第24話 客席のほうが楽だ
土曜の朝、玄関で妹に足首を掴まれた。
「連れてって」
「無理だ」
「なんで」
「関係者席は一枚しかないらしい」
「あたしが関係者になる」
「なり方を教えてくれ」
妹は床に座り込んだまま、俺の足首を掴んで離さなかった。
この日のために、こいつは一週間かけて交渉してきた。トークで送ってきた文面は毎回長く、根拠が具体的で、最後に必ず「損はさせない」と書いてあった。中学三年が使っていい言葉ではない。
「兄ちゃんはさ、行っても何もわかんないでしょ」
「わからん」
「あたしは全部わかる」
「知ってる」
「じゃあ、あたしが行くべきじゃない?」
正論だった。
正論だが、俺には決定権がない。決定権は犬飼さんにあり、犬飼さんは昨日の夜、電話でこう言っていた。
――妹さんは、絶対に連れてくるな。
理由は聞かなかった。聞かなくてもわかった。
「離せ」
「やだ」
「電車が来る」
「……写真は」
「撮れないと思う」
「じゃあ目で全部覚えてきて。あたしに説明して。一秒ずつ」
無茶を言う。
俺は足首を振りほどいて、家を出た。
◇
有明シーサイドアリーナは、海の近くにあった。
でかい。
感想がそれしかない。灰色の建物で、丸くて、上のほうが反っている。周りが全部埋め立て地なので、視界を遮るものが何もない。だから遠くから見えるし、遠くから見えるぶん、近づいたときの大きさが頭に入ってこない。
建物の周りに、人が並んでいた。
列というより、面だった。歩道が人で埋まっていて、その人たちがゆっくり同じ方向に流れている。ほとんどが女の人で、半分くらいが同じ色のタオルを首にかけている。
「一万五千だ」
犬飼さんが言った。
三十八歳。今日はスーツではなく、黒のポロシャツにチノパンだった。それでも背中が丸い。この人の背中は何を着ていても丸い。
「一万五千人?」
「そうだ」
「一日で?」
「二日でだ。今日と明日。両方満員だから、三万」
三万。
俺の高校の全校生徒が九百人くらいで、それが体育館に入るとかなりぎゅうぎゅうになる。三万は、その三十三倍である。
計算はできた。想像はできなかった。
「高町!」
後ろから声がした。
鴻上が走ってきた。半袖のシャツで、髪をいつもより立てていて、明らかに気合いが入っている。
「来てたのか」
「俺も呼ばれた。勉強だってさ」
「勉強」
「意味わかる?」
「わからん」
「よかった、俺も」
この男といると、わからないことがわからないままでよくなる。
◇
中に入ると、犬飼さんが関係者用の入口へ回った。
通路が狭くて、灰色で、壁にケーブルがまとまって這っている。すれ違うスタッフが全員インカムをつけていて、全員早足だった。誰も俺たちを見なかった。
「ゲネはもう終わってる」
「げね」
「ゲネプロ。本番と同じ通し稽古のことだ」
「はい」
わからん。
わからないが、要するにもう一回全部やったということらしい。今日はこれから、同じことをもう一回やるわけだ。二回目のほうが本番だというのが、少し不思議だった。
「香盤、変わってないですか」
犬飼さんが誰かに聞いた。
こうばん、というのも知らない。あとで調べようと思って、たぶん忘れる。
◇
楽屋の前で、犬飼さんが足を止めた。
「一分だけ挨拶する。余計なことは言うな」
「はい」
「本当に、一言もだ」
念を押された。
ドアが開いて、真壁さんという人が出てきた。四十くらいの、髪をきっちり束ねた女の人で、犬飼さんに向かって「五分押してる」と言った。犬飼さんが「じゃあ三十秒で」と言った。挨拶の時間が半分になった。
中に、神楽坂さんがいた。
鏡の前に座って、白いガウンみたいなものを着ていた。髪はもう固めてあって、光の当たり方が普通の人と違う。首の後ろにタオルが挟んである。
「失礼します」
犬飼さんが言った。
「高町と鴻上を、今日入れてる。勉強させたくて」
「そう」
それだけだった。
神楽坂さんは鏡越しにこっちを一度見て、それで終わりだった。目が合ったのは一秒もない。
俺は、その一秒で、彼女の手を見た。
鏡の前の机に、両手が置かれていた。指の関節が太い。爪はぎりぎりまで短く切ってある。左手の人差し指の付け根に、皮が厚くなったところがあって、そこに新しいテーピングが半分だけ巻かれていた。半分だけなのは、これから残り半分を巻くところだったからだ。
俺たちが入ってきたので、途中で止まっている。
「時間、ないから」
彼女が言った。
犬飼さんが頭を下げて、俺たちを廊下に押し出した。
ドアが閉まる直前、テープを引っ張る音が聞こえた。
◇
傍から見ると、トップアイドルの楽屋で、入口から三歩のところに立ったまま一言も喋らなかった新人である。
実際の俺は、部屋に入ってから出るまでの三十秒間、ずっと「靴を脱ぐべきかどうか」を考えていた。
楽屋の床にマットが敷いてあった。土足で入っていいマットなのか、脱ぐマットなのかがわからなかった。犬飼さんは靴のままだった。だが犬飼さんが正しいとは限らない。この人はときどき間違える。
結局、俺は靴のまま入って、つま先を三センチだけマットの外に置くという、誰の役にも立たない折衷案を実行した。
誰も見ていなかった。
◇
関係者席は、二階のいちばん端だった。
ステージが斜めに見える。真正面ではない。犬飼さんいわく「音は悪いが、客席が全部見える席」らしい。
開演の十分前に座った。
その十分が、いちばん怖かった。
客席が埋まっていく。下から順に、色のついた点が増えていく。ざわめきが均一で、どこか一箇所が大きいわけではなく、全体が同じ音量で鳴っている。海みたいだと思ったが、海を見たのは去年の夏が最後なので、あまり自信がない。
鴻上が前のめりになって手すりを掴んでいた。
「やべえ」
「まだ始まってない」
「始まってへんのにやべえのがやべえんや」
言っていることはめちゃくちゃだったが、意味はわかった。
俺は自分の座り方について考えていた。
この椅子は座面が固く、背もたれが浅く、前の席との間隔が狭い。二時間半、ここに座ることになる。深く座ると背中が丸まる。浅く座ると腰が疲れる。中間で座ると、たぶん一時間で足がしびれる。
どの座り方が最も損失が少ないか。
俺はそれを、開演までの残り四分で真剣に検討した。結論は出なかった。出ないまま照明が落ちた。
「高町」
犬飼さんが、隣で前を向いたまま言った。
「今日は、何もしなくていい」
「はい」
「見るだけでいい。見て、何も思わなくてもいい」
「はい」
「ただ、一つだけ数えてみろ」
「何をですか」
「客席のうち、何人があいつを見てるか」
俺は客席を見た。
一万五千である。数えられるわけがない。
「無理です」
「無理か」
「はい」
「そうだ。無理だ」
犬飼さんは、それだけ言って前を向いた。
この人はときどき、答えを言わないまま質問を終わらせる。
◇
照明が落ちた。
全部落ちた。非常口の緑色だけが残った。
悲鳴が上がった。悲鳴というより、一万五千人が同時に息を吸った音だった。それが一秒くらい続いて、それから、うねりに変わった。
俺は、体が椅子に押しつけられる感じがした。
音はまだ鳴っていない。何も始まっていない。それなのに、空気の重さが変わった。
そして、ステージの真ん中に、細い光が一本落ちた。
その中に、神楽坂澪が立っていた。
◇
一万五千人が、そこを見た。
俺には、それがはっきりわかった。
わかった、というのは比喩ではない。客席の顔が全部同じ方向を向いていて、腕が同じ角度で上がっていて、それが一枚の面になって、ステージの一点に向かって傾いていた。傾いているのが目に見えた。
傾いた先に、人が一人立っている。
思った瞬間、指先が震えた。
寒くはない。会場は暑いくらいだ。それでも、膝の上に置いた手が細かく震えて、止め方がわからなかった。三十秒くらいそのままだった。
音が遠のくことはなかった。
輪郭ははっきりしなかった。背筋も伸びなかった。俺は二階の端の椅子に、いつも通りの背中で座っていた。
当たり前だ。
この会場に一万五千人いて、そのうち俺を見ている人間は、ゼロだ。
わかったことが三つあった。
一つ、注目というのは、こういう形をしている。
二つ、俺が今まで浴びてきたのは、教室の三十六人と、事務所の社員十数人と、レッスン室の十二人だけだ。
三つ、それでも俺は、帰りの階段で毎回動けなくなっている。
三つ目を考えたところで、俺は考えるのをやめた。
その先を考えると、たぶん、あまり良くないことになる気がした。良くないことになる気がしたので、代わりに、帰りに何を食うかを考えた。海の近くなので、たぶん駅前にラーメン屋がある。
これが、一万五千人の熱の真ん中で、俺の頭に浮かんだことの全部である。
◇
一曲目は、聞いたことがある曲だった。
妹が半年前からずっと家で流している。「スターダスト・トーキョー」というらしい。歌詞は覚えていないが、最初の四音は覚えている。
その四音が鳴った瞬間、客席が跳ねた。
全員が同時に跳ねた。床が揺れた。二階の手すりが震えた。俺は思わず手すりから手を離した。
ステージの上で、神楽坂澪が動いていた。
俺は、ダンスの良し悪しがわからない。榊先生に何度説明されてもわからない。うまいか下手かではなく、そもそも何を見ればいいのかがわからない。
それでも、この人が一度も止まっていないことだけはわかった。
二曲目も、三曲目も、四曲目も、止まらなかった。歌いながら動いて、動きながら息を継いで、継いだところが聞こえない。三曲目の終わりで初めて水を飲んで、飲んだ時間はたぶん二秒だった。
隣で鴻上が「化けもんやん」と言った。
俺は何も言わなかった。
言葉が出てこなかったのではない。ただ、この人はこれを七年やっていると犬飼さんが言っていたのを思い出していた。七年。俺が芸能事務所というものの中に入ってから、まだ一か月半である。
◇
中盤に、MCがあった。
客席が静かになる。神楽坂さんが息を整えて、それからマイクを持ち直した。
「来てくれて、ありがとう」
一言だった。
そのあと、五秒くらい間があった。何か言おうとして、やめたように見えた。
「……あと十二曲あるので、水、飲んでください」
会場が笑った。
一万五千人が同時に笑うと、笑い声ではなく、風のような音になる。
犬飼さんが横で小さく言った。
「あいつ、喋るのだけは七年経っても下手だな」
この人は、こういうことを言うときだけ、背中が少し伸びる。
◇
終盤、神楽坂さんがステージの端まで歩いた。
二階の、俺たちがいる側だった。
そこで一度、客席を端から端までゆっくり見渡した。手を上げるでもなく、何かを言うでもなく、ただ見た。
視線が、こっちを通った。
通っただけだ。速度も変わらなかった。
それでも、そのとき、音が少しだけ遠のいた。
半秒くらいだった。輪郭がはっきりしかけて、背中が伸びかけて、そこまでだった。彼女の視線が次の区画に移った瞬間、全部が戻った。俺はまた、二階の端で猫背をしている高校生に戻っていた。
点かなかった。
点きかけて、やめた。
一人ぶんだと、これくらいらしい。
――というか、今の、たぶん俺を見たんじゃない。この列を見ただけだ。
この列には、五十人くらい座っている。
顔は、動かなかった。
◇
最後の曲が終わって、照明が全部ついた。
一万五千人が拍手をしていた。
一万五千人ぶんの拍手が、天井に反射して、上から降ってきた。
ステージの上で、神楽坂澪が頭を下げていた。
下げたまま、しばらく上げなかった。
◇
アンコールがあった。
客席が一斉に同じ言葉を繰り返していて、それが二分くらい続いた。二分は長い。一万五千人が二分間同じ言葉を言い続けると、言葉が意味を失って、ただの波になる。
波が続いている間、俺は考えていた。
この人たちは、今この瞬間、ここにいない人を呼んでいる。呼べば出てくると全員が知っている。知っているのに二分呼ぶ。
そういう決まりらしい。
鴻上に「これ、絶対出てくるのに、なんでみんな呼ぶんだ」と聞いたら、「そういうもんだろ」と言われた。
そういうものらしい。
神楽坂さんは出てきた。
着替えていた。髪を下ろしていた。息がまだ上がっていて、マイクを持つ前に一回、肩を大きく動かした。
そして、また歌った。
二時間半、止まらなかった人が、そこからもう二曲やった。
◇
帰りの通路は混んでいた。
鴻上はずっと喋っていた。三曲目の照明がどうとか、六曲目で衣装が変わった秒数がどうとか、彼が何を見ていたのかは俺にはさっぱりわからなかったが、とにかくずっと喋っていた。
外に出ると、海の匂いがした。
空はもう暗くて、街灯の光が湿っていた。
「どうだった」
犬飼さんが聞いた。
「すごかったです」
「それだけか」
「はい」
犬飼さんは笑った。笑って、胃のあたりに手を当てて、ポケットから錠剤のシートを出した。
「あれが七年だ」
「はい」
「あれと同じ会社に、高町はいるんだ」
それは知っていた。
知っていたが、今日まで、それがどういう意味なのかを一度も考えたことがなかった。
「犬飼さん」
「なんだ」
「さっきの、答えは」
「何がだ」
「何人があの人を見てたか」
犬飼さんは、少し歩いてから答えた。
「全員だ」
「はい」
「一万五千人が二時間半、一人も余所見をしなかった。あんなものは、そう起きない」
それから、こう続けた。
「人数じゃないんだ。何人来たかじゃなくて、何人がそこだけを見てたか。……まあ、今はまだわからんだろうが」
わからなかった。
わからなかったが、二階の端で膝の上の手が震えていた三十秒のことは、たぶん一生忘れないと思った。
「腹、減りました」
「うん?」
「駅前にラーメン屋、ありますか」
「……あるが」
犬飼さんは俺の顔を見た。
見て、それから、噴き出した。
「高町な」
「はい」
「今の会場を見たあとの第一声が、それか」
「はい」
鴻上が横で腹を抱えていた。何がそんなに面白いのかはわからなかった。
◇
電車に乗ってから、鞄の中で声がした。
「……ねえ」
ミューナだった。
ライブが始まってから終わるまで、この人は一言も喋らなかった。それに気づいたのは、今だった。
「なんだ」
「あのアイドルの子」
「神楽坂さん」
「そう。あの子」
ミューナは、少し間を置いた。
「素質、ないわね」
「わかるのか」
「わからないわよ。わたしにも見抜けない。……でも、ないと思う」
「なんでだ」
「あるやつは、あんなに何度も同じところを直さないの」
俺はそれを、窓の外を見ながら聞いていた。
電車は湾岸の高い場所を走っていて、下にコンテナが並んでいるのが見えた。
「ないのに、あれなのよ」
ミューナは、そう言って黙った。
それきり、家に着くまで一言も喋らなかった。
◇
家に帰ったら、玄関に妹が立っていた。
腕を組んでいた。
「説明して」
「無理だ」
「一秒ずつって言ったでしょ」
「覚えてない」
「二時間半あったんでしょ」
「あった」
「じゃあ何か覚えてるでしょ」
俺は靴を脱ぎながら、少し考えた。
覚えていることは、いくつかあった。テーピングが半分だけ巻かれていたこと。水を飲んだ時間が二秒だったこと。MCで五秒黙ったこと。最後に頭を下げて、しばらく上げなかったこと。
だが、それを説明する言葉を、俺は持っていなかった。
「腹が減った」
「そこじゃない」
◇
風呂から出たら、スマホに通知が二件溜まっていた。
一件は美咲だった。〈明日、現代文の課題〉。
もう一件は犬飼さんだった。
〈来週から、レッスンの時間が変わる〉
〈月・水・金、十九時から二十二時〉
夜になった。
俺は画面を見たまま、少し考えた。夜のレッスンということは、学校のあとにそのまま行くということで、帰るのは二十二時過ぎということで、つまり夕飯が遅くなる。
問題は夕飯だ。それ以外に問題はない。
その下に、もう一行あった。
〈二十二時になったら、何があっても帰れ。一分でも過ぎたら法律違反だ〉
俺は画面を三回読み直した。
三回読み直して、理解した。
――帰っていいのか。
いや、帰らないといけないのか。
みんなが残っていても、俺だけ帰らないといけないのか。
俺は無表情のまま、風呂上がりの廊下で、小さくガッツポーズをした。




