第30話 七行、覚えるだけなら簡単だ
自動ドアをくぐった瞬間、受付の人が立ち上がった。
三か月通っているが、この人が立ち上がったのを見たのは初めてだった。いつもは座ったまま「おつかれさまです」と言う。今日は立って言った。
「高町くん、おつかれさまです」
「……おつかれさまです」
俺は頭を下げた。
下げながら、ロビーの自販機を見た。右がブラックで、左が微糖だ。いつも通り左を押そうとして、財布を出すのが少し面倒になって、やめた。
――何かが違う。
何が違うのかは、まだわからなかった。
◇
階段を上がった。
二階の廊下で、三人とすれ違った。
全員が、こっちを見た。
見ただけではない。歩く速度が落ちて、顔がこっちを向いて、視線が俺の顔の上で止まった。三人とも、俺の知らない人だった。宣伝部か、経理か、たぶんそのへんの人だ。
そのとき、廊下の音が遠のいた。
輪郭がはっきりした。窓ガラスの下のほうに、拭き残しが一筋あるのが見えた。蛍光灯が一本だけ、わずかに点滅しているのが見えた。
背筋が、伸びた。
三人が通り過ぎた。
三歩で、元に戻った。
――今の、なんだ。
俺は階段の踊り場で足を止めた。
事務所の廊下で点いたことは、今まで一度もない。ここは俺が毎週ストレッチで最下位になっている場所で、発声で講師に笑われている場所で、笑顔の練習に全滅した場所である。
誰も俺を、期待して見たりしない。
昨日までは。
◇
三階のマネジメント部は、うるさかった。
電話が三台、同時に鳴っていた。
「――はい、ソレイユです。……はい、高町の件ですね」
「――はい、ソレイユです。高町の件でしたら、一度お伺いを――」
「――申し訳ありません、まだそちらは何も」
有本さんが、受話器を持ったまま俺に気づいて、空いているほうの手をぶんぶん振った。振りながら喋っていた。
「――はい、ええ、ええ、そちらは書面で――高町さんおはよう!――はい、ええ、失礼いたします」
器用な人である。
犬飼さんは自分の席にいた。窓際から二番目。俺はその前に立った。
机の右奥を見た。
胃薬の箱が、二つになっていた。
昨日までは一つだった。三か月ずっと一つだった。
「犬飼さん」
「なんだ」
「箱、増えてます」
「増えてない」
「二つあります」
「一つは予備だ」
予備。
俺は無表情のまま、その二つの箱を見た。
傍から見れば、上司の机をぼんやり眺めている新人である。
実際に考えていたのは、予備が必要になる薬というものについてだった。うちには常備薬が三つある。全部一箱ずつだ。予備があるのは電池と米だけである。
◇
壁のホワイトボードに、新しい枠ができていた。
いちばん右の列に、俺の名前があった。
〈高町〉
その下に、数字が書いてある。
問い合わせ 十七件。
昨日の夕方から、今日の昼までの数字らしい。
「これ、多いんですか」
「多い」
「どれくらい」
「うちの新人で、一日で二桁行ったのは、高町が二人目だ」
「一人目は」
犬飼さんは、顎で天井のほうを指した。
五階だ。いや、その先だ。
「神楽坂だ」
「……はい」
「あれは、デビュー直後に三十七件だったがな」
二倍以上ある。
俺は少し安心した。安心する理由は特にないのだが、上に人がいるというのは、なんとなく安心する。
◇
五階に上がった。
社長室は無駄に広い。壁の一面に、過去の所属タレントのポスターが貼ってある。何十枚もある。中には俺の知らない時代のものもあって、色が全部黄色っぽくなっていた。
白鳥社長は、応接のソファに座っていた。真夏でもセーターを着ている人である。
テーブルに和菓子が出ていた。今日は羊羹だった。
「まあ、座りなさい」
「はい」
「食べなさい」
「はい」
俺は羊羹を食べた。
うまかった。
社長は俺が食べ終わるまで、何も言わずに待っていた。それから、丸眼鏡を少し上げた。
「昨日から、うちの電話が鳴りっぱなしでね」
「すみません」
「謝ることじゃない」
社長は湯呑みを持ち上げた。
「君に一つだけ言っておく」
「はい」
「うちは、数を撮らない」
「はい」
「来た話を全部受けると、二年で終わる。だから断る。たくさん断る。君が断られたと思う日もあるだろう」
俺は頷いた。
「だが、断ってるのは君じゃない。仕事のほうだ」
社長は、そこで言葉を切った。
切って、こう続けた。
「一本、受けることにした」
俺は湯呑みを持ったまま、社長を見た。
「十七件のうち、一本ですか」
「一本だ」
「残りは」
「断った」
断った、と言うときの社長の声は、羊羹を勧めたときとまったく同じ温度だった。
この人は判断が速い。五月に俺を三十秒で採ったときも、たぶん同じ顔をしていた。
「どれを受けたか、犬飼から聞きなさい」
「はい」
「今日中に台本が届く」
「はい」
「では」
社長は湯呑みを置いて、立ち上がった。
会話が、また終わった。
俺は羊羹の皿を持ったまま、しばらくソファに座っていた。
――今、俺の人生が一本決まった。
決まったのだが、何が決まったのかは、まだ何も知らない。
◇
三階に戻ると、有本さんが電話を置いたところだった。
置いた瞬間に、また鳴った。有本さんは受話器を持ち上げて、そのまま置いた。
「切ったんですか」
「五秒待ってから出るの。呼吸を整えるため」
「はあ」
有本さんはタブレットを開いて、俺に画面を向けた。
表があった。左に会社名、右に内容が並んでいる。
「昨日から来てるやつ、全部ここ」
「多いですね」
「多いよ。えーとね、情報番組の街頭インタビュー、これは断り。雑誌のインタビュー、断り。ファッション誌のモデル、断り。あと、これ」
有本さんが指した行に、こう書いてあった。
〈CM出演者への突撃取材の可否〉
「これは何ですか」
「学校の前で待ち伏せしていいですか、って聞いてきてるの」
「昨日、いました」
「いたでしょ。断ったのに来たの」
有本さんは、そこだけ声のトーンを落とした。
「高町さん、しばらく、校門で足を止めないでね」
「はい」
「あと、話しかけられても答えないで」
「はい」
「返事は『すみません』だけでいいから」
俺は頷いた。
断られている仕事の数が、受けた仕事の十六倍ある。その十六倍を全部、この人たちが電話で処理している。俺は羊羹を食べていた。
◇
屋上に上がった。
犬飼さんがいた。ベンチに座って、水のペットボトルで胃薬を飲んでいた。
九月のはじめの夕方で、まだ暑い。フェンスの向こうにビルが並んでいて、その隙間の空が、少しだけオレンジになっていた。
「箱、二つですね」
「うるさい」
犬飼さんはペットボトルの蓋を閉めた。
「高町」
「はい」
「昨日、一位だったことについて、どう思ってる」
俺は少し考えた。
考えて、正直に言った。
「一時間目に腹が減りました」
「腹」
「二時間目のあとに弁当を食べました。十時です」
犬飼さんは、俺の顔を三秒見た。
それから、少しだけ息を吐いた。笑ったのかもしれないし、ため息だったのかもしれない。この人の場合、両方が同じ音になる。
「そうか」
「はい」
「……そのままでいてくれ」
犬飼さんはフェンスのほうを向いた。背中がまっすぐだった。
「昔な、担当してた子がいてな」
「はい」
犬飼さんは、そこで止まった。
言葉を選ぶときに黙る人である。俺の沈黙は言うことが出てこないだけだが、この人の沈黙には中身がある。
十秒くらい待った。
「……いや。なんでもない」
犬飼さんはベンチから立ち上がった。
「今日は帰れ。明日レッスンだ」
「はい」
「一位だろうが何だろうが、高町は明日もストレッチで最下位だからな」
「はい」
これは事実である。
俺は柔軟性に関しては、この事務所で下から二番目だ。一番下は、四十四歳の営業部長である。
◇
屋上から下りたところで、鴻上に捕まった。
「高町ィ!」
廊下の端から走ってきた。
「見た! 昨日!」
「うん」
「二秒だろ!」
「二秒だ」
「お前、二秒であんなことする?」
鴻上は俺の肩を掴んで、また前後に揺すった。首が振られた。この男の喜び方は、全部同じである。
「うちのオカンが泣いてたぞ」
「なんで」
「知らん」
知らんのか。
鴻上の後ろから、神保が歩いてきた。
「高町くん、おめでとう」
「ありがとう」
「すごかったよ、本当に。あの間、練習してもなかなか出せないと思う」
神保は笑っていた。
笑ったまま、少しだけ声のトーンが落ちた。
「……どれくらい練習したの?」
俺は答えられなかった。
答えは「ゼロ回」である。俺は現場で初めてあのセリフを声に出した。テストの一回目が、人生で一回目だった。
言えば嘘に聞こえる。言わなくても嘘に聞こえる。
「……あんまり、してない」
「そっか」
神保は頷いた。
頷いてから、「じゃあ、レッスン行ってくる」と言って、階段を下りていった。姿勢が良かった。この男の背筋は、誰も見ていなくても伸びている。
俺の背筋は、点かないと伸びない。
鴻上が、その背中を見ていた。
「亮、今日ボイトレ入ってないぞ」
「え」
「自主練だ」
鴻上はそう言って、頭の後ろで手を組んだ。
「あいつ、たまにやるんだよ」
◇
二階の廊下を通ったとき、レッスン室Aのドアが半分開いていた。
中から音がした。
入口から三枚目の床板が鳴る音だ。この部屋の三枚目だけが、踏むと必ず鳴る。誰が踏んでも同じ音がする。
神楽坂さんだった。
鏡の前に立って、タオルで首を拭いていた。俺に気づいて、こっちを見た。
「……CM、見た」
「はい」
「昨日、一位だったって」
俺は頷いた。
神楽坂さんはタオルを首にかけ直した。そのとき、手が見えた。
指の付け根が全部固くなっている手だ。マメが潰れて、また固まって、それが何層にもなっている。今日はそこに、新しい絆創膏が一枚貼ってあった。
「二秒だったでしょ」
「二秒です」
「じゃあ、明日には忘れられる」
言い方が、あまりにも平坦だった。
俺は「はい」と言った。
彼女は少し黙って、それから、鏡のほうを向いた。
「……忘れられない人になるまで、私は七年かかった」
鏡越しに、目が合った。
「あなたは、三か月」
それだけ言って、彼女は音楽をかけた。
俺は廊下に立っていた。
立っていて、それから、ドアを閉めてやってから歩き出した。
――怒られたのか、褒められたのか。
三十メートル歩いて、結論が出なかった。
◇
家に帰ったのは、十八時半だった。
部屋のドアを閉めた瞬間、机の右奥が喋り出した。
「お帰りなさい、スター」
「やめろ」
「一位だったんでしょう」
「昨日の話だ」
「一日でも一位は一位よ」
ミューナは腰に手を当てて、いつもの偉そうな姿勢で立っていた。
立ったまま、喋り続けた。
「わたしはね、最初から言ってたのよ。あんたには素質があるって。五月にね。あの二十回の下手くそを見て、それでも言ったの。わたしの目に狂いはなかったわ」
「二十回は関係ないだろ」
「関係あるわよ。あそこがあんたの底なんだから。底を見た人間の言うことは信用しなさい」
俺は制服を脱いで、椅子の背にかけた。
「これからよ」
ミューナの声が、少し大きくなった。
「CMが当たったなら、次はドラマ。ドラマの次は映画。映画をやったら舞台もやりなさい。舞台をやらない役者は片輪よ。それから歌。歌は絶対にやったほうがいいわ。わたしの時代はね、みんな歌ってたの」
「全部やるのか」
「全部やるのよ。全部やって、全部で当てるの」
ミューナは台座の上を一歩、こちらに寄った。寄ったところで、また戻った。この人は興奮すると同じ場所を行ったり来たりする。台座が十五センチしかないので、実質、足踏みである。
「いい? 顔が出る仕事は続かないの。声が出る仕事は長いわ。名前が出る仕事はもっと長い。全部やっておけば、どれかが残るのよ」
「よくわからん」
「わからなくていいの。わたしがわかってるから」
ミューナは片手を上げて、天井のほうを指した。
「あんたなら足りるわ。あんたの点き方は、ちょっと普通じゃないもの」
そこで、言葉が止まった。
一秒くらいだった。
「……才能はね」
ミューナは、上げた手を下ろした。
「貯金じゃないの。使ったら減るんだから」
俺は靴下を脱ぎながら、それを聞いていた。
――貯金があるという話も、今日初めて聞いた。
これが、そのとき俺が思ったことの全部である。
貯金という言葉が出てきたので、俺は自分の口座の残高を思い出していた。四千三百円だった。夏休みに三回コンビニで肉まんを買った時点で、そうなった。
「……まあ、あんたはまだ十七だし」
ミューナは腰に手を当て直した。
「たっぷりあるでしょ。心配いらないわ」
「うん」
「それより、次の仕事の話よ。いい? 現場に入ったらね、まず一番偉い人を見つけるの。四十年前はね――」
話が戻った。
俺は聞き流した。
階下から母さんの「灯真ー、ごはんー」という声が聞こえて、俺は部屋を出た。
◇
夕飯は、豚のしょうが焼きだった。
俺は三杯食べた。
「よく食べるわねえ」
母さんが感心したように言った。この人は毎回感心する。
妹が向かいでスマホを見ていた。見ながら、こっちも見ていた。
「兄ちゃん」
「なに」
「今日、事務所の廊下で点いた?」
「……なんでわかるんだ」
「四分」
妹はスマホの画面をこっちに向けた。
表があった。日付と、時刻と、分数が並んでいる。
〈8/28 187分〉
〈9/1 なし〉
〈9/2 4分〉
俺は箸を止めた。
「なんで今日の分がある」
「兄ちゃん、帰ってきてから四分、階段の三段目に座ってた」
「座ってない」
「座ってた。あたし、上から見てた」
座っていた。
思い出した。たしかに座った。理由は、上がるのが面倒だったからだ。面倒だったのは、たぶん膝に力が入っていなかったからである。
「四分は短いね」
「短いのか」
「今までで一番短い。ちなみに一番長いのは百八十七分」
撮影の日だ。
ちなみに、この表には今朝のぶんが載っていない。学校で点いたぶんは、この子には測れない。
妹はスマホを置いて、しょうが焼きを一枚取った。
「あたし、これ、五月からずっとつけてるから」
「知ってる」
「いつか役に立つよ」
「立たないだろ」
「立つって」
立たない、と思った。
俺はしょうが焼きをもう一枚取った。
母さんが冷蔵庫から桃を出してきた。昨日もらったやつだ。皮を剥いて、六等分にして、皿に並べた。
「灯真」
「なに」
「今日、事務所どうだった」
「別に」
「そう」
会話が終わった。
この家の会話は、だいたいこの長さで終わる。昨日、電話を四軒かけて町内会の連絡網まで出した人が、今日はもう「そう」で終わらせている。
母さんは桃を一切れ食べて、「甘い」と言った。
父さんは「おう」と言った。
昨日と同じ椅子に座っていたが、今日の椅子は、ちゃんと食卓のほうを向いていた。
◇
二十時過ぎに、インターホンが鳴った。
バイク便だった。
封筒には、事務所のロゴが入っていた。差出人は犬飼さんである。
俺は自分の部屋に持っていって、封を切った。
中から、紙の束が出てきた。
表紙にタイトルが印刷されている。
〈春待ちアパート 第一話 台本〉
その下に、小さくこう書いてあった。
〈みなとテレビ 深夜劇場〉
紙を一枚めくると、犬飼さんの字でメモが挟んであった。
〈オーディション 九月十日 十四時 みなとテレビ 役名・広瀬(隣室の高校生)〉
俺は台本をめくった。
自分の役名を探した。〈広瀬〉という文字を目で追っていく。
三十六ページ目にあった。
それから、四十一ページ目に二つ。四十二ページ目に三つ。五十ページ目に一つ。
俺は指で数えた。
一、二、三、四、五、六、七。
七行だった。
◇
俺は台本を机に置いて、椅子に座った。
五月に、三行を読んだ。あのときは成り行きだった。社長室に呼ばれて、紙を渡されて、読めと言われて、読んだ。読んだら次の日から通うことになった。
今度は、七行だ。
しかも、読めば決まるわけではない。オーディションというのは、たぶん、落ちる人のほうが多い場所である。
スマホが鳴った。犬飼さんだった。
「届いたか」
「届きました」
「読んだか」
「数えました」
「数えたのか」
「七行でした」
電話の向こうで、犬飼さんが少し黙った。
それから、こう言った。
「高町」
「はい」
「三行のときは、成り行きだった」
「はい」
「今度は、選ばれに行くんだ」
俺は台本を見た。
表紙の紙が、少しだけ厚い。三十六ページ目に一行、四十一ページ目に二行、四十二ページ目に三行、五十ページ目に一行。
「向こうには、経験者が集まる。子役上がりも来る。全員、高町より上手い」
「はい」
「返事が早いな」
「たぶん、本当なので」
犬飼さんは、また少し黙った。
「……九月十日だ。十四時。空けとけ」
「はい」
電話が切れた。
俺は椅子の背にもたれて、台本をもう一度開いた。
七行。
覚えるだけなら、簡単だ。
覚えるだけなら。




