第27話 初仕事、セリフあり
「一言だ」
犬飼さんはそう言って、机の上に茶封筒を置いた。
八月中旬の三階。マネジメント部の大部屋は冷房が効きすぎていて、俺は半袖の腕を無意識にさすっていた。窓際から二番目の席。机の右奥に、いつもの胃薬の箱がある。
「一言、ですか」
「一言だ」
俺は封筒を両手で受け取った。名刺のときに散々迷った経験が、こういうところにだけ残っている。
傍から見れば、初仕事の連絡を無言で受け止める新人である。
俺の頭の中では、まったく別のことが起きていた。
――一言って、何文字までを一言と呼ぶんだ。
◇
「CMだ」
犬飼さんは説明を始めた。この人の説明は長い。長いが、飛ばすところがない。
「朝比奈飲料の緑茶。『凛』ってブランドだ。九月からの新しいやつで、十五秒と三十秒。全国。夕方から夜の帯に入る」
「はい」
「高町の役は、部活帰りの少年。役名はない」
「はい」
「セリフはこれだ」
犬飼さんが封筒から一枚抜いて、こっちに向けた。
絵コンテというやつらしい。四角い枠が八つ並んでいて、俺の枠は右下から二番目だった。
その下に、こうあった。
〈少年 「……冷たい」〉
俺は三秒くらい、それを見た。
五文字だ。しかも先頭の三つは点である。実質、二文字。
「どうだ」
「二文字ですね」
「五文字だ」
「はい」
犬飼さんは何か言おうとして、やめた。やめてから、資料を裏返した。
◇
「決まりましたァ!」
有本さんが、大部屋の真ん中で両手を上げた。
二十六歳、犬飼さんの下につくマネージャーで、話す速度が俺の一・八倍くらいある。スケジュールアプリを操作する指の速さはたぶん三倍だ。
「高町さん初仕事! 全国! 夕方帯!」
「有本」
「はい!」
「まだ発表前だ」
「はい!」
声の大きさは変わらなかった。
大部屋がざわっとした。島が四つあって、それぞれの島から顔が上がって、「おー」とか「早いね」とか「新人でCM?」とかいう声が飛んできた。誰かが軽く拍手をして、それが二人になって、三人になって、四人目のところで電話が鳴って止まった。
みんな、こっちを見ていた。
見てはいたのだが、手はキーボードの上にあって、耳には受話器が当たっていて、目は三秒でモニターに戻った。
音は、遠のかなかった。
輪郭も、はっきりしなかった。背筋も伸びなかった。
鞄の中で、ミューナが言った。
「ながら見でしょ、あれ。誰も手が止まってないもの」
俺は封筒を抱えたまま、鳴りやんだ拍手の跡地で、それを聞いていた。
◇
三階を出たところで、廊下の向こうから足音が走ってきた。
「高町ィ!」
鴻上だった。
同期の新人で、ダンス特化で、俺の無表情を一ミリも怖がらない男である。汗をかいたTシャツのまま、レッスン室から直行してきたらしい。
「CM決まったって?」
「うん」
「マジか! おめでとう!」
「うん」
「テンション!」
「ある」
「ないだろ!」
鴻上は俺の肩を両手で掴んで、前後に揺すった。首が振られた。
この男は、人の初仕事を自分のことのように喜ぶ。しかも本気で喜ぶ。俺が同じ立場だったら、たぶんここまでの声量は出ない。
「セリフあんの?」
「ある」
「うおー、セリフありかよ! 何行?」
「一言」
「一言?」
「一言」
鴻上は三秒黙った。
それから、俺の肩を叩いた。
「……一言でも、セリフだからな」
急に優しくなった。
鴻上の後ろから、もう一人出てきた。
神保亮。同じ日に入った同期で、子役の頃から芸能事務所に出入りしている男だ。基礎ができていて、ストレッチも発声もダンスも、レッスンでは俺より全部上である。全部というのは誇張ではなく、本当に全部だ。
「高町くん、おめでとう」
「ありがとう」
「CM、いいね。うらやましい」
神保は笑っていた。
笑ったまま、半歩ぶん、視線が横に流れた。
流れて、すぐ戻った。
俺はそれを見ていたが、意味はわからなかった。神保はいつも通り笑っていて、いつも通り礼儀正しくて、いつも通り姿勢が良かった。俺より背筋が伸びている。俺の背筋は、点かないと伸びない。
「本番、緊張しないでね」
「うん」
「高町くん、緊張しなさそうだけど」
する。
顔に出ないだけだ。
◇
階段を下りようとしたところで、二階の廊下で神楽坂さんとすれ違った。
ソレイユのトップアイドルで、十九歳で、この事務所のほとんど全部を一人で背負っている人である。レッスン室Aから出てきたところらしく、タオルを首にかけていた。
俺は端に寄った。前に一度ぶつかって書類をぶちまけて以来、この人が来たら端に寄ることにしている。
すれ違いざま、向こうが止まった。
「……CM、決まったんですって?」
「はい」
神楽坂さんは、タオルの端を握っていた。
その手が、目に入った。この人の手は、指の付け根が全部固くなっている。マメが潰れて、また固まって、それが何層にもなっている。十九歳の手には見えない。
「よかったわね」
「はい」
「浮かれてないでしょうね」
「浮かれ方がわからないです」
彼女は少しのあいだ黙った。
それから、「そう」とだけ言って、行ってしまった。
三歩ぶん行ったところで、また止まった。
「あなた」
「はい」
「……いえ。なんでもない」
今度こそ行ってしまった。
俺は階段を下りながら、さっきの間について考えた。二秒くらいあった。何か言いかけて、やめた。
――怒らせたかな。
結論はそれだった。それ以上のことは何も思いつかなかったので、俺はそのまま一階まで下りた。
ロビーの自販機で微糖を買った。この事務所の自販機は、右がブラックで左が微糖だ。俺は必ず左を押す。理由については、五月のある夕方のことを思い出したくないので、書かない。
◇
その日の帰り際、五階から社長が下りてきた。
白鳥さん。五十八歳。丸眼鏡で、白髪で、真夏でもセーターを着ている。俺を三十秒で採った人である。
「高町くん」
「はい」
「決まったね」
「はい」
「うん」
社長はそれだけ言って、廊下の窓のところで足を止めた。
「一つ聞いていいかな」
「はい」
「君、緑茶は好きかい」
「……好きです」
「そうか」
社長は満足そうに頷いて、それから、ポケットから小さい包みを出して俺に渡した。
羊羹だった。
「食べなさい」
「はい」
「では」
社長はそのまま三階のほうへ行ってしまった。
俺は羊羹を持ったまま、しばらく廊下に立っていた。
判断が速い人だとは聞いていたが、判断以外も速い。会話が三十秒で終わった。
◇
説明の続きは、四階の小部屋でやった。六人用の会議室である。
犬飼さんは資料を三枚並べた。
「まず、PPMがある」
「なんですか、それ」
「プリ・プロダクション・ミーティング。撮影前の最終確認会議だ。企画、演出、衣装、メイク、美術、ロケ場所。全部そこで決める」
「はい」
「高町は出なくていい。俺と有本が出る」
「はい」
「大事なのはここからだ」
犬飼さんは指を一本立てた。
「CMはな、現場で決めない」
「決めない」
「全部、PPMで決まってる。カメラの位置も、缶を持ち上げる高さも、目線の角度も、もう紙の上で決まってる。当日は、それをそのまま撮るだけだ」
「じゃあ、俺は何をするんですか」
「決まってることを、決まってる通りにやる」
わからん。
いや、言葉としてはわかる。ただ、俺がこれまでにやったのは、二十人に見られて勝手に体が動いたやつと、十数人に見られて勝手に体が動いたやつだけだ。
どっちも、決まっていなかった。
「不安か」
「いえ」
これは本当だった。
不安になるためには、まず何が起きるかを想像しないといけない。俺には想像するための材料が一枚の絵コンテしかない。八つの四角と、五文字。それだけだ。
「……高町」
「はい」
「高町。たまに本当に何も考えてないよな」
「考えてます」
「何を」
「一言のために、何時間かかるのかを」
犬飼さんは、少し黙った。
それから、資料の三枚目をこっちに滑らせた。
「テイクは、たぶん十から二十だ」
「二十」
「二十回、同じことをやる」
「同じことを」
「同じことをだ。しかも、二十回のうち十八回は、高町の芝居が理由じゃない」
「じゃあ何が理由なんですか」
犬飼さんは、資料の写真を指で叩いた。
ペットボトルの写真だった。緑のラベルに白い文字で「凛」と入っている。
「これだ」
「……ボトル」
「ラベルの角度。光の当たり方。結露の粒。そのへんで十八回いく」
「俺、関係なくないですか」
「関係ない」
言い切られた。
「だが、そこに立ってなきゃいけない」
これがいちばんわからなかった。
自分に関係のない理由で二十回やり直すのに、二十回とも同じところに立っていないといけない。学校でいえば、他人の忘れ物のせいで全員が廊下に立たされるやつだ。あれは中学のときに一回あって、その日はやたら腹が減った。
「高町」
「はい」
「今、余計なこと考えたろ」
「考えてないです」
「顔に出てないのが、逆にわかるようになってきた」
この人だけは、たまに当ててくる。
◇
屋上に行った。
灰皿が一つと、ベンチが二つある。フェンスの向こうから、アスファルトの熱が上がってくる。
犬飼さんはベンチに座って、水のペットボトルで胃薬を飲んだ。
背中がまっすぐだった。座っていても、この人の背中は丸まらない。
「一つだけ言っておく」
「はい」
「向こうは、高町を新人として呼んでない」
俺は封筒を膝に置いた。
「あの動画のことか」
「それもある。だが、それだけじゃない」
犬飼さんはビルのほうを見ていた。
「先方の担当が、社長の知り合いでな。うちに新人がいるって話をしたら、宣材写真を見て、その場で決まった」
「写真で」
「写真で」
「俺、宣材写真、ひどくないですか」
「ひどい」
即答だった。
「笑ってないからな。普通、新人の宣材は笑う。四十人ぶん並べたら、高町のだけ捜査資料みたいになってる」
捜査資料。
「それが良かったらしい」
「はあ」
「『この子の顔で、冷たいって言わせたい』だとよ」
俺は空を見た。
俺の顔は、たぶん今日も何一つ動いていない。この顔で十七年間、写真のたびに家族の中で一人だけ葬式をやってきた。その顔を、会ったこともない大人が見て、金を出すことに決めたらしい。
世の中の仕組みが、よくわからない。
◇
家に帰って、机の右奥に報告した。
「一言だって」
「一言?」
ミューナが腰から手を離した。
「セリフが一言?」
「うん。『……冷たい』」
「……それ、セリフって言うのかしら」
「犬飼さんは言ってた」
ミューナはしばらく腕を組んで、それから急に胸を張った。
「まあ、いいんじゃない。わたしの初仕事なんて三十行あったけど」
「三十行」
「舞台よ。三日で覚えたわ」
「すごいな」
「そうよ。すごいのよ」
ミューナは満足そうに台座の上で足を組もうとして、組めなかった。台座に足がくっついているからだ。毎回やろうとして、毎回できない。
「あんた、いい? 現場ってところはね」
「うん」
「若い子を試すの。わざと無茶を言って、どう返すか見るのよ。お茶を淹れさせたり」
「今もそうかな」
「そうでしょ」
たぶん違う。
◇
夕飯のときに家族に言った。
言った瞬間、母さんが箸を置いた。
「テレビ?」
「うん」
「うちのテレビに?」
「たぶん、うちのテレビにも」
「いつ?」
「九月」
母さんは立ち上がった。
そして、キッチンの壁にかかっているカレンダーの前まで行って、九月のところを指でなぞった。それから、その指を止めた。
「……九月って、来月じゃない」
「来月だな」
父さんが言った。
父さんは焼き魚をほぐしていた。ほぐしながら、顔も上げずに、それだけ言った。
「お父さん、灯真がCMよ」
「おう」
「CM」
「おう」
「二回目のおうは何?」
「聞こえてる」
この人の一日の語彙が、また減った。
妹はさっきからタブレットを構えている。俺の顔を見て、画面を見て、また俺の顔を見ている。
「兄ちゃん、セリフは?」
「一言」
「何?」
「『……冷たい』」
妹の指が止まった。
「……それ、セリフ?」
「みんなそう言う」
妹はタブレットを置いて、真面目な顔をした。この顔をするときのこいつは、だいたいろくなことを考えていない。
「兄ちゃん、いい? 二秒しかないなら、二秒で全部やるしかないから」
「二秒とは言ってない」
「十五秒のCMで、商品じゃない人間が映るのは二秒くらいだよ」
こいつ、なんで知ってるんだ。
「調べた」
「まだ何も言ってない」
「顔に出てた」
出ていない。
◇
風呂から上がると、母さんが電話をしていた。
固定電話である。うちにはまだ固定電話がある。母さんはこれを、近所に何かを伝えるときにだけ使う。
「――そうなの。ええ、緑茶の。九月から。……あら、そうかしら。ふふ」
俺は台所で麦茶を注ぎながら、聞いていた。
「ええ、そう。あの子、昔から本番だけはねえ」
母さんは、俺のことを話すとき、必ずこの言い方をする。本番だけは。二十年近く言われてきたので、俺はもう何も思わない。
その後、母さんはあと二軒かけた。二軒目で「あら、もう知ってるの」と言っていた。
一軒目から二軒目までの所要時間は、四分だった。
◇
次の日、美咲が家に来た。
例によって、インターホンを押さずに鍵を開けて入ってきた。
「高町くん」
「はい」
「夏休みの課題、化学と古典と現代社会が終わってない」
「……はい」
「CM、いつ」
「二十八日」
「じゃあ二十七日までに全部終わらせて」
美咲はテーブルの上にプリントを並べた。並べる手つきが完全に事務だった。
「わたし、反対はしないよ」
「うん」
「でも、一個だけ言っておく」
美咲は椅子に後ろ向きに座った。
「あなた、たぶん、一日拘束されると思う」
「一言だけど」
「一言だから拘束されるんじゃない?」
俺は答えられなかった。
この幼馴染は、ときどき、業界の人より業界に詳しい。
◇
撮影の四日前に、衣装合わせがあった。
四階の簡易スタジオという部屋で、宣材写真を撮るのに使うらしい。白い壁と、ライトが三つと、床にビニールのシートが敷いてある。
衣装さんが持ってきたのは、白いシャツと、紺のズボンと、スポーツバッグだった。
「制服じゃないんですね」
「うちの高校のじゃないですね。架空の学校です」
衣装さんはそう言いながら、俺の肩の位置に何かをピンで留めた。
「肩、少し詰めますね」
「はい」
「あと、これ持ってください」
渡されたスポーツバッグは、空だった。
部活帰りの少年が、何も入っていないバッグを肩にかけている。ラケットもボールも着替えもない。
「軽いですね」
「はい、軽いです」
「これでいいんですか」
「重いと肩が下がるので」
なるほど、と思ったが、部活帰りの少年の肩は下がっているものではないのか。俺は中学のとき、バッグの重さで毎日肩が下がっていた。
だが、これはCMだ。犬飼さんは「全部もう決まってる」と言った。決まっているなら、そういうことなのだろう。
◇
決まっていない箇所が、一つあった。
「高町さん、そのバッグ、もうちょっと重そうに持てます?」
衣装さんが言った。
俺は持ち直した。
「うーん」
もう一回持ち直した。
「うーん」
三回目で、部屋の全員が黙った。空のバッグは、どう持っても空だった。
そのとき、開いたドアの外から声がした。
「あの、失礼します」
神保だった。レッスン帰りらしく、タオルを首にかけている。忘れ物を取りに来たと言っていたが、たぶん半分は見物だと思う。
「高町くん、それ、肩紐を短くしたほうがいいと思う」
全員が神保を見た。
「短くすると、バッグが脇の下に来るので。そこから、歩くときに肘で少しだけ後ろへ押すんです」
彼は自分の鞄でやってみせた。
空の鞄が、急に重くなった。
入っている。何かが詰まっている。俺の目にはそう見えた。実際には何も入っていない。さっき彼がその鞄からタオルを出すのを見ている。
「うわ」
衣装さんが言った。
「それ、いただきます。監督にも言っておきますね」
有本さんが横から口を挟んだ。
「神保くん、なんでできるの」
「子役のとき、ランドセルで散々やったので」
神保は笑った。
この日、この部屋でいちばん役に立ったのは、たぶんこの男である。
俺は肩紐を短くして、肘で後ろへ押した。
「……あんまり変わらないですね」
「そうですね」
衣装さんは正直だった。
◇
その後、メイクの人が来て、俺の顔を三分見た。
「……あんまり、いじらないほうがいいですね」
「はい」
「動かないですよね、お顔」
「動かないです」
「いいですね」
いいらしい。
人生で初めて、この顔を専門家に褒められた。褒められた気がしたが、褒められたのかどうかは最後までわからなかった。
有本さんが横で写真を四十枚くらい撮っていた。
「高町さん、笑って!」
「無理です」
「そうだった!」
この人は毎回言って、毎回思い出す。
◇
撮影の三日前、有本さんから紙が届いた。
トークで写真が送られてきて、その後にPDFが来た。有本さんは何を送るときも二回送る。
〈香盤表〉と書いてあった。
誰が何時に入って、何時から何を撮るかが、細かい表になっている。俺は自分の名前を探した。中ほどにあった。
〈高町灯真〉
その右に、時間が書いてあった。
入り、八時三十分。
俺は指で行をたどった。
九時、商品カット。十時、商品カット。十一時、商品カット。十二時、昼食。十三時、商品カット。十四時三十分、商品カット。
商品カットが、多い。
俺の名前が出てくるのは、そのずっと下だった。
〈十五時三十分 少年カット〉
そして、その下に、もう一行あった。
〈終了予定 十九時〇〇分〉
俺は表を閉じた。
閉じてから、もう一度開いた。
八時三十分から十九時まで。十時間三十分。そのうち俺が喋る時間は、五文字。
――一文字あたり、二時間だ。
鞄の中から声がした。
「なによ、その顔」
「顔は動いてない」
「動いてないけど、そういう顔してるわ」
俺は香盤表をもう一度見た。
商品カットという言葉が、ずらりと並んでいる。
商品を、十時間近く撮るらしい。
何をそんなに撮ることがあるんだ。




