第17話 笑ってくださいと言われても
最初に配られたのは、手鏡だった。
百円ショップで売っている、プラスチックの丸いやつだ。四人ぶん、床に並べて置かれた。
「持って。顔の前に」
梶原静先生が言った。
四十九歳。ソレイユ・アカデミーの室長で、演技を教える人だと聞いた。細くて、背が高くて、声が小さい。榊先生とも大久保先生とも違う。この人は、こちらが黙ると、こちらが喋るまで待つ。
俺は手鏡を持った。
中に、俺がいた。
目が細くて、眉が動かなくて、口が真横に閉じている。十七年見ている顔だ。特に新しい情報はない。
「今日は、顔をやります」
◇
土曜日の午後二時。レッスン室A。
六月なのに、窓を閉め切っているので蒸し暑い。三面の鏡が全部曇りかけている。入口から三枚目の床板は、今日も鳴った。
俺は朝、コンビニでおにぎりを二つ買って食べてきた。鮭と昆布だ。それでも、今、少し腹が減っている。
人間の腹は、食べても三時間で元に戻る。これは素質とは関係ない。素質は空腹には効かない。
「まず、ほぐします」
梶原先生が自分の顔に手を当てた。
「顔じゅうの筋肉を、ぎゅっと真ん中に集めて。三秒」
先生の顔が、真ん中に寄った。
目も鼻も口も、全部が中央に集まって、梅干しみたいになった。四十九歳の女性がやると、なかなかの絵面だった。
「はい、緩める」
ぱっと戻った。
「これを五回。血が回ります」
◇
全員がやった。
鴻上は思いきりやった。この男は何をやっても全力なので、顔も全力だった。日下部さんは笑いながらやった。神保は真顔でやった。
俺もやった。
やった、と思う。
力は入れた。眉のあたりに力を入れて、目を細めて、口を寄せて、頬を上げようとした。頭の中では、ちゃんと梅干しになっていた。
三秒たって、緩めた。
手鏡を見た。
何も、起きていなかった。
寄っていない。集まっていない。三秒前の顔と、三秒後の顔が、完全に同じだった。強いて言えば、少し赤くなっていた。力を入れたからだ。力を入れた場所と、動いてほしかった場所が、別だったらしい。
「高町くん」
梶原先生が横に来た。
「やってる?」
「やってます」
「うん」
先生は、それ以上何も言わずに次へ行った。
鏡の中で、四人のうち三人が梅干しになって、一人が普通の顔をしている。
俺は、もう一回やった。
二回目も、普通の顔だった。
◇
「次、リップトリル」
梶原先生が唇をすぼめた。
「ぶるるるる、って鳴らします。喉の力が抜けます。できない人は水を飲んでから」
ぶるるるる、と先生が鳴らした。
鴻上が鳴らした。神保が鳴らした。日下部さんが鳴らした。
部屋が、馬小屋みたいになった。
四人ぶんの唇が同時に震えると、けっこうな音量になる。壁が近いので反響する。三面の鏡が全部それを跳ね返してくる。
俺は息を吐いた。
風が出た。
風だけが出た。
もう一回吐いた。今度は強く吐いた。
強い風が出た。
◇
俺の周りだけ、無音だった。
左で鴻上が鳴っている。右で日下部さんが鳴っている。前の鏡の中で神保が鳴っている。俺のところだけ、無風地帯ならぬ、無音地帯になっている。
いや、無音ではない。
「ふーっ」
という音は、出ている。
これは人が息を吐く音であって、リップトリルではない。
俺は五回やって、五回とも息を吐いた。
誰も俺を見ていなかった。全員が自分の唇の音に集中していたからだ。
音は、遠のかなかった。
当然だ。俺の唇の話に、この世で興味を持っている人間は一人もいない。
「高町くん」
一人いた。
梶原先生が、俺の正面に立っていた。
「唇、動いてないね」
「はい」
「力、抜いてみて」
「はい」
抜いた。
風が出た。
◇
休憩を挟んで、後半が始まった。
梶原先生が、鞄から割り箸を出した。四膳。
「割らないで、横に咥えて」
俺は割り箸を横に咥えた。
木の味がした。あと、少ししょっぱかった。なぜしょっぱいのかは、最後までわからなかった。
「その状態で、口角を上げます。割り箸より上に」
全員が咥えたまま、頬を上げた。
鴻上の口角が上がった。日下部さんの口角が上がった。神保の口角も上がった。三人が割り箸を咥えて笑っている。
俺は割り箸を咥えていた。
咥えているだけだった。
「口角、意識して」
意識した。
「上に」
上に、と念じた。
「あー、うん」
◇
「じゃあ、指で押してみましょう」
梶原先生が言って、自分の頬に人差し指を当てた。
「ここ。押し上げて、その形を覚える」
俺は指を頬に当てた。
押した。
肉は、動いた。指で押しているのだから、動く。
指を離した。
戻った。
もう一回押した。もう一回離した。もう一回戻った。
三回やって、俺は指を下ろした。
押している間だけ上がって、離した瞬間に戻る。これは、笑顔ではない。物理である。
◇
「じゃあ、声から入りましょう」
梶原先生が手を叩いた。
「笑顔って、顔から作ると固くなるんです。先に声を出すと、顔がついてくることがある」
ことがある、という言い方だった。
この人は「必ず」とは言わない。今日、一度も言っていない。
「はい、みんなで。あはは、って」
四人が並んだ。
「あはは」
鴻上が言った。大きかった。
「あはは」
日下部さんが言った。高かった。
「あはは」
神保が言った。ちゃんとしていた。
「あはは」
俺が言った。
◇
部屋が、止まった。
鏡が三面あるので、止まった人が三倍に見えた。
「……もう一回、いい?」
梶原先生が言った。
「あはは」
俺は言った。
自分でも、何が起きているかはわかっていた。俺の声は低い。低いというより、下から二番目くらいのところにある。その声で「あはは」と言うと、笑い声にならない。
なんというか、脅している人になる。
顔が動いていないので、なおさらだった。
日下部さんが半歩下がった。
「あの」
日下部さんが小さい声で言った。
「怒ってます?」
怒っていない。
笑っている。声だけで。
「高町、もう一回やって」
鴻上が言った。この男は面白がっていた。
「あはは」
「うわ、こわ。めっちゃこわ」
こわくない。
言われた通りに笑っているだけだ。
◇
「高町くん」
「はい」
「その顔、いつから?」
◇
部屋が、少し静かになった。
鴻上が割り箸を咥えたまま止まった。神保がこっちを見た。日下部さんが指を頬から離した。
俺は、普通に答えた。
「生まれつきです」
「そう」
「表情筋が、ほとんど動かないらしいです」
「診てもらったことは」
「小学生のときに、大きい病院で」
「なんて」
俺は、そのときの先生の言葉を、そのまま覚えている。白衣の人が、俺の顔を三分くらい観察して、それから母さんに向かって言った言葉だ。
「珍しいですが、生活に支障はありません、と」
梶原先生は、少しのあいだ黙った。
この人は、こちらが黙ると待つ人だ。だから、こちらが喋り終わったあとも待つ。俺は待たれるのが苦手ではない。待たれている間は、何も言わなくていいからだ。
「困ってない?」
先生が聞いた。
「はい」
「そう」
「十七年やってるので」
◇
俺は本当に困っていない。
困るというのは、何かをやろうとしてできないときに起きるものだ。俺は笑おうとしたことが、たぶん、十歳くらいでなくなった。
やろうとしていないものは、できなくても困らない。
誕生日ケーキの前で葬式みたいに写るのは、まあ、家族が困る。妹が加工しようとして失敗するのも、妹が困る。
俺が困ったことは、一度もない。
強がりではない。強がる理由がない。
それより、腹が減っていた。さっき食べてから三時間が経っている。人間の腹はそういうふうにできている。
◇
梶原先生は、壁際に置いてあったバインダーを取った。
中に、紙が挟んである。上のほうに全員の名前が書いてあって、その下が空白になっている紙だ。
先生は俺の名前の下に、何かを書いた。
俺の位置からは見えなかった。三行くらいだったと思う。
書き終わって、先生はバインダーを閉じた。
「高町くん」
「はい」
「これ、三ヶ月後にもう一度読みます」
「はい」
「今日できないことを書きました。三ヶ月後に、同じ紙をもう一度読みます」
三ヶ月後。
九月だ。
九月の自分が何をしているかは、まったく想像がつかない。ただ、三ヶ月あっても表情筋は動かないだろうな、とは思った。
思ったが、言わなかった。
言うと、この人が困る気がしたからだ。
◇
レッスンが終わって、俺は靴を履いていた。
廊下の向こうから榊先生が歩いてきた。裸足のままだった。この人は建物の中では靴を履かないらしい。
「梶原さん、今日どうだった」
「顔をやりました」
「ああ」
榊先生は俺のほうをちらっと見た。
「高町の?」
「はい」
「それ、私の管轄じゃないな」
言って、そのまま行った。
この人は、嘘をつかないことが親切だと信じているタイプらしい。レッスン初日に「才能、ないね。今のところ」と言われたときも、同じ温度だった。
俺はこの人が、けっこう好きだ。
◇
「高町」
鴻上が更衣室から出てきた。
「腹減ったな」
「減った」
「なんか食って帰るか」
「うん」
この男は、今日のレッスンについて一言も言わなかった。
割り箸を咥えて笑っていた三人のうちの一人で、俺が咥えているだけだったのを一番近くで見ていたはずだ。それについて、何も言わない。
代わりに、腹が減ったと言った。
俺は鞄を持ち上げた。
持ち上げながら、この男について六つ目がわかった気がしたが、うまく言葉にならなかったので、やめた。
◇
「ちょっと待ってて」
鴻上がトイレに行った。
廊下に、俺だけになった。
鞄の中から声がした。
「今日、聞かれたわね」
(うん)
「なんて答えたの」
(十七年やってるので、って)
ミューナは、少し黙った。
「……あんた、それ、あの日わたしにも言ったわよ」
(言った)
「同じ言い方だったわ」
(同じことだから)
ミューナは、それきり何も言わなかった。
この人形は、たまに、こういう黙り方をする。喋らないというより、口を開けたまま何も出てこない感じの黙り方だ。四十年前の大女優が、十五センチの樹脂の中で、言葉を探している。
俺は鞄を肩にかけ直した。
◇
俺は廊下の自販機の前に立った。
微糖がある。それはいい。だが今日は、その隣のゼリー飲料が気になっていた。
種類が三つある。青いのと、白いのと、緑のだ。青は前に飲んだ。白は甘い気がする。緑は何の味なのかわからない。
わからないものを買うべきか。
わからないものを買って外れたら、百八十円が消える。だが、買わなければ、緑が何の味なのかは一生わからない。
俺は三十秒くらい、ボタンの前に立っていた。
◇
廊下の奥のドアが、少し開いていた。
会議室だ。前に一度、犬飼さんに連れていかれたことがある。
声が漏れていた。
「――笑わない、じゃないんです。笑えないんです」
梶原先生の声だった。
「それは、その、演技として作るのも」
「作れません。今日、三十分やりました」
俺は緑のボタンの前で指を止めていた。
「宣材、どうします」
これは有本さんの声だ。若いサブマネージャーの人で、俺のジャージに丸い字で名前を書いた人だ。
「一枚も撮れないってことは」
「撮れないわけじゃない。撮れるが、全部同じ顔になる」
犬飼さんの声だった。
「笑顔のカットが要る仕事は、全部落ちる」
少し、間があった。
「全部って、どのくらいですか」
有本さんが聞いた。
「新人に来る話の、八割だ」
紙をめくる音がした。
「制服の広告、飲料、菓子、携帯、通販。あと学園ものの端役。オーディションの一次で必ず言われる。『笑ってみてください』」
また紙をめくる音がした。
「今月、うちに来てる話が六本ある。六本とも、それを言う」
「じゃあ」
有本さんの声が、少し高くなった。
「あの子、どうするんですか」
◇
俺は緑を押した。
がこん、と音がして、下に落ちてきた。
取り出して、蓋を開けて、一口吸った。
マスカットだった。
悪くない。悪くないが、青のほうが好きだ。百八十円を使って、俺は青のほうが好きだということを確認した。
これはこれで、収穫と言えなくもない。
会議室の声は、まだ続いていた。
「本人は」
梶原先生が言った。
「困ってないと言ってました」
少しの間があった。
「……そうですか」
犬飼さんが言った。
その声を、俺は初めて聞いた。
◇
「高町」
振り返ると、犬飼さんが廊下に立っていた。
いつ会議室から出てきたのかわからない。この人はいつも、気づいたときにはそこにいる。
「はい」
「聞こえてたか」
「はい」
嘘をつくという発想が、俺にはない。
犬飼さんは、ジャケットのポケットに手を入れた。粉の胃薬を出して、封を切って、口に入れた。それから、もう一包出して、同じことをした。
二包。
この人の胃薬の箱は、先週より薄くなっている。
「悪いな」
犬飼さんが言った。
「時間、かかった」
「はい」
「わかってたはずなんだ。初めて会ったときから、君の顔は一度も動いてない。それを、俺はずっと、そういう性格だと思って処理してた」
この人が、こんなに長く喋るのは久しぶりだった。
「今日、梶原さんに言われて、ようやく現実の話になった」
◇
俺は、ゼリー飲料を持ったまま立っていた。
傍から見ると、俺はゼリー飲料の口を親指で押さえて、犬飼さんの顎のあたりを見ていた。二秒に一度、瞬きをした。
実際には、緑がマスカットだったことに納得したばかりの男が、次に何を言えばいいかわからずに立っている。
「困ってないんだろう」
犬飼さんが聞いた。
「はい」
「本当にか」
「はい」
俺は答えた。
「笑えないのは、前からなので」
犬飼さんは、少しのあいだ、俺の顔を見ていた。
見て、それから、天井のほうを向いた。
「……そうか」
◇
「高町」
「はい」
「明日、少し早く来られるか」
俺は考えた。明日は日曜だ。日曜の予定は、特にない。強いて言えば、外郎売の九文字を十二文字にする予定が、なくもない。
「来られます」
「十時でいい」
「はい」
「上と話す」
上、というのが誰なのかを、俺は一瞬わからなかった。
わからないまま「はい」と言った。
犬飼さんは頷いて、会議室のほうへ戻っていった。戻る背中を見ながら、俺はゼリー飲料の残りを吸った。
最後の一口が、いちばん濃かった。
◇
「なあ」
鴻上がトイレから戻ってきた。
「なんかあった?」
「明日、早く来る」
「日曜に?」
「うん」
「誰と」
「犬飼さんと、上の人と」
鴻上の足が止まった。
この男は、歩きながら常にリズムを取っている。信号待ちでも足が動く。その足が、今、止まった。
「上って、社長?」
「たぶん」
鴻上は自販機に百円玉を二枚入れた。
二本買って、一本を俺に投げた。
俺は受け取った。今日は迷わなかった。もらったものは、その場で開ける。前に一度、三秒立ち止まったときに決めた。
「高町」
「うん」
「日曜に社長が出てくるのは、決まるときやで」
俺は蓋を開けた。
「決まる」
「お前のことが」
◇
俺はスポーツドリンクを一口飲んだ。
明日の予定が三つになった。十時に事務所へ行く。外郎売の九文字を十二文字にする。あとは、俺の何かが決まるらしい。
三つのうち、いちばん現実味があるのは、二つ目だった。




