第14話 全面的に同意します
「はい、全員そこ座って」
裸足の人が、そう言った。
声が低くて、よく通った。部屋の八人がばらばらに座った。俺も座った。
「榊です。榊遥。ダンス見てます」
それだけだった。
俺はその人の足を見ていた。
裸足だった。靴下も履いていない。この部屋の他の八人は全員、室内用のシューズを履いている。俺も履いている。予定表の持ち物にそう書いてあったからだ。
じゃあ、俺は脱ぐべきなのか。
先生が裸足なのに生徒が靴を履いているのは、失礼にあたるのか。だが持ち物には「室内用シューズ」と書いてあった。書いてあるものを持ってきて、それを履いていて怒られる道理はない。
いや、そもそもダンスというのは裸足でやるものなのか。
俺は自分の足を見た。買ったばかりの白いシューズが、まだ真っ白だった。
◇
「新しい人、二人?」
榊先生が言った。
「今日から入るのは一人です」
有本さんが答えた。
「もう一人は現場でして、十一時半に着きます」
「じゃあ一人ね」
先生が俺のほうを向いた。
「名前」
「高町です」
「高町くんね。ダンスやったことある?」
「ないです」
「体育の創作ダンスは?」
「あります」
「どうだった?」
「……見学の人と、あんまり変わらなかったです」
先生は頷いた。
「わかった」
わかられた。
◇
最初の三十分は、歩くだけだった。
音楽をかけて、拍に合わせて部屋の中を歩く。それだけだ。八人がぐるぐる回りながら歩いた。
俺も歩いた。
「高町くん」
「はい」
「今、何拍目?」
「……」
「はい、止まって。全員止まって」
全員が止まった。
「高町くん、今の曲、どこで一が来る?」
俺は黙った。
黙るしかなかった。音楽は流れている。ずっと流れている。太鼓みたいな音と、それより高い音と、その隙間の音がある。そのどれが一なのかを、俺は考えたこともなかった。
これまでの人生で、俺が音楽に対してやってきたことは、「聞く」だけだ。数えたことは一度もない。
「わからないです」
「うん」
先生は特に怒らなかった。
「じゃあ、みんなで数える。八まで」
◇
八カウントというものがあるらしい。
一、二、三、四、五、六、七、八。それを繰り返す。八のあとはまた一に戻る。ここまでは理解した。
だが実際にやると、俺の数える八と、部屋の八が合わない。
少しずつずれる。三くらいから怪しくなって、六でおかしくなって、八で俺だけ遅れる。次の一で慌てて追いつくが、また三でずれる。
鏡を見た。
八人が同じ方向を向いて同じタイミングで手を上げている中で、一人だけ、半拍あとに手が上がる男がいた。
傍から見ると、たぶん、こうだ。
――独特のタイミングで動く新人。
実際は、数えられていないだけである。
◇
「高町くん、そこ、頭で入って」
榊先生が言った。
「はい」
「頭で入って、半拍待って、落とす」
「はい」
「はい、じゃなくて。今の、わかった?」
俺は正直に答えた。
「わからないです」
「どこが」
「頭が、わからないです」
先生は一瞬止まって、それから頷いた。
「頭っていうのは、一のこと」
「はい」
「半拍っていうのは、一と二のあいだ」
「はい」
「落とすっていうのは、力を抜いて下ろすこと」
「はい」
「じゃあやって」
俺はやった。
頭で入って、半拍待って、落とした。
つもりだった。
「今の、二で入って、一拍待って、置きに行ったね」
「はい」
「全部ずれてる」
「はい」
部屋の後ろで、神保が同じ動きをしていた。誰にも言われていないのに、勝手に一人で八回やっていた。
八回目には、先生が言ったとおりになっていた。
俺は、それを鏡越しに見ていた。
◇
十一時二十分に、榊先生が音楽を止めた。
「高町くん、前出て」
俺は前に出た。
三面の鏡のうち、一番大きいやつの正面に立たされた。後ろに七人が座っている。
「今の八カウント、一人でやってみて」
俺は、少し身構えた。
身構えたというのは、心の準備のことではない。もっと物理的な話だ。
この十日ほどで、俺は自分の身体に何が起きるかを少しずつ把握し始めていた。人が本気でこっちを見ると、音が遠のいて、輪郭がはっきりして、背筋が伸びる。日曜の四階の会議室では、それで台本の三行が読めた。
今、部屋には八人いる。
全員が座って、こっちを向いている。
だから、来ると思った。
◇
来なかった。
壁の時計の秒針の音も、廊下を歩く誰かの足音も、エアコンの吹き出し口が時々鳴る音も、全部そのままそこにあった。鏡は三面とも、朝と同じ角度で俺を映していた。
俺は、いつもの俺のまま、鏡の前に立っていた。
「はい、いくよ。五、六、七、八」
俺は動いた。
右手を上げるところで左手が上がった。半拍遅れて気づいて、直そうとして、そこで足が止まった。足が止まったので上半身だけが動いて、鏡の中の男が、なんというか、電車の中で吊り革を掴み損ねた人みたいになった。
三拍目で終わった。
八まで行かなかった。
「もう一回」
もう一回やった。
今度は四拍目まで行った。
「もう一回」
三拍目だった。
減った。今日、二回目である。
◇
榊先生は、腕を組んで、じっと見ていた。
その視線を、俺は横から感じていた。
感じていたのだが、やはり何も起きなかった。
あとでミューナに言われて、理由がわかった。
あの人は、俺を見ていなかった。
俺の足首を見ていた。膝の角度を見ていた。肩の高さと、重心の位置を見ていた。それは「高町灯真」を見ていることとは違うらしい。
人を見るのと、部品を見るのは、違うそうだ。
俺には、その区別が今日まで一つもわからなかった。
◇
「うん、わかった」
榊先生は腕をほどいた。
部屋が静かになった。
俺は次に何を言われるのかを待っていた。もう一回やれ、か、休憩、か、そのどちらかだと思っていた。
先生は俺の正面に立って、まっすぐ言った。
「才能、ないね。今のところ」
◇
部屋の空気が、はっきりと止まった。
後ろで、誰かが座り直した音がした。有本さんがタブレットを持ったまま口を半分開けていた。神保が、俺のほうを見ないようにして、床の一点を見ていた。研究生の一人が、隣の人と目を合わせた。
入口のところで、犬飼さんが胸ポケットに手を入れていた。
全員が、次に何が起きるかを見ていた。
俺は口を開いた。
「はい」
◇
言ってから、少し考えた。
考えても、他に言うことがなかった。
俺は今日、前屈がマイナス十四だった。開脚が七十度だった。八カウントを三拍で落とした。三回やって、三回とも落ちた。しかも回を重ねるごとに短くなった。
この人が言ったのは、そういうことだ。
事実の確認をされて、事実だったので、俺は返事をした。
ついでに書くと、腹が減っていた。壁の時計は十一時を回っていて、終わったら駅前で何を食うかを、俺はさっきから考えていた。
全面的に同意します、というのが正確なところだった。
◇
榊先生の眉が、動いた。
「……あなた、今、なんて」
「はい、って」
「はい?」
「はい」
先生は俺の顔を見た。
今度は、足首ではなく、顔を見ていた。
「今のところって言ったでしょ。聞いてた?」
「聞いてました」
「聞いてた?」
「はい」
「じゃあ、なんでそんな顔してるの」
俺は答えなかった。
答えようがない。この顔は生まれたときからこれで、今日の朝も、去年の誕生日も、小学三年の運動会の写真も全部これだ。
「……高町くん」
「はい」
「今、傷ついた?」
「いえ」
「本当に?」
「はい」
「無理してない?」
「してないです」
俺は、正直に言った。
「言われたことが、全部合ってたので」
◇
榊先生が、三秒くらい黙った。
それから、急に笑った。
声を出して笑った。裸足のまま、片手を口に当てて、肩を揺らして笑った。
止まらなかった。
一度収まりかけて、俺の顔をもう一度見て、また噴き出した。最後は壁のバーに手をついて、そのまま前に折れた。
「……なにそれ」
部屋が、つられた。
まず神保が下を向いた。肩が小刻みに動いていた。次に、いちばん後ろの研究生が声を出して笑って、慌てて口を押さえた。押さえたところで、隣の二人が噴き出した。窓際で脚を伸ばしていた人が「先生、それ以上笑ったら膝が」と言って、自分で言って自分で笑った。
部屋にいる八人のうち、笑っていないのは俺だけだった。鏡が三面あるので、笑っていない俺が三人いた。
有本さんは、いったん廊下へ出た。出てから、ドアの向こうで長く息を吐いた音がした。
犬飼さんは胸ポケットから手を出して、そのまま何も飲まずにポケットに戻した。
「ごめん、笑って」
「いえ」
「私ね、これ言うと、だいたい三パターンなの」
先生は指を三本立てた。
「泣くか、黙って辞めるか、あとで親から電話が来るか」
「はい」
「はい、って言われたの初めて」
「すみません」
「謝らなくていいの」
先生は指を下ろした。
「じゃあ言い直す。あなた、今、才能はない。ゼロ。でも、それは今日の話」
「はい」
「毎日やれば動く。動かないのは、やらない人だけ」
「はい」
「わかった?」
「はい」
先生は少し首をかしげた。
「……ほんとにわかってる?」
わかっていた。
わかっていたが、今の俺の頭にあったのは、十二時に終わったあと、駅前で何を食べるかだった。
◇
「あと一つ」
榊先生が、こっちを向いた。
「膝、大事にしなよ」
「はい」
「私みたいになるから」
先生は、自分の右膝を軽く叩いた。
叩いて、それ以上何も言わずに、音楽のほうへ歩いていった。
俺はその後ろ姿を見ていた。
この人は、俺に嘘をつかなかった。三十分見て、思ったことをそのまま言った。犬飼さんが昨日言っていたとおりだった。
嘘をつかれるより、こっちのほうが楽だ。
嘘をつかれると、俺はそれを信じてしまうので。
◇
十一時三十五分に、ドアが開いた。
ぎ、と三枚目が鳴った。
入ってきたのは、髪が茶色い男だった。
毛先が全部跳ねていて、日焼けしていて、片手にスニーカーの袋を持って、もう片方の手にペットボトルを二本持っている。ジャージではなく、赤いTシャツを着ていた。この部屋の色数が、いきなり倍になった。
「すんません! 遅れました!」
声が、でかかった。
「電車止まってて」
「知ってる。有本さんから聞いた」
「ほんまですか。あー、よかった」
男は靴を履き替えながら喋り続けていた。喋りながら、足が動いていた。立っているだけなのに、爪先がずっと拍を取っている。
◇
彼は俺の隣に来て、鞄を下ろした。
「鴻上ケイ。同期な」
「高町です」
「知ってる。動画見た」
彼はペットボトルを一本、俺のほうに差し出した。
「はい」
「え」
「あげる」
「なんでですか」
「二本買ったから」
理由になっていない。
俺は受け取った。
スポーツドリンクだった。
「敬語やめて。同い年やろ」
「……うん」
「な」
鴻上は、それで満足したらしかった。
◇
俺は、この男を三十秒くらい観察した。
観察して、わかったことが一つあった。
この男は、俺の顔を一度も見ていない。
いや、正確には見ている。ずっとこっちを向いて喋っている。目も合っている。
だが、「見て」いない。
この十日ほどで会った人間は、全員、俺の顔で一度止まった。早坂も、熊沢も、犬飼さんも、榊先生も、神保も、有本さんも。一瞬「あれ」という顔をして、それから何かを判断する。怖い人だと思うか、落ち着いた人だと思うか、失礼だったかと心配するか、そのどれかだ。
この男は、止まらなかった。
喋って、水を渡して、靴を履き替えて、次の話をしている。
俺の顔が動かないことに、たぶん、気づいてすらいない。
◇
「鴻上」
榊先生が呼んだ。
「今の八カウント、入って」
「もう覚えました」
「見てないでしょ」
「入りながら覚えます」
音楽がかかった。
鴻上は、一回目で入った。
二回目で合った。三回目で、他の七人より半歩前に出ていた。同じ動きをしているのに、この男のときだけ、部屋の空気が動いた気がした。
俺は壁際に立って、それを見ていた。
わかったことが、二つある。
一つ。俺は今日、この部屋で一番身体が硬く、一番リズムが取れず、才能がゼロだと言われた。
二つ。それは全部、事実である。
三つ目はない。三つ目があるとすれば、それは腹が減ったということだけだ。
◇
十二時になった。
「はい、終わり。お疲れさま」
榊先生が音楽を止めて、タオルで首を拭いて、裸足のまま出ていった。
全員が座り込んだ。俺も座った。
膝の裏が痛かった。太ももが張っていた。肩が重かった。ただし、それだけだった。
あの、注目が切れたあとに来る、膝が抜けて視界が白くなるやつは、今日は一度も来なかった。
当たり前だ。今日、俺は一度も点いていない。
点かなければ、来ない。
三時間まるごと使って、俺は自分がただの人間であることを確認しただけだった。
悪くない土曜日だと思う。
◇
廊下に出たところで、犬飼さんに呼び止められた。
顔色が、朝より悪かった。
「高町」
「はい」
「さっきの件だが」
「はい」
「榊先生には、あとで俺から話しておく」
俺は少し考えた。
「何をですか」
「言い方だ」
「合ってましたけど」
「合っていても、初日にあれはない」
犬飼さんは、俺の顔をじっと見た。見ながら、胸ポケットに手を入れて、粉薬を一包出して、水なしで飲んだ。
今日、三包目である。
「高町」
「はい」
「無理はしなくていい」
「してないです」
「顔に出ないだけかもしれないだろう」
これは、言われたことがなかった。
この十日間で、俺の顔について何かを言った人間は大勢いた。クールだの、怖いだの、達観しているだの、肝が据わっているだの。全員、俺の顔を見て、そこに何かがあると思っていた。
この人は、逆だった。
顔に出ないから、わからない、と言っている。
「大丈夫です」
「本当か」
「本当です」
「……根拠は」
「腹が減ってます」
犬飼さんが、動きを止めた。
止めて、三秒くらい俺を見て、それから、胸ポケットのふたを閉めた。
「そうか」
「はい」
「じゃあ、いい」
この人はたぶん、社長と同じ物差しを持っている。
◇
鞄を取りに行くと、中でミューナが言った。
「あんた」
(なに)
「今日、どうだった」
(ゼロだって)
「知ってるわよ。聞いてたわよ」
人形は、少し黙った。
「……あの女、いい先生ね」
(そうか)
「四十年前にもいたわ。ああいうの」
(拾われた子はだいたい伸びるやつか)
「それは男の人のほう。ああいう先生に当たった子は」
少し間があった。
「……だいたい、辞めなかったわ」
◇
更衣室で着替えて、階段を下りた。
一階のロビーで、鴻上が自販機の前に立っていた。両手にペットボトルを持っている。またしても二本だった。この男は一日に何本買うんだ。
「高町」
彼が振り返った。
「昼、どっか行く?」
「駅前」
「なんかあんの」
「知らない。行ったことない」
「行ったことないのに行くんかい」
鴻上は笑って、俺の横に並んで歩き出した。
自動ドアを抜けて、外に出た。日差しが、この前より一段階強くなっていた。神南の坂を、二人で下りていった。
鴻上は歩きながらずっと喋っていた。今日の現場のことと、電車が止まった話と、弟が二人いる話を、順番も脈絡もなく喋った。
俺は「うん」と「へえ」を交互に言っていた。
坂の途中で、彼が急に立ち止まった。
立ち止まって、こっちを向いた。
喋りが、止まった。
「なあ」
「なに」
「ひとつ聞いていい?」




