第20話 説明する前に見抜かれた
俺は自分の部屋を、人生で二回目に掃除した。
一回目は中学一年のときだ。理由も同じだった。美咲が来ることになったからだ。
「兄ちゃん」
ドアのところに妹が立っていた。手にタブレットを持っている。
「掃除機の使い方、知ってたんだ」
「知ってる」
「コンセント抜けてるよ」
「……」
俺はコンセントを差した。
妹はしばらく見ていた。見ながら、たぶん撮っていた。
「なんで美咲さん来るの」
「話がある」
「なんの」
「……勉強」
「兄ちゃん、嘘つくとき喋る量が減るよ」
妹は正しい。うちの女は全員正しい。
念のために言っておくと、俺の部屋は汚くない。物が少ないだけだ。床に何も落ちていないのは、落ちるほど物を持っていないからである。
それでも掃除機をかけたのは、かけると人は安心するらしい、と中学一年のときに学んだからだ。あのとき美咲は、部屋に入って三秒で「掃除したでしょ」と言った。
階下では母が異様な速度で動いていた。三時のおやつという概念が家から消えて久しいのに、今日に限ってせんべいの袋が二種類テーブルに出ている。
「灯真ー、麦茶でいい? 冷たいのでいい?」
「なんでもいい」
「美咲ちゃん、麦茶でいい?」
「まだ来てない」
母は三時から玄関の靴を並べ直していた。うちの玄関に靴は四足しかない。四足を並べ直すのに、この人は二十分かけた。
◇
机の右奥から声がした。
「ねえ」
「なに」
「わたし、どうすればいいの」
ミューナは、いつもの位置で腰に手を当てていた。赤いドレスの、十五センチの女。四十年前にこの名前を知らない人間は日本にいなかったらしい。今は俺の机の、ペン立てと壁の隙間にいる。
「今日、あの子に話す」
「……本気?」
「本気」
「やめときなさいよ」
「なんで」
「信じないから」
俺は椅子に座った。
「信じなかったら、どうなるんだ」
「あんたが変な子になるだけよ」
既に変な子だと思う。教室で二十人を黙らせておいて、事務所のレッスンでは毎回最下位を取っている男だ。今さら人形が一つ増えたところで、大きくは変わらない。
「言っとくけど、わたしは何もできないわよ」
「知ってる」
「物も動かせないし、未来もわからないし」
「知ってる」
「証明する手段が、ひとつもないの」
その通りだった。
昨日、あの女は俺のリュックの外ポケットから顔を出しているこいつを見た。見て、なんで持ち歩いてるのかと聞いて、俺が答えないままだった。そのうえで、家に来ると言った。
つまり今日は、聞かれる日である。
俺は、そのときまで、そう思っていた。
◇
美咲は四時ちょうどに来た。
インターホンを押した。押す必要はない。この女はうちの合鍵の場所を知っている。それでも毎回押す。そういうところがある。
「お邪魔します」
「あら美咲ちゃん、久しぶり! 大きくなった!」
「三か月前にお会いしました」
「そう?」
母は玄関で三分粘った。妹は階段の途中から観察していた。俺は二人を突破して、美咲を二階に上げた。
部屋に入って、ドアを閉めた。
美咲は部屋を一周見て、それから言った。
「掃除したでしょ」
「してない」
「掃除機のコード、出しっぱなし」
俺は黙ってコードを巻いた。
◇
美咲は床に座った。座布団を出したのに、使わずに床に座った。そして鞄から、小さい手帳を出して膝の上に置いた。
「で、なに」
俺は机の椅子に座って、口を開いた。
昨日の夜、言うことは考えてあった。順番も考えた。三回、声に出して練習した。誰も見ていない場所での練習なので、まったく意味はなかった。
一行目が、出てこなかった。
人形が喋る、から始めると、そこで話が終わる。素質、から始めると、素質とは何かを説明することになる。持久走から始めると、持久走の話だと思われる。
三十秒、黙った。
傍から見ると、椅子に座って正面を向いたまま動かない男である。
実際には、一行目をどこに置くかで完全に詰んでいた。
「……やっぱりいい」
「そう」
美咲はそれだけ言って、手帳を開いた。
◇
聞かれなかった。
これは、俺の想定にない事態だった。
昨日の時点で、この女は赤い人形を見ている。見て、途中まで聞いている。途中まで聞いた人間は、続きを聞くものだと思っていた。
なのに、美咲はページをめくっている。
「あの」
「なに」
「聞かないのか」
「なにを」
「……いや」
俺は口を閉じた。
三分後、もう一度試した。
「あのさ」
「なに」
「机の上に、人形がある」
「あるね」
「……趣味の悪いやつが」
「うん」
うん、で終わった。
俺は椅子に座り直した。この女は、こっちが差し出したものを取らない。取らないと決めた日は、皿ごと押し返してくる。
◇
そのとき、ノックもなくドアが開いた。
この家の女はノックをしない。
「麦茶ー」
妹だった。盆に麦茶を二つとせんべいを載せている。載せているのは口実で、目的は明らかに視察である。
俺は反射的に机のほうを見た。
ミューナは、腰に手を当てた姿勢のまま完全に静止していた。瞬き一つしない。塗装された樹脂の塊に戻っている。この切り替えの速度だけは、本当に大女優なのかもしれないと思う。
「あ、美咲さん久しぶり」
「ひなたちゃん、大きくなったね」
「三か月前に会いました」
この姉妹みたいなやりとりを、俺は黙って見ていた。
妹は盆を床に置いて、そのまま座った。
「なんの話してたの」
「勉強」
「兄ちゃんが? 勉強の話を?」
「そう」
妹は俺を見て、美咲を見て、それから机の上を見た。
「その人形、まだあるんだ」
「ある」
「向き、この前と変わってない?」
俺は黙った。
美咲がせんべいを一枚取った。
「ひなたちゃん、宿題は」
「……あ」
「あるんだ」
「ある」
妹は立ち上がって出ていった。
委員長というのは、たぶん人類の技術の一つだと思う。
ドアが閉まって三秒後、ミューナが腕を組み直した。
「あの妹、いつか気づくわよ」
「なんで」
「向きの話をしたでしょ」
◇
三分くらい、部屋が静かになった。
窓の外で自転車のブレーキが鳴った。隣の家のドアが閉まる音がした。階下でテレビの音がしていた。
俺はその間、特に何も考えていなかった。
考えていなかったので、腹が減っていることに気づいた。せんべいを取りに行きたい。だが今行くと、たぶん母が上がってくる。
やがて、美咲が手帳のページをめくった。
前のほうへ、何枚もめくった。
「先に、私が言っていい?」
◇
「五月十四日。持久走。八周目に、二階の窓に生徒が七人並んだ」
美咲は手帳を見ながら言った。
「五月十五日。昼休み。教室に人が集まった。私が数えたのは十九人。廊下の子を入れると二十二人」
俺は顔を上げた。
「同じ日の放課後。空き教室。二人。あなたは下手だった」
ページがめくれる音がした。
「事務所に行った日。人数はあなたが言った『十数人』のまま。私は見てない」
もう一枚。
「五月の終わり。レッスン初日。あなた、次の日に『最下位だった』って言った。誰も見てなかったんだよね」
美咲は手帳を閉じた。
「三週間ぶん、日付と人数だけ書いてある。上手くいった日には丸、駄目だった日には×」
俺は、動けなかった。
顔は動かない。もともと動かない。だが、それ以外の全部が止まっていた。
「なんで、そんなの」
「あなたに『誰にも言うな』って言ったのは私だから」
美咲は手帳の角を揃えた。
「言うなって言った以上、あなたは誰にも数えてもらえないでしょ。それは不公平だと思ったの」
「……」
「だから、私が数えてた」
机の右奥で、ミューナが小さく言った。
「……あの子、三週間、一日も抜かしてないわよ」
(聞こえてたのか)
「日付を全部読み上げたじゃないの」
ミューナは腰から手を離した。
「わたしの頃はね、そういうのは付き人の仕事だったの。給料が出る仕事よ。……出なくなったら、終わりだけど」
◇
「たまたま、じゃない気がしてた」
美咲は、そう言った。
三週間前に、埃だらけの空き教室で、同じ言葉を言った女だった。あのとき彼女はそこで止まった。その先を追わなかった。
追わなかったのに、数えていた。
「その顔やめて」
「なんの顔」
「今、けっこう驚いてるでしょ」
「……驚いてる」
「知ってた」
俺は、そこでもう一度、言おうとした。
言おうとしたら、手のひらが出てきた。
「言わなくていい」
「なんで」
「聞かないって決めたから」
◇
「理由、二つある」
美咲は指を一本立てた。
「一つ。誰にも言うなって言ったのは私。私が聞いたら、私が最初に破ることになる」
二本目が立った。
「二つ。聞いたら、あなた、説明しようとするでしょ」
「する」
「あなた、説明が壊滅的に下手だから。さっき三十秒黙ってたし」
「……」
「時間の無駄」
切り捨てられた。
机の右奥で、ミューナが「あの子、怖いわね」と言った。届いていない。
「空き教室で言ったでしょ。私は見てるだけって」
美咲はペンの尻で手帳を叩いた。
「言った通りにしてるだけ」
◇
「じゃあ、確かめよう」
美咲がそう言うので、俺は身構えた。
中身を確かめられるのだと思った。
「今、私が本気で見るから、やってみて」
違った。
この女が確かめるのは、俺の中身ではない。俺の外側だった。
俺は立ち上がって、机に手をついて、あの台詞を言った。
「ふざけるな。誰のために俺がここに立ってると思ってる」
部屋が静かになった。
静かというか、しらけた。
音は遠のかなかった。輪郭もはっきりしなかった。背筋も伸びなかった。机を叩いた音は「ぺち」だった。三週間前とまったく同じ「ぺち」だった。
「うん、下手」
「うん」
「あのときと同じだね」
「同じだ」
「もう一回やって」
「なんで」
「一回だと、たまたまかどうかわからないでしょ」
俺はもう一回やった。
二回とも「ぺち」だった。二回目のほうが小さかった。回数を重ねると下手になる人間というのが、この世にはいるらしい。
美咲は手帳に×を書いた。
書きながら、こう言った。
「私、あなたに驚いたこと、一回もないんだよね」
俺は顔を上げた。
机の右奥で、ミューナが同じことを言おうとしていた。言う前に言われていた。
「……関係あるのか」
「知らない。でも、書いとく」
階下でせんべいの袋が開く音がした。
母が食べている。俺のぶんが減っている。
◇
「じゃあ、数字だけ聞くね」
美咲は新しいページを開いた。
「点いたあと、何分で歩ける?」
「……知らない」
「知らないの?」
「測ったことがない」
美咲がペンを止めた。止め方が怖かった。
俺は机の右奥に聞いた。声には出していない。
(何分だ)
「歩けるようになるのは十五分」
ミューナは、そこで一度切った。
「ちゃんと戻るのは三時間よ。別の話だから、混ぜないで」
俺はそれを、そのまま伝えた。歩けるのが十五分。全部戻るのが三時間。
「二段あるんだ」
「あるらしい」
「なんでわかるの」
美咲はそこで、自分の口を一度閉じた。
「……いい。聞かない」
彼女は手帳に線を二本引いて、左に十五、右に三時間と書いた。
「じゃあ、あなたの一日はこうなる。予定の後ろに十五分。そのあとの三時間は、頭を使う予定を入れない」
「頭は元から使ってない」
「知ってる」
美咲はもう一つ聞いた。
「今までで、いちばん人が多かったのは」
「教室。二十人くらい」
「そのときが、いちばん強かった?」
「たぶん」
「じゃあ、人数が増えたらどうなるの」
「知らない」
「知らないんだ」
「知らない」
美咲は、そこに丸ではなく四角を書いた。
「四角は、まだわからないところ。埋まったら丸にする」
「四角、いくつある」
「今のところ、七つ」
七つ。
俺の身体の話なのに、七つも知らないことがあるらしい。知らないまま十七年やってきて、今のところ特に困っていない。
◇
最後に、美咲は一つだけ質問をした。
ペンを置いてから聞いたので、たぶんメモを取るつもりのない質問だった。
「それ、身体に悪いの?」
俺は机の右奥を見た。
ミューナは、そのとき天井を見ていた。
返事がなかった。
三秒待った。五秒待った。人形は腰に手を当てたまま、部屋の照明のあたりを見上げていた。
「……わからない」
俺はそう答えた。
答えとしては最低の部類だが、嘘ではなかった。
美咲はペンを取り直して、日付の下に一行だけ書いた。書いてから、少し長く手帳を見ていた。
「……そう」
俺は、そのときは何とも思わなかった。
思わなかったので、せんべいのことを考えていた。階下の袋が二種類とも開いている音がしていて、あれは母が両方に手を出したということだ。俺の取り分はもう半分ない。
◇
六時前に、美咲は帰り支度を始めた。
鞄を持って、立ち上がって、それから机のほうを向いた。
机の右奥。ペン立てと壁の隙間。赤いドレスの、腰に手を当てた十五センチの女。
美咲は、それを二秒見た。
二秒だった。数えた。
「……趣味悪いね、それ」
「そう」
それだけだった。
彼女はドアのほうを向いて、鞄を肩にかけ直した。
「表、作り直すね」
「なんの」
「あなたの。十五分と三時間を先に引いてから、予定を入れる形にする」
「面倒じゃないか」
「面倒だよ」
美咲はドアノブに手をかけた。
「でも、あとで壊れるほうがもっと面倒だから」
◇
玄関で母が「またいらっしゃいね」と三回言った。妹が二階から「美咲さーん」と手を振った。
母はせんべいの袋も持たせようとした。美咲は二回断って、三回目で受け取った。断る回数まで礼儀正しい。
持たされたのは、開いていないほうの袋だった。俺が食べようとしていたほうである。
美咲は全員に丁寧に挨拶をして、自転車で帰っていった。
ドアが閉まったあと、母がサンダルを揃えながら言った。
「美咲ちゃん、月曜って塾じゃなかったっけ」
「知らない」
「そう」
母はそれ以上言わなかった。
俺は麦茶の残りを飲んで、二階に上がった。
◇
部屋に戻ると、ミューナが待っていた。
「……あの子、聞かなかったわね」
「聞かなかった」
「わたしのことも、あんたのことも、一回も」
ミューナは腰から手を離した。
「四十年生きてても、あんな子には会ったことないわ。人はね、聞くのよ。聞かないでいられないの」
「そうか」
「聞かないってことはね、もう決めてるってことよ」
「何を」
「さあ」
ミューナはそれきり黙った。
俺は机の前に座って、明日の香盤表を開いた。
開いても、やっぱり読めなかった。
読めない代わりに、有本さんからのトークに一行だけ日本語が書いてあった。
〈明日16時、4Fの簡易スタジオでカメラテストです〉
「カメラテストって、なんだ」
「カメラで撮るんでしょ」
ミューナが言った。
それは俺にもわかる。
もう一通、来ていた。
〈立ち会い、十一人です。よろしくお願いします!〉
「十一人だって」
俺は画面を机の右奥に向けた。向けたところで読めるわけではない。癖である。
「……十一人」
ミューナが、そう繰り返した。
「多いのか」
「多くはないわ」
「じゃあいいだろ」
「……そうね」
ミューナは天井を見た。
その日、彼女は寝るまで一度も口を利かなかった。




