第16話 地声が低すぎたらしい
拙者親方と申すは。
電車の中で、俺は口の中だけでそう言っていた。
声は出していない。舌だけ動かしている。外から見えるのは、口を真一文字に閉じた男が吊り革を持って立っている姿だけのはずだった。
お立ち会いのうちに御存知のお方も御座りましょうが。
ここで噛んだ。
ござりましょうが、が、ござましりょうが、になった。舌の中でなったので誰にも聞こえていない。聞こえていないのに、俺は最初からやり直した。
拙者親方と申すは。
三回目でまた同じ場所を噛んだとき、向かいの席の女子高生がこっちを見ていることに気づいた。
俺は口を止めた。
止めたが、たぶん遅かった。目が合って、向こうが先に逸らした。
弁明したい。俺は今、ういろうの説明をしていただけだ。ういろうが何なのかは、正直、まだよくわかっていない。
◇
レッスン室Bは、レッスン室Aの半分もない。
十畳くらいで、壁が全部やわらかい素材で覆われていて、窓がない。防音というのはこういうことらしい。入った瞬間に、自分の靴下が床をこする音が急に大きく聞こえた。
部屋の隅に、電子ピアノが置いてあった。
「はいはい、詰めて詰めて。四人しか入らないんだから」
大久保千鶴先生は、俺たちより先に部屋にいた。
五十二歳だと、あとで有本さんに聞いた。ふくよかで、髪をひとつにまとめていて、たすきみたいに大きい鞄を斜めがけしている。声が大きい。ただ、榊先生の大きさとは種類が違った。榊先生の声は届く。この人の声は、部屋に満ちる。
「新しい子は誰」
「高町です」
「高町くんね。はい、じゃあ寝て」
寝て。
「みんな寝て。仰向け」
◇
全員が床に寝た。
大久保先生が、鞄から文庫本を四冊出した。四冊とも違う本だった。それを一人ずつ、腹の上に置いていく。
「息を吸うと本が上がります。吐くと下がります。上がらない人は胸で吸ってます」
俺は息を吸った。
本は、上がらなかった。
「高町くん、上がってない」
「はい」
「肩が上がってる」
「はい」
「肩じゃなくて、腹。腹に入れて」
腹に空気を入れると言われても、腹に空気の入る場所はない。人体の構造としてそうなっているはずだ。だが今はそれを言う場ではない。
俺は、腹に入れるつもりで吸った。
二回目で、本が一センチくらい上がった。
「そう。それ」
三回目で、また上がらなくなった。
四回目からは、上がったり上がらなかったりした。上がる条件がわからない。わからないので、俺はとりあえず吸って吐くのを繰り返した。
防音室は静かで、床はほんのり温かくて、天井は白かった。
俺は昨日、外郎売を探して十二時まで起きていた。
◇
「高町くん」
目を開けたら、大久保先生が真上から俺を覗き込んでいた。
「はい」
「今、寝てたでしょ」
「……はい」
嘘をつくという発想がなかった。
大久保先生は、腹の上の文庫本を取り上げた。
「まあ、いいわ。寝られる子は、身体の力が抜けてる子だから」
誤解である。
単に、腹に空気を入れる方法がわからないまま八分が経過したので、意識が落ちただけだ。
「みんな、こういう子いるのよ。何十年に一人。緊張しない子」
緊張はする。今も、けっこうしている。
隣で鴻上が、寝たまま俺のほうを見た。見て、何も言わなかった。
◇
「はい、起きて。舌回すよ」
全員が立って、鏡の前に並んだ。
舌を回す、というのは、口を閉じたまま、歯の外側を舌でぐるっとなぞる動作らしい。右回りに二十回、左回りに二十回。
やってみると、十回目で舌の付け根が痛くなった。
二十回目で、顎の下まで痛くなった。
鏡の中で、四人が同じ顔をしていた。頬が内側から押されて、あちこち膨らんでいる。人としてかなり終わっている絵だが、これは全員が同じことになっているので問題ない。
俺は左回りに入ったところで、大事なことに気づいた。
この動きだけは、俺にもできる。
舌は、動く。
「はい、次。あめんぼ赤いな、あいうえお」
大久保先生が言って、四人が復唱した。
「あめんぼ赤いな、あいうえお」
俺の声だけ、二階ぶんくらい下から聞こえた。
日下部さんが、笑いをこらえるみたいに口を押さえた。
「浮き藻に小蝦も泳いでる」
「浮き藻に小蝦も泳いでる」
日下部さんが、今度は下を向いた。
俺は普通に読んでいる。普通に読んでいるだけで、なぜか毎回こうなる。この現象には十七年つき合っているので、もう何とも思わない。
◇
「じゃあ、音域見ましょうか。一人ずつ」
大久保先生がピアノの前に座った。
音域というのは、どこからどこまでの高さの音が出るか、ということらしい。低いほうから順に鍵盤を叩いて、出なくなったら止める。それを高いほうにもやる。
鴻上が最初だった。
普通だった。低いほうも普通で、高いほうも普通だった。大久保先生が「まん中がいいわね」と言った。
神保が次だった。
こっちは高いほうが出た。大久保先生が「よく訓練してる」と言った。神保は「はい」とだけ言った。
女子の子が三番目だった。名前を今日覚えた。日下部さんという。この人は高いほうがすごかった。ピアノの右のほうまで行った。
四番目が俺だった。
「はい、高町くん。『あー』で。低いほうから行きます」
ぽん、と音が鳴った。
「あー」
ぽん。
「あー」
ぽん。
俺はそのたびに「あー」と言った。「あー」と言うことに関しては、特に難しいところはなかった。
ぽん。
「あー」
ぽん。
「……あー」
ぽん。
「あー」
ピアノの音が、だんだん左のほうへ行った。
◇
大久保先生の手が止まった。
止まって、俺の顔を見た。
それから、もう一度鍵盤に手を置いた。
ぽん。
「あー」
ぽん。
「あー」
ぽん、という音が、もう音として聞こえないくらい低くなった。ピアノの左端に近い。俺はそこでも「あー」と言った。
言えてしまった。
大久保先生が、口を押さえた。
肩が揺れた。
それから、声を出して笑い出した。
◇
笑い声が防音室に満ちた。
この人の笑い方は、本当に大きい。壁がやわらかい素材でできていなかったら、たぶん二階の廊下まで聞こえていた。
「ちょっと待って、ごめんなさい、ちょっと待って」
先生は片手を上げて、笑いながらもう一度鍵盤を叩いた。俺はまた「あー」と言った。まだ出た。
「出るの!?」
出る。
「あなた、それ、地声?」
「はい」
「作ってない?」
「作れないです」
大久保先生は、ピアノに突っ伏した。
俺は立っていた。
傍から見ると、俺はピアノの横に両手を下ろして、まっすぐ立っていた。足も動かしていない。
実際には、なぜ笑われているのかがわからない男が、次の指示を待って立っている。
俺の声は昔から低い。中二の冬に変わって、それきり戻らなかった。電話に出ると必ず父さんと間違えられる。学校で朝の号令をかけると、後ろの席から「ドスが効いてる」と言われる。
だから、これは芸ではない。
単に、そういう部品がついているだけだ。
◇
防音室のドアが開いた。
犬飼さんが顔を出した。
「すみません、うるさかったですか」
「いえ。廊下まで笑い声が漏れてたので、何かあったのかと」
漏れていたらしい。防音とは。
「犬飼さん、ちょっと聞いてってよ」
大久保先生が手招きをした。犬飼さんはドアのところに立ったまま、少し迷って、それから中に入った。
「高町くん、もう一回。さっきの一番下」
ぽん、と音が鳴った。
「あー」
犬飼さんが、ドアの枠に手をかけたまま止まった。
この人の顔は動く。動くのだが、動き方が小さい。今、動いたのは眉の右側だけだった。
「……なるほど」
それだけ言って、犬飼さんはドアを閉めて出ていった。
閉まる直前に、ドアの向こうで短く息を吐く音がした。
◇
「よし。じゃあ上、行きましょうか」
先生が涙を拭いて、鍵盤の右側に手を置いた。
ぽん。
「あー」
ぽん。
「あー」
ぽん。
「……あー」
四つ目で、俺の声は音ではなくなった。
喉の奥で何かが引っかかって、息だけが出た。五つ目は、出ることは出たが、俺の耳にも合っていないのがわかった。半分くらい違う場所に着地していた。
部屋が静かになった。
さっきまで笑っていた人が、今は真顔だった。
鴻上が真顔だった。神保も真顔だった。日下部さんは目を逸らした。
誰も何も言わないので、俺はもう一回「あー」と言った。
言わないほうがよかったと思う。
「……はい、ストップ」
◇
休憩の五分に、俺は水を飲みに廊下へ出た。
神保が、先に自販機の前にいた。
俺は少し離れて立った。並ぶべきか、後ろで待つべきか、三秒迷った。迷っているうちに、神保がボタンを押して、缶を取って、振り返った。
「高町くん」
「はい」
「さっきの、下の声」
「うん」
神保は缶のプルタブに指をかけた。
「あれ、練習してないだろ」
「してない」
「そうか」
それだけ言って、神保はレッスン室Bに戻っていった。
嫌味ではなかった。声が平らだった。事実を一つ確認して、確認できたので帰った、という感じだった。
俺は自販機の前に残された。
残ってから、微糖のボタンを押した。押しながら、今のやりとりをもう一度頭の中で再生した。
あれは、たぶん、怒っているのではない。
だが、何かではある。
何かが何なのかはわからなかったので、俺は缶を持って部屋に戻った。
◇
「高町くん」
大久保先生がピアノから手を離した。
「あなたの声ね」
俺は「はい」と言った。
「下三本は宝ね。上四本は災害ね」
宝ではない。
災害のほうは、たぶん合っている。
「上はね、たぶん一生使わないから、そんなに困らないの。困るのは、あなたが自分の下を持ってることに気づいてないことのほう」
持っている、と言われても、置き場所がわからない。
「上から出そうとしないで。下から置くの」
下から置く。
業界の人は、たまにこういう言い方をする。意味を聞けばたぶん簡単で、聞かないと一生わからないやつだ。俺は聞かなかった。聞くタイミングが来なかったからだ。
「わからん」
声に出ていた。
「わからないでいいの。今日は」
大久保先生は笑った。
この人は、できないことを怒らない。できないことを面白がる。俺は生まれて初めて、そういう大人に会った。
◇
「じゃ、外郎売いきましょう。噛んだら最初から」
地獄が始まった。
鴻上が読んだ。二か所噛んだ。三回やって、三回目で最後まで行った。
大久保先生が言った。
「鴻上くん、去年より出るようになったわね」
「去年、一年まるまる暇でしたから」
鴻上は笑って言った。笑って言ったので、俺もそれ以上は考えなかった。
「はい、次」
神保が読んだ。一回で通した。
日下部さんが読んだ。二回で通した。
俺の番になった。
◇
拙者親方と申すは。
言えた。
お立ち会いのうちに御存知のお方も御座りましょうが。
言えた。電車で三回噛んだところが、言えた。
お江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町をお過ぎなされて。
噛んだ。
「はい、最初から」
拙者親方と申すは。
二回目は、もっと手前で噛んだ。
「はい、最初から」
三回目は、一行目で噛んだ。
◇
誰も、俺を見ていなかった。
鴻上は自分の紙を見て口を動かしていた。神保は壁にもたれて目を閉じていた。日下部さんは水を飲んでいた。大久保先生は俺を見ていたが、それは仕事だ。
音は、遠のかなかった。
輪郭も、はっきりしなかった。
四回目、俺は一行目を三文字だけ言って止まった。
止まったところで、自分が今どこにいるのかがわからなくなった。教室で二十人の前に立ったときは、一度見た十秒がそのまま頭の中にあった。今は、二時間眺めた文章が、一行も残っていない。
俺の中には、何も入っていない。
空だと気づいたら、腹が減った。今日はまだ、パンを一枚しか食べていない。
「はい、そこまで」
大久保先生が手を叩いた。
「高町くん、今日は九文字ね」
「はい」
「来月、二十文字にしましょう」
目標が低い。
低いのだが、俺はそれを聞いて、なぜか少しだけ楽になった。
◇
レッスンが終わったのは八時半だった。
廊下に出ると、犬飼さんが壁にもたれて待っていた。この人はいつも背中から見つかる。
大久保先生が、俺の後ろから出てきて、犬飼さんに言った。
「犬飼さん」
「はい」
「あの子の下の声、一回ちゃんと録っといたほうがいいわよ」
俺は自分の靴を履いていた。
「何かに使えますか」
「使えるかどうかは知らないけど、ああいうのは滅多に出ないから」
犬飼さんが、ポケットから粉の胃薬を出した。出して、飲まずに、また戻した。
「……使い道は、こっちで考えます」
この人が、口の中で二回考えてから喋るときは、頭の中で何かが動いている。俺は前にも一度、これを見た。校門の前だ。
◇
帰りの電車で、鞄の中からミューナが言った。
「昔もいたわよ、そういう子」
(低いの?)
「そう。舞台で、下から二番目の声を出せる子。上は全部だめだったけどね」
(どうなったの)
「悪役をやって、二十年食べたわ」
二十年。
俺は吊り革を持ったまま、それについて少し考えた。考えたが、二十年後の自分というものが一切想像できなかったので、途中でやめた。
やめて、代わりに晩ごはんのことを考えた。
今日は金曜だ。金曜は、母さんの帰りが遅い。つまり冷蔵庫の中のもので自分で作る日だ。卵はあったはずだ。
◇
桜坂駅の階段を、俺は普通に上った。
点いていないので、当然だった。
家に着いて、卵を三つ焼いて、ごはんを二杯食べた。
食べていると、妹がリビングに降りてきた。制服のままだった。この家の女は、家に帰ってから制服を脱ぐまでが長い。
「兄ちゃん、今日レッスン?」
「うん」
「なんかあった?」
「笑われた」
妹の手が止まった。
「誰に」
「先生に」
「なんで」
「声が低くて」
妹はしばらく俺の顔を見た。それから、タブレットを持ち上げた。
「それ、撮ってきて」
「撮れない」
「なんで」
「レッスンは撮っちゃだめだから」
「つまんない」
妹はタブレットを下ろした。
この妹は、俺が笑われたと聞いて、一秒も俺の心配をしなかった。
してほしいわけではない。ただ、この家では、俺に何が起きても、まず「使えるかどうか」で処理されるらしい。
それはそれで、たぶん、楽なほうだ。
風呂に入って、部屋に戻って、外郎売をもう一度開いた。九文字より先に進む気配は、一切なかった。
寝る前に、スマホが鳴った。
犬飼さんからだった。
〈次のレッスン、日程が変わった〉
〈土曜の十四時から。レッスン室A〉
〈梶原先生が入る〉
俺は〈わかりました〉と返した。
返してから、五秒後にもう一通来た。
〈内容は、表情だ〉
俺は画面を見た。
しばらく見て、それから机の右奥に目をやった。
ミューナが、腰に手を当てたまま、こっちを見上げていた。
珍しく、何も言わなかった。




