第28話 たった一言のはずだった
八時三十分に着いたスタジオで、俺が最初に見たのは、机の上に並んだペットボトルだった。
四十本あった。
全部同じだ。緑のラベルに白い文字で「凛」と入っている。中身も同じ量まで入っている。それが長机の上に、隊列を組むみたいに並んでいる。
「おはようございます、高町です」
「おはようございまーす!」
全員が返してくれた。全員が返してくれたが、誰もこっちを見なかった。みんなボトルを見ていた。
――何かの儀式だろうか。
俺は無表情のまま、四十本の緑を見ていた。
◇
スタジオは都内の、外から見るとただの倉庫みたいな建物だった。
中は広い。天井が高くて、黒い布が壁一面に張ってあって、床にケーブルが何本も這っている。奥のほうに小さいセットが組んであった。木の縁側と、白い障子と、その向こうに夏の庭。
庭は本物ではなかった。近づいたら、緑の葉が全部一枚ずつ差してあった。
美術の人が、その葉の角度を直していた。
「その葉っぱ、動くんですか」
「動かないですね」
「じゃあ、なんで直してるんですか」
「向きが揃ってないと、目がそっちに行くので」
わからん。
いや、言われてみればそうなのかもしれない。だが、俺が今から言うのは五文字である。五文字のために、この人は葉っぱの角度を直している。
◇
八時五十分に、控室で衣装に着替えた。
控室というのは、パーテーションで区切られた四畳半くらいの空間で、鏡が一枚と、パイプ椅子が二脚あった。俺の名前が書いた紙が、テープでドアに貼ってある。
〈高町灯真様〉
様、が付いていた。
十七年生きてきて、名前に様が付いた紙を貼られたのは初めてだった。学校では出席番号で呼ばれる。家では「兄ちゃん」か「灯真」だ。コンビニでは「学生さん」である。
俺はその紙を三秒見てから、中に入った。
白いシャツに着替えて、髪をいじられて、顔に何かを薄く塗られた。
「はい、できました」
「ありがとうございます」
「スタンバイまで、まだ時間あるので座っててくださいね」
「はい」
「たぶん、けっこう、あります」
メイクの人は、そこだけ言い方を柔らかくした。
◇
九時。物撮りが始まった。
物撮りというのは、人ではなく商品を撮ることらしい。有本さんが小声で教えてくれた。
カメラの前にボトルが一本置かれた。台の上に、少し斜めに立てられている。
「八百屋にしてください」
「はい」
誰かがそう言って、ボトルの角度をほんの少し変えた。
「八百屋って何ですか」
俺は有本さんに聞いた。
「斜めに置くことです。八百屋さんの店先って、野菜が斜めに並んでるでしょ。あれのほうが見やすいので」
「はあ」
「業界用語です」
「はあ」
俺は縁側の脇のパイプ椅子に座って、それを見ていた。
ボトルの角度が三度ずつ変わっていく。三度変えて、モニターを見て、また三度変える。誰かが「もう一ミリ」と言った。一ミリで何が変わるのかは、俺にはわからなかった。
十時になった。
まだボトルを撮っていた。
◇
途中で、女の人が霧吹きを持って出てきた。
ボトルの表面に、しゅっ、しゅっと吹きかける。すると水滴がつく。水滴がつくと、冷たそうに見える。
「それ、水ですか」
「水と、あと少し混ぜてます」
「なんでですか」
「水だけだと、垂れちゃうので」
垂れない水滴。
つまり、あの冷たそうな粒は、冷たさとは何の関係もない。ボトルは常温だ。さっき触ったから知っている。
俺は五文字を思い出した。
〈少年 「……冷たい」〉
――嘘じゃないか。
言ってから、いや、これは芝居というものだ、と自分で思い直した。芝居は嘘をつくのが仕事らしい。ミューナがそう言っていた。四十年前の話だが。
◇
モニターの前には、折りたたみ椅子が並んでいた。
五脚。全部埋まっている。座っているのは全員スーツの人だった。真夏に上着を着ている。
誰が誰なのか、俺にはまったくわからなかった。
休憩のときに犬飼さんに聞いた。
「あの人たち、誰ですか」
「右から二人が代理店。真ん中がクライアント。左の二人は、たぶん先方の宣伝部だ」
「たぶん?」
「俺も全員は把握してない」
「じゃあ、どうやって話すんですか」
「全員に頭を下げる」
なるほど。
犬飼さんはそう言いながら、モニターのほうへ歩いていって、五人に順番に頭を下げた。背中がまっすぐだった。座っている人に頭を下げるとき、この人の背中は一度も丸まらない。
俺はパイプ椅子から、それを見ていた。
◇
昼になった。
ロケ弁というものが配られた。白いプラスチックの容器で、フタを開けると煮物と焼き魚と唐揚げが入っている。冷めていた。
うまかった。
俺は五分で食べ終わって、二個目をもらった。
「高町さん、まだ食べるの?」
「食べます」
「まだ何もしてないよ」
有本さんが笑った。
何もしていないのは事実だった。俺は三時間半、パイプ椅子に座って、ボトルが斜めになるのを見ていただけである。
鞄の中から声がした。
「あんた、緊張感がないわね」
(する場面がない)
「四十年前はね」
(うん)
「新人はお弁当なんてもらえなかったの。先輩のを分けてもらうのよ」
(今はもらえるよ)
「……いい時代ね」
ミューナが黙った。
鞄の口を少しだけ開けてあるので、この人からは天井の一部が見えているはずだ。ずっと同じ天井を見ている。
◇
午後も、ボトルだった。
十三時から十四時三十分まで、ボトルの中の緑が、光の当て方で三段階に分けられた。明るくすると爽やかで、暗くすると濃く見えるらしい。その中間を探していた。
俺はその間、二回眠りかけた。
二回とも、有本さんに肩を叩かれて起きた。
「高町さん、寝ないで」
「起きてます」
「目、閉じてました」
「閉じてないです」
「閉じてました」
閉じていた。
傍から見れば、次の出番に備えて微動だにしない新人だったと思う。実際には、煮物と唐揚げが効いていた。
◇
十五時三十分。
俺の名前が呼ばれた。
「高町さん、お願いしまーす」
俺は縁側に座らされた。
スポーツバッグを足元に置いて、白いシャツの袖をまくって、ボトルを右手に持つ。持つ高さは、みぞおちの少し上と決まっていた。目線は正面から十五度下。全部、紙に書いてある通りだった。
監督が前に来た。
四十代くらいの、日焼けした人だった。首にタオルを巻いている。
「高町くん。難しいことしなくていいから」
「はい」
「飲む。間。『……冷たい』。それだけ」
「はい」
「はい、テスト行きます」
カチンと音がした。
俺はボトルを持ち上げて、口をつけて、一口飲んだ。中身は本物の緑茶だった。ぬるかった。
間。
「……冷たい」
言い終わって、俺は正面を見たまま止まった。
誰も、何も言わなかった。
三秒後、監督が言った。
「はい、もう一回」
◇
もう一回になった。
もう一回のあとに、もう一回があった。そのあとにも、もう一回があった。
四回目のとき、俺は気づいた。
誰も、俺を見ていない。
監督も、カメラマンも、モニターの前の五人も、全員が同じ場所を見ていた。俺の右手だ。正確には、俺の右手が持っているボトルのラベルだった。
「ラベル、二度左」
「はい」
「もう一回」
五回目。
「肩が入ってラベル切れてる。バッグ、もう五センチ前」
「はい」
「もう一回」
六回目。
「今、粒が流れました。吹き直します」
「はい」
「もう一回」
俺の芝居の話は、一度も出なかった。
一度も出ないまま、テイクは八まで行った。
音は遠のかなかった。
輪郭もはっきりしなかった。背筋は、丸まったままだった。おかげで俺の「……冷たい」は、八回とも、家庭科の調理実習で味見をした男子の声だった。
――誰も俺を見ていないと、こんなに下手なんだな。
これは落ち込みではなく、報告である。俺は自分の下手さについて、五月の時点でもう結論を出している。
考えていたのは、別のことだった。
――ぬるい緑茶を八回飲むと、腹が膨れる。
◇
七回目と八回目のあいだに、また霧吹きの時間があった。
俺は縁側に座ったまま待っていた。座ったまま待つのが仕事なので、座ったまま待った。
斜め後ろで、監督と犬飼さんが話しているのが聞こえた。
「犬飼さん」
「はい」
「あの子、大丈夫すか」
「と、言いますと」
「いや、その、なんか……死んでません?」
俺は動かなかった。
聞こえていないふりをするつもりはなかったが、返事をするような話でもなかった。
「地顔です」
「地顔」
「生まれつき、表情筋が動きません」
「……あー、なるほど」
監督は納得したらしい。
「じゃあ、疲れてるとかじゃなく」
「今のところは」
「そう。いや、こっちが悪いんですよ。八回もラベルで止めてるから」
「うちのは、それで機嫌が悪くなる子じゃないので」
なっていない。
実際、機嫌はまったく悪くなかった。俺の中にあったのは、腹が膨れたということと、この縁側の板が微妙に熱を持っているということだけである。
ただ、そのやりとりを聞きながら、一つだけ思ったことがあった。
――今、この人、俺のこと庇ったな。
俺は縁側の板をもう一度触った。
やっぱり、少し熱かった。
◇
九回目の直前で、監督が手を上げた。
「はい、いったん止めます」
スタジオが静かになった。
監督はモニターのほうへ歩いていって、五人と何か話していた。三十秒くらいだ。真ん中のスーツの人が、二回頷いた。
監督が戻ってきた。
「商品、OK出ました」
照明部の人が「うわ、やっと」と言って笑った。何人かが笑った。
「じゃあ次」
監督は、俺のほうを向いた。
「今から、この子の芝居だけ見ます」
◇
そのとき、スタジオの空気が動いた。
物理的に動いたわけではない。ただ、それまでボトルのほうを向いていた顔が、一斉にこっちを向いた。
カメラマンが顔を上げた。照明部が二人、脚立の上から見下ろした。美術の人が葉っぱから手を離した。霧吹きの人が霧吹きを下ろした。有本さんがタブレットを閉じた。犬飼さんが胃薬の箱をポケットに戻した。
モニターの前の五人が、五人とも、モニターではなく俺を見た。
俺は数えていた。
一、二、三。カメラの後ろに四人。脚立が二人。壁際に七人。モニターの前に五人。犬飼さんと有本さん。監督。
二十九。
三十人目は、俺の左後ろにいた記録の人だった。
三十一人目を探そうとして、やめた。
◇
スタジオの音が、遠のいた。
誰かの咳も、外を走るトラックの音も、ケーブルを踏む足音も、全部が薄い膜の向こうに行った。
代わりに、輪郭がはっきりした。
目の前のボトルの、ラベルの端が〇・五ミリだけ浮いているのが見えた。障子の桟に埃が乗っているのが見えた。庭の葉の三枚目だけ、さっき直されなかったのが見えた。監督のタオルが、首の左側で二回ねじれているのが見えた。
背筋が、伸びた。
「――回します」
カチン、と音がした。
俺はボトルを持ち上げた。
みぞおちの少し上。紙に書いてある通りだ。口をつける。ぬるい緑茶が喉を通る。
それから、下ろした。
間。
どれくらい待つかは、誰にも教わっていない。ただ、そこで待つのが正しかった。喉を通ったものが胃に落ちるまでの時間と、それを言葉にするまでの時間は、別のものだ。
「……冷たい」
◇
誰も、動かなかった。
カットの声がかからなかった。カメラは回り続けていた。俺は正面を見たまま座っていた。
三秒、四秒。
「……カット」
監督の声が、少し掠れていた。
それから、監督は言った。
「……なんだ、今の」
◇
その二秒が、長かった。
代理店の人が、クライアントの人の顔を見た。クライアントの人はモニターを見たまま動かなかった。代理店の人はもう一度顔を見た。
クライアントの人が、小さく頷いた。
代理店の人が監督を見て、頷き返した。
「OKでーす!」
誰かが大声で言った。
スタジオが一気にほどけた。照明部の人が脚立から降りて、「今の、鳥肌立った」と隣の人に言っているのが聞こえた。霧吹きの人が「え、あの子、何歳?」と聞いていた。
俺は縁側に座ったまま、ボトルを持っていた。
持ったまま、こう思っていた。
――やっと帰れる。
◇
モニターの前の五人のうち、真ん中の人が立ち上がった。
クライアントの人だ。五十代くらいで、髪を七三に分けていて、真夏なのにネクタイをきっちり締めている。
その人が、まっすぐ縁側まで歩いてきた。
スタジオの何人かが、動きを止めた。
「高町くん」
「はい」
「いや、あの」
その人は、そこで言葉に詰まった。
詰まったまま、二回まばたきをした。
「……うちの商品、二十年やってるんですけどね」
「はい」
「今の、初めてだったので」
何が初めてなのかは、言わなかった。
それだけ言って、その人は自分の椅子に戻っていった。戻ってから、隣の代理店の人に何か話しかけて、二人で頷き合っていた。
俺は縁側に座ったまま、ボトルを持っていた。
持ったまま、今のが賛辞なのかどうかを、本気で判定できていなかった。
「初めてだった」の主語がわからない。初めて何がどうだったのか。初めて見た顔なのか、初めて聞いた声なのか、初めての事故なのか。
結局、犬飼さんに後で聞いた。
「褒められてます」
「そうですか」
「めちゃくちゃ褒められてます」
「そうですか」
犬飼さんは胃薬の箱を出して、また戻した。
◇
「高町くん、ちょっと来て」
監督に呼ばれて、モニターの前に行った。
プレイバックというやつだった。撮ったばかりの映像を、その場で大きい画面に映して確認する。
画面に、俺が映った。
でかい。
顔が横幅五十センチくらいある。目も鼻も口も、全部でかい。
その男は、ボトルを下ろして、少し待って、口だけを動かした。
「……冷たい」
――知らない男がいる。
それが最初に思ったことだった。
その男は、何も考えていない顔をしていた。何も考えていないのに、何か決定的なことを知っているように見えた。俺は知っている。あのとき考えていたのは、緑茶がぬるいということと、腹が膨れたということの二つである。
それが、画面の中では別のものになっていた。
「な、すごいだろ」
監督が、隣で言った。
「間だよ、間。ここ、〇・八秒空けてる。普通の子は空けられない。空けると不安になるから」
「はあ」
「誰かに習った?」
「習ってないです」
「じゃあ、どうやってんの」
「わからないです」
監督は俺の顔を三秒見て、それから笑った。
「わからないってことにしとくか」
わからないのだ。本当に。
◇
十八時四十分に、終わった。
解散の挨拶をして、控室に戻って、ドアを閉めた瞬間に膝が抜けた。
俺は壁に手をついた。
視界が白い。手に力が入らない。腹の底に穴が空いている。全身が、水を吸った布団みたいに重い。
痛くはない。痛くはないが、動かない。
鞄からゼリー飲料が転がり出てきた。有本さんが朝、二つ入れておいてくれたやつだ。
俺はしゃがんだまま、それを一つ飲んだ。
足りなかった。
もう一つ飲んだ。
まだ足りなかった。
「あんた」
鞄の中からミューナが言った。
「ドア、開けられる?」
(開けられる)
「じゃあ十五分待ちなさい。誰か来たら立って」
(立てる)
「立てなくていいから、立って」
無茶苦茶な指示だった。
だが、正しかった。
十五分後、ドアがノックされて、俺は普通に立って開けた。犬飼さんだった。
「帰るぞ」
「はい」
「歩けるか」
「歩けます」
犬飼さんは、それ以上聞かなかった。
ただ、俺の前を歩いた。人が来る側に立って、少しだけ歩幅を落として歩いた。俺はその背中を見ながら、駐車場までの三十メートルを歩いた。
◇
車の中で、犬飼さんが言った。
「高町」
「はい」
「監督が言ってたぞ」
「はい」
窓の外を、青いビルの灯りが流れていった。二十二時までには家に着く。それは決まっている。俺は十七歳なので、二十二時を過ぎて働くことができない。
「『あの子、二秒で全部持っていった』ってな」
俺は何も言わなかった。
言うことが、思いつかなかったからだ。
「オンエアは九月一日。夕方六時台から入る」
「はい」
「三十秒版もある。そっちは高町の尺が、少し長い」
「どれくらいですか」
犬飼さんは、前を向いたまま言った。
「三秒だ」
一秒、増えた。
俺は座席に沈んだまま、その一秒について考えた。考えているうちに、まぶたが落ちてきた。
「高町」
「はい」
「寝ていいぞ」
「はい」
俺は寝た。
寝る直前に、犬飼さんの声が聞こえた。たぶん電話をしていた。
「――ええ。はい。……いや、まだ他は何も決まってません。ええ。……はい、九月からは、たぶん、少し忙しくなると思います」




