第18話 勝手に決まっていく人生
会議室のテーブルに、俺の顔が二十枚並んでいた。
A4のプリントに、大きく引き伸ばされた写真。先週、事務所の三階で撮ったやつだ。白い壁の前に立って、はい少し右、はい顎引いて、と言われながら、二十分くらい撮られた。
その二十枚が、机の上に扇みたいに広げてある。
有本千夏さんが、上から順に見ていった。
一枚。二枚。三枚。
四枚目のあたりで、手が止まった。
「……全部、同じですね」
同じだった。
照明の当たり方と、首の角度だけが違う。それ以外の情報が、一切ない。二十枚のうち一枚を選べと言われても、選ぶ基準が存在しない。
俺は自分の顔を上から眺めていた。
二十枚のうち、いちばん右下のやつがマシに見えた。理由は、背景の壁の継ぎ目が写っていないからだ。
◇
日曜の朝、家を出るとき、妹が玄関まで見送りに来た。
見送りではなかった。
「兄ちゃん、その髪」
「なに」
「寝癖」
妹は洗面所からワックスの缶を持ってきて、俺の頭に手を伸ばした。俺は身をかがめた。かがまないと届かないからだ。うちの妹は百五十五センチで、俺は百八十二センチある。
「なんで今日はやってくれるんだ」
「今日、なんかあるでしょ」
「なんでわかる」
「兄ちゃん、休みの日に自分から出てくの、珍しいから」
この妹は、俺のことをよく見ている。
よく見ているが、心配はしていない。していないところがいい。心配されると、こっちが何か言わなければいけなくなる。
「はい、終わり」
「ありがと」
「写真撮れたら送って」
「撮れない」
「つまんない」
◇
事務所に着いたのは、九時五十分だった。
事務所は日曜も動いている。三階の営業のフロアからは電話の声が聞こえるし、二階のレッスン室Aからは、さっきから音楽が鳴っている。誰かが一人で入っているらしい。
会議室には四人いた。
犬飼さんと、有本さんと、俺と、それから、白鳥隆盛社長。
社長は五十八歳で、俺をこの事務所に入れると五秒で決めた人だ。今日も、一番奥の席で腕を組んで座っている。まだ一言も喋っていない。
テーブルの端に、俺のぶんの麦茶が置いてあった。
飲んでいいのかがわからなかったので、俺は飲んでいない。
◇
「結論から言います」
犬飼さんが立ち上がった。
この人が立って喋るのを、俺は初めて見た。
「高町の売り方を、変えます」
犬飼さんは、紙を三枚配った。俺のぶんもあった。
一枚目に、大きい字でこう書いてあった。
〈笑わない〉
◇
「昨日、梶原さんのレッスンで確定しました。高町の表情筋は動きません。生まれつきで、訓練で動くものではない。演技として作ることもできません」
犬飼さんは、一枚目をめくった。
「これまで、俺はこれを『欠点』として処理してきました。隠すか、避けるか、いずれ直るものとして扱うか。三つとも間違いです」
有本さんが顔を上げた。
「間違いって」
「隠せない。避けたら仕事が二割になる。直らない」
「じゃあ」
「売ります」
犬飼さんは、二枚目を見せた。
紙の真ん中に、こう書いてあった。
〈笑えないなら、笑わない役者で売る〉
◇
俺は紙を見ていた。
見ながら、頭の中で三つのことが起きた。
一つ、これは俺の話をしている。
二つ、俺は一言も喋っていない。
三つ、この麦茶、いつ飲めばいいんだ。
三つ目が、いちばん長く残った。
「具体的に」
社長が、初めて口を開いた。
声が低い。俺ほどではないが、低い。
「はい」
犬飼さんが三枚目を出した。
「笑顔の要る仕事は全部落ちます。今月来ている六本も落ちます。落ちますが、その六本は、そもそも取れても代わりがいる仕事です」
紙をめくる音。
「代わりがいない仕事を取ります。無表情でいることが得になる役。感情が読めないほうがいい役。喋らないほうがいい役。それから――」
犬飼さんが、俺のほうを見た。
「声です」
◇
「金曜に、大久保先生に言われました。あの子の下の声は録っておけと。滅多に出ないと」
社長が、少しだけ首を動かした。
「顔が動かない。声が異様に低い。この二つは、両方とも同じ方向を向いています。『何を考えているかわからない人間』です。普通は欠点です。ですが、それが商品になる仕事は、確実にある」
有本さんが手を挙げた。
「あの、数はどのくらいですか」
「少ない」
「少ないですか」
「新人に来る話の、二割もない」
有本さんが、言葉を探すみたいに黙った。
「その二割を、全部取ります」
犬飼さんは、そこで初めて座った。
座って、置いてあった紙の束を、角を揃えるように一度だけ叩いた。
◇
俺は麦茶を見ていた。
手も膝も動かさなかった。コップも置いたままだった。
実際には、この部屋で自分だけが何をしていいかわからない男が、コップの水滴が机に丸を作っていくのを見ている。
◇
「高町くん」
社長が言った。
「はい」
「立ってみろ」
俺は立った。
立ってから、なぜ立ったのかを考えた。考えても答えが出なかったので、そのまま立っていた。
社長は、電話の受話器を取った。
「――俺だ。営業と宣伝、今いる人間を全部、第二会議室に。……三分でいい」
◇
三分後、ドアが開いた。
人が入ってきた。
一人、二人、三人。四人目はさっき廊下ですれ違った人だ。五人目、六人目。六人目はスーツを着ていない。七人目が入って、八人目が入ってドアを閉めた。
八人。
俺は数えていた。数える必要は一切なかった。だが、数えていた。
全員が壁際に並んで、こっちを見た。
八人が、俺を見た。
◇
犬飼さんが、俺に紙を渡した。
三行だった。
前に一度、こういうことがあった。あのときも三行だった。
「読んでくれ。準備はいらない」
俺は紙を見た。
一行目。「――もう決まったことだ」
二行目。「悪いが、こっちも仕事でな」
三行目。「……忘れてくれ」
誰かが、椅子を引いた。
誰かが、腕を組んだ。
誰も、何も言わなかった。
◇
会議室の音が、遠のいた。
空調の音も、三階から漏れてくる電話の声も、二階のレッスン室から鳴っている音楽も、全部が薄い膜の向こうに行った。
代わりに、輪郭がはっきりした。
テーブルの端の欠けたところが見えた。壁の時計が二分進んでいるのが見えた。四人目に入ってきた人が、まだ息を切らしているのが見えた。八人ぶんの視線が、全部、俺の顔の同じ高さに集まっているのがわかった。
背筋が伸びた。
◇
俺は紙を下ろした。
「――もう決まったことだ」
声が、部屋の奥まで届いた。
届いて、そこで止まった。落ちなかった。
「悪いが、こっちも仕事でな」
二行目で、俺は一度、視線を右に動かした。
動かそうと思って動かしたわけではない。そこに動かすのが正しかった。
半拍置いた。
「……忘れてくれ」
◇
誰も、何も言わなかった。
八人が、壁際で固まっていた。六人目の、スーツを着ていない人が、口を半分開けていた。
有本さんが、両手で口を押さえていた。
社長は、腕を組んだまま、動いていなかった。
俺は紙をテーブルに置いた。
置いてから、椅子に座った。
座って、麦茶に手を伸ばして、飲んだ。
冷たかった。
うまかった。
◇
俺が今の三行のあいだ、頭の中で何を考えていたかというと、実は、ほとんど何も考えていない。
強いて言えば、二行目の途中で「今日の昼、まだ何も食べていない」と思った。
思っただけだ。思っただけなのに、部屋の八人は今、全員が黙っている。
◇
「……あの」
壁際の、六人目が言った。
スーツを着ていない人だ。パーカーで、首から社員証を下げている。
「今の、なんですか」
「うちの新人だ」
犬飼さんが言った。
「いや、そうじゃなくて。今の、三行ですよね」
「三行だ」
「初見ですよね」
「初見だ」
パーカーの人は、俺の顔を見た。
それから、隣の人を見た。隣の人も、その隣の人を見た。八人が順番に隣を見て、最後の一人が誰も見るところがなくなって、また俺を見た。
「あの子、いくつですか」
四人目に入ってきた、まだ息を切らしていた人が聞いた。
「十七です」
有本さんが答えた。声が少し裏返っていた。
「……うそだろ」
嘘ではない。五月二日に十七になった。
俺は麦茶をもう一口飲んだ。
八人が黙ったままの部屋で、麦茶を飲む音だけがしていた。
実際には、飲まないと喉がからからな男が、麦茶を飲んでいるだけである。
◇
「犬飼」
社長が言った。
「はい」
「一年でどこまでいく」
「一年では、名前は売れません」
「二年は」
「二年で、顔だけは覚えられます。笑わない顔として」
社長は、少し考えた。
三秒だった。
俺は数えていた。三秒だ。この人は、俺をこの事務所に入れると決めるのに五秒かけた。今日は三秒だった。
「やれ」
それだけだった。
「宣材は撮り直せ。全部同じ顔なら、同じ顔で撮れ。二十枚も要らん。一枚でいい」
「はい」
「営業、今月の六本は落としていい。代わりに、あれを取ってこい。無表情でいい仕事を、片っ端から」
壁際の何人かが、慌ててメモを出した。
「宣伝」
「はい」
「この子の顔は、笑わせるな。一枚も」
◇
俺は椅子に座っていた。
座って、麦茶をもう一口飲んで、それを聞いていた。
今この部屋で決まったことを整理する。
一つ、俺は笑わない役者になる。
二つ、決めたのは俺ではない。
三つ、俺が今日この部屋で言った言葉は、「はい」が四回と、台本の三行だけだ。
以上だ。
◇
嫌だとは思わなかった。
嫌だと思うためには、まず「自分がどうなりたいか」がなければいけない。俺にはそれがない。三週間前まで、俺の人生の最大の関心事は、二日目のカレーのじゃがいもが崩れているかどうかだった。
今も、たぶん、そんなに変わっていない。
断る理由が一つもない。断る理由がないので、断らない。
俺は、前にも同じ理由でこの事務所に入った。
「高町」
犬飼さんが、俺のほうを向いた。
「一つだけ、確認する」
「はい」
「これは、君の顔で商売をするということだ」
「はい」
「嫌なら、今言ってくれ」
俺は、少し考えた。
考えたが、三秒で終わった。
「大丈夫です」
「そうか」
「学校は」
「学校は行ってもらう。約束したからな」
それが、いちばん大事なところだった。
◇
会議が終わったのは、十一時二十分だった。
俺は会議室を出て、廊下を歩いた。
二歩目で、床が斜めになった。
◇
斜めになったのは床ではない。俺のほうだ。
膝が抜けた。壁に手をついた。手をついたつもりが、手に力が入っていなかったので、肩から当たった。
視界の端が、白くなった。
腹が減っていた。
異常に減っていた。朝、パンを一枚食べただけだが、それとは種類が違う。腹の底に穴が空いていて、その穴が全部を吸い込んでいる感じだ。
俺は壁伝いに歩いて、階段の踊り場まで行った。
行って、そこに座った。
◇
三時間だ。
ミューナがそう言っていた。使った量による、とも言っていた。
今日は、八人だった。八人が、全員本気でこっちを見ていた。教室の二十人より少ないのに、あのときより重い。
人数ではないらしい。
そこまで考えて、俺は考えるのをやめた。眠かったからだ。
鞄の中から、声がした。
「八人ね」
(数えてたのか)
「数えるわよ。あんたが数えてたもの」
ミューナは、少しだけ声を落とした。
「あんたね、あれ、教室のときより強く出てたわよ」
(人数、少ないのに)
「全員が、あんたを値踏みしてたからよ。あの部屋、誰も他のことを考えてなかったの」
密度、という言葉をミューナは使わなかった。使わなかったが、たぶんそういうことだ。
(じゃあ、これからもっと減るのか)
「なにが」
(体力)
ミューナは答えなかった。
答えない代わりに、こう言った。
「歩けるようになるまでが十五分か二十分。ちゃんと戻るまでが三時間。だから、座ってなさい。今日は誰も見てないから、崩れていいわ」
崩れていい、と言われて、俺は少しだけ壁にもたれ直した。
階段の下から、音楽が聞こえていた。
まだ鳴っている。二階のレッスン室Aだ。誰かが朝からずっと一人で入っている。日曜の午前中に、誰にも見られずに、同じ曲を何十回もかけている人間がこの建物にいる。
◇
足音が上がってきた。
鴻上ケイが、汗だくで階段を上ってきた。
Tシャツが背中に貼りついている。タオルを首にかけて、スニーカーを片手に持っている。踊る用と歩く用で二足あるらしい。
「あ」
鴻上が俺を見た。
俺は踊り場に座っていた。壁にもたれて、膝を立てて、手をだらんと下げて。
傍から見ると、壁にもたれて膝を立てて座っている男である。
実際には、立てない。
「なにしてんの」
「休んでる」
「そうか」
鴻上は、それ以上聞かなかった。
◇
鴻上は俺の隣に座った。
鞄からペットボトルを出して、蓋を開けて、俺の手に握らせた。手に力が入っていなかったので、握らせるという言い方が正しい。
「持てる?」
「持てる」
「ほんまに?」
「……微妙」
鴻上は、俺の手ごと持って、口元まで運んだ。
俺は飲んだ。甘かった。スポーツドリンクは、こういうときに甘い。
「腹減ってる?」
「減ってる」
「そうやろな」
鴻上は自分の鞄からゼリー飲料を出した。青いやつだった。
俺は無表情のまま、それを受け取った。
青が、いちばんうまい。昨日、百八十円を使って確認した。
◇
「決まったんか」
鴻上が聞いた。
「決まった」
「なんて」
「笑わない役者で売る、って」
鴻上は、しばらく黙っていた。
それから、階段の手すりのあたりを見ながら言った。
「……ええやん」
軽かった。
軽かったが、この男が本当のことを言うときは、いつも軽い。
「俺、踊れるだけやねん。それしかないから、それで行くしかないねん」
「うん」
「お前は、それが顔なんやろ」
俺は答えなかった。
答えなかったというより、答える体力がなかった。
鴻上はそれ以上何も言わずに、俺の隣で自分のペットボトルを飲んでいた。汗が引くまで、二人で踊り場に座っていた。
誰も通らなかった。日曜だからだ。
◇
十二時半に、俺は立てるようになった。
完全ではない。階段は手すりを持って下りた。鴻上が半歩下にいて、何も言わずについてきた。
一階に下りて、受付の横を通った。
通り過ぎようとして、俺は止まった。
◇
受付のソファに、制服の女子が座っていた。
咲山高校の制服だ。膝の上に、A4のクリアファイルを置いている。背筋がまっすぐで、鞄が床にきちんと立ててある。
彼女は俺を見ると、立ち上がった。
「高町くん」
藤堂美咲だった。
◇
「……なんで」
俺が言えたのは、それだけだった。
美咲はクリアファイルを持ち上げた。中に、紙が何枚か入っている。
「連絡が取れないから来た」
「スマホ、鞄の中」
「三日前から返事がないんだけど」
三日前。
鴻上が、俺の後ろで「うわ」と小さく言った。
美咲はクリアファイルを開いて、いちばん上の紙を出した。
「高町くん」
「はい」
彼女は、その紙をこっちに向けた。
「学校の課題が、三つ溜まってる」




