第19話 課題が三つ溜まっている
「学校の課題が、三つ溜まってる」
俺は、その紙を見た。
現代文の要約が先週ぶん。日本史のプリントが二枚。化学のレポート。
三つとも心当たりがなかった。心当たりがないというのは、やっていないという意味ではない。そもそも出ていたことを知らない、という意味である。
後ろで鴻上が小さく「うわ」と言った。
◇
「化学は、金曜の四時が締め切りだった」
美咲はクリアファイルの二枚目を出した。手際がいい。この女は小学生のときから配布物を配るのが速かった。
「今日、日曜だ」
「そう。二日過ぎてる」
「二日」
「宮坂先生から伝言。『来週の月曜まで。それ以上は待たない』」
俺は受付のソファに座った。
座ったというより、落ちた。午前中に一回死んで、二十分で立てるようになった体である。歩ける。歩けるが、三時間のほうがまだ終わっていない。
「先生、なんて顔してた」
「いつもの顔」
だろうな。
あの人は俺が四十万回再生されようが、テレビに映ろうが、事務所に入ろうが、同じ顔で「範囲は変わらん」と言う人だ。
「教室で、なんて言って渡してきたんだ」
「『誰か、あいつに言いに行け』」
「それだけ?」
「それだけ」
美咲はファイルの角を指で揃えた。
「で、誰も手を挙げなかったから」
それも、だろうな、と思った。
クラスの連中は俺に話しかけなくなったわけではない。ただ、俺のところに「課題を出せ」と言いに来る役をやりたい人間は、たぶんいない。無表情の男に締め切りの話をするのは怖い。俺でも怖い。
「めんどくさかっただろ」
「委員長だから」
美咲はそう言って、ページをめくった。
めくったページの端が、少し折れていた。折り目が新しかった。今日折ったものだ。
◇
「……あの」
鴻上が横から顔を出した。
同期の鴻上ケイ。ダンスがうまくて、初対面から一度も俺の顔を怖がったことがない。今も怖がってはいない。ただ、状況を把握できていない顔をしている。
「高町、この人誰」
「幼馴染」
「幼馴染」
「クラス委員長」
「委員長」
復唱するだけで、こいつは何の情報も得ていない。
「……彼女?」
「違う」
「違います」
声が重なった。美咲のほうが〇コンマ二秒早かった。
速い。速すぎて逆に何かあるみたいだが、何もない。うちの合鍵の場所を小学三年から知られているだけの間柄である。
「あー、そう。ふーん」
鴻上は納得していない顔で納得した。
「委員長さん、日曜も学校あるん?」
「ないです」
「じゃあ何しに来たん」
「これを渡しに」
「それだけのために?」
「それだけのためです」
鴻上が俺を見た。
俺は無表情のまま、受付の観葉植物を見ていた。
「……高町、お前ええ友達おんな」
「うん」
友達というカテゴリで合っているのかは、まだ考えている途中だった。
友達というのは、たとえば熊沢大河みたいなやつのことだと思っていた。うちの合鍵の場所を知っていて、日誌の代筆を却下してくる人間を、なんと呼べばいいのかがわからない。
三秒考えて、答えは出なかった。沈黙だけが残った。
「……そういうとこだよ」
美咲が小さく言った。
◇
三階から犬飼さんが降りてきた。
うちのチーフマネージャーで、三十八歳で、背中がまっすぐな人だ。日曜なのでネクタイはしていない。片手はポケットに入っている。あのポケットには粉の胃薬が入っている。水がいらないから速いらしい。
「高町、その子は」
「藤堂と申します」
美咲が立ち上がった。
「高町くんのクラス委員長です。学校からの連絡で伺いました」
名刺は持っていない。持っているわけがない。高校二年生だ。
だが彼女は、代わりに紙を一枚差し出した。
俺は横から覗き込んだ。A4の表だった。左に日付、真ん中に時間、右に「学校」「事務所」の二列。今週と来週が入っている。空欄は一つもない。
「学校側で把握している高町くんの予定です。事務所さんの予定と、二か所ずれています」
犬飼さんが紙を受け取った。
受け取って、黙って読んだ。十秒くらい読んでいた。
「……助かります」
犬飼さんは頭を下げた。
三十八歳の大人が、十七歳の女子高生に頭を下げた。
俺はソファに座ったまま、それを見ていた。
座ったまま考えていたのは、あれは何度なんだろう、ということだけだった。四十五度くらいある気がした。
「藤堂さん、でしたね」
「はい」
「うちの高町が、迷惑をかけていませんか」
「かけています」
即答だった。
「ですが、それは今に始まったことではないので」
犬飼さんが、初めて少し笑った。
◇
問題が起きたのは、その一分後だった。
「犬飼さーん、来週の頭の件なんですけど」
階段から有本さんが降りてきた。
有本千夏さん。二十六歳。犬飼さんの下につくマネージャーで、しゃべるのが速くて、タブレットを触る指がもっと速い。日曜に事務所にいる理由は、たぶんこの人にもよくわかっていない。
「木曜の午後、空いてますよね。ボイスの補講入れちゃっていいですか」
「木曜は入りません」
美咲だった。
有本さんが足を止めた。
「……えっと」
「木曜の午後は化学の実験です。実験は振り替えができません」
「あ、そうなんですね。じゃあ金曜――」
「金曜は補習です」
「月曜」
「月曜は日直です」
ロビーが静かになった。
二人が同時に俺を見た。
「高町さん、木曜って何がある?」
有本さんが聞いた。
「……学校」
「学校は毎日あるでしょ」
美咲が言った。
俺は正直に言った。
「自分の予定を、把握してない」
二人が同時に息を吸った。
「高町さん、香盤表は?」
「読めません」
「トークにPDF送ってますよね」
「届いてます」
「開いてます?」
「開いてます」
開いてはいる。読めてはいない。あの紙は縦にも横にも数字が並んでいて、どこが自分の行なのかがわからない。この二週間、俺は毎朝それを開いて、そのまま閉じている。
「じゃあ来週の水曜は」
「……水曜」
「水曜」
「……祝日じゃないですか」
「祝日は再来週です」
美咲が横から言った。
「高町くん、それ先月も間違えてた」
◇
結論から言うと、そこから十五分揉めた。
有本さんはタブレットの画面を出した。美咲は紙の表を出した。有本さんは「共有できるので」と言い、美咲は「紙は落ちません」と言った。有本さんは「電池が切れないので」と言い、美咲は「電波が入らない校舎があります」と言った。
どちらも正しい。
傍から見ると、俺はソファの端に浅く腰かけて、大人二人のやりとりを黙って見ている男である。
実際には、背もたれまで動くのが面倒だっただけだ。
途中、二人が同時にこっちを向いた。
「高町くん、どっちがいい」
「高町さん、どっちがいいですか」
呼び方まで割れていた。
俺の頭の中を通り過ぎたものを、順番に書く。
一つ、どちらでもいい。二つ、どちらかを選ぶと、選ばなかったほうが敵になる。三つ、腹が減った。
三つ目が一番強かった。
「どっちでもいいです」
二人に怒られた。
◇
「じゃあ、線を引きましょう」
最初に折れたのは有本さんだった。折れたというより、切り替えが早かった。
「制服着てる時間は藤堂さんの管轄。着てない時間はうち。それでどうですか」
「境目はどこですか」
「事務所のドア」
「わかりました」
握手をしていた。
二分前まで紙とタブレットで殴り合っていた二人が、握手をしていた。大人と高校生の区別がつかない。
「あ、じゃあ連絡先だけ」
「はい」
「藤堂さん、トークやってます?」
「やってます」
二人がそれぞれ端末を出した。
俺は蚊帳の外だった。
自分の一週間が、目の前で二つに分割されて、二人の手に渡っていく。俺はソファに座って、自販機のほうを見ていた。受付の脇に二台あって、右がブラックで、左が微糖だ。俺は必ず左を押す。それだけは自分で決めている。
人生の中で自分が決めている領域が、缶コーヒー一本ぶんまで縮んでいた。
悪くない。缶コーヒーは、一番大事な部類だ。
「高町」
犬飼さんが上から俺を見ていた。
「今、けっこう大事な会議をされてるぞ」
「はい」
「なんとも思わないのか」
「助かってます」
犬飼さんは、それきり何も言わなかった。
◇
自販機の前で、犬飼さんが二本買った。ブラックと、微糖。
微糖のほうを俺に渡してきた。
「高町。契約書の三条、覚えてるか」
「覚えてないです」
「学業優先だ」
犬飼さんはブラックを開けて、一口飲んだ。
「あれはな、うちがそっちの学校に頭を下げて取り付けた条件じゃない。学校のほうが、うちに突きつけた条件だ」
言葉の順番が違うだけの話に聞こえたが、犬飼さんの声はいつもより低かった。
「出席日数が足りない、課題が出ていない。それが二回続いたら、学校から正式に文書が来る。文書が来たら社長が出る」
「社長が出ると、どうなるんですか」
「俺が呼ばれる」
それは困る、と思った。
この人は既に一日三回、粉の胃薬を飲んでいる。四回になったら、たぶん何かが壊れる。
「だから、あの子が来てくれたのは本当にありがたい」
「はい」
「高町。わかってるか」
「はい」
「その『はい』、たぶんわかってないな」
わかってはいた。
ただ、俺の中でその情報は「化学のレポートを来週の月曜までに出す」という一行に圧縮されていて、それ以上の形にならなかった。
犬飼さんはロビーの奥を見た。
美咲と有本さんが、二台の端末を並べて何か打ち込んでいる。
「大人が二人でやっても、あれは埋まらなかった」
犬飼さんは、そう言った。
◇
「レッスン室、見せて」
帰る前に、美咲がそう言った。
「なんで」
「あなたが学校にいない時間に、どこにいるのか把握しておきたいから」
理由が理由になっていた。この女はいつもそうだ。
俺は二階に上がった。日曜の午後なので、二階には誰もいなかった。
レッスン室Aのドアを開ける。入口から三枚目の床板が、ぎ、と鳴った。一週間ちょっと通ってわかったのは、今のところそれくらいだ。
「広い」
「二十畳らしい」
美咲は部屋の真ん中まで歩いて、一周見回した。床には古いテープの剥がし跡が残っている。前にここで誰かが立ち位置を決めた跡だ。
「ここで何やってるの」
「ストレッチと、発声」
「発声って、あー、みたいなやつ?」
「違う」
俺は壁際に立って、今週の課題を言った。
『拙者親方と申すは、お立ち会いのうちに御存じのお方もござりましょうが』
外郎売という長台詞である。噛まずに言い切るのが今週の課題で、昨日は三行目で死んだ。
今日は五行目まで行った。
成長である。
言い終わって、俺は美咲のほうを見た。
美咲は口を押さえていた。肩が揺れていた。
「笑うな」
「笑ってない」
「肩が揺れてる」
「……ふふっ」
「笑ってるだろ」
帰りたい。
◇
二階の廊下には、ポスターが並んでいる。
所属している人たちのやつだ。並び方には規則があって、新しいものほど手前に貼ってある。奥のほうは日に焼けて色が飛んでいる。
その下に棚があって、トロフィーが置いてある。埃をかぶっているやつと、かぶっていないやつがある。かぶっていないほうが新しい。
美咲は、そこで足を止めた。
「この人、知ってる」
彼女が指したのは、一番手前のポスターだった。
神楽坂澪。十九歳。うちのトップアイドルで、俺は二回会っている。二回とも、廊下でぶつかったか、すれ違ったかである。一回目に言われた言葉は「邪魔」だった。
「同じ事務所なんだ」
「そう」
「話したことある?」
「二回」
「なに話したの」
「……邪魔って言われた」
美咲はポスターを見上げたまま、少し黙った。
「あなた、それ、なんとも思ってないでしょ」
「思ってない」
「思いなさいよ」
思う理由がわからなかった。
あの人の手には、指の付け根にマメがある。潰れて硬くなったやつが、両手に四つずつあった。ぶつかったとき、床に散らばった書類を一緒に拾いながら、それだけは見た。
あの手を作るのに何年かかったのかは知らない。知らないが、たぶん、俺が「邪魔」と言われたことより、そっちのほうが情報として大きい。
俺はそこまで考えて、考えるのをやめた。
腹が減っていたからだ。
◇
ところで、ひとつ気になったことがある。
さっきのロビーには、六人か七人いた。
受付の人がいて、犬飼さんがいて、有本さんがいて、美咲がいて、鴻上が壁にもたれて見物していて、その後ろで神保が靴を履き直していた。全員が同じ場所を見て、全員が同じ話を聞いていた。
なのに、何も起きなかった。
三つとも来なかった。音も、輪郭も、背筋もだ。
俺はソファに沈んだまま、猫背のままだった。
鞄の中で声がした。
「当たり前でしょ」
(なんで)
「みんな、あんたを見てないもの」
言われてみると、そうだった。
全員が見ていたのは美咲だ。日曜の事務所に制服で乗り込んできて、有本さんと十五分やり合った女子高生のほうを見ていた。俺は椅子だ。話題の中心ではあるが、注目の中心ではない。
(同じ部屋にいても駄目なのか)
「駄目よ。人数の問題じゃないの」
ミューナは、そこで少し黙った。
「……あんた、それ、けっこう大事なことを見つけたわよ」
(そうか)
「もっと喜びなさいよ」
(腹が減った)
「はいはい」
◇
六時前に事務所を出た。
美咲と俺は同じ電車で帰る。学校が同じで家が近いので、当たり前といえば当たり前だ。
電車の中で、俺は座った。座った瞬間に、まぶたが落ちた。
次に気づいたとき、肩を押されていた。
「桜坂」
「……」
「降りるよ」
俺は立ち上がった。
ホームに降りて、階段を上がる。今日はもう膝は抜けない。手すりも要らない。世界が楽だった。
振り返ると、美咲が階段の下でファイルを抱え直していた。
開いたページが見えた。
俺の予定表ではなかった。彼女自身の時間割の上に、赤いペンで何か書き足されている。今日の欄に「ソレイユ 14:00」とあって、その下に横線の引かれた行があった。
横線を引いたほうが、たぶん先に決まっていた予定だ。
「なに見てるの」
「別に」
美咲はファイルを閉じた。閉じるのが少し速かった。
「明日、要約は一時間目の前に出して。宮坂先生、朝は職員室にいるから」
「わかった」
「化学のレポートは、私のを見せるから写さないで参考にして」
「参考」
「参考」
同じ言葉を二回言われた。前科があるからだ。
「あのさ」
「なに」
「今日、悪かった」
俺は一応そう言った。
言い方が下手なのは自覚している。俺の謝罪はいつも「悪かった」の四文字で終わる。中身を足そうとすると、途中で言葉が尽きる。
美咲は少し驚いた顔をして、それから前を向いた。
「別に。ついでだから」
「ついでって」
「事務所、うちの最寄りの二駅先だし」
二駅先ではない。四駅先だ。
俺は訂正しなかった。訂正すると、たぶん話が長くなる。長くなると、俺には無理だ。
◇
改札を出たところで、美咲が急に立ち止まった。
「ねえ」
「なに」
彼女は俺のリュックを見ていた。
正確には、リュックの外ポケットを見ていた。
ファスナーが半分開いている。着替えたときに詰め直して、ちゃんと閉めなかったらしい。
そこから、赤いドレスの女が頭を出していた。
腰に手を当てたまま、胸を張ったまま、夕方の光を浴びて、堂々と外を見ていた。
「……それ、この前の趣味の悪い人形」
「……そう」
「なんで持ち歩いてるの」
俺は答えなかった。
答えられなかった、が正しい。
美咲は俺の顔をしばらく見ていた。俺の顔は何も語らない。十七年間、一度も語ったことがない。
それでも彼女は、少し目を細めた。
「高町くん」
「うん」
「明日の放課後、あなたの家、行っていい?」
外ポケットの中で、ミューナが小さく息を吸う音がした。




