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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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第26話 翌日には忘れていた

そうめんの薬味は、みょうがが正解である。


 これは俺の中で完全に決着がついている問題だ。ねぎでもなく、しょうがでもなく、みょうがだ。ただし、うちの冷蔵庫にみょうがが入っている確率は、夏場でも三割を切る。


 その日は、入っていた。


「兄ちゃん、それ全部使う気?」

「使う」

「あたしのぶんは」

「ねぎがある」

「ねぎとみょうがは違うでしょ」


 違う。だからこそ俺が全部使う。


 八月の火曜、午前十一時。夏休みである。


 母さんはパート、父さんは仕事、妹は床に座ってタブレットを見ている。うちの床には妹の形にへこんだ場所があるのではないかと、俺は最近本気で疑っている。


「兄ちゃん、返信してないのあるよ」

「なんで知ってる」

「通知が三回鳴ってた。同じ人から」


 俺はスマホを見た。


 昨日の夜の、知らない番号だった。


 〈さっき、いた?〉


 それだけである。相手の名前は出ない。登録していないからだ。


 俺は四秒くらい考えて、返信した。


 〈いました〉


 昨日、事務所にはいた。だからこの返信は正しい。何の話かはわからないが、いたことは事実だ。事実を答えておけば、だいたいの問題は解決する。


 俺はスマホを置いて、そうめんを食べた。


 みょうがは、うまかった。


   ◇


「兄ちゃん、昨日さ」


 妹が床から言った。


「なに」

「動かなかった?」

「動いてた」

「唐揚げ食べてたもんね」

「食べてた」


 妹は大学ノートを開いた。


 八月三日の欄が、空白になっていた。日付だけ書いてあって、右の数字の欄に何もない。


「初めてなんだよ、空欄」

「そうか」

「兄ちゃん、昨日、平気だったの?」

「平気だった」

「なんで」

「知らん」


 これは本当に知らない。


 いや、正確には少し知っている。昨日、俺を見ていた人間は一人もいなかった。


 だが、それを説明すると、この妹は必ず追加で三十個くらい質問してくる。三十個目に答え終わる頃には、そうめんが伸びている。


「ふうん」


 妹はノートを閉じた。


「まあいいや。空欄も記録だし」


 記録だと言い張るところが、こいつの妙なところだ。


   ◇


 昼過ぎに、玄関のチャイムが鳴った。


 美咲だった。


 クリアファイルを二冊持って立っていた。片方が俺のぶんで、片方は自分のぶんらしい。真夏の昼下がりに、幼馴染の家に課題を届けに来る高校生が、この国にどれくらいいるのだろうか。


「読書感想文」

「まだやってない」

「知ってる。だから来た」

「なんで知ってる」

「あなたが『やった』って言ってないから」


 論理が固い。


 美咲は勝手に上がって、リビングのテーブルに座った。妹が「美咲さん、麦茶」と言って立ち上がった。この二人はいつのまにか仲が良い。仲が良いというより、共同戦線が組まれている。組まれた相手は俺である。


「本は」

「読んだ」

「どれ」

「学校の課題図書の一番薄いやつ」

「感想は」

「短かった」

「それは感想じゃない」


 そうだろうか。


 俺は本を読むのが特別嫌いではないが、感想を言うのが壊滅的に苦手である。面白かったか、面白くなかったか。それ以上のことを、俺は本当に何も思わない。


「事務所は今日?」

「三時から」

「じゃあ二時間で書ける」

「書けない」

「書ける」


 美咲は原稿用紙を出した。


 どこから出したのかはわからない。この女は必要なものが必要なときに出てくる。小学校のときからそうだった。


「そういえば」


 美咲が言った。


「昨日の夜、遅かったんだって?」

「……なんで知ってる」

「ひなたちゃん」


 この家に秘密はない。


「電車が遅れたって聞いたけど」

「遅れた」

「遅れてないよ。昨日、その路線は定時運行だった」

「……調べたのか」

「調べた」


 俺は原稿用紙に向き直った。


 俺はペンを持った。持ったまま、五分動かなかった。


 追及から逃げていたのではない。原稿用紙の一マス目に何を書くかで、完全に思考が停止していた。「この本を読んで」から始めるのは小学生っぽい。かといって「主人公は」から始めると、あとで自分の意見を書く場所がなくなる。


 二時間かけて、四百字書いた。


 美咲は千二百字書いていた。


   ◇


 事務所に着いたのは十四時五十分だった。


 一階の受付を抜けて、階段を上がる。二階の廊下は昼間だと明るい。突き当たりの自販機まで、全部見える。


 その廊下の真ん中で、神楽坂さんとすれ違った。


 いや、すれ違わなかった。


 彼女は俺を見て、止まった。


 止まって、二秒くらい何もしなかった。


「……こんにちは」


 俺は言った。


 彼女は「うん」と言った。


 うん、である。


 この人はいつも「そう」か「時間、ないから」しか言わない。俺は入って二か月半で、この人から「うん」を引き出した記憶がない。


 そのまま、彼女は俺の横を通り過ぎた。


 通り過ぎて、三歩で止まって、振り返った。


 俺も止まっていた。


 目が合った。


 何も起きなかった。


 一人ぶんでは、たぶん足りないらしい。


「……なんでもない」


 彼女はそう言って、階段のほうへ行った。


 俺は廊下に立ったまま、三秒くらい考えた。


 そういえば昨日、この階の明かりがついていたな。


 ――と、思ったところで、自販機の前を通りかかった。


 微糖が、三本あった。


 俺の頭からは、それ以外のことが全部消えた。


   ◇


 その日のレッスンは、振り替えで、十五時から十八時までだった。


 昼のコマなので、人が通る。マネジメント部の人間が廊下を歩くし、他のタレントが鏡を借りに来る。今日は宣伝部の人が二人、後ろで打ち合わせをしていた。


 二人ぶんの意識が、たまにこっちを向いた。


 向いたとき、音が少しだけ薄くなった。薄くなって、すぐ戻った。人が打ち合わせをしながら見るのは、見ているうちに入らないらしい。


「高町」


 鴻上が寄ってきた。


「なに」

「神楽坂さん、今日おかしないか?」


 俺は手を止めた。


「おかしいのか」

「めっちゃおかしいやろ。さっき三階で会うたんやけど、俺が挨拶したら二回された」

「二回」

「『おはよう』って言われて、俺が『おはようございます』って言ったら、もう一回『おはよう』って言われた」


 それは、たしかにおかしい。


「あと、Bのスタジオの前を三回通ってた」

「三回」

「行って、戻って、また行った」

「用があったんじゃないか」

「三回目、手ぶらだったぞ」


 この男は、なぜか他人の観察だけは異様に細かい。


「体調じゃないか」

「かもな」


 鴻上はそう言って、あっさり自分の練習に戻った。


 俺も戻った。


 右足は、今日も半拍遅れた。


   ◇


 榊先生は、今日は最初から俺を放置していた。


 放置というと聞こえが悪いが、実際は正しい判断である。この人は「見学者がいる日といない日で、こいつは別人になる」ということに、たぶんもう気づいている。気づいた上で、理由を聞いてこない。


「高町」

「はい」

「今日、後ろで宣伝部の人が見てるよ」

「はい」

「見られてる自覚、ある?」

「……あります」

「じゃあなんで、さっきの通しであんなに縮こまってたの」


 わからん。


 俺にもわからない。宣伝部の二人は打ち合わせをしていて、そのついでにこっちを見ていた。ついでの視線は、たぶん、視線として数えられていない。


 榊先生はため息をついた。


「まあいい。膝、大事にしなよ」

「はい」

「私みたいになるから」


 この人は、指導の最後に必ずこれを言う。


 黒のジャージの膝に、いつも白いテープが貼ってある。理由は聞いたことがない。聞かなくても、たぶんわかる。


   ◇


 十七時。十分の休憩が入った。


 俺は二階の自販機の前に立った。


 微糖は、まだ三本あった。


 今日は買える。買えるとわかっていると、逆に選ぶのが遅くなる。となりのボタンにカフェオレがあって、こっちは冷たくて甘いが、甘すぎる。微糖とカフェオレの間には、俺が十七年かけて築いた複雑な力関係がある。


「あなた」


 声がした。


 振り返ると、神楽坂さんが立っていた。


   ◇


 彼女は、缶コーヒーを一本持っていた。


 既に買ったあとらしい。ブラックだった。左手の指で、缶の縁を押さえている。関節が太い。爪が短い。今日は、両手にテーピングが巻いてあった。昨日は左手だけだった。


「昨日、いた?」


 似た文面を、今朝スマホで読んだ気がした。


 というより、ほとんど同じだった。


「……あの、昨日の夜のあれ、神楽坂さんですか」

「番号は有本さんに聞いた」

「はい」

「返事、四文字だったけど」

「事実なので」


 彼女は、それには何も言わなかった。


「いた?」

「いました」

「事務所に」

「はい」

「何時まで」

「二十二時十二分くらいまで、二階にいました」


 彼女は黙った。


 それから、缶の蓋を開けた。


 開けて、飲まずに、閉めた。


 缶コーヒーの蓋は、一度開けると閉まらない。閉めたつもりで押さえているだけだ。彼女はそれを二回やった。


「……見た?」

「見ました」


 彼女は、また黙った。


 この人が黙るのを、俺は初めて見た。


 いつもこの人は、黙らない。考えるより先に喋って、喋る言葉が短いから、結果として黙っているように見えるだけだ。今、彼女は明らかに、言うか言わないかを選んでいた。


 廊下の突き当たりの窓から、夕方の光が入っていた。


「どう思った」


 彼女が言った。


「すごかったです」


 俺は答えた。


 それが、俺の思ったことの全部だった。


   ◇


 彼女は、俺の顔を見た。


 三秒か、四秒くらい見ていた。


 俺の顔は動かない。だから、こういうとき、相手はだいたい長く見る。長く見て、何も見つからなくて、それから自分で何かを結論する。今までもずっとそうだった。


「……それだけ?」


 彼女が言った。


「はい」


 それだけである。


 言い足すことがあるとすれば、一つだけあった。


「あの、二十一回目まで水飲まなかったですよね」


 彼女の指が、缶の縁で止まった。


「……数えてたの」

「はい」

「なんで」

「暇だったので」


 俺は正直に答えた。


 実際、あそこで俺にできることは他になかった。中に入るわけにもいかず、声をかけるわけにもいかず、かといってすぐ帰る気にもならなかった。だから数えていた。数えるのは、俺の数少ない特技である。


 神楽坂さんは、缶を持ったまま、俺を見ていた。


 それから、視線を落とした。


「……そう」


 いつもの返事だった。


 いつもの返事だったが、いつもより二段くらい低かった。


   ◇


「誰かに言った?」


 彼女が聞いた。


「言ってないです」

「これからも」

「はい」

「……言わないで」

「わかりました」


 彼女は頷いた。


 頷いて、缶コーヒーを持ったまま、階段のほうへ歩いていった。


 三歩目で、缶をゴミ箱に捨てた。


 一口も飲んでいなかった。


 俺は自販機の前に残されて、それから、微糖のボタンを押した。


 傍から見ると、トップアイドルに何か言われて、頷いて、一言も返さずに見送った後輩である。


 実際の俺は、この会話の最中、後半三十秒はずっとカフェオレのことを考えていた。


 何を言うなと言われたのかについては、正直、その時点でもう半分わからなくなっていた。


   ◇


 残りの一時間は、あっという間に終わった。


 十八時。上がり。今日は昼のコマなので、二十二時の心配をしなくていい。心配をしなくていい日は、それだけで一日の重さが違う。


 更衣室に戻る途中、レッスン室Aの前を通った。


 ドアの前に、神楽坂さんが立っていた。


 鞄を肩にかけていた。ドアノブに手をかけていない。かけようとして、やめた形で止まっている。中は空だった。今日の十九時からは、たしかこの人が押さえているはずだった。


 俺は「お疲れさまです」と言って通り過ぎた。


 彼女は返事をしなかった。


 俺は更衣室に入って、鞄から微糖を出して、それを飲みながら十分ほど座っていた。


 微糖は、うまかった。


   ◇


 鞄の中で、ミューナが小さく言った。


「昨日は誰にも見られてないんでしょ。見られてない日は、何も起きないし、あとにも何も残らないの。だから今日は軽いのよ」

(そうか)

「それより、あの子、動揺してるわね」

(誰が)

「……あんた、本気で聞いてる?」

(聞いてる)


 ミューナは、しばらく黙った。


「あんたね」

(なんだ)

「四十年前も、こういう男がいたわ」

(どういう男だ)

「いいえ、なんでもない」


 なんでもないなら言うな。


 俺は微糖を飲み干して、缶を捨てた。


   ◇


 十九時前に、三階が少しざわついた。


 俺は書類にサインをするために三階へ上がっていた。未成年なので、サインの半分は結局あとで父さんが書き直すことになる。意味があるのかどうかは知らない。


 犬飼さんの席の前で、真壁さんが立っていた。


「神楽坂が帰った」

「は?」

「帰ったの。十九時に」

「今日、レッスン室押さえてただろう」

「押さえてた。キャンセルして帰った」


 犬飼さんが椅子を回した。


「体調か」

「聞いた。なんでもないって」

「なんでもないわけがない」

「ないわね」


 真壁さんは腕を組んだ。


「あの子が定時で帰ったの、七年で初めて」


 犬飼さんは黙った。


 黙って、引き出しを開けて、胃薬のシートを出した。


 この人が引き出しを開ける速度は、事務所で一番速い。


「何かあったのか」

「わからない。だから来たの」

「うちに聞きに来る話か」

「あの子、昨日の夜も二階にいたのよ。それは毎日のことだから、いいの」


 真壁さんは、犬飼さんの机の角に指を置いた。


「問題は、今日の分をキャンセルしたこと」

「休みたかったんじゃないのか」

「あの子が休みたいと思ったことは、七年で一度もないわ」


 犬飼さんは、錠剤を押し出しながら言った。


「じゃあ、逆に休ませてやれ」

「そうしたわ。だから帰した」

「なら解決だろう」

「解決したから怖いのよ」


 俺には、この会話が何一つわからなかった。


 休みたいと言った人を休ませて、それが怖いというのは、どういう論理なのか。大人はときどき、こういう順番で喋る。


 わからないので、俺は自分の作業に戻った。


 名前を書くだけなのに三分かかった。楷書で書くと三分、崩すと三十秒だが、崩すと父さんに「読めん」と言われる。この選択も、俺の中では毎回それなりに重い。


「高町さん」


 有本さんが横から言った。


「はい」

「昨日、神楽坂さんと何かありました?」

「別に」


 俺は答えた。


 実際、何もなかった。俺は昨日、レッスンに出て、ゼリー飲料を買って、微糖が売り切れていて、一階で微糖を見つけて、七分迷って、明かりのついた部屋を覗いて、帰った。


 どこにも事件はない。


「そうですか」


 有本さんはタブレットに何か打ち込んだ。


 この人は、いつも何か打ち込んでいる。俺が階段を使うと打ち込むし、俺が返事に一拍かかると打ち込むし、今も打ち込んだ。何を書いているのかは知らない。


「高町さん」

「はい」

「昨日、二階に何時までいました?」

「二十二時十二分くらいです」

「……正確ですね」

「時計を見たので」


 有本さんは、また打ち込んだ。


   ◇


 書類を出して階段を降りると、一階の受付の前で宣伝部の人が二人、立ち話をしていた。


「神楽坂さん、帰ったって」

「え、今日レッスンじゃなかった?」

「キャンセル」

「珍しい」

「珍しいってレベルじゃないよ」


 珍しい、というのは、この会社の中では相当に強い言葉らしい。


 俺は横を通り抜けた。


 通り抜けながら、今日の夕飯のことを考えていた。うちは火曜が魚である。焼き魚が出る確率が七割で、煮魚が三割。俺は焼きのほうが好きだ。骨を外すのが得意だからである。


 人生で唯一、妹に勝てる技術がそれだった。


   ◇


 自動ドアの三歩手前で、後ろから呼び止められた。


 十九時半。犬飼さんだった。


 連れていかれたのは、三階の隅の、パーテーションで区切られた小さいスペースだった。応接室と呼ばれているが、椅子が二脚とテーブルが一つあるだけだ。


「高町」

「はい」

「座れ」


 俺は座った。


 犬飼さんは、テーブルの上に茶封筒を置いた。置いて、しばらく指で押さえていた。


「決まったぞ」

「何がですか」

「仕事だ」


 俺は、その言葉の意味を二秒くらい考えた。


 仕事。


 この二か月半、俺がやってきたのは全部レッスンだった。前屈で床に手が届かず、右足が半拍遅れ、鏡の中で猫背をしている時間である。それは仕事ではなかった。


「高町の、初仕事だ」


 犬飼さんが言った。


 俺は封筒を見た。


 薄い。指で押さえられるくらい薄い。中に厚みのあるものは入っていない。


「セリフは、一言だけだ」

「一言」

「一言だ」


 犬飼さんは、そこで少し笑った。


「安心したか」

「いえ」


 安心はしていない。


 一言というのは、逃げ場がないという意味である。三十行あれば、どこかで一行くらい良いものが混ざる。一言だと、その一言で全部が決まる。


 ――というようなことを、この時点の俺はまだ全然考えていなかった。


 この時点の俺が考えていたのは、もっと切実な問題だった。


「犬飼さん」

「なんだ」

「……何時に終わりますか」


 犬飼さんは、俺の顔を三秒見た。


 それから黙って、ポケットから胃薬のシートを出した。


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