↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/191

第21話 カメラの向こうが多すぎる

四階の部屋に入ったら、椅子が一脚だけ置いてあった。


 背もたれのない、黒い丸椅子だ。それが部屋の真ん中にぽつんとある。そこに向かって、三台の照明と、脚立と、大きいカメラが半円形に並んでいた。


 人間が、椅子より多い。


 俺は入口で数えた。カメラの人が三人、照明の人が二人、音声の人が一人、宣伝部の人が二人、犬飼さんと有本さん。それから、梶原先生が壁際でファイルを開いている。


 十一人。


 椅子は一脚。


「高町さん、そこ座って」


 有本さんが言った。


 俺は座った。座ると、十一人が全員こっちを向いた。


   ◇


「じゃあ、まずサイズ見ます」


 カメラの人が言った。


 俺は自分の服を見た。上はTシャツで、下はジャージだ。事務所で借りたやつなので、サイズはたぶん合っている。


「サイズ、合ってると思います」

「え?」

「Mです」


 部屋が三秒止まった。


「あー、いや、『サイズ』っていうのは、どこまで画に入れるかの話ね」


 カメラの人が笑った。悪い笑い方ではなかった。


「バストアップでいくか、ウエストからいくか」

「わからん」


 言ってしまってから、口に出したことに気づいた。


「わからないです」

「うん、わかんなくていいよ。こっちで決めるから」


 カメラの人は本当に気にしていなかった。この人は笑うとき、先に肩が動く。


「あと、頭ちょっと詰めます」

「頭」

「上の余白ね」


 俺の頭には余白があるらしい。


   ◇


 テスト映像を撮る、と言われたのは昨日の夜だ。


 なんのために撮るのかは、今朝、車の中で犬飼さんが説明してくれた。


 俺を売りに行くのに、見せるものが何もないらしい。動画は妹が上げたやつしかなくて、あれは十七秒しかなくて、しかも権利がややこしい。だから事務所で撮る。撮って、営業のときに持っていく。


「高町。笑わないだろ」


 犬飼さんはハンドルを握ったまま言った。


「はい」

「だから、笑わない役者として売る。それは先週決めた」

「はい」

「決めた以上、笑わない顔がちゃんと撮れてないと話にならん」


 理屈は通っていた。


 通っていたので、俺は「はい」と言った。


 言いながら、後部座席の足元にあるゼリー飲料の箱を見ていた。十二本入りが二箱。この人はいつあれを飲むんだろう、と思っていた。


   ◇


 ちなみに、火曜は五時間授業である。


 その日にカメラテストが入ったのは偶然ではないらしい。美咲が作って有本さんに渡したあの表に、曜日ごとの終わりの時刻が全部書いてあった。有本さんはそれを見て、四時からの枠をここに入れた。


 俺は自分の時間割を、他人から教えてもらう形で知った。


   ◇


 ちなみに、俺の前に鴻上が撮っていた。


 同期は俺を入れて四人いる。今日撮ったのは三人で、日下部さんだけ明日に回った。順番は鴻上、神保、俺。理由は「短い順」らしい。鴻上は十五分で終わった。神保は二十分だった。


 鴻上の番のとき、俺は部屋の隅で見学していた。


 こいつは丸椅子に座った瞬間に、背筋が伸びた。俺のみたいに勝手に伸びるやつではなくて、自分で伸ばしたやつだ。顎の角度を少し変えて、口の端を上げて、それを十五分ずっと保っていた。


「はい、次、笑って」

「はい」

「もうちょい歯出して」

「はい」


 出た。


 人間の顔というのは、頼まれてから一秒で形が変わる。俺は初めてそれを間近で見た。


「鴻上くん、慣れてるね」

「養成所のとき、毎月撮られてたんで」


 カメラの人が笑って、鴻上も笑った。


 その一連を見ながら、俺が考えていたのは一つだけだった。


 ――あの動き、どこの筋肉だ。


 神保も普通にできていた。鴻上ほど派手ではないが、言われた通りに顎を引いて、言われた通りに目線を動かしていた。


 二人とも、誰にも見られていない状態で、普通にできていた。


 撮り終わった鴻上が、隅に来て俺の肩を叩いた。


「高町、緊張してんの?」

「してない」

「顔が死んでるで」

「元からだ」

「あー、そうやったな」


 こいつは俺の顔について一度も気を遣わない。それが今のところ、この事務所で一番楽なところだった。


   ◇


「じゃあ、一回そのまま。カメラ見て」


 俺はカメラを見た。


 レンズは黒くて、丸くて、真ん中に俺が小さく映っている。


 何も、起きなかった。


 合図は、来なかった。


 考えてみれば、当たり前だった。


 レンズは何も思っていない。硝子だ。硝子は俺に興味がない。


「はい、オッケー。じゃあ台本いきます」


 梶原先生が紙を一枚くれた。


 三行だけ書いてあった。誰かの独白で、雨の話をしていた。前後がないので、誰が誰に言っているのかはわからない。


「一回、読んでみてください」


 俺は読んだ。


 棒読みだった。


 部屋の空気が、ほんの少しだけ下がった。


   ◇


 二回目も駄目だった。


 三回目も駄目だった。


 理由は俺にはわかっていた。誰も俺を見ていないからだ。


 照明の人は照明を見ていた。音声の人はメーターを見ていた。カメラの人はモニターを見ていた。宣伝部の人は自分のスマホを見ていた。有本さんは進行表を見ていた。


 全員が仕事をしている。仕事をしている人間は、俺を見ていない。


 この部屋で俺をちゃんと見ていたのは、たぶん犬飼さんと梶原先生の二人だけだった。


 二人ぶんでは、足りなかった。


「……高町くん」


 梶原先生が紙を覗き込んだ。四十九歳。ソレイユのレッスン部門の室長で、演技も見る人だ。厳しくはないが、必ず記録を取る。


「もう一回、頭から」

「はい」


 四回目。


 やっぱり駄目だった。


 カメラの人がモニターから顔を上げて、「うーん」と言った。


 その「うーん」を聞いた瞬間、部屋の隅で犬飼さんがポケットに手を入れた。


   ◇


 鞄はドアの脇に置いてある。中から声がした。


「あんた、これ、まずいわよ」

(わかってる)

「わかってて何もしないの?」

(何もできない)


 できない。


 俺は自分でスイッチを入れられない。入れるのは俺ではなくて、この部屋にいる人たちだ。俺にできるのは、丸椅子に座って、雨の話を四回続けて下手に読むことだけだった。


 ミューナが何か言いかけて、やめた。


 やめた理由は、そのときはわからなかった。


   ◇


 五回目に入る前に、ドアが開いた。


「進んでるか」


 白鳥社長だった。


 五十八歳。うちの社長で、判断が異様に速い人だ。二週間前、俺が三行の台本を読んで、五秒で「明日から来い」と言った人でもある。


 社長は部屋に入って、壁際に立った。


 それだけだった。


 それだけだったのに、部屋の音が変わった。


 照明の人が手を止めた。音声の人がヘッドホンを外した。宣伝部の二人がスマホをしまった。有本さんが進行表を下ろした。カメラの人がモニターから顔を上げて、直接こっちを見た。


 十二人が、全員、同じ方向を向いた。


 俺のほうを。


   ◇


 部屋の音が、遠のいた。


 輪郭が、はっきりした。


 背筋が、伸びた。


   ◇


 いつもと、少し違った。


 はっきりしすぎていた。


 カメラの人の手首に血管が浮いているのが見えた。照明の光の中を、埃が三粒、斜めに落ちていくのが見えた。犬飼さんが息を吸ったのがわかった。吸って、止めたのがわかった。壁の時計の秒針が、こつ、と鳴った。


 全部、同時に来た。


 紙の三行が、勝手に立ち上がった。


 俺はその三行を、まだ二回しか目で追っていない。それなのに、どこで息を継ぐかも、どこで止めるかも、最初から決まっているみたいだった。決めたのは俺ではない。


「――雨、やんだのか」


 自分の声が、部屋の端まで届いた。


 届いたのがわかった。届いて、跳ね返ってこないのがわかった。全員が息を吸い込んで、その音まで聞こえた。


「傘、置いてけよ」


 二行目。


 誰かが椅子を引く音がした。前に出てきた音だ。


「……どうせ、また降る」


 三行目。


 終わった。


   ◇


 終わったのに、終わらなかった。


 カットの声が、かからなかった。


 カメラは回ったままだった。赤いランプがついている。全員がこっちを見たままで、誰も動かなかった。


 そして俺の中で、まだ点いていた。


 背筋が伸びたままだった。輪郭がはっきりしたままだった。指の先まで自分のもののような気がしなくて、口が、勝手にもう一度息を吸った。


 ――止め方が、わからない。


 これは正直に書くが、そのとき俺が思ったことは二つだけだった。


 一つ、これはどこで終わるんだ。


 二つ、終わったら、たぶん腹が減る。


 二つ目のほうが、少しだけ大きかった。


   ◇


 止めたのは、社長だった。


「はい、以上」


 ぱん、と一回だけ手を叩いた。


 その音で、部屋が戻った。


 音が戻ってきて、輪郭がぼやけて、俺は丸椅子の上で猫背に戻った。膝の上に置いていた手が、じん、と痺れていた。


 誰も、何も言わなかった。


 カメラの人が、ゆっくりモニターを覗き込んだ。


 それから顔を上げて、言った。


「今の、もう一回できます?」


 俺は答えた。


「無理です」


 できないからだ。


 社長がもう一度手を叩いたら、全員が仕事に戻る。仕事に戻ったら、誰も俺を見ない。見られていなければ、俺は雨の話を「ぺち」と読む。それだけの話だった。


 だが、部屋の受け取り方は違った。


「……そうだよな」


 カメラの人が、深く頷いた。


「一発しか出ないやつだよ、今の」


 照明の人が「わかる」と言った。音声の人も頷いた。宣伝部の人が何かメモを取り始めた。


 また一つ、俺の知らない俺が増えた。


   ◇


 部屋の隅に、鴻上がまだいた。


 自分の撮影はとっくに終わっているのに、帰らずに壁にもたれて見ていたらしい。


 俺と目が合った。


 こいつはいつも、目が合うと先に何か言う。今日は言わなかった。


 三秒くらい見て、それから小さく口を動かした。声は出ていなかったので、何を言ったのかはわからなかった。


 わからなかったが、たぶん「またかいな」だった気がする。


 鴻上は壁から背中を離して、部屋を出ていった。出ていくとき、こっちを見なかった。


   ◇


 梶原先生は、そのあいだずっとファイルに何か書いていた。


 この人は「できないことを紙に書いて、三ヶ月後にもう一度見る」という指導の仕方をする。先週、俺の紙には三行書かれた。三行とも読ませてもらっていない。


 書き終えてから、梶原先生は顔を上げた。


「高町くん」

「はい」

「一回目から四回目までと、五回目。自分では何が違いましたか」


 俺は正直に答えた。


「わからないです」

「そう」


 梶原先生はペンをしまった。怒っても呆れてもいなかった。


「じゃあ、それも書いておきます」


 彼女はファイルを閉じて、壁際に戻っていった。


 俺は丸椅子に座ったまま、その背中を見ていた。


 この人は、たぶん三ヶ月後にこの紙をもう一度開く。そのときも俺はきっと「わからないです」と言う。言うのが目に見えている。それでもこの人は書く。


   ◇


 社長は、出ていく前に一度だけこっちを見た。


「高町」

「はい」

「腹、減ってるか」


 俺は少し驚いた。


「減ってます」

「そうか」


 それだけ言って、社長は出ていった。


 この人はときどき、怖いくらい当てる。


   ◇


 撮影が終わったのは五時半だった。


 俺は「お疲れ様です」を六回言って、鞄を持って、四階の廊下に出た。


 そこまでは持った。


 エレベーターの前で、右膝が抜けた。


 抜けるというのは正確な表現ではない。膝から下が急に他人のものになる、という感じだ。俺は壁に手をついた。手にも力が入らなくて、肩でぶつかる形になった。


 視界の端が白い。


 三時間だ。


 俺は壁伝いに階段のほうへ歩いた。エレベーターは待たなかった。あそこは扉が開くたびに人が乗ってくる。人が乗ってくる箱の中で膝が抜けるのは、一番よくない。


 階段を下りた。手すりを両手で握って下りた。


 傍から見れば、手すりを両手で握って、一段ずつ足を揃えて下りている男である。


   ◇


 一階のロビーにたどり着いて、自販機の前に立った。


 左が微糖だ。俺は必ず左を押す。


 押せなかった。


 指がボタンに触れているのに、押し込む力が出ない。二回滑って、三回目で、ようやく「がこん」と音がした。


 缶を取り出して、両手で持った。片手だと落とすからだ。


 ソファの一番端に座って、両手で缶を持ったまま、しばらく動かなかった。


「高町さん」


 有本さんが降りてきた。


「顔色」

「大丈夫です」

「大丈夫な人は自販機の前で三十秒止まらないよ」


 見られていた。


 有本さんはソファの向かいに座って、タブレットを開いた。何か打ち込んでいる。


「何、書いてるんですか」

「業務メモ」

「なんの」

「今日の終わりが十七時二十八分。高町さんが自販機の前に立ったのが十七時三十四分」


 彼女は画面から目を離さずに言った。


「たぶん、何かあるでしょ。私は聞かないけど、時間だけ取っとく」


 俺は何も言えなかった。


 言えないまま、微糖を飲んだ。甘かった。今日は甘いほうがよかった。


   ◇


 缶が半分になったところで、スマホが鳴った。


 美咲だった。


 〈終わった?〉

 〈終わった〉

 〈何時に終わった〉

 〈五時半〉

 〈今どこ〉

 〈事務所のソファ〉


 三十秒くらい、返事が来なかった。


 それから、こう来た。


 〈動けなくなってるでしょ〉


 俺は缶を持ち直した。


 〈なんでわかるんだ〉

 〈ソファって書いたから〉


 もう一通来た。


 〈今日、点いたんだね〉


 俺はしばらく画面を見ていた。


 昨日の今日である。あの女は昨日、俺の部屋の床に座って、手帳に丸と×を書いていた。今日ぶんの欄が、たぶんもう作ってある。


 〈点いた〉

 〈了解。明日の一時間目、寝ていいように宮坂先生に言っとく〉

 〈言えるのか、そんなこと〉

 〈言わない。あなたが寝てても起こさないってだけ〉


 俺は返事をしなかった。


 有本さんが向かいで顔を上げた。


「学校の子?」

「はい」

「昨日の委員長さん?」

「はい」

「……あの子、うちで雇いたい」


   ◇


 犬飼さんが車で送ってくれた。


 助手席で、俺はほとんど喋らなかった。喋れなかったが、外からは黙っている男に見えていたはずだ。


 信号で止まったとき、犬飼さんが言った。


「今日のあれ、なんだったんだ」

「わからないです」

「四回目まで、あんなに下手だったのにな」

「はい」

「五回目で、化け物になった」


 犬飼さんは前を向いたままだった。


「高町。社長が入ってきたの、見えてたか」

「見えてました」

「そうか」


 それきり、何も聞かれなかった。


 この人はときどき、聞くのをやめる。やめる場所が毎回同じなのが、少し不思議だった。


 降りるとき、犬飼さんは後部座席に手を伸ばして、ゼリー飲料を二本くれた。


「持ってけ」

「はい」

「今日はもう寝ろ」

「はい」


   ◇


 家に着いて、飯を三杯食べて、風呂に入って、部屋に上がった。


 時計を見ると八時半だった。三時間は、たぶんもう終わっている。


 俺はミューナを机に戻した。


「ねえ」

「なに」

「あんた、あれ、危ないわよ」

「なにが」

「止まらなかったでしょ」


 俺は手を止めた。


「なんで知ってる」

「鞄の中でも空気は伝わるの」


 ミューナは腰に手を当てていなかった。腕も組んでいなかった。ただ、台座の上に立っていた。


「止め方を、知ってるか」

「知らないわ」

「四十年やってたのに?」

「やってたから知ってるのよ。止め方はないの」


 それだけ言って、彼女はしばらく黙った。


 窓の外で、街灯がついていた。ミューナはそれを見るのが好きだ。舞台の照明に似ているらしい。


「……今日はいいわ。寝なさい」

「うん」


 俺は電気を消した。


 ベッドに入って、目を閉じたところで、机の右奥から声がした。


「ねえ」

「なに」

「今日、何分かかった。戻るのに」


 俺は天井を見た。


 膝が抜けたのが、たぶん五時半すぎ。飯が食えたのが、七時前。


「……知らない」


「今度から、測りなさい」


 ミューナの声は、いつもより低かった。


「一分単位で、全部よ」


 俺は返事をしなかった。


 代わりに、暗い天井を見たまま、一つだけ思っていた。


 ――時計を見る力が残ってる日は、たぶん、まだ軽いほうだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。