第23話 十七分だってさ
「兄ちゃん、十七分」
声は聞こえた。だが、体が動かなかった。
うちのリビングのソファである。俺はそこに沈んでいた。右腕はクッションの上に落ちていて、左足だけが辛うじて床に届いている。動かせないわけではない。動かす気力がないだけだ。正確には、動かす気力を出すための気力がない。
妹が床に座って、こっちを見上げていた。
この家で椅子に座らない唯一の人間である。片手にスマホ、もう片手に大学ノート。中学三年が大学ノートを使っている理由を、俺は一度も聞いたことがない。
「十七分。今日も十七分」
「……なにが」
「兄ちゃんが動かなかった時間」
俺は天井を見た。
蛍光灯の傘の内側に、去年の夏の蛾が一匹入ったままになっている。母さんは気づいていない。俺は三か月前から気づいているが、脚立を出すのが面倒で放置している。
「聞いてる?」
「聞いてる」
「感想は」
「……何やってんだ」
その日の俺の感想は、これで全部だった。
◇
その日を、朝から順に説明する。
まず学校だった。七月の頭で、期末考査が終わった直後で、教室の空気が完全に緩んでいた。窓を全部開けても風が入らない。前の席の熊沢が下敷きで自分を扇ぎながら、後ろ向きに俺のほうを見ていた。
「高町、今日も事務所?」
「行く」
「毎日行ってんの?」
「毎日じゃない」
「毎日じゃん」
毎日ではない。週に四日だ。
昼休みに、美咲が俺の机の前に来た。前の席の奴の椅子を勝手に借りて、後ろ向きに座る。小学生のときからこの座り方をする。
彼女はクリアファイルを机に置いた。
中に、A4の紙が一枚入っていた。表になっている。月曜から日曜まで、縦に時間、横に日付。事務所の予定と、学校の予定と、課題の締め切りが、色を変えて書き込まれている。
「これ、来週ぶん」
「毎週作ってるのか」
「作ってる」
「なんで」
「あなたが把握してないから」
把握はしている。
把握はしているが、把握している内容が三日おきに変わるので、把握しているだけでは足りない。それは俺も薄々気づいていた。
「金曜、現代文の課題。木曜の夜に事務所が入ってるから、水曜までに終わらせて」
「わかった」
「わかったって言うとき、あなた、だいたいわかってない」
「わかってる」
「じゃあ課題の内容は」
「……」
美咲は何も言わずにファイルの二枚目を出した。
二枚目には、課題の内容が書いてあった。
この幼馴染は、一か月前から事務所に出入りするようになった。犬飼さんに名刺をもらっていた。中身が高校生のスケジュール表なのに、渡し方がやたら本格的だった。
「高町くん」
「なに」
「無理はしないでね」
「してない」
「してないなら、なんで最近、帰ってから一回死んでるの」
俺は美咲を見た。
この女は、俺が言っていないことを、たまに知っている。
「誰から聞いた」
「ひなたちゃん」
◇
午後は事務所だった。
渋谷区神南、ソレイユの二階、レッスン室A。入口から三枚目の床板が、踏むと「ぎ」と鳴る部屋である。
最初の一時間はストレッチと基礎。この時間、俺は完全に置物である。
前屈で床に手が届かない。開脚が九十度で止まる。片脚立ちで五秒もたない。隣で鴻上が百八十度に開いたまま雑談をしている。その隣で神保が、俺が三回に一回しかできないことを三十回連続でやっている。
俺はその横で、昼に食べたコロッケパンのことを考えていた。
事務所の下のコンビニのやつだ。衣が厚くて、ソースが多くて、パンが甘い。あれは強い。あれの二個目を買うかどうかで五分迷って、結局買わなかった。今その判断を心の底から後悔している。
「高町、腹減ってる?」
鴻上が開脚したまま言った。
「減ってない」
「顔が減ってる」
「顔は動かない」
「そこがすごいねんな」
この男は、俺の顔が動かないことを一度も気味悪がらない。出会って一か月、ずっとこの調子だ。褒めてはいないが、貶してもいない。ただ面白がっている。
◇
問題は、その次だった。
「はい、じゃあ一人ずつ通す」
榊先生が手を叩いた。
ダンス講師の榊遥先生。三十四歳。黒のジャージで、いつも裸足で、ショートカット。俺に「才能、ないね。今のところ」と正面から言った人である。嘘をつかないことが親切だと本気で信じている人らしい。
「頭から八小節。一人ずつね」
部屋の空気が、すっと締まった。
新人と研究生で十人。榊先生と、その日は大久保先生も壁際に座っていた。合計十二人。全員が、これから一人ずつ、順番に、真ん中に立つ人間を見る。
俺は自分の順番が来るまで、壁にもたれて待っていた。
九人目まで終わった。鴻上が異様にうまくて、榊先生が「そう、そこ」と二回言った。神保は正確で、榊先生は何も言わなかった。何も言わないのは、悪いという意味ではないらしい。
「はい、高町くん」
俺は真ん中に出た。
十二人が、俺を見た。
教室の音が遠のいた。輪郭がはっきりした。背筋が伸びた。
鏡の中で、俺の肩の位置が半分ほど上がったのがわかった。三面の鏡に俺が三人いて、三人とも同じ角度で顎を引いている。天井の時計の秒針が、やたらはっきり見えた。榊先生のジャージの膝に、白いテープが貼ってあるのが見えた。
音楽が鳴った。
あとのことは、あまり覚えていない。
覚えているのは、終わったとき、部屋が静かだったことだけだ。
「……高町くん」
「はい」
「さっきまで開脚九十度だったよね」
「はい」
「なんでリズムだけ取れてるの」
「わかりません」
これは嘘ではない。
榊先生は十秒くらい黙って、それから壁の大久保先生のほうを見た。大久保先生は笑っていた。この人は、できないことも、できすぎることも、全部同じ顔で面白がる。
「もう一回」
「はい」
「今の、シンコペーションのとこ、もう一回だけ」
わからん。
俺は今、何を言われたのかまったくわからなかったが、体は勝手にもう一回同じ動きをした。
「……気持ち悪いな、高町くん」
榊先生はそう言って、次に行った。
壁際に戻ると、鴻上が肘でつついてきた。
「なあ」
「なに」
「お前、家で練習してる?」
「してない」
「嘘だろ」
「してない」
これも嘘ではない。俺は家で一度も踊っていない。踊る場所がない。六畳の部屋には机とベッドと本棚しかなく、床の空きは一畳ぶんもない。
「じゃあなんでできんねん」
「わからん」
「腹立つわ」
鴻上は笑っていた。腹は立てていない。この男が腹を立てているところを、俺はまだ一度も見たことがない。
神保は何も言わなかった。
神保亮。十七歳。同期で、基礎ができていて、ストレッチでも発声でも俺より上で、榊先生が何も言わない側の人間である。彼は自分のタオルで顔を拭きながら、鏡のほうを見ていた。鏡の中で、さっき俺が立っていた場所を見ていた。
俺はその横で、二個目のコロッケパンを買わなかった判断について、もう一度後悔していた。
傍から見ると、二度名指しされて、二度とも同じ場所へ出ていって、終わったあとは壁際に戻って立っている新人である。
実際には、俺は「シンコペーション」という単語の意味を今も知らないし、この八小節の振りの名前も知らないし、そもそも自分がさっき何をしたのかを説明できない。
説明できないことを、周りは「余裕」と呼ぶ。
余裕ではない。記憶がないだけだ。
◇
レッスンが終わったのは十七時半だった。
更衣室を出たところで、有本さんに呼び止められた。
有本千夏さん。二十六歳。犬飼さんの下のマネージャーで、しゃべるのが速くて、タブレットの操作がもっと速い。
「高町さん、来週の予定なんですけど」
「はい」
「……高町さん?」
「はい」
「聞いてます?」
聞いていた。
聞いてはいたが、返事をするのに一拍かかった。声が出るまでに、喉のあたりを一回押す必要がある感じがした。
有本さんは俺の顔を三秒くらい見た。
それから、タブレットに何か打ち込んだ。
「はい、また明日詳しく」
「はい」
「エレベーター、使ってくださいね」
「階段で大丈夫です」
「使ってください」
押し切られた。
この人は、犬飼さんと違って胃薬を飲まない。代わりに、こういうことをメモする。
◇
電車を降りて、桜坂駅の階段を上がる。
二十七段ある。小四のときに数えた。
十四段目で、右足が思ったより上がらなかった。
俺は手すりに手を置いた。置いただけだ。体重はかけていない。かけていないことにしておきたい。
三十秒くらい止まった。
後ろから来たおばさんが、俺を追い越すときにちらっと見た。見て、少し早足になった。
これでいい。これが正解だ。ここで座り込むと救急車が来る。壁に手をついて動かない高校生は「電話の相手を待っている男」に見えるが、階段に座っている高校生は「倒れた」に見える。この差は大きい。前に一度、桜坂駅でそれを学んだ。
残り十三段を、一段ずつ上がった。
ゼリー飲料を飲んだ。鞄の外ポケットに常備するようになったのは先週からだ。味は三種類あって、俺は白いのが一番好きだが、白いのは売り切れやすい。今日は青だった。
青は、甘くない。
◇
家に着いて、靴を脱いで、ソファに落ちた。
そこから先が、冒頭の場面である。
「はい、これ」
妹が大学ノートを開いて、俺の顔の前に突き出してきた。
見えない。近すぎる。
「離せ」
「あ、ごめん」
妹はノートを三十センチ引いた。
そこに、表があった。
定規で引いた線で区切ってある。左の列に日付。真ん中に「帰宅」の時刻。右に、数字。
六月二十日、十八時四十分、十七分。
六月二十四日、十九時十分、十七分。
六月二十七日、十八時五十分、十九分。
七月一日、十七時、十七分。
そして今日。十七分。
「ね」
「ね、じゃない」
「五回測って、四回が十七分だよ。これ、すごくない?」
妹の目が光っていた。
こいつがこの目をするときは、だいたい何かが手遅れになっている。
「いつから測ってる」
「六月」
「一か月」
「うん」
「なんで」
「面白いから」
理由が、一切なかった。
「最初はさ、兄ちゃん、帰ってきたら死んでるじゃん」
「死んでない」
「死んでるみたいって意味。で、何分で復活するのか気になって」
「気にするな」
「そしたら十七分だったの。次の日も十七分だったの」
妹はノートを胸に抱えた。
「三回目で、あたし、鳥肌立った」
鳥肌が立つポイントがおかしい。
「次はさ、グラフにする」
「するな」
「棒グラフか折れ線か迷ってる。だいたい十七分だから、折れ線だとほぼ真っ平らなんだよね」
「じゃあやめろ」
「真っ平らなのが面白いんじゃん」
面白くない。
いや、たぶん面白い。この妹の言う「面白い」は、だいたい正しい。正しいから、俺の人生はこの二か月で完全に軌道を外れた。
「あと、条件を変えて実験してみたいんだけど」
「実験」
「アイス食べたら短くなるかとか」
「実験するな」
「兄ちゃんは寝てるだけでいいから」
「寝てるだけの実験なんてあるか」
あった。俺はソファで動けないだけである。実験台としてこれ以上ないほど都合がいい。
◇
「灯真、大丈夫?」
母さんが台所から出てきた。エプロンを外しながら、こっちを見ている。
「大丈夫」
「無理してない?」
「してない」
「してるでしょ。ひなた、お兄ちゃんで遊ばないの」
「遊んでないよ。記録してるだけ」
「記録?」
母さんが妹の手元を覗き込んだ。
覗き込んで、三秒くらい見て、それから言った。
「あら、きれいな表ね」
「でしょ」
この人は、こういう人である。
「灯真は頑張ってるんだから、休ませてあげなさい」
「休ませてるよ。動かないでって言ってるだけ」
俺は天井の蛾を見ていた。
頑張ってはいない。
今日、俺がやったことは、真ん中に立って八小節ぶん動いたことだけだ。時間にして三十秒。三十秒で、それより前の三時間ぶんの体力が消えた。母さんは俺が三時間頑張ったと思っているが、俺は三十秒しか働いていない。むしろ効率が悪すぎる。
ただ、そう説明する体力が今はない。
説明する体力がないから誤解される、というのを、俺は最近ようやく理解し始めた。
「夕飯、何」
「肉じゃが」
「食う」
「動けるようになったらね」
母さんは台所に戻っていった。
妹は、まだノートを開いたままだった。
「兄ちゃん」
「なに」
「これ、なんでだいたい十七分なの」
「知らん」
「痛い?」
「痛くない」
「じゃあいいや」
妹は、それ以上聞かなかった。
ノートを閉じて、床に置いて、スマホを見始めた。
俺はそれを、天井を見ながら聞いていた。
うちの妹は、俺の中身に興味がない。撮る、上げる、伸ばす。それが全部で、その先を掘る気がない。だから今も「痛くないならいい」で終わっている。
容赦がない。そして、たぶん、それで助かっている。
◇
十七分経った。
なぜ経ったとわかるかというと、妹が「はい、十七分」と言ったからだ。
俺は上体を起こした。起こせた。膝に力が戻っていて、手のひらの感覚も戻っている。台所から肉じゃがの匂いがした。急に、猛烈に腹が減った。
「復活?」
「した」
「毎回それなんだよね。急に人間になる」
「うるさい」
玄関で音がした。
父さんが帰ってきた。
「ああ」
それが第一声である。この人の一日は「おう」で始まって「ああ」で終わる。間の十四時間に何があったのかは誰も知らない。
父さんはネクタイを緩めながらリビングに入ってきて、ソファから立ち上がったばかりの俺を見て、それから床のノートを見た。
「なんだそれ」
「兄ちゃんの記録」
「そうか」
それだけだった。
この人は、内容を聞かない。娘が息子の何かを一か月測っていたと知って、「そうか」で処理した。処理して、洗面所に行った。
母さんが台所から「あなた、手洗って」と言い、父さんが「ああ」と言った。
俺は台所に向かった。
向かいながら、一つだけ考えた。
十七分。
だいたい、十七分。
その数字を今日まで一度も知らなかったのは、俺のほうだった。
◇
肉じゃがは、じゃがいもが崩れていなかった。
母さんは崩さない派である。この家の食卓では、俺と母さんの間に十七年続いている静かな戦争がある。カレーだけは俺が勝っているが、肉じゃがはずっと負けている。
「灯真、明日は」
「学校だけ」
「じゃあ洗濯物」
「取り込む」
妹は三杯目をよそいに行った。三杯目は毎回「味見」という名前になる。
俺は箸を持ちながら、十七分について考えていた。
困ってはいない。
毎回動けなくなるのは事実だが、毎回動けるようになるのも事実で、しかもその間隔がだいたい決まっているらしい。決まっているなら計算できる。計算できるものは、あまり怖くない。
たとえば、十八時に家に着けば、十八時十七分には肉じゃがが食える。
そう考えると、悪い数字ではなかった。
◇
部屋に上がったのは八時過ぎだった。
机の右奥、ペン立てと壁の隙間に、赤いドレスのフィギュアが立っている。腰に両手を当てて、いつもの偉そうな角度でこっちを見上げている。
「十七分ですって」
開口一番がこれだった。
「聞いてたのか」
「鞄の中でずっと聞いてたわよ。あの子、几帳面ね」
ミューナは台座の上で少しだけ体の向きを変えた。
「あんた、あの表、どう思ったの」
「別に」
「別にって何よ」
「測られてるとは思わなかった」
「そりゃそうでしょ。人形に喋られるとも思ってなかったでしょ」
それはそうだ。
「なあ」
「なによ」
「十七分って、長いのか」
ミューナは腰に当てた手をそのままに、少し黙った。
「短いわよ。……ただし、それは立てるようになるまででしょう。ちゃんと戻るのは、もっとあとよ」
「そうなのか」
「そうよ。混ぜないの」
それから、つけ足した。
「……わたしのときは、もっと長かったわ」
なんで張り合うんだ。
「一時間よ、一時間。楽屋の畳に転がって、髪結ったまま動けないの。付き人が心配して医者を呼ぼうとするから、毎回止めるのが大変で」
「へえ」
「反応が薄いわね」
「反応はしてる」
顔に出ていないだけだ。
ミューナは「ふん」と言って、それきり黙った。
俺はベッドに座って、明日の予定を思い出そうとした。明日は水曜で、午前が学校で、午後が空いている。空いているということは、たぶん何か入る。ここ一か月、空いている日は必ず何かで埋まる。
スマホが震えた。
犬飼さんからだった。
〈来週の土曜、空けておいてくれ〉
〈神楽坂のライブだ。見てこい〉
俺は画面を三回読んだ。
見てこい、と書いてある。仕事ではないらしい。見るだけらしい。見るだけなら、たぶん座っていればいいのだろう。座っているだけなら得意だ。
顔を上げたら、妹が部屋の入口に立っていた。
いつからいたのかわからない。ノートを持っていない。両手が空いている。両手が空いているということは、これから何かを掴む気だということだ。
「兄ちゃん」
「なに」
「今、誰から」
俺は黙っていた。
黙っていたが、妹は俺の手からスマホを取り上げて、画面を見て、それから、この十五年で一番大きい声を出した。
「チケット、何枚?」




