第29話 あの無表情の子、誰
家に帰ったら、リビングの椅子が全部テレビのほうを向いていた。
四脚とも、である。食卓の椅子が食卓を向いていない。きれいに並んで、全部が同じ方向を見ている。小学校の視聴覚室みたいになっていた。
「おかえり」
母さんがキッチンから顔を出した。エプロンをつけたままだ。
「なにこれ」
「見るのよ」
「まだ五時前だけど」
「早めに座っておかないと」
何に間に合わないのかがわからなかった。
テレビは、逃げない。
◇
九月一日だった。
午前中は始業式で、体育館で校長の話を二十五分聞いて、教室で連絡事項を聞いて、十一時には終わった。誰も俺の話をしなかった。当たり前だ。まだ、何も流れていない。
夏休み明けの教室というのは、みんな微妙に日焼けしていて、微妙にうるさい。熊沢は坊主になっていた。理由を聞いたら「なんとなく」と言っていた。この男の人生の意思決定は、全部これで行われている。
早坂千尋が「高町くん、なんか夏休みっぽいことした?」と聞いてきた。
した。
ぬるい緑茶を九回飲んだ。
だが説明が長くなるので、「別に」と答えた。早坂は「出た、それ」と言って笑った。
◇
十七時四十分。
妹がリビングに機材を持ち込んできた。
機材、というのは大げさではない。タブレットと、スマホと、それを固定するための三脚みたいなやつと、なぜかもう一台のスマホである。
「三台で録るから」
「テレビ、録画してるだろ」
「テレビの録画は保険。あたしが撮るのは記録」
「同じじゃないか」
「全然違う」
妹はタブレットをテレビの正面に据え、スマホを斜め四十五度に置いた。斜め四十五度に置く理由は聞かなかった。聞いたら三分説明されるからだ。
それから、妹は俺の部屋に上がっていって、何かを持って下りてきた。
ミューナだった。
妹はそれを、テレビの上の棚に置いた。
「なんで持ってきた」
「験担ぎ」
「なんの」
「なんかレアなんでしょ、それ」
ミューナは、腰に手を当てた姿勢のまま、完全に静止していた。
人が一人でもいる場所では、この人は絶対に動かない。今、この部屋には母さんと妹と俺がいる。つまりミューナは、テレビの上で、ただの趣味の悪い人形として置かれ続けることになる。
俺は無表情のまま、その顔を見た。
目が合った気がした。
気のせいだと思うことにした。
◇
十七時五十五分に、玄関が開いた。
「ただいま」
父さんだった。
俺は時計を見た。父さんの帰宅は、いつも早くて十九時半である。十七時五十五分に父さんが玄関にいるのを見たのは、たぶん十年ぶりくらいだった。
「早いね」
「おう」
「なんで」
「有給」
二文字だった。
父さんは上着を椅子の背にかけて、席についた。テレビのほうを向いている椅子である。母さんが麦茶を持ってきた。
誰も何も言わなかった。
四人が、同じ方向を向いて、まだ何も映っていないテレビを見ていた。
――ものすごく、間が持たない。
◇
「まだ?」
母さんが言った。十八時二分だった。
「六時台って言ってた」
「六時台って、六時何分?」
「わからない」
「わからないの?」
「わからない」
母さんは三分後に、また聞いた。
「まだ?」
「まだ」
五分後にもう一回。
「まだ?」
「まだ」
合計で六回聞かれた。
六回目に、父さんが言った。
「郁子」
「なに」
「来る」
それだけ言って、父さんは麦茶を飲んだ。
この人は語彙が三語しかないくせに、家の中の空気だけは正確に管理する。
◇
十八時十四分。
ニュースの途中で、画面が切り替わった。
最初に映ったのは、庭だった。夏の庭。緑の葉が全部同じ方向を向いている。俺はその葉の三枚目を知っている。
そこに、白い障子が入ってきて、縁側が映って、置かれたペットボトルに光が当たった。
ラベルが、ゆっくり回った。
水滴が一粒、垂れずにそこにあった。
――垂れないんですよ、あれ。
俺は心の中でそう言った。誰にも言えないので、心の中でだけ言った。
ボトルが持ち上がる。
俺の手だった。
カメラが上がって、俺の顔が映った。
◇
「あーっ!」
母さんが叫んだ。
妹が「静かに!」と怒鳴った。
画面の中の男が、一口飲んで、下ろして、少し待った。
〇・八秒。
俺はその〇・八秒を、家族と一緒に見ていた。
「……冷たい」
声が、うちのテレビから出た。
うちのスピーカーは十年物で、低い音が少し割れる。それでも、その声は割れなかった。
画面が変わった。ボトルが真ん中に来て、右下に文字が出て、最後に音が一つ鳴って、終わった。
十五秒だった。
俺が映っていたのは、二秒だった。
◇
三秒くらい、誰も動かなかった。
最初に動いたのは妹だった。両手を上げた。
「二秒! 二秒あった!」
「二秒だな」
「二秒って、じゅうぶんだよ! 一秒の子とかいるからね!」
いるのか。
母さんは口を両手で押さえていた。押さえたまま、俺を見た。
「灯真」
「うん」
「あんた、テレビに出てた」
「うん」
「テレビに」
「うん」
「うちのテレビに」
「そこは、たぶん、どのテレビでも同じ」
母さんは椅子から立ち上がって、そのままキッチンのほうへ行った。何をするのかと思ったら、冷蔵庫を開けて、閉めた。開けて、閉めただけだった。
父さんは、テレビを見たままだった。
しばらくして、こう言った。
「おう」
俺は父さんを見た。
父さんは麦茶を一口飲んで、それから、もう一回言った。
「おう」
二回目の「おう」だった。
この人が同じ日に「おう」を二回使うのは、俺が中学の卒業式で答辞を読んだとき以来である。
◇
母さんは、十八時二十分から電話を始めた。
固定電話だ。
「――もしもし、高町です。今、見た? ええ。ええ、そう。うちの子」
一軒目が四分。
「――ええ、緑茶の。二秒のところ。ええ、六時十四分。ええ」
二軒目が三分。
「――あら、もう知ってるの」
三軒目は一分で終わった。
四軒目で、母さんは町内会の連絡網を出してきた。
「お母さん」
「なに」
「それ、災害用じゃないの」
「災害みたいなものでしょう」
災害ではない。
◇
十八時五十分に、インターホンが鳴った。
山下さんの奥さんだった。向かいの家の人で、母さんと十五年くらい立ち話をしている相手である。手に何か持っていた。
「灯真くん! 見たわよ!」
「どうも」
「二秒! 二秒あった!」
二秒の話は、もう全国的な合意事項らしい。
奥さんが持ってきたのは、桃だった。六個入っている。
「なんで桃なんですか」
「お祝いだから」
「はあ」
「灯真くん、ほんとにあの顔でテレビ出るのねえ」
あの顔。
この人は、俺が三歳のときからこの顔を知っている。三歳のときも、七歳のときも、十二歳のときも、俺は同じ顔で立っていた。近所で「愛想のない子」と言われていたことも知っている。
その顔で、テレビに出た。
「昔からねえ、灯真くんは、本番だけはねえ」
出た。
母さんと同じ構文である。この一文は、たぶん桜坂三丁目の共有財産になっている。
奥さんは十五分喋って帰っていった。
母さんは玄関を閉めてから、桃を持ったまま、しばらく廊下に立っていた。
「灯真」
「なに」
「桃、冷やしとくね」
「うん」
母さんは、それだけ言って台所に行った。
傍から見れば、桃を受け取っただけの家である。
俺は、この家の中で今いちばん静かにしているのが自分だということに、なんとなく気づいていた。
◇
俺は自分の皿を持ってキッチンに立った。
テレビでは、もう別のCMが流れていた。洗剤と、保険と、ビールだ。俺の二秒は、その列の中に紛れて、どこかへ行ってしまった。
俺は蛇口をひねって、皿をゆすいだ。
――あのとき、何を考えてたんだったか。
思い出した。
ぬるい、と思っていた。あと、腹が膨れた、とも思っていた。
画面の中の男は、そういうことを考えている顔ではなかった。あの男は、たぶん、何か大事なものを失った直後の夏休みを生きている。
俺は今日、体育館で校長の話を二十五分聞いた男である。
同じ顔だ。
同じ顔なのに、中身が全然違うことになっている。
訂正しようがない。訂正したところで、「またそういうこと言ってる」で終わる。五月からずっとそうだ。
俺は皿を伏せて、水を止めた。
◇
部屋に戻って、ミューナを机の右奥に戻した。
三秒後、動いた。
「――ちょっと!」
「はい」
「なんであんな高いところに置くのよ!」
「妹が」
「動けなかったのよ! 一時間!」
「知ってる」
「知ってるじゃないわよ!」
ミューナは腰に手を当てたまま、めちゃくちゃ怒っていた。
怒りながら、少し黙った。
「……で」
「うん」
「見たわよ」
「そう」
「あんたの二秒」
ミューナは台座の上で、体の向きを少しだけ変えた。
「二秒で、あそこまでやる子は、四十年前にもそんなにいなかったわ」
「そうなのか」
「そうよ」
「じゃあ、なんで怒ってたんだ」
「一時間動けなかったからよ!」
話が戻った。
◇
二十一時ごろ、麦茶を取りにリビングへ下りた。
テレビがついていた。
父さんが一人で座っていた。椅子は、まだテレビのほうを向いたままだ。
画面には、庭が映っていた。白い障子と、縁側と、ペットボトル。
録画である。
俺が階段の途中で止まっていると、画面の中で俺がボトルを下ろした。〇・八秒待って、口を動かした。
十五秒が終わった。
父さんはリモコンを持ち上げて、巻き戻した。
もう一回、庭が映った。
俺は階段を下りるのをやめて、そのまま上に戻った。
麦茶は諦めた。
部屋に入ってドアを閉めてから、俺は一つだけ思った。
――あの人、リモコンの巻き戻し方、いつ覚えたんだ。
◇
二十時過ぎに、妹がドアを開けた。ノックはなかった。
「兄ちゃん」
「なに」
「Chirp、見た?」
「見てない」
妹はタブレットをこっちに向けた。
トレンド、という欄があった。数字が振ってある。
四位のところに、こう書いてあった。
〈あの無表情の子、誰〉
俺は三回読んだ。
一回目は誰の話かわからなかった。二回目でわかった。三回目で、なぜ四位なのかがわからなかった。
「これ、俺?」
「兄ちゃん以外にいる?」
「無表情の子は、世の中にたくさんいるだろ」
「今日CMに出た無表情の子は一人だよ」
妹は画面をスクロールした。
文字が、たくさん流れていった。
〈今の緑茶のCMなんだったの〉
〈二秒しか映ってないのに二秒しか映ってないと思えない〉
〈冷たいの言い方がおかしい 褒めてる〉
〈事務所どこ〉
〈というか誰〉
俺はそれを、上から下まで読んだ。
読んで、思った。
――何も起きないな。
音は遠のかなかった。輪郭もはっきりしなかった。背筋も伸びなかった。背中はいつも通り丸まっていた。
これだけの人間が、たぶん今この瞬間、俺のことを打ち込んでいる。それなのに、何一つ起きない。
「文字はね」
鞄の中から声がした。妹がいるので、俺だけに聞こえる声だ。
「燃料にならないの」
(なんで)
「書いた時点で、その人の意識はもう別のところに行ってるからよ。今この画面を見てるのは、あんただけ」
なるほど、と思った。
思ったが、口には出さなかった。妹がいるからだ。
「兄ちゃん」
「なに」
「なんか反応して」
「してる」
「してないでしょ」
「内側でしてる」
妹は「はいはい」と言って、タブレットを持って出ていった。
出ていく直前に、振り返った。
「あ、そうだ」
「なに」
「兄ちゃん、明日、学校だからね」
言い方が、やたら含んでいた。
◇
零時を少し過ぎた頃、ドアがまた開いた。
ノックはなかった。
「兄ちゃん」
「まだ起きてんのか」
「一位」
「なにが」
妹は画面をこっちに向けた。
さっきの言葉が、いちばん上にあった。
〈あの無表情の子、誰〉
「一位」
「日本で?」
「日本で」
俺はそれを見た。
見て、こう思った。
――明日、朝六時半に起きなきゃいけない。
一位という言葉と、六時半という時刻が、頭の中で同じ棚に並んでいた。どっちが重いのかがわからない。
俺は寝た。
寝る前に、ミューナが何か言おうとしていたが、聞かずに電気を消した。
◇
翌朝、校門の前に人が立っていた。
三人だ。カメラを持っている。
俺は自転車を降りて、押しながら通り過ぎた。三人はこっちを見て、それから顔を見合わせた。誰も声をかけてこなかった。俺の顔を知らないのだと思う。彼らが知っているのは、二秒の映像の中の男の顔である。
教室に入った瞬間、音が止まった。
三十六人が、一斉にこっちを向いた。
それから、爆発した。
「高町!」
「CM!」
「見た! 昨日見た!」
「トレンド一位!」
熊沢が机に乗ろうとして早坂に引きずり下ろされていた。
俺は自分の席に向かって歩いた。
歩きながら、音が遠のくのを感じた。輪郭がはっきりした。背筋が伸びた。
三十六人ぶんの注目が、朝の八時二十分に、全部こっちを向いている。
――やめてくれ。今日は六時間目まであるんだ。
俺は席に着いて、鞄を机の横にかけた。
合図は、三十秒で消えた。誰かが「あ、宿題」と言って、教室の意識が一斉に別のところへ行ったからだ。高校生の集中力は、本当に短い。
助かった。
◇
一時間目の前に、宮坂先生に呼ばれた。
現代文の担任で、四十三歳で、感情の起伏をどこかに置いてきた人である。
「高町」
「はい」
「朝から学校に電話が十一件来ている」
「はい」
「全部断った」
「はい」
「以上」
この人は、五月から一ミリも変わらない。
俺が何位になろうが、テレビに出ようが、たぶん同じ顔で同じことを言う。正直、いちばん助かった。
「高町」
「はい」
「課題、出てないぞ」
「……はい」
美咲に殺される、と思った。
◇
一時間目の途中で、腹が減った。
猛烈に減った。
朝、トーストを二枚食べている。減るはずのない時間帯である。それなのに、腹の底に穴が空いていた。手にも少し力が入らない。数学のノートを取っていて、シャープペンを一回落とした。
三十秒だ。
三十秒ぶんの反動が、これだった。
二時間目が終わった瞬間、俺は弁当箱を開けた。
「え、高町くん、まだ十時だけど」
「食べる」
「え、なんで」
「腹が減った」
早坂が笑って、それから「うわ、それも絵になる」と言った。
絵になっていない。
十時に弁当を食う男が絵になるわけがない。だが早坂は自分のスマホを構えかけて、俺が箸を持ち上げたところでやめた。
「やめとく」
「なんで」
「なんか、こないだから、撮るのちょっと怖いんだよね」
早坂は自分の席に戻っていった。
俺は卵焼きを食べた。
三口目で、力が戻ってきた。
◇
昼休みに、美咲が俺の机の前に来た。
俺の前の席の椅子を勝手に借りて、後ろ向きに座った。手にプリントの束を持っている。
「高町くん」
「はい」
「現代社会」
「……はい」
「化学は?」
「出した」
「古典は」
「出した」
「じゃあ現代社会だけだね。今日中に」
「今日、事務所に行く」
「じゃあ電車の中で」
交渉が成立していない。この学校の女は全員こうだ。
美咲はプリントを俺の机に置いて、それから、教室のほうを一度見た。
廊下側の窓に、他クラスの生徒が四人張りついていた。
「あれ、朝からずっといる」
「そうなのか」
「一時間目からいる」
「気づかなかった」
「あなた、そういうとこだよ」
美咲は立ち上がって、窓のほうへ歩いていった。
何をするのかと思ったら、窓を開けて、四人に何か言った。四人は「すみません」と言って散っていった。三十秒だった。
戻ってきた美咲に、俺は聞いた。
「何て言ったんだ」
「『授業中です』って」
「今、昼休みだけど」
「あの子たちは気づかなかったみたい」
この幼馴染は、たまに、ものすごく怖い。
「昨日、見たよ」
美咲は座り直しながら言った。
「うん」
「二秒」
「二秒」
「……あれ、どこまでが本当なの」
俺は箸を止めた。
美咲は、俺の中身がだいたい空っぽだと知っている、唯一の同級生である。だから、この質問の意味も、たぶん俺より正確にわかっている。
「三十人くらい、見てた」
「ああ」
美咲は一度だけ頷いて、それ以上は聞かなかった。
代わりに、こう言った。
「現代社会、二枚目の裏まであるからね」
◇
その日の昼、犬飼さんからトークが来た。
〈今日、事務所に寄れるか〉
俺は返した。
〈行けます〉
三秒で既読になって、すぐ次が来た。
〈社長が呼んでる〉
俺はスマホを見たまま、少しだけ動きを止めた。
社長に呼ばれるのは、五月のあの日以来である。あのとき俺は、三行の台本を読んで、五秒で「明日から来い」と言われた。
もう一通、来た。
〈事務所、少し騒がしいから、驚くなよ〉




