第22話 ゼリー飲料と昼寝の研究
俺は、人生で初めて自分から研究というものを始めた。
動機は立派ではない。人形に「測りなさい」と言われたからだ。
まずノートを買った。ハミングマート桜坂店で、百二十円のやつを買った。
次に、表紙に何と書くかで三十分悩んだ。
「反動対策ノート」は駄目だ。落とした瞬間に人生が終わる。「体調管理」も駄目だ。妹が開ける。妹はうちで唯一、他人のノートを開けることに罪悪感がない人間である。
結局、俺は表紙にこう書いた。
〈体力〉
二文字である。
「なにそれ」
ミューナが机の上から言った。
「研究ノート」
「『体力』って書いてあるけど」
「そう書いた」
「中身、体力の話じゃないでしょ」
「体力の話だ」
厳密には、体力がなくなったあとの話だ。
◇
一つ目の研究は、糖分だった。
反動が来ると、腹が減る。ただ減るのではなく、腹の底に穴が空く。あれは普通の空腹とは種類が違う。
飯を食えば直る。だが現場で飯は出ない。出るとしても、出るまでに時間がかかる。だから、その場で流し込めるものが要る。
ゼリー飲料には、俺の行く店だと三種類ある。青と、緑と、白だ。
青がいちばんうまいことは、先週わかっていた。百八十円を使って確認した。
だが、うまさというのは基準として弱い。三日で飽きるし、飽きたら飲まなくなる。
俺は三本買って、順番に飲んだ。結果を書く。
青。うまい。さっぱりしている。ただし甘くない。
緑。マスカットらしい。言われないと気づかない味だ。
白。重い。飲んだあとに腹が膨れて、飯が入らなくなる。飯が入らなくなるのは致命的だ。
ノートに三行書いた。
書いてから、もう一項目要ることに気づいた。「飲むのにかかる時間」である。
俺は台所でストップウォッチ代わりにスマホを構えて、四本目を飲んだ。
九秒だった。
九秒で飲めるのは強い。強いのだが、九秒で飲むと途中で喉に詰まる。詰まって咳き込んで、そのあと一分無駄になる。
結論。十四秒で飲むのが最適である。
俺はそれをノートに書いた。
書いているところに、妹が入ってきた。
「兄ちゃん、なにしてんの」
「十四秒」
「なにが」
「なんでもない」
妹はしばらく俺を見て、それから「ふうん」と言って出ていった。
出ていく直前、たぶん撮っていた。
◇
翌日、学校でその表を美咲に見せた。
見せるつもりはなかったのだが、昼休みに机の上に開いていたら、後ろ向きに座った美咲が勝手に読んだ。
「なにこれ」
「ゼリー飲料の順位」
「基準は」
「うまさ」
美咲はペンを取り出した。
三十秒後、俺の表は書き換えられていた。
「うまさは最後でいい。上から、糖質の量、飲み切る時間、値段、うまさ」
「うまさが最後か」
「あなた、うまいから飲むんじゃなくて、動けるようになるために飲むんでしょ」
そうだった。
「じゃあ一位はどれになる」
「これ」
美咲が指したのは、俺が最下位に置いたやつだった。
「白?」
「糖質が一番多いのはこれ。飲んだあとに飯が入らないのは、あなたが二本飲んでるからだと思う」
「二本飲んだ」
「一本にして」
俺はノートに書いた。〈白を一本にする〉。
ちなみに、白は売り切れやすい。世の中には俺と同じ理屈で白を選んでいる人間が、そこそこいるらしい。
美咲は付箋を三色使う。この日、俺のノートに青い付箋が一枚貼られた。青は「あとで直すところ」らしい。
「あとさ、これ」
彼女はノートの最初のページをめくり返した。
「日付が入ってない」
「いる?」
「いる」
美咲はペンで、上の余白に線を引いた。
「左に日付。真ん中に、その日点いたかどうか。右に、動けるようになるまでの時間」
「三つも書くのか」
「三つ書かないと、比べられないから」
彼女は自分の手帳を出して、隣に並べた。
同じ形をしていた。左に日付、真ん中に丸と×、右に数字。五月十四日から、一日も抜けていない。
「私のは外から見た記録。あなたのは中から見た記録」
美咲は二冊を並べたまま言った。
「二冊あると、たぶん、片方だけじゃわからないことがわかる」
「なにがわかるんだ」
「それは、書いてみないとわからないでしょ」
俺はノートに線を引いた。定規がなかったので曲がった。
「曲がってる」
「曲がってる」
「まあ、いいや」
美咲は珍しく、そこは直さなかった。
◇
二つ目の研究は、自販機の位置だった。
缶コーヒーは、ゼリー飲料より遅い。だが、その場にある。
俺はノートの見開きに、行動範囲の地図を描いた。絵は下手だ。線と四角だけの地図になった。
わかったことを書く。
事務所の自販機は三か所ある。一階の受付脇、二階の廊下の突き当たり、三階の給湯室の前。どこも品揃えが違う。
一階のは二台並んでいて、右がブラック、左が微糖。俺は必ず左を押す。ここが一番信頼できる。
二階のは炭酸が多い。反動のときに炭酸は無理だ。
三階のは大人しか使わないので、いつでも全部残っている。ただし三階はマネジメント部の大部屋があるので、行くと必ず誰かに話しかけられる。
桜坂駅、ホームの一番前と一番後ろ。後ろのほうは売り切れが多い。
学校の昇降口の脇。ここは微糖が週の後半で必ず切れる。切らしているのは誰かというと、たぶん三年生だ。
地図が完成したとき、俺は少し満足した。
人生で満足した回数の中では、下から数えたほうが早い部類の満足だった。
「ちょっと見せなさいよ」
ミューナが言うので、机の上でノートを開いて見せた。
「……これ、なに?」
「自販機の地図」
「じはんき」
「機械。金を入れると飲み物が出る」
「勝手に?」
「勝手に」
「人がいないのに?」
「いない」
ミューナは長いこと黙っていた。
「……いい時代ね」
「そうか」
「わたしの頃はね、水を飲むのに人に頼んでたのよ」
この人形は本当に四十年前で止まっている。役に立った試しがない。
◇
三つ目の研究は、昼寝の場所だ。
これが一番重要だった。糖分は誤魔化しでしかない。総量は減らない。減らすには寝るしかない。
俺は候補を三か所に絞って、順位をつけた。
第一位、犬飼さんの車の後部座席。理由は、ドアが閉まること、人が来ないこと、そしてゼリー飲料の箱が足元にあること。欠点は、犬飼さんがいないと乗れないこと。
第二位、レッスン室Bの隅。防音なので静かだ。十畳で、ボイトレ用なので使われる時間が決まっている。欠点は、床が硬いこと。
第三位、学校の保健室。
保健室は本来、一位であるべきだった。ベッドがある。カーテンがある。冷房もある。
だが、三回連続で行ったところで、養護教諭に顔を覚えられた。
「高町くん、また?」
「はい」
「どこが悪いの」
「眠いです」
「それは病気じゃないのよ」
正論だった。
四回目は断られた。断られたので、俺は保健室を三位に落とした。
ノートに書いた。〈保健室は月に二回まで〉。
◇
第二位のレッスン室Bでも、一度失敗している。
防音なので、中で寝ていると外の音が聞こえない。外の音が聞こえないということは、人が入ってくるのもわからないということだ。
俺は床の隅で、鞄を枕にして寝ていた。
起きたら、大久保先生が目の前にしゃがんでいた。
ボイスの大久保千鶴先生。五十二歳。俺の地声を聞いて笑い出した人である。
「高町くん」
「……はい」
「ここ、私の部屋なんだけど」
「はい」
「十四時から使うって、ホワイトボードに書いてあるんだけど」
「はい」
今は十四時七分だった。
俺は立ち上がって、鞄を持って、頭を下げて出た。
背中に、大久保先生の声が飛んできた。
「あなた、喉のためには寝るのが一番なのよ。だから怒ってはないの」
「はい」
「ただ、場所は考えなさい」
ノートに書いた。〈レッスン室Bは十四時まで〉。
研究というのは、こうやって条件が増えていくものらしい。
◇
ちなみに、俺には一つ憧れがある。
立ったまま寝られる人間が世の中にはいるらしい、という話をどこかで聞いた。
試した。
壁に背中を預けて、目を閉じて、力を抜いた。
三秒で膝が折れた。
ノートに書いた。〈立ったまま寝るのは、まだ無理〉。
「まだ」と書いたのは、いつかできると思っているからだ。
◇
四つ目は、崩れ方の研究である。
「順番があるのよ」
ミューナが机の上から言った。
「膝。次に手。最後に目。あんた、毎回その順番で落ちてるわ」
「見てたのか」
「鞄の中から見えるぶんだけね」
言われて思い返した。たしかに毎回その順番だった。
わかったのは、膝が抜けてから対処すると遅い、ということだった。
だから、抜ける前に座る。
問題は、座る場所が常にあるとは限らないことだ。
俺は三日かけて、以下を確認した。
一、階段は上りより下りのほうが危ない。下りは体重が前に乗る。
二、手すりは、両手で握ると人目を引く。片手にして、もう片方の手は壁に添える。
三、壁に背中を預けて立っていると、外からは「立っている人」に見える。しゃがむと「倒れた人」に見える。だから立っていたほうがいい。
四、缶を持つときは両手で持つ。片手だと落とす。
四つ目には、思わぬ副産物があった。
その週、有本さんに言われたのだ。
「高町さん、飲み物の持ち方が丁寧だよね」
「はい」
「そういうとこ、現場で見られてるよ」
傍から見ると、缶を両手で包むように持って、ゆっくり口へ運ぶ新人である。
実際には、片手だと落とすからそうしている。それは言わなかった。
ノートには一行だけ書いた。
〈両手は評判がいい〉
◇
五つ目は、言い訳の在庫である。
どれだけ気をつけても、見られるときは見られる。見られたときに何を言うかを、先に決めておく必要があった。
俺は三つ用意した。
一、「昨日、寝てないんです」
二、「ちょっと貧血で」
三、「大丈夫です」
一つ目は、三日で使えなくなった。俺は毎日きっちり七時間寝ているので、二回目に言ったとき有本さんに「昨日も言ってたよ」と返された。
二つ目は、事務所で言ったら大ごとになりかけた。犬飼さんが「病院行くか」と言い出して、その日の予定が本当に一件飛びそうになった。飛ぶと困る人が四人くらいいることがわかったので、二度と言わないことにした。
三つ目だけが生き残った。
俺の顔は動かない。だから「大丈夫です」と言うと、たいていの人が「そうか」と言って引き下がる。何の説得力もない三文字が、この顔だと通ってしまう。
ノートに書いた。
〈言い訳は増やさない。「大丈夫です」で足りる〉
書いてから、少しだけ考えた。
これは研究というより、たぶん、諦めの記録だった。
◇
「なんの研究?」
レッスン室の隅でノートを開いていたら、上から声が降ってきた。
鴻上だった。この男は他人のノートを覗くことに何の躊躇もない。
「体力」
「体力?」
「そう」
鴻上は俺の隣に座って、勝手にページをめくった。
「なんでゼリーの順位が書いてあんねん」
「体力だから」
「昼寝の場所は?」
「体力だ」
「保健室が三位なんは?」
「体力」
鴻上は三ページ読んで、顔を上げた。
「おもろ」
この男は本当に何も疑わない。疑わないまま全力で乗ってくる。
「俺も混ぜて」
「なんで」
「おもろいから」
その日の夕方、鴻上はコンビニでゼリー飲料を五本買ってきた。
そして五本とも飲んだ。
二時間後、鴻上は更衣室で腹を押さえていた。
「高町」
「なに」
「これ、五本飲むもんちゃうな」
「一本にしろって書いてある」
「書いてあった?」
「青い付箋のところに」
鴻上は床に転がったまま天井を見ていた。
◇
「なあ高町」
鴻上が言った。
「お前さ」
「なに」
「本番のあとだけ死ぬやんな」
俺はノートを閉じた。
「そんなことない」
「いや、あるって。この前のカメラのやつも、終わったあと階段のほう歩いてくの見たで」
「エレベーターが混んでた」
「混んでへんかったけど」
俺は無表情のまま、ノートを鞄にしまった。
これは俺の武器の一つで、たぶん唯一の武器でもある。何を言われても顔が動かない。動かないので、相手が勝手に「そうか」と思ってくれる。
鴻上は腹を押さえたまま、俺をしばらく見ていた。
それから、あっさり言った。
「ま、ええわ」
この男の良いところは、勘が鋭いのに、そこで追わないところだった。
◇
その週の金曜、有本さんに呼び止められた。
「高町さん、来週から一個だけ変えるね」
「はい」
「現場が終わったあとの十五分から二十分、予定を入れないようにする」
「……はい」
「移動もその時間には入れない。車で待っててもらう形にするから」
俺は、返事に少し詰まった。
誰にも言っていない。犬飼さんにも言っていない。ミューナと美咲以外、この世で誰も知らないはずだった。
「なんで、ですか」
「メモ取ってるから」
有本さんはタブレットを見せてきた。
日付が並んでいた。その横に、時刻が二つずつ書いてある。終わった時刻と、俺が動き出した時刻だ。カメラテストの日から、四日ぶん。
「私、理由は聞かないよ」
「はい」
「聞いても、たぶんわかんないし」
有本さんは画面を消した。
「でも数字は取れるから。数字だけ取っとく」
◇
同じ日、犬飼さんの車で送ってもらった。
信号待ちで、犬飼さんがポケットから粉の胃薬を出した。袋の端を歯で切って、そのまま口に入れた。水は飲まない。
「それ、水いらないんですか」
「粉は速い。現場で水を探してる時間が惜しい」
俺は少し感心した。
「他にもあるんですか」
「なにが」
「対策」
犬飼さんはハンドルを指で叩いた。
「二時間空いたら十五分だけ寝る。四十分以上寝ると逆にきつい」
「はい」
「立ちっぱなしの日は、車に戻ったら靴を脱ぐ。それだけで足が半日もつ」
「はい」
「あと、飯は食える時に食え。食えるかどうかを予定に入れるな」
俺はノートを出して、書いた。
三行書いた。
犬飼さんが横目でそれを見た。
「高町。それ、なんのために調べてるんだ」
俺は書きながら答えた。
「倒れると、面倒なので」
信号が青になった。
犬飼さんは、三秒くらい何も言わずに車を出した。
「……そうか」
それだけだった。
◇
その週、俺は一度も点かなかった。
レッスンは一回あった。その一回も、誰も俺を見ていなかった。榊先生は全体を見ていて、梶原先生は記録を取っていて、鴻上と神保は自分の鏡を見ていた。
合図は、三つとも来なかった。
だから、腹も普通だった。
俺は夜、ミューナに聞いた。
「点かないようにできないのか」
「できないわよ」
「なんで」
「あんたが決めることじゃないから」
ミューナは腰に手を当てた。
「見られたら点くの。それだけ。あんたに選択肢はないわ」
「じゃあ、この研究は」
「意味はあるわよ」
彼女は続けた。
「点いたあとの三時間をどう歩くか。それだけは、あんたが決められるでしょ」
珍しく、まともなことを言った気がした。
「ただしね」
「なに」
「ゼリーで足りてるうちは、まだ楽なほうよ」
その言い方が引っかかったが、俺は聞き返さなかった。
聞き返すと、たぶん話が長くなる。長くなると、俺には無理だ。
代わりにノートを開いて、最後の行に一言だけ書いた。
〈以上〉
やめる理由は特にない。書くことはだいたい書いたし、これ以上書いても、書いた通りに体が動くわけではない。俺はノートを閉じて、机の端に置いた。
◇
その夜、ドアが開いた。ノックはなかった。
「兄ちゃん」
妹が立っていた。
手に何か持っている。俺は目を細めた。
ストップウォッチだった。理科室にあるようなやつだ。学校から借りてきたのか、買ったのかはわからない。
「なんだそれ」
「ストップウォッチ」
「見ればわかる」
「兄ちゃんさ」
妹は部屋に入ってきて、俺の机の前に立った。
そして、俺のノートを指さした。表紙に〈体力〉と書いてあるやつだ。
「それ、自分で測ってるでしょ」
「……」
「精度、低いと思う」
低い。
自分で測るには、致命的な問題が一つある。測り始める時点で、俺はもう動けない。スマホを出す手に力が入らない日に、スマホで時間を測るのは無理がある。
「なんで知ってる」
「兄ちゃん、帰ってきてすぐソファで死ぬ日と、死なない日があるじゃん」
「死んでない」
「死んでる」
妹はストップウォッチのボタンを一回押して、止めた。ぴ、と鳴った。
「三月から数えてた」
俺は顔を上げた。
三月ではない。三月には何も起きていない。
「五月だろ」
「五月かも」
「適当だな」
「うん」
妹は、まったく悪びれなかった。
この家で一番容赦がないのは、たぶんこいつだ。そして、たぶん一番よく見ている。
「明日から、あたしが測るね」




