第25話 まだ明かりがついていた
「高町くん。今の、右足が半拍遅れた」
「はい」
「もう一回」
もう一回やった。また遅れた。
「……もう一回」
三回目も遅れた。
榊先生は何も言わずに次に行った。何も言わないのは、良いという意味のときと、諦めたという意味のときがある。今日のは後者だ。
八月の第一週。月曜、十九時。ソレイユの二階、レッスン室A。三面の鏡に十人並んでいて、新人が二人と研究生が八人で、その中で俺だけが完全に沈んでいる。
夜のレッスンは、昼より静かだ。窓の外が暗いというだけの理由で、榊先生の手を叩く音が、昼より大きく聞こえる。
◇
誤解のないように言っておくと、俺は本当に、何もできない。
この二か月半で理解したことがある。俺は「見られているとき」だけ何かが起きる人間で、見られていないときは、この部屋で下から数えたほうが早い。
そして、夜のレッスンには見学者がいない。
昼は違う。昼は事務所の人間が通りかかるし、他のタレントが鏡を借りに来るし、榊先生が誰かを呼んでくることもある。だが十九時を過ぎると、二階にはレッスンを受けている人間しか残らない。
レッスンを受けている人間は、俺を見ない。
自分の鏡を見ている。全員が自分のことで手一杯だからだ。
鏡の中に、猫背の男が立っていた。
肩の高さが左右で違う。首が前に出ている。顎が引けていない。三面のどこを見ても同じ男が三人いて、三人とも同じ角度で頼りない。
これが素の俺である。
落ち込みはしない。事実だからだ。
ただ、腹は減る。
◇
この夜のコマが始まったのは、七月の半ばからだった。
初日の前に、犬飼さんに三階の廊下で捕まった。
「高町。夜のレッスンだが」
「はい」
「二十二時で上がれ」
「はい」
「返事が軽い」
「はい」
犬飼さんは胃のあたりに手を当てた。この人がこの動作をするときは、これから面倒な話をするときである。
「いいか。労働基準法では、満十八歳未満は夜十時から朝五時まで働けない。レッスンも労働時間だ。守らないと事務所が指導を受ける」
「はい」
「つまり、高町が一分残ると、うちが怒られる」
「わかりました」
「わかったか」
「はい。俺は帰ればいいんですね」
犬飼さんは、少し黙った。
「……高町。今、ちょっと嬉しそうだったか」
「いえ」
顔は動いていない。
「まあいい。とにかく帰れ。現場でも同じだ。この先、撮影で夜に押すことがある。そういうときは、高町だけ先に帰す」
「他の人は」
「残る」
「残って、どうするんですか」
「巻くんだよ」
巻く、というのは、押した時間を取り戻すという意味らしい。
つまり、俺が帰ると、残った人たちは急ぐことになる。
俺は、それをその場では理解しなかった。理解したのは、この日の二十二時である。
◇
二十一時に、十分の休憩が入った。
俺は廊下の自販機の前に立った。
この事務所には自販機が三台ある。一階の受付脇、二階の廊下の突き当たり、三階の給湯室の前。三台とも品揃えが違う。これは先月の研究成果である。
二階の自販機は、缶コーヒーの微糖が三列目の右にある。ただし十九時を過ぎると、だいたい売り切れている。三階の自販機は微糖が残りやすいが、三階はマネジメント部の大部屋があるので、犬飼さんに見つかると十分喋ることになる。
一階まで降りると、往復で四分かかる。休憩は十分しかない。
俺は二階の自販機のボタンを見た。
微糖は、売り切れていた。
◇
代わりに、ゼリー飲料を二本買った。
この自販機には三種類ある。白と、青と、緑。白が好きだ。青は甘くない。緑はマスカットだ。
今日は白が二本あった。
小さな勝利である。
一本をその場で飲んで、もう一本は明日ぶんとして自販機の横のベンチに置いた。あとで鞄に入れるつもりだった。
「高町、それ何」
鴻上が汗を拭きながら寄ってきた。
「ゼリー」
「うまい?」
「うまくはない」
「じゃあなんで飲むんだよ」
「効くから」
効く、というのは、実は嘘ではない。
反動が来たときに何を口に入れると復帰が早いか、俺は先月から順番に試している。おにぎりは重い。チョコは喉が渇く。炭酸は無理。ゼリー飲料は、噛まなくていい。
噛む、という動作にも体力が要ると気づいたのは、二週間前の桜坂駅である。
「なあ高町」
「なに」
「お前、二十二時で上がりだろ」
「上がる」
「俺も」
「そうか」
「なんでやねん。俺、今日いちばん調子ええのに」
この夜のクラスは十人いる。
そのうち、十八歳未満は俺と鴻上の二人だけだ。残りの八人は研究生で、いちばん上は二十一歳らしい。八人は二十三時までやる。俺たちは二十二時で追い出される。
「なあ、なんで俺らだけ帰されんの」
「法律だ」
「法律、こっちの都合はなんも聞かへんな」
聞かない。
聞かないから助かっている、とは言わなかった。
◇
この日いちばん面倒だったのは、二十一時四十五分からの十三分である。
榊先生が「ラスト、通し三本」と言った瞬間、有本さんが手を挙げた。
「高町さんと鴻上さんは、二十一時五十八分で上がりです」
「三本入らないじゃん」
「入りません」
「じゃあ、あの二人が入るとこを先に三回まとめる」
そこからが地獄だった。
地獄だったのは俺ではない。残りの八人である。
俺と鴻上の場面を先に三回やるために、八人が立ち位置を三回組み替えた。組み替えるたびに榊先生が「そっち、半歩前」「そこ空けない」と飛ばした。誰も水を飲まなかった。二十一歳の人が二回、他人の位置まで直しに行った。
俺は三回とも同じ場所に立って、同じ八小節をやって、三回とも右足が半拍遅れた。
そして二十一時五十八分になった。
「はい、二人上がり」
八人が、同時にこっちを見た。
八人ぶんの視線である。強い視線ではない。「お前らのために三回組み替えた」という、ぬるい視線だった。
音は遠のかなかった。
ぬるい視線は、燃料にならないらしい。
俺は鞄を掴んだ。
鴻上は掴まなかった。壁際で「あと一時間やりたい」と本気で言っていて、有本さんに背中を押されていた。
この男と俺は、同じ法律で同じ扱いを受けているのに、受け止め方が正反対である。
俺は今、この上なく得をした気分でいる。
三時間ぶんの練習の疲れだけを持って、まだ電車がある時間に、家に帰れる。二十二時に追い出される権利というのは、よく考えると相当に強い権利だ。
「お疲れさまでした」
「早い」
誰かが言った。誰が言ったのかは確認しなかった。確認している時間が惜しかった。
ドアを閉める直前、榊先生の声が聞こえた。
「――残り、B室に移動! Aは二十二時から押さえが入ってる! 走って!」
背中で、八人が動き出す音がした。
俺は階段を降りた。
◇
更衣室で着替えながら、俺は自分の状況を整理した。
一つ、俺は帰れる。
二つ、八人は残る。
三つ、俺の夕飯は今日、その八人より一時間早い。
三つ目が一番強かった。
隣で鴻上が、まだ「あと一時間」と言い続けていた。同じ扱いを受けて、こんなに損した顔ができる人間を、俺は初めて見た。
傍から見ると、みんながまだ通しをやっている部屋を、鞄を掴んで一人で出ていく新人である。
実際の俺は、更衣室で靴紐を結びながら、家の冷蔵庫に昨日の唐揚げが何個残っていたかを数えていた。四個だった気がする。三個かもしれない。妹がいるので、たぶん二個になっている。
急いだほうがいい。
◇
二階の廊下は暗かった。
節電で、二十二時を過ぎると廊下の照明が半分落ちる。突き当たりの自販機だけが白く光っていて、そこまでの十メートルが薄暗い。
俺は階段のほうへ歩いた。
レッスン室Aの前を通った。中はもう暗かった。八人はB室に移ったらしい。廊下の奥のほうから、かすかに音楽が聞こえていた。
俺はそのまま通り過ぎた。
階段を降りて、一階に出た。
一階の受付脇にも自販機がある。二階と品揃えが違う。ここは微糖が残りやすい。理由はわかっている。受付の人が日中に買うのは無糖で、微糖を買うのは十九時以降に来る人だけで、十九時以降に一階に来る人間はほとんどいないからだ。
俺はボタンを見た。
微糖が、二本あった。
俺は無表情のまま、その場で小さく息を吐いた。
一本買って、鞄に入れて、もう一本を明日のぶんとして買うかどうかで、たっぷり七分迷った。買えば明日は確実に飲める。だが今日買ったものを明日まで持つと、鞄の中で温くなる。温い微糖は、微糖の良さの半分を失う。
結論、買わなかった。
結論を出したところで、鞄の外ポケットが軽いことに気づいた。
白いゼリー飲料である。明日ぶんの一本を、二階の自販機の横のベンチに置いてきていた。休憩のときに置いて、そのままだ。
明日ぶんがないと、明日困る。
俺は階段を上がり直した。
◇
ここで一つ、言い訳をしておく。
この時点で、時刻は二十二時十二分だった。
俺は既に仕事を終えている。労働時間は終わっていて、建物の中を歩いているだけなら誰にも文句を言われない。ただ、犬飼さんには「二十二時になったら何があっても帰れ」と言われている。
つまり、俺は少し急いでいた。
急いでいたから、二階の廊下の突き当たりまで戻って、ベンチの上のゼリー飲料を回収して、また階段へ戻る途中だった。
廊下の照明は半分落ちていた。B室の音楽は、まだ遠くで鳴っている。
そのときに、音がした。
◇
「ぎ」
という音だった。
板が軋む音である。
俺は足を止めた。
音は、レッスン室Aの中から聞こえた。
さっき通ったとき、この部屋は暗かった。
今は、音楽が鳴っていない。人の話し声もしない。それなのに、板が鳴った。
俺はドアを見た。
ドアの下から、光が漏れていた。
明かりがついていた。
◇
ドアが、十センチほど開いていた。
誰かが換気のために開けたのだと思う。夏の夜で、二十畳の部屋に十人が三時間いれば、そうなる。
俺はその隙間を覗いた。
中に、一人いた。
神楽坂澪だった。
◇
彼女は鏡の前に立っていた。
グレーのスウェットの上下で、髪を後ろで一つに束ねていて、素足だった。床にペットボトルが一本と、タオルが一枚置いてある。音楽は鳴っていない。
彼女は、何もない床の一点を見て、そこから動き出した。
八小節だった。
右に踏み出して、体を沈めて、腕を上げて、そのまま回る。回りきったところで止まる。
止まって、また同じ場所に戻る。
もう一回。
右に踏み出して、沈めて、上げて、回る。止まる。戻る。
もう一回。
右に踏み出したところで、彼女の左足が入口から三枚目の板を踏んだ。
「ぎ」
板が鳴った。
彼女は止まらなかった。同じ場所へ戻って、もう一回やった。板がまた鳴った。
もう一回。
もう一回。
三回目のあと、彼女は自分の右腕を左手で掴んで、角度を三センチだけ直した。それから同じ八小節をもう一回やった。板が鳴った。止まった。戻った。
鏡の中の彼女を、鏡の外の彼女が見ていた。
もう一回。
七回目で、着地が崩れた。
膝が内側に入って、彼女は片手を床についた。ついたまま、二秒くらい動かなかった。それから立ち上がって、スウェットの膝を払って、また同じ場所に戻った。
もう一回。
板が鳴った。
◇
俺は、そこに立っていた。
どれくらい立っていたのかはわからない。
音楽は最後まで鳴らなかった。休憩も入らなかった。彼女はただ、同じ八小節を、同じ場所で、何度もやり直していた。
俺は、数えていた。
なぜ数えていたのかは、自分でもわからない。ただ、数えるくらいしかできることがなかった。
十二回目のとき、彼女は途中で止まった。
止まって、右腕を上げたまま、その角度を鏡で確かめた。腕は上がりきっていた。素人の俺の目には、十一回目とどこも違って見えなかった。
彼女は腕を下ろして、また同じ場所に戻った。
十五回目のとき、髪を結び直した。
十八回目のとき、床の同じ場所で足が滑った。滑って、上半身が半分だけ崩れて、そこから立て直した。立て直したあと、彼女はその床を素足でこすった。汗が落ちていたらしい。タオルで拭いて、また同じ場所に戻った。
二十一回目で、彼女は初めてペットボトルを取った。
一口飲んで、蓋を閉めて、床に置いて、また同じ場所に戻った。
その間、彼女は一度も鏡以外を見なかった。
入口のほうも、時計も、スマホも、見なかった。
◇
すごい人だな。
俺が思ったのは、それだけだった。
◇
帰らなければいけない。
それを思い出したのは、腕時計を見たからではなく、腹が鳴りそうになったからだった。
俺は体の向きを変えた。
変えるときに、半歩ぶん、体が前に出た。
右足が、ドアの内側に入った。
入口から、三枚目だった。
「ぎ」
板が鳴った。
◇
音楽は鳴っていなかったので、止まる音楽はなかった。
代わりに、足音が止まった。
俺は振り返らなかった。
振り返らずに、廊下を歩いて、階段を降りて、一階の受付を抜けて、自動ドアを出た。
外は蒸していた。
神南の坂を下りながら、俺は自分の判断について考えていた。挨拶をするべきだったのだろうか。だが挨拶をするには、まず「見ていました」と言う必要がある。それは、たぶん、しないほうがいい種類の報告である。
結論として、俺は逃げた。
逃げたことについては、特に何も思わなかった。
◇
渋谷駅のホームで、鞄の中から声がした。
「……ねえ」
ミューナだった。
周りに人がいたので、俺は口を動かさずに答えた。
(なんだ)
「神楽坂の子ね」
(そうだ)
「見た?」
(見た)
ミューナは、しばらく黙っていた。
「あの子、素質、ないわよ」
(この前も言ってた)
「今日は、確信したの」
電車が来た。
俺は乗って、ドアの横に立った。窓の外を、看板の光が流れていく。
「ないやつは、あそこを直すの」
ミューナが言った。
「あるやつはね、直さないの。直さなくてもできちゃうから。わたしもそうだった。四十年前、わたしは一度も同じところを二十回やらなかった」
俺は何も言わなかった。
言うことがなかった。
「……四十年前ね」
ミューナは、それだけ言って黙った。
◇
家に着いたのは二十三時二十分だった。
唐揚げは、二個残っていた。
妹が二個残していた。三個食ったらしい。皿の横に付箋が貼ってあって、「二個までね」と書いてあった。二個までというのは、俺への指示ではなく、自分への制限だったらしい。
俺は立ったまま二個とも食べた。
妹がリビングから顔を出した。
「兄ちゃん、遅い」
「レッスンだ」
「二十二時までじゃないの」
「電車が遅れた」
嘘である。
嘘をついた理由は、説明が面倒だったからだ。説明するには、まず「レッスン室を覗いた」と言わないといけない。それを言うと、この妹は必ず「誰が」と聞く。「誰が」に答えると、そこから四十分は解放されない。
「顔、変」
「変じゃない」
「変だよ。いつもよりちょっと変」
俺は洗面所の鏡を見に行った。
いつも通りの顔だった。
◇
その日、俺は動けなくならなかった。
「点いてないんだから、当たり前でしょ」
鞄の中からミューナが言った。
「点かなければ、来ないの。今日のそれは、ただの空腹よ」
ただの空腹は、めちゃくちゃだった。
◇
風呂に入って、部屋に上がって、ベッドに座った。
机の右奥のミューナは、こっちに背中を向けていた。台座の上で、いつのまにか向きが変わっている。この人はときどきこれをやる。
スマホを見ると、通知が三件あった。
一件は妹。〈唐揚げ二個残した。褒めて〉
一件は美咲。〈明日、読書感想文の提出日。持った?〉
持っていない。
俺はその二件に返事をして、三件目を開いた。
三件目は、知らない番号からだった。
登録していない。事務所の代表番号でもない。犬飼さんでも有本さんでもない。
メッセージは、五文字だった。
〈さっき、いた?〉
俺は三回読んだ。
誰からなのか、まったくわからなかった。




