて、ドアのほうを見た。
次だ。
九番目が出てきた。
スーツの人が、紙を見た。
それから、俺の番号を飛ばして、別の番号を読んだ。
部屋の後ろのほうで、誰かが立ち上がった。俺の二つ後ろの番号の子だった。その子が台本を持って、俺の横を通って、ドアの向こうへ消えた。
俺は腰を下ろした。
◇
鞄の中で、ミューナが小さく言った。
「……順番って、番号どおりじゃないの?」
(じゃないらしい)
「なんでよ」
(知らん)
知らないので、考えた。
考えて、いくつか思いついた。一つ、事務所の推薦と公募で分けている。二つ、前の人が長引いたので短く済みそうな人を先に入れた。三つ、単に紙の並びが番号順ではない。
三つ目が、いちばんありそうだった。
世の中の順番の大半は、深い理由で決まっていない。日直の順番も、体育の点呼の順番も、うちの家でカレーを食う順番も、全部そうだ。
俺は膝の上の台本を見た。
隣の子が、四十一ページ目を開いていた。指が、赤い線の上で止まっている。さっきより、線を長くなぞっていた。
◇
十五時十分になった。
俺の番号は、まだ呼ばれなかった。
その次も、俺ではなかった。
三度目に飛ばされたとき、部屋の中の空気が少しだけ動いた。誰かが俺のほうを見た気がしたが、確認しなかった。首を回すと、シールがまた浮く。
俺は椅子の背にもたれた。
もたれて、天井を見た。四角い板が並んでいて、その一枚に、小さいシミがあった。
俺は自分の腹のあたりに手を当てた。
みぞおちの少し下が、きゅっとなっていた。
握られている、という感じだった。誰かが内側から布を掴んで、少しだけ絞っている。痛いというほどではない。だが、確実に、さっきまでは無かった。
俺は、その位置を指で押してみた。
押しても、変わらなかった。
今日食べたものを思い出してみたが、腹を握るような心当たりは無かった。
俺は台本を持ち直した。
「あんた」
鞄の中から声がした。
「顔、いつもどおりよ」
知っている。
握られているのは顔じゃない。エアコンだ、たぶん。
◇
そのあと、ドアが一度だけ開いた。
番号は呼ばれなかった。開いた隙間から、廊下が少しだけ見えた。
犬飼さんは、さっきと同じ場所に立っていた。
立ったまま、ポケットから胃薬の箱を出して、しまった。少ししてから、もう一度出して、もう一度しまった。




