第15話 勘のいいやつは苦手だ
「高町。これ」
ペットボトルが飛んできた。
俺は反射で受け取った。冷えたスポーツドリンクだった。
また同じことをされた。この男は二本買って、一本を人にやる。理由を聞いても「二本買ったから」しか返ってこないことは、先週わかっている。
鴻上ケイは自分のぶんの蓋を開けて、三分の一を一気に飲んだ。
俺はペットボトルを持ったまま立っていた。
もらったものは、その場で開けるべきなのか、あとで開けるべきなのか。開けたら「喉が渇いていました」になる。開けなかったら「いりません」になる。中間の作法がない。人生には中間が必要だと、俺は前から思っている。
三秒くらい、俺は完全に停止していた。
「高町。お前、飲み物持つとき顔こわいな」
持ってるだけだ。
◇
ソレイユの二階、レッスン室A。
いつもの部屋だ。入口から三枚目の床板が、今日も「ぎ」と鳴った。
俺は今日で三回目だが、もう覚えてしまった。全員が同じ場所で同じ音を出して入ってくる。誰も気にしていない。俺だけが毎回、半歩よけて踏んでいる。
レッスンの枠は、今週から月・水・金の十九時から二十二時になった。初日だけが土曜の午前で、そのあとはこの形が確定枠だと犬飼さんは言った。ただし現場が入れば消える、とも言った。
消えたら、その日は帰って飯を食えばいいという話である。俺はその説明のうち、後半だけをよく覚えている。
ジャージの胸に、ガムテープで名前が貼ってある。〈たかまち〉と書いたのは俺ではない。有本さんという若いマネージャーの人が、初日に全員ぶん書いた。字が丸い。
「はい、始めるよ」
榊遥先生が入ってきた。黒いジャージ、ショートカット、裸足。ダンスの講師で、三十四歳だと聞いた。この人は膝を故障して踊るのをやめたらしい。歩き方でわかる。左足を出すとき、ほんの少しだけ躊躇する。
初日に、この人は俺に「才能、ないね。今のところ」と言った。
俺は心の中で全面的に同意した。同意しただけで、それ以上は何もなかった。事実に対して腹を立てる趣味がない。
「開脚から。無理に伸ばさなくていい」
全員が床に座った。
新人は四人いる。俺と、鴻上と、神保亮と、あと一人は女子で、名前をまだ覚えていない。
神保が、床にべたっと胸をつけた。
人間の関節ではない。
「神保くん、相変わらずやわらかいね」
「毎朝やってるので」
「毎朝」
榊先生は笑った。俺は笑わなかった。笑えないからだが、仮に笑えても、たぶん笑わなかった。
俺は自分の足を見た。
開いていない。開いているつもりだった。鏡を見たら、開いていなかった。九十度もない。八十度くらいだ。これは開脚と呼んでいいのか。呼んではいけない気がする。
「高町」
「はい」
「股関節、コンクリートだね」
コンクリートだった。
俺は上体を前に倒した。倒したつもりだった。鏡の中の男は、ほとんど動いていなかった。角度でいうと十度くらいだ。十度は、日常生活では大きい数字だと思っていた。ここでは何の意味もない数字らしい。
隣で神保が、俺の倒れなさをちらっと見た。
見て、すぐに目を戻した。
この男は何も言わない。初日からずっとそうだ。俺に話しかけてこないし、俺の下手さを笑いもしない。ただ、俺のいるほうを見ない。
悪意ではないと思う。たぶん、そこに時間を使いたくないのだ。
「はい、立って。次、リズム取るよ」
◇
榊先生が音楽をかけた。
四つ数えて、八つ数えて、それを繰り返す。膝を落として、上げて、落とす。それだけの動きを、四人で並んでやる。
俺は三回目で置いていかれた。
置いていかれたというより、そもそも乗れていなかった。音がどこで区切れているのかがわからない。区切れがわからないので、いつ膝を落とせばいいのかがわからない。周りを見て真似しようとすると、周りを見た時点で半拍遅れる。
鏡の中で、三人が同じ動きをして、一人だけ違う生き物がいた。
その一人が俺だった。
「鴻上」
榊先生が音を止めた。
「もう一回、一人でやって」
鴻上が前に出た。
出た瞬間に、この男の何かが切り替わった。信号待ちで足が動くのと同じ癖の、たぶん本体のほうだ。
音が鳴った。
俺は、十六小節のあいだ、瞬きをするのを忘れていた。
膝が落ちる位置が、全部同じだった。上げる速さと落とす速さが違っていて、落ちるほうが速い。そのせいで、床が鳴るはずのところで鳴らない。何がどうなっているのかは全然わからない。わからないが、うまいということだけはわかった。
音が止まった。
「うん。いいね」
榊先生が言った。
「鴻上くん、あなた三年後には教えられるよ」
「まじすか」
「まじ」
鴻上は歯を全部見せて笑った。
俺はその横で、汗を拭いていた。
顔は動いていない。動かないので、誰も俺が何かを数えているとは思わない。
実際には、いま人間が十六小節で膝を何回落としたかを数えていて、途中でわからなくなった男が立っている。
◇
誰も、俺を見ていなかった。
正確に言うと、榊先生は見ていた。仕事だから見ていた。神保は自分の足首を回していた。鴻上は鏡の中の自分の髪を直していた。女子の子はタオルを取りに行っていた。
音は、遠のかなかった。
輪郭も、はっきりしなかった。背筋は曲がったままだった。
こういうときの俺は、ただの、股関節がコンクリートの高校生だ。
◇
「じゃあ、二人組」
三十分後、榊先生が紙を配った。
A4の紙に、台詞が四行だけ印刷されている。二人の会話だ。片方が「もう行くのか」と言い、もう片方が「行くよ」と言う。それだけの話だった。
「動きはつけなくていい。立って、言うだけ。三分あげるから読んで」
俺は紙を見た。
四行。
四行なら、たぶん覚えられる。覚えることと、言えることが別だというのは、この三日で学んだ。
「高町、組も」
鴻上が横に来た。
俺は頷いた。頷いてから、少し困った。神保のほうが上手いので、神保と組んだほうが俺のためになる気がした。だが、それを口に出すのは、なんというか、失礼な気がする。失礼かどうかを三十秒考えて、結局言わなかった。
「お前、今なんか考えてただろ」
「考えてない」
「顔に出てたぞ」
出ない。
この男だけが、たまにこういうことを言う。
◇
順番が回ってきた。
俺と鴻上が前に立って、他の三人と榊先生が壁際に座った。座ったが、神保は自分の紙を見ていた。女子の子も自分の紙を見ていた。次が自分たちだからだ。
「じゃ、どうぞ」
鴻上が先に言った。
「――もう行くのか」
軽かった。軽くて、大きくて、二階の廊下まで届きそうな声だった。芝居としてどうなのかは俺にはわからない。だが、少なくとも、音としては立派だった。
俺の番だ。
「……行くよ」
自分の声が、部屋の床に落ちた。
落ちて、そこで死んだ。
二行目も同じだった。三行目で、俺は「けど」を「けと」と言った。四行目は覚えていない。覚えていないというより、言い終わった瞬間に消えた。
沈黙があった。
榊先生が、紙に何か書いた。何を書いたかは見えなかった。見えなくてよかったと思う。
「はい、次」
それだけだった。
俺は壁際に戻って座った。
傍から見ると、俺は壁にもたれて、膝の上で両手を組んで、動かずに座っていた。
実際には、四行の台詞のうち三行で自分が何を言ったか覚えていない男が、床の木目を数えている。
◇
次は神保と、名前を覚えていない女子の子だった。
神保は、上手かった。
「――もう行くのか」
声の大きさは鴻上の半分だった。半分なのに、こっちのほうが遠くまで届いた気がした。行かないでくれ、とは一言も言っていないのに、そう聞こえた。
榊先生が、また紙に何か書いた。
今度は、書きながら少し頷いていた。
俺は壁にもたれて、それを見ていた。
わかったことが二つある。
一つ、あの四行は、ちゃんとやると、ちゃんとしたものになるらしい。
二つ、俺のときは、ならなかった。
二つとも事実である。事実を二つ確認したら、腹が減った。帰りに駅前で何か食おうと思った。
「高町くん」
終わってから、神保が俺の横を通った。
「はい」
「その紙、榊さんに返すやつだから」
「ああ」
「じゃ」
それだけだった。
この男の会話は必要な情報しか含まれていない。俺の会話も必要な情報しか含まれていないので、たぶん、俺たちが喋ると三往復で終わる。三往復で終わる相手のことを、俺は嫌いになれない。
◇
休憩は十五分だった。
俺は廊下の自販機の前に立っていた。微糖がある。この事務所の自販機には微糖がある。それだけで、ここに来る理由が一つできた気がした。
缶を取って、開けて、一口飲んだ。
「なあ」
鴻上が隣に立った。
立って、自販機のボタンを押さずに、しばらく黙っていた。
この男が黙るのは珍しい。三日しか知らないが、それでもわかるくらい珍しい。この男は人の沈黙を待たない。相手が黙ると、その隙間を全部自分の声で埋めにくる。
その男が、今、黙っている。
「お前さ」
鴻上は前を向いたまま言った。
「本番だけ強いタイプだろ」
◇
俺は缶を持ったまま止まった。
三秒か、四秒か。たぶん四秒だ。
その四秒のあいだに、頭の中で三つのことが起きた。
一つ、なぜわかった。
二つ、どこまでわかっている。
三つ、この缶、まだ半分ある。
三つ目が一番どうでもよく、そして一番はっきり浮かんだ。
「……なにそれ」
出てきたのは、それだった。
自分でも情けないと思う。だが、俺の口から出るものは、だいたいいつもこの程度だ。
「いや、なんとなく」
鴻上はやっと自販機のボタンを押した。ごとん、と音がした。
「今の四行、ぜんぜんだったじゃん」
「うん」
「でもさ、初日のあれ。榊さんが『才能ない』って言ったやつ」
「うん」
「あのとき、お前、一回も嫌そうにしなかったろ」
嫌ではなかった。
「普通、あれ言われたら固まるんだよ。俺も固まったし。神保なんて三日引きずるタイプだし」
「そう」
「お前だけ、なんも起きなかった」
鴻上は缶を開けた。
「だからさ。たぶんお前、レッスンの上手い下手を、勝負だと思ってないんだろうなって」
◇
当たっていた。
当たっているどころか、真ん中に刺さっていた。
俺は「本番だけ強い」わけではない。見られている間だけ強い。だが、外から見たら同じことだ。同じことだし、この男は三日でそこまで来ている。犬飼さんは初日にそれを言った。父さんは十七年見ていて言った。この男は、三日だ。
俺は缶をもう一口飲んだ。
飲んで、何も言わなかった。
言わなかったので、俺の顔は動かなかった。
鴻上が、横目でこっちを見た。
「うわ」
「なに」
「その顔、こわ」
こわくない。
困っているだけだ。
俺は自販機のガラスに映った自分を見た。無表情の男が缶を持って立っている。この状況で最も適切な返答は何かを考えて、三つ候補を並べて、三つとも却下した。
残ったのは沈黙だった。
沈黙は、この世でいちばん誤解される。
「……ま、いっか」
鴻上が言った。
言って、缶を持ったまま歩き出した。三歩歩いて、振り返った。
「あのさ」
「うん」
「俺、弟が二人おんねん」
急に関西が出た。この男は興奮すると混ざるらしい。今のは興奮とは違う気もするが、混ざっていた。
「下が八つで、上が十二。上のやつが去年、半年くらい一言も喋らんかってん」
「そう」
「反抗期なんやけど、あいつ怒鳴らへんタイプでさ。ずっと無言。飯だけ食う」
鴻上は缶の飲み口を親指でこすった。
「で、母親が『何考えてるかわからん』って泣くわけ。俺は別に、わかるけどな、って思っててん」
「わかるのか」
「わからんよ。全然わからん」
わからないのか。
「けど、わからんくても別にええやろ。腹減ってたら飯食うし、眠かったら寝るし。それでええやん」
俺は缶を持ったまま、その顔を見ていた。
この男について、五つ目がわかった。
こいつは、人が黙っていることを、事件だと思っていない。
「レッスン戻ろ。榊さん、時間だけはきっちりしてるから」
◇
その日のレッスンは、九時に終わった。
俺は二十二時までしか働けない。労働基準法という法律があるらしく、十八歳になるまで、夜十時から朝五時まで仕事をしてはいけない。レッスンも仕事に入る。有本さんに教えられたとき、俺は「はい」とだけ言った。
内心では、正直、助かると思っていた。
「高町」
更衣室の前で、犬飼さんが待っていた。
この人はいつも背中から現れる。廊下の奥に、背中が見えて、それから振り返る。今日もそうだった。
「次の回、ボイトレを入れた」
「ボイトレ」
「発声と滑舌だ。大久保先生という人が来る」
「はい」
犬飼さんは、少し言葉を選ぶように間を置いた。
「あー、先に言っておくが」
「はい」
「あの人は、笑う人だ」
情報が足りない。
だが聞き返す元気がなかったので、俺は「はい」と言った。
◇
帰りの電車で、鞄の中からミューナが言った。
「あの子、危ないわね」
(危ない?)
「うるさいだけかと思ってたけど、目がいいわ」
俺は吊り革を持ったまま、窓の外を見ていた。
鴻上ケイという男について、俺が三日で知ったことは五つある。
ダンスがうまい。声が大きい。ペットボトルを二本買う。人が黙っていても平気。そして、勘がいい。
最後の一つが、いちばん困る。
困るのだが、四つ目があるおかげで、たぶん、追及はされない。この二つは同じ性質から出ている気がする。よく見えているから当たるし、よく見えているから、それ以上は聞かないのだと思う。
ここまで考えて、俺は自分の考えが長すぎることに気づいた。
電車が桜坂に着いた。
(言われた。本番だけ強いタイプだろって)
「……あら」
(どうしよう)
「どうもしないわよ。あんた、下手なんだから」
ミューナの言い方は、たまに救いになる。
「下手な人間が『本番だけ強い』って言われても、誰も本気にしないの。あんたが本気で警戒しなきゃいけないのは、あんたが上手くなってからよ」
(上手くならないだろ)
「見られてる間だけね」
ミューナは、そこで少し黙った。
「……まあ、いいわ。今日は点かなかったんでしょ」
(点かなかった)
「なら疲れてないはずよ。あんた、今日は普通に階段を上れるでしょ」
俺は改札を出て、桜坂駅の階段を見上げた。
二十七段ある。小学四年のときに数えた。あの日は、この二十七段が本当に遠かった。壁に手をついて、三分そこにいた。通りかかった人には、たぶん電話でも待っている男に見えていたと思う。
今日は、普通に上れた。
上れたことに、少しだけ、拍子抜けした。
◇
家に着いたのは十時前だった。
母さんが「ごはん、温める?」と聞いたので、頷いた。今日は肉じゃがだった。カレーではない。それが少し悲しい。
三杯食べた。
「あんた、レッスンどうなの」
母さんが向かいに座って、麦茶を飲みながら聞いた。
「別に」
「上手くなった?」
「なってない」
「そう」
会話が終わった。
この家の会話はだいたいこの長さで終わる。終わってから、母さんは「ま、そんなもんよねえ」と言って立ち上がった。
この人は、俺が上手くならないことを、何とも思っていない。
それは、たぶん、この家でいちばんありがたいことだった。
部屋に上がって、鞄を床に置いて、スマホを出した。
鴻上が帰り際に言ったことを思い出したからだ。
「あ、そうだ高町。次のボイトレ、外郎売やらされるから。覚えてこいよ」
「ういろう」
「え、知らんの?」
知らない。
俺は検索した。〈外郎売〉と打つと、いちばん上に全文が出てきた。
「拙者親方と申すは、お立ち会いのうちに御存知のお方も御座りましょうが……」
俺は画面をスクロールした。
スクロールした。
まだ続いた。
親指を三十回くらい動かしたところで、俺は一度スマホを伏せた。伏せて、天井を見た。それからもう一度持ち上げて、下までスクロールしきるのに、さらに二十回かかった。
これを、覚えるのか。
「あら」
机の右奥から、声がした。
「懐かしいわね、それ」
ミューナが腰に手を当てて、こっちを見上げていた。
「わたし、それで三回泣かされたわ」
三回。
「言っておくけどね」
彼女は、ふんぞり返ったまま言った。
「明日泣くのは、あんたよ」




