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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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23/206

第23話 十七分だってさ

「兄ちゃん、十七分」


 声は聞こえた。だが、体が動かなかった。


 うちのリビングのソファである。俺はそこに沈んでいた。右腕はクッションの上に落ちていて、左足だけが辛うじて床に届いている。動かせないわけではない。動かす気力がないだけだ。正確には、動かす気力を出すための気力がない。


 妹が床に座って、こっちを見上げていた。


 この家で椅子に座らない唯一の人間である。片手にスマホ、もう片手に大学ノート。中学三年が大学ノートを使っている理由を、俺は一度も聞いたことがない。


「十七分。今日も十七分」

「……なにが」

「兄ちゃんが動かなかった時間」


 俺は天井を見た。


 蛍光灯の傘の内側に、去年の夏の蛾が一匹入ったままになっている。母さんは気づいていない。俺は三か月前から気づいているが、脚立を出すのが面倒で放置している。


「聞いてる?」

「聞いてる」

「感想は」

「……何やってんだ」


 その日の俺の感想は、これで全部だった。


   ◇


 その日を、朝から順に説明する。


 まず学校だった。七月の頭で、期末考査が終わった直後で、教室の空気が完全に緩んでいた。窓を全部開けても風が入らない。前の席の熊沢が下敷きで自分を扇ぎながら、後ろ向きに俺のほうを見ていた。


「高町、今日も事務所?」

「行く」

「毎日行ってんの?」

「毎日じゃない」

「毎日じゃん」


 毎日ではない。週に四日だ。


 昼休みに、美咲が俺の机の前に来た。前の席の奴の椅子を勝手に借りて、後ろ向きに座る。小学生のときからこの座り方をする。


 彼女はクリアファイルを机に置いた。


 中に、A4の紙が一枚入っていた。表になっている。月曜から日曜まで、縦に時間、横に日付。事務所の予定と、学校の予定と、課題の締め切りが、色を変えて書き込まれている。


「これ、来週ぶん」

「毎週作ってるのか」

「作ってる」

「なんで」

「あなたが把握してないから」


 把握はしている。


 把握はしているが、把握している内容が三日おきに変わるので、把握しているだけでは足りない。それは俺も薄々気づいていた。


「金曜、現代文の課題。木曜の夜に事務所が入ってるから、水曜までに終わらせて」

「わかった」

「わかったって言うとき、あなた、だいたいわかってない」

「わかってる」

「じゃあ課題の内容は」

「……」


 美咲は何も言わずにファイルの二枚目を出した。


 二枚目には、課題の内容が書いてあった。


 この幼馴染は、一か月前から事務所に出入りするようになった。犬飼さんに名刺をもらっていた。中身が高校生のスケジュール表なのに、渡し方がやたら本格的だった。


「高町くん」

「なに」

「無理はしないでね」

「してない」

「してないなら、なんで最近、帰ってから一回死んでるの」


 俺は美咲を見た。


 この女は、俺が言っていないことを、たまに知っている。


「誰から聞いた」

「ひなたちゃん」


   ◇


 午後は事務所だった。


 渋谷区神南、ソレイユの二階、レッスン室A。入口から三枚目の床板が、踏むと「ぎ」と鳴る部屋である。


 最初の一時間はストレッチと基礎。この時間、俺は完全に置物である。


 前屈で床に手が届かない。開脚が九十度で止まる。片脚立ちで五秒もたない。隣で鴻上が百八十度に開いたまま雑談をしている。その隣で神保が、俺が三回に一回しかできないことを三十回連続でやっている。


 俺はその横で、昼に食べたコロッケパンのことを考えていた。


 事務所の下のコンビニのやつだ。衣が厚くて、ソースが多くて、パンが甘い。あれは強い。あれの二個目を買うかどうかで五分迷って、結局買わなかった。今その判断を心の底から後悔している。


「高町、腹減ってる?」


 鴻上が開脚したまま言った。


「減ってない」

「顔が減ってる」

「顔は動かない」

「そこがすごいねんな」


 この男は、俺の顔が動かないことを一度も気味悪がらない。出会って一か月、ずっとこの調子だ。褒めてはいないが、貶してもいない。ただ面白がっている。


   ◇


 問題は、その次だった。


「はい、じゃあ一人ずつ通す」


 榊先生が手を叩いた。


 ダンス講師の榊遥先生。三十四歳。黒のジャージで、いつも裸足で、ショートカット。俺に「才能、ないね。今のところ」と正面から言った人である。嘘をつかないことが親切だと本気で信じている人らしい。


「頭から八小節。一人ずつね」


 部屋の空気が、すっと締まった。


 新人と研究生で十人。榊先生と、その日は大久保先生も壁際に座っていた。合計十二人。全員が、これから一人ずつ、順番に、真ん中に立つ人間を見る。


 俺は自分の順番が来るまで、壁にもたれて待っていた。


 九人目まで終わった。鴻上が異様にうまくて、榊先生が「そう、そこ」と二回言った。神保は正確で、榊先生は何も言わなかった。何も言わないのは、悪いという意味ではないらしい。


「はい、高町くん」


 俺は真ん中に出た。


 十二人が、俺を見た。


 教室の音が遠のいた。輪郭がはっきりした。背筋が伸びた。


 鏡の中で、俺の肩の位置が半分ほど上がったのがわかった。三面の鏡に俺が三人いて、三人とも同じ角度で顎を引いている。天井の時計の秒針が、やたらはっきり見えた。榊先生のジャージの膝に、白いテープが貼ってあるのが見えた。


 音楽が鳴った。


 あとのことは、あまり覚えていない。


 覚えているのは、終わったとき、部屋が静かだったことだけだ。


「……高町くん」

「はい」

「さっきまで開脚九十度だったよね」

「はい」

「なんでリズムだけ取れてるの」

「わかりません」


 これは嘘ではない。


 榊先生は十秒くらい黙って、それから壁の大久保先生のほうを見た。大久保先生は笑っていた。この人は、できないことも、できすぎることも、全部同じ顔で面白がる。


「もう一回」

「はい」

「今の、シンコペーションのとこ、もう一回だけ」


 わからん。


 俺は今、何を言われたのかまったくわからなかったが、体は勝手にもう一回同じ動きをした。


「……気持ち悪いな、高町くん」


 榊先生はそう言って、次に行った。


 壁際に戻ると、鴻上が肘でつついてきた。


「なあ」

「なに」

「お前、家で練習してる?」

「してない」

「嘘だろ」

「してない」


 これも嘘ではない。俺は家で一度も踊っていない。踊る場所がない。六畳の部屋には机とベッドと本棚しかなく、床の空きは一畳ぶんもない。


「じゃあなんでできんねん」

「わからん」

「腹立つわ」


 鴻上は笑っていた。腹は立てていない。この男が腹を立てているところを、俺はまだ一度も見たことがない。


 神保は何も言わなかった。


 神保亮。十七歳。同期で、基礎ができていて、ストレッチでも発声でも俺より上で、榊先生が何も言わない側の人間である。彼は自分のタオルで顔を拭きながら、鏡のほうを見ていた。鏡の中で、さっき俺が立っていた場所を見ていた。


 俺はその横で、二個目のコロッケパンを買わなかった判断について、もう一度後悔していた。


 傍から見ると、二度名指しされて、二度とも同じ場所へ出ていって、終わったあとは壁際に戻って立っている新人である。


 実際には、俺は「シンコペーション」という単語の意味を今も知らないし、この八小節の振りの名前も知らないし、そもそも自分がさっき何をしたのかを説明できない。


 説明できないことを、周りは「余裕」と呼ぶ。


 余裕ではない。記憶がないだけだ。


   ◇


 レッスンが終わったのは十七時半だった。


 更衣室を出たところで、有本さんに呼び止められた。


 有本千夏さん。二十六歳。犬飼さんの下のマネージャーで、しゃべるのが速くて、タブレットの操作がもっと速い。


「高町さん、来週の予定なんですけど」

「はい」

「……高町さん?」

「はい」

「聞いてます?」


 聞いていた。


 聞いてはいたが、返事をするのに一拍かかった。声が出るまでに、喉のあたりを一回押す必要がある感じがした。


 有本さんは俺の顔を三秒くらい見た。


 それから、タブレットに何か打ち込んだ。


「はい、また明日詳しく」

「はい」

「エレベーター、使ってくださいね」

「階段で大丈夫です」

「使ってください」


 押し切られた。


 この人は、犬飼さんと違って胃薬を飲まない。代わりに、こういうことをメモする。


   ◇


 電車を降りて、桜坂駅の階段を上がる。


 二十七段ある。小四のときに数えた。


 十四段目で、右足が思ったより上がらなかった。


 俺は手すりに手を置いた。置いただけだ。体重はかけていない。かけていないことにしておきたい。


 三十秒くらい止まった。


 後ろから来たおばさんが、俺を追い越すときにちらっと見た。見て、少し早足になった。


 これでいい。これが正解だ。ここで座り込むと救急車が来る。壁に手をついて動かない高校生は「電話の相手を待っている男」に見えるが、階段に座っている高校生は「倒れた」に見える。この差は大きい。前に一度、桜坂駅でそれを学んだ。


 残り十三段を、一段ずつ上がった。


 ゼリー飲料を飲んだ。鞄の外ポケットに常備するようになったのは先週からだ。味は三種類あって、俺は白いのが一番好きだが、白いのは売り切れやすい。今日は青だった。


 青は、甘くない。


   ◇


 家に着いて、靴を脱いで、ソファに落ちた。


 そこから先が、冒頭の場面である。


「はい、これ」


 妹が大学ノートを開いて、俺の顔の前に突き出してきた。


 見えない。近すぎる。


「離せ」

「あ、ごめん」


 妹はノートを三十センチ引いた。


 そこに、表があった。


 定規で引いた線で区切ってある。左の列に日付。真ん中に「帰宅」の時刻。右に、数字。


 六月二十日、十八時四十分、十七分。

 六月二十四日、十九時十分、十七分。

 六月二十七日、十八時五十分、十九分。

 七月一日、十七時、十七分。

 そして今日。十七分。


「ね」

「ね、じゃない」

「五回測って、四回が十七分だよ。これ、すごくない?」


 妹の目が光っていた。


 こいつがこの目をするときは、だいたい何かが手遅れになっている。


「いつから測ってる」

「六月」

「一か月」

「うん」

「なんで」

「面白いから」


 理由が、一切なかった。


「最初はさ、兄ちゃん、帰ってきたら死んでるじゃん」

「死んでない」

「死んでるみたいって意味。で、何分で復活するのか気になって」

「気にするな」

「そしたら十七分だったの。次の日も十七分だったの」


 妹はノートを胸に抱えた。


「三回目で、あたし、鳥肌立った」


 鳥肌が立つポイントがおかしい。


「次はさ、グラフにする」

「するな」

「棒グラフか折れ線か迷ってる。だいたい十七分だから、折れ線だとほぼ真っ平らなんだよね」

「じゃあやめろ」

「真っ平らなのが面白いんじゃん」


 面白くない。


 いや、たぶん面白い。この妹の言う「面白い」は、だいたい正しい。正しいから、俺の人生はこの二か月で完全に軌道を外れた。


「あと、条件を変えて実験してみたいんだけど」

「実験」

「アイス食べたら短くなるかとか」

「実験するな」

「兄ちゃんは寝てるだけでいいから」

「寝てるだけの実験なんてあるか」


 あった。俺はソファで動けないだけである。実験台としてこれ以上ないほど都合がいい。


   ◇


「灯真、大丈夫?」


 母さんが台所から出てきた。エプロンを外しながら、こっちを見ている。


「大丈夫」

「無理してない?」

「してない」

「してるでしょ。ひなた、お兄ちゃんで遊ばないの」

「遊んでないよ。記録してるだけ」

「記録?」


 母さんが妹の手元を覗き込んだ。


 覗き込んで、三秒くらい見て、それから言った。


「あら、きれいな表ね」

「でしょ」


 この人は、こういう人である。


「灯真は頑張ってるんだから、休ませてあげなさい」

「休ませてるよ。動かないでって言ってるだけ」


 俺は天井の蛾を見ていた。


 頑張ってはいない。


 今日、俺がやったことは、真ん中に立って八小節ぶん動いたことだけだ。時間にして三十秒。三十秒で、それより前の三時間ぶんの体力が消えた。母さんは俺が三時間頑張ったと思っているが、俺は三十秒しか働いていない。むしろ効率が悪すぎる。


 ただ、そう説明する体力が今はない。


 説明する体力がないから誤解される、というのを、俺は最近ようやく理解し始めた。


「夕飯、何」

「肉じゃが」

「食う」

「動けるようになったらね」


 母さんは台所に戻っていった。


 妹は、まだノートを開いたままだった。


「兄ちゃん」

「なに」

「これ、なんでだいたい十七分なの」

「知らん」

「痛い?」

「痛くない」

「じゃあいいや」


 妹は、それ以上聞かなかった。


 ノートを閉じて、床に置いて、スマホを見始めた。


 俺はそれを、天井を見ながら聞いていた。


 うちの妹は、俺の中身に興味がない。撮る、上げる、伸ばす。それが全部で、その先を掘る気がない。だから今も「痛くないならいい」で終わっている。


 容赦がない。そして、たぶん、それで助かっている。


   ◇


 十七分経った。


 なぜ経ったとわかるかというと、妹が「はい、十七分」と言ったからだ。


 俺は上体を起こした。起こせた。膝に力が戻っていて、手のひらの感覚も戻っている。台所から肉じゃがの匂いがした。急に、猛烈に腹が減った。


「復活?」

「した」

「毎回それなんだよね。急に人間になる」

「うるさい」


 玄関で音がした。


 父さんが帰ってきた。


「ああ」


 それが第一声である。この人の一日は「おう」で始まって「ああ」で終わる。間の十四時間に何があったのかは誰も知らない。


 父さんはネクタイを緩めながらリビングに入ってきて、ソファから立ち上がったばかりの俺を見て、それから床のノートを見た。


「なんだそれ」

「兄ちゃんの記録」

「そうか」


 それだけだった。


 この人は、内容を聞かない。娘が息子の何かを一か月測っていたと知って、「そうか」で処理した。処理して、洗面所に行った。


 母さんが台所から「あなた、手洗って」と言い、父さんが「ああ」と言った。


 俺は台所に向かった。


 向かいながら、一つだけ考えた。


 十七分。


 だいたい、十七分。


 その数字を今日まで一度も知らなかったのは、俺のほうだった。


   ◇


 肉じゃがは、じゃがいもが崩れていなかった。


 母さんは崩さない派である。この家の食卓では、俺と母さんの間に十七年続いている静かな戦争がある。カレーだけは俺が勝っているが、肉じゃがはずっと負けている。


「灯真、明日は」

「学校だけ」

「じゃあ洗濯物」

「取り込む」


 妹は三杯目をよそいに行った。三杯目は毎回「味見」という名前になる。


 俺は箸を持ちながら、十七分について考えていた。


 困ってはいない。


 毎回動けなくなるのは事実だが、毎回動けるようになるのも事実で、しかもその間隔がだいたい決まっているらしい。決まっているなら計算できる。計算できるものは、あまり怖くない。


 たとえば、十八時に家に着けば、十八時十七分には肉じゃがが食える。


 そう考えると、悪い数字ではなかった。


   ◇


 部屋に上がったのは八時過ぎだった。


 机の右奥、ペン立てと壁の隙間に、赤いドレスのフィギュアが立っている。腰に両手を当てて、いつもの偉そうな角度でこっちを見上げている。


「十七分ですって」


 開口一番がこれだった。


「聞いてたのか」

「鞄の中でずっと聞いてたわよ。あの子、几帳面ね」


 ミューナは台座の上で少しだけ体の向きを変えた。


「あんた、あの表、どう思ったの」

「別に」

「別にって何よ」

「測られてるとは思わなかった」

「そりゃそうでしょ。人形に喋られるとも思ってなかったでしょ」


 それはそうだ。


「なあ」

「なによ」

「十七分って、長いのか」


 ミューナは腰に当てた手をそのままに、少し黙った。


「短いわよ。……ただし、それは立てるようになるまででしょう。ちゃんと戻るのは、もっとあとよ」

「そうなのか」

「そうよ。混ぜないの」


 それから、つけ足した。


「……わたしのときは、もっと長かったわ」


 なんで張り合うんだ。


「一時間よ、一時間。楽屋の畳に転がって、髪結ったまま動けないの。付き人が心配して医者を呼ぼうとするから、毎回止めるのが大変で」

「へえ」

「反応が薄いわね」

「反応はしてる」


 顔に出ていないだけだ。


 ミューナは「ふん」と言って、それきり黙った。


 俺はベッドに座って、明日の予定を思い出そうとした。明日は水曜で、午前が学校で、午後が空いている。空いているということは、たぶん何か入る。ここ一か月、空いている日は必ず何かで埋まる。


 スマホが震えた。


 犬飼さんからだった。


 〈来週の土曜、空けておいてくれ〉

 〈神楽坂のライブだ。見てこい〉


 俺は画面を三回読んだ。


 見てこい、と書いてある。仕事ではないらしい。見るだけらしい。見るだけなら、たぶん座っていればいいのだろう。座っているだけなら得意だ。


 顔を上げたら、妹が部屋の入口に立っていた。


 いつからいたのかわからない。ノートを持っていない。両手が空いている。両手が空いているということは、これから何かを掴む気だということだ。


「兄ちゃん」

「なに」

「今、誰から」


 俺は黙っていた。


 黙っていたが、妹は俺の手からスマホを取り上げて、画面を見て、それから、この十五年で一番大きい声を出した。


「チケット、何枚?」


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