第21話 カメラの向こうが多すぎる
四階の部屋に入ったら、椅子が一脚だけ置いてあった。
背もたれのない、黒い丸椅子だ。それが部屋の真ん中にぽつんとある。そこに向かって、三台の照明と、脚立と、大きいカメラが半円形に並んでいた。
人間が、椅子より多い。
俺は入口で数えた。カメラの人が三人、照明の人が二人、音声の人が一人、宣伝部の人が二人、犬飼さんと有本さん。それから、梶原先生が壁際でファイルを開いている。
十一人。
椅子は一脚。
「高町さん、そこ座って」
有本さんが言った。
俺は座った。座ると、十一人が全員こっちを向いた。
◇
「じゃあ、まずサイズ見ます」
カメラの人が言った。
俺は自分の服を見た。上はTシャツで、下はジャージだ。事務所で借りたやつなので、サイズはたぶん合っている。
「サイズ、合ってると思います」
「え?」
「Mです」
部屋が三秒止まった。
「あー、いや、『サイズ』っていうのは、どこまで画に入れるかの話ね」
カメラの人が笑った。悪い笑い方ではなかった。
「バストアップでいくか、ウエストからいくか」
「わからん」
言ってしまってから、口に出したことに気づいた。
「わからないです」
「うん、わかんなくていいよ。こっちで決めるから」
カメラの人は本当に気にしていなかった。この人は笑うとき、先に肩が動く。
「あと、頭ちょっと詰めます」
「頭」
「上の余白ね」
俺の頭には余白があるらしい。
◇
テスト映像を撮る、と言われたのは昨日の夜だ。
なんのために撮るのかは、今朝、車の中で犬飼さんが説明してくれた。
俺を売りに行くのに、見せるものが何もないらしい。動画は妹が上げたやつしかなくて、あれは十七秒しかなくて、しかも権利がややこしい。だから事務所で撮る。撮って、営業のときに持っていく。
「高町。笑わないだろ」
犬飼さんはハンドルを握ったまま言った。
「はい」
「だから、笑わない役者として売る。それは先週決めた」
「はい」
「決めた以上、笑わない顔がちゃんと撮れてないと話にならん」
理屈は通っていた。
通っていたので、俺は「はい」と言った。
言いながら、後部座席の足元にあるゼリー飲料の箱を見ていた。十二本入りが二箱。この人はいつあれを飲むんだろう、と思っていた。
◇
ちなみに、火曜は五時間授業である。
その日にカメラテストが入ったのは偶然ではないらしい。美咲が作って有本さんに渡したあの表に、曜日ごとの終わりの時刻が全部書いてあった。有本さんはそれを見て、四時からの枠をここに入れた。
俺は自分の時間割を、他人から教えてもらう形で知った。
◇
ちなみに、俺の前に鴻上が撮っていた。
同期は俺を入れて四人いる。今日撮ったのは三人で、日下部さんだけ明日に回った。順番は鴻上、神保、俺。理由は「短い順」らしい。鴻上は十五分で終わった。神保は二十分だった。
鴻上の番のとき、俺は部屋の隅で見学していた。
こいつは丸椅子に座った瞬間に、背筋が伸びた。俺のみたいに勝手に伸びるやつではなくて、自分で伸ばしたやつだ。顎の角度を少し変えて、口の端を上げて、それを十五分ずっと保っていた。
「はい、次、笑って」
「はい」
「もうちょい歯出して」
「はい」
出た。
人間の顔というのは、頼まれてから一秒で形が変わる。俺は初めてそれを間近で見た。
「鴻上くん、慣れてるね」
「養成所のとき、毎月撮られてたんで」
カメラの人が笑って、鴻上も笑った。
その一連を見ながら、俺が考えていたのは一つだけだった。
――あの動き、どこの筋肉だ。
神保も普通にできていた。鴻上ほど派手ではないが、言われた通りに顎を引いて、言われた通りに目線を動かしていた。
二人とも、誰にも見られていない状態で、普通にできていた。
撮り終わった鴻上が、隅に来て俺の肩を叩いた。
「高町、緊張してんの?」
「してない」
「顔が死んでるで」
「元からだ」
「あー、そうやったな」
こいつは俺の顔について一度も気を遣わない。それが今のところ、この事務所で一番楽なところだった。
◇
「じゃあ、一回そのまま。カメラ見て」
俺はカメラを見た。
レンズは黒くて、丸くて、真ん中に俺が小さく映っている。
何も、起きなかった。
合図は、来なかった。
考えてみれば、当たり前だった。
レンズは何も思っていない。硝子だ。硝子は俺に興味がない。
「はい、オッケー。じゃあ台本いきます」
梶原先生が紙を一枚くれた。
三行だけ書いてあった。誰かの独白で、雨の話をしていた。前後がないので、誰が誰に言っているのかはわからない。
「一回、読んでみてください」
俺は読んだ。
棒読みだった。
部屋の空気が、ほんの少しだけ下がった。
◇
二回目も駄目だった。
三回目も駄目だった。
理由は俺にはわかっていた。誰も俺を見ていないからだ。
照明の人は照明を見ていた。音声の人はメーターを見ていた。カメラの人はモニターを見ていた。宣伝部の人は自分のスマホを見ていた。有本さんは進行表を見ていた。
全員が仕事をしている。仕事をしている人間は、俺を見ていない。
この部屋で俺をちゃんと見ていたのは、たぶん犬飼さんと梶原先生の二人だけだった。
二人ぶんでは、足りなかった。
「……高町くん」
梶原先生が紙を覗き込んだ。四十九歳。ソレイユのレッスン部門の室長で、演技も見る人だ。厳しくはないが、必ず記録を取る。
「もう一回、頭から」
「はい」
四回目。
やっぱり駄目だった。
カメラの人がモニターから顔を上げて、「うーん」と言った。
その「うーん」を聞いた瞬間、部屋の隅で犬飼さんがポケットに手を入れた。
◇
鞄はドアの脇に置いてある。中から声がした。
「あんた、これ、まずいわよ」
(わかってる)
「わかってて何もしないの?」
(何もできない)
できない。
俺は自分でスイッチを入れられない。入れるのは俺ではなくて、この部屋にいる人たちだ。俺にできるのは、丸椅子に座って、雨の話を四回続けて下手に読むことだけだった。
ミューナが何か言いかけて、やめた。
やめた理由は、そのときはわからなかった。
◇
五回目に入る前に、ドアが開いた。
「進んでるか」
白鳥社長だった。
五十八歳。うちの社長で、判断が異様に速い人だ。二週間前、俺が三行の台本を読んで、五秒で「明日から来い」と言った人でもある。
社長は部屋に入って、壁際に立った。
それだけだった。
それだけだったのに、部屋の音が変わった。
照明の人が手を止めた。音声の人がヘッドホンを外した。宣伝部の二人がスマホをしまった。有本さんが進行表を下ろした。カメラの人がモニターから顔を上げて、直接こっちを見た。
十二人が、全員、同じ方向を向いた。
俺のほうを。
◇
部屋の音が、遠のいた。
輪郭が、はっきりした。
背筋が、伸びた。
◇
いつもと、少し違った。
はっきりしすぎていた。
カメラの人の手首に血管が浮いているのが見えた。照明の光の中を、埃が三粒、斜めに落ちていくのが見えた。犬飼さんが息を吸ったのがわかった。吸って、止めたのがわかった。壁の時計の秒針が、こつ、と鳴った。
全部、同時に来た。
紙の三行が、勝手に立ち上がった。
俺はその三行を、まだ二回しか目で追っていない。それなのに、どこで息を継ぐかも、どこで止めるかも、最初から決まっているみたいだった。決めたのは俺ではない。
「――雨、やんだのか」
自分の声が、部屋の端まで届いた。
届いたのがわかった。届いて、跳ね返ってこないのがわかった。全員が息を吸い込んで、その音まで聞こえた。
「傘、置いてけよ」
二行目。
誰かが椅子を引く音がした。前に出てきた音だ。
「……どうせ、また降る」
三行目。
終わった。
◇
終わったのに、終わらなかった。
カットの声が、かからなかった。
カメラは回ったままだった。赤いランプがついている。全員がこっちを見たままで、誰も動かなかった。
そして俺の中で、まだ点いていた。
背筋が伸びたままだった。輪郭がはっきりしたままだった。指の先まで自分のもののような気がしなくて、口が、勝手にもう一度息を吸った。
――止め方が、わからない。
これは正直に書くが、そのとき俺が思ったことは二つだけだった。
一つ、これはどこで終わるんだ。
二つ、終わったら、たぶん腹が減る。
二つ目のほうが、少しだけ大きかった。
◇
止めたのは、社長だった。
「はい、以上」
ぱん、と一回だけ手を叩いた。
その音で、部屋が戻った。
音が戻ってきて、輪郭がぼやけて、俺は丸椅子の上で猫背に戻った。膝の上に置いていた手が、じん、と痺れていた。
誰も、何も言わなかった。
カメラの人が、ゆっくりモニターを覗き込んだ。
それから顔を上げて、言った。
「今の、もう一回できます?」
俺は答えた。
「無理です」
できないからだ。
社長がもう一度手を叩いたら、全員が仕事に戻る。仕事に戻ったら、誰も俺を見ない。見られていなければ、俺は雨の話を「ぺち」と読む。それだけの話だった。
だが、部屋の受け取り方は違った。
「……そうだよな」
カメラの人が、深く頷いた。
「一発しか出ないやつだよ、今の」
照明の人が「わかる」と言った。音声の人も頷いた。宣伝部の人が何かメモを取り始めた。
また一つ、俺の知らない俺が増えた。
◇
部屋の隅に、鴻上がまだいた。
自分の撮影はとっくに終わっているのに、帰らずに壁にもたれて見ていたらしい。
俺と目が合った。
こいつはいつも、目が合うと先に何か言う。今日は言わなかった。
三秒くらい見て、それから小さく口を動かした。声は出ていなかったので、何を言ったのかはわからなかった。
わからなかったが、たぶん「またかいな」だった気がする。
鴻上は壁から背中を離して、部屋を出ていった。出ていくとき、こっちを見なかった。
◇
梶原先生は、そのあいだずっとファイルに何か書いていた。
この人は「できないことを紙に書いて、三ヶ月後にもう一度見る」という指導の仕方をする。先週、俺の紙には三行書かれた。三行とも読ませてもらっていない。
書き終えてから、梶原先生は顔を上げた。
「高町くん」
「はい」
「一回目から四回目までと、五回目。自分では何が違いましたか」
俺は正直に答えた。
「わからないです」
「そう」
梶原先生はペンをしまった。怒っても呆れてもいなかった。
「じゃあ、それも書いておきます」
彼女はファイルを閉じて、壁際に戻っていった。
俺は丸椅子に座ったまま、その背中を見ていた。
この人は、たぶん三ヶ月後にこの紙をもう一度開く。そのときも俺はきっと「わからないです」と言う。言うのが目に見えている。それでもこの人は書く。
◇
社長は、出ていく前に一度だけこっちを見た。
「高町」
「はい」
「腹、減ってるか」
俺は少し驚いた。
「減ってます」
「そうか」
それだけ言って、社長は出ていった。
この人はときどき、怖いくらい当てる。
◇
撮影が終わったのは五時半だった。
俺は「お疲れ様です」を六回言って、鞄を持って、四階の廊下に出た。
そこまでは持った。
エレベーターの前で、右膝が抜けた。
抜けるというのは正確な表現ではない。膝から下が急に他人のものになる、という感じだ。俺は壁に手をついた。手にも力が入らなくて、肩でぶつかる形になった。
視界の端が白い。
三時間だ。
俺は壁伝いに階段のほうへ歩いた。エレベーターは待たなかった。あそこは扉が開くたびに人が乗ってくる。人が乗ってくる箱の中で膝が抜けるのは、一番よくない。
階段を下りた。手すりを両手で握って下りた。
傍から見れば、手すりを両手で握って、一段ずつ足を揃えて下りている男である。
◇
一階のロビーにたどり着いて、自販機の前に立った。
左が微糖だ。俺は必ず左を押す。
押せなかった。
指がボタンに触れているのに、押し込む力が出ない。二回滑って、三回目で、ようやく「がこん」と音がした。
缶を取り出して、両手で持った。片手だと落とすからだ。
ソファの一番端に座って、両手で缶を持ったまま、しばらく動かなかった。
「高町さん」
有本さんが降りてきた。
「顔色」
「大丈夫です」
「大丈夫な人は自販機の前で三十秒止まらないよ」
見られていた。
有本さんはソファの向かいに座って、タブレットを開いた。何か打ち込んでいる。
「何、書いてるんですか」
「業務メモ」
「なんの」
「今日の終わりが十七時二十八分。高町さんが自販機の前に立ったのが十七時三十四分」
彼女は画面から目を離さずに言った。
「たぶん、何かあるでしょ。私は聞かないけど、時間だけ取っとく」
俺は何も言えなかった。
言えないまま、微糖を飲んだ。甘かった。今日は甘いほうがよかった。
◇
缶が半分になったところで、スマホが鳴った。
美咲だった。
〈終わった?〉
〈終わった〉
〈何時に終わった〉
〈五時半〉
〈今どこ〉
〈事務所のソファ〉
三十秒くらい、返事が来なかった。
それから、こう来た。
〈動けなくなってるでしょ〉
俺は缶を持ち直した。
〈なんでわかるんだ〉
〈ソファって書いたから〉
もう一通来た。
〈今日、点いたんだね〉
俺はしばらく画面を見ていた。
昨日の今日である。あの女は昨日、俺の部屋の床に座って、手帳に丸と×を書いていた。今日ぶんの欄が、たぶんもう作ってある。
〈点いた〉
〈了解。明日の一時間目、寝ていいように宮坂先生に言っとく〉
〈言えるのか、そんなこと〉
〈言わない。あなたが寝てても起こさないってだけ〉
俺は返事をしなかった。
有本さんが向かいで顔を上げた。
「学校の子?」
「はい」
「昨日の委員長さん?」
「はい」
「……あの子、うちで雇いたい」
◇
犬飼さんが車で送ってくれた。
助手席で、俺はほとんど喋らなかった。喋れなかったが、外からは黙っている男に見えていたはずだ。
信号で止まったとき、犬飼さんが言った。
「今日のあれ、なんだったんだ」
「わからないです」
「四回目まで、あんなに下手だったのにな」
「はい」
「五回目で、化け物になった」
犬飼さんは前を向いたままだった。
「高町。社長が入ってきたの、見えてたか」
「見えてました」
「そうか」
それきり、何も聞かれなかった。
この人はときどき、聞くのをやめる。やめる場所が毎回同じなのが、少し不思議だった。
降りるとき、犬飼さんは後部座席に手を伸ばして、ゼリー飲料を二本くれた。
「持ってけ」
「はい」
「今日はもう寝ろ」
「はい」
◇
家に着いて、飯を三杯食べて、風呂に入って、部屋に上がった。
時計を見ると八時半だった。三時間は、たぶんもう終わっている。
俺はミューナを机に戻した。
「ねえ」
「なに」
「あんた、あれ、危ないわよ」
「なにが」
「止まらなかったでしょ」
俺は手を止めた。
「なんで知ってる」
「鞄の中でも空気は伝わるの」
ミューナは腰に手を当てていなかった。腕も組んでいなかった。ただ、台座の上に立っていた。
「止め方を、知ってるか」
「知らないわ」
「四十年やってたのに?」
「やってたから知ってるのよ。止め方はないの」
それだけ言って、彼女はしばらく黙った。
窓の外で、街灯がついていた。ミューナはそれを見るのが好きだ。舞台の照明に似ているらしい。
「……今日はいいわ。寝なさい」
「うん」
俺は電気を消した。
ベッドに入って、目を閉じたところで、机の右奥から声がした。
「ねえ」
「なに」
「今日、何分かかった。戻るのに」
俺は天井を見た。
膝が抜けたのが、たぶん五時半すぎ。飯が食えたのが、七時前。
「……知らない」
「今度から、測りなさい」
ミューナの声は、いつもより低かった。
「一分単位で、全部よ」
俺は返事をしなかった。
代わりに、暗い天井を見たまま、一つだけ思っていた。
――時計を見る力が残ってる日は、たぶん、まだ軽いほうだ。




