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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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第13話 一人だと身体が硬い

「高町さん、名前貼ってください」


 渡されたのは、ガムテープとマジックだった。


 更衣室で着替え終わった直後だった。俺は新品のジャージの上下を着て、まだタグの折り目が残っている状態で立っていた。


「胸のとこに、大きめで」

「はい」


 俺はガムテープを二十センチくらい切って、床に置いて、マジックで〈高町〉と書いた。


 書いてから、気づいた。


 字が、汚い。


 「高」の口のところが潰れていて、「町」が右に傾いている。小学校のとき、書写の時間だけ通知表が二だった。あれから十年、俺の字は一ミリも成長していない。


 貼り直すべきか。


 だがガムテープはもう一度切ればいい。切ればいいのだが、そうすると、この一枚が無駄になる。無駄になったテープをどうするか。ゴミ箱がどこにあるかを、俺はまだ知らない。


 結局、俺はそのまま貼った。


 傍から見ると、迷いなく名前を書いて貼った男である。


 実際には、ゴミ箱の場所を三十秒考えていた。


   ◇


 二階のレッスン室Aは、思っていたより広かった。


 二十畳ある、と犬飼さんは言っていた。畳がないので実感が湧かないが、うちのリビングが三つくらい入りそうだった。


 三方の壁が全部鏡だった。


 残りの一面にバーが横に走っていて、その上に時計がかかっている。天井の隅にスピーカーが四つ。床は薄い茶色で、よく見ると細長い跡がいくつも残っていた。テープを剥がした跡だ。誰かが前に、ここで立つ場所を決めている。


 入口から三歩ほど入ったところで、足の下が鳴った。


 ぎ、という音だった。


 俺は一度戻って、もう一回踏んだ。


 ぎ、と鳴った。


「三枚目です」


 後ろから声がした。


「その板だけ鳴るんですよ。ずっと言ってるんですけど、直らなくて」


   ◇


 振り返ると、女の人が立っていた。


 二十代の半ばくらいで、髪をきっちり結んでいて、タブレットを胸に抱えている。首から社員証を下げていた。


 さっき更衣室の前でガムテープを押しつけてきた人だった。あのときは名乗らずに去っていった。


「サブマネージャーの有本です。有本千夏。犬飼の下についてます」

「高町です」

「知ってます。うちの新人の中でいちばん検索されてる人です」


 早口だった。


「今日の流れ、いきますね。九時からストレッチ、十時から基礎、十一時からダンス、十二時で終わり。お昼は各自。飲み物は一階の自販機。左が微糖です」

「知ってます」

「早いですね」


 有本さんはタブレットに何か打ち込んだ。


 打ち込みながら、顔を上げずに言った。


「あと、すみません。基礎の先生、電車が止まってて十五分遅れます」

「はい」

「なので、ストレッチを長めにやってください」


   ◇


 その日、レッスン室には八人いた。


 俺と同じ新人が一人。同期はあと二人いるらしいが、一人は現場に出ていて、もう一人は学校の行事で今日はいないと聞いた。残りは研究生と呼ばれる人たちで、みんな俺より前からここにいるらしい。ジャージの胸のガムテープの端が、全員、少し黒ずんでいた。何回も貼り直しているからだ。


 新人のほうが、こっちに来た。


 背が俺より少し低くて、髪が短くて、姿勢がいい。立っているだけなのに、なんというか、床との角度が正しかった。


「神保です。神保亮」

「高町です」

「知ってます」


 彼は少し間を置いた。


「日曜の、聞きました」

「はい」

「三行のやつ」

「はい」


 神保は、それ以上何も言わなかった。


 嫌な感じではなかった。ただ、そこで話を切ったのが、わざとだというのはわかった。


   ◇


 九時になった。


 誰も号令をかけなかった。


 壁の時計が九時を指すと、八人がばらばらに床に散って、それぞれ勝手に身体を動かし始めた。誰かが音楽をかけた。歌詞のない、拍だけの曲だった。


 俺は突っ立っていた。


「高町さん、これどうぞ」


 有本さんが紙を一枚くれた。


 〈ウォーミングアップ・ストレッチ 基本メニュー〉


 絵が描いてあった。棒人間が十二種類のポーズをしている。前屈、開脚、股関節、肩回し、首、アキレス腱。それぞれに秒数が書いてある。


「順番にやってください。三十秒ずつ」

「はい」

「わからなかったら周り見てください。みんなやってるので」


 有本さんはそう言って、部屋の隅に行って、電話を始めた。


 俺は紙を床に置いて、その横に座った。


   ◇


 まず、前屈をした。


 膝を伸ばして、上半身を折って、手を前に出す。棒人間は、掌が床にべったりついている。


 俺の指先は、床から拳一つ半、離れていた。


 三十秒待った。


 変わらなかった。


 次に、開脚をした。棒人間は、脚が真横に一直線になっていて、そのまま上半身を前に倒している。


 俺は脚を開いた。


 開いたのだが、内ももが痛くなって、途中で止まった。角度で言うと、たぶん七十度くらいだった。一直線には百十度足りない。


 上半身を前に倒そうとしたら、後ろに倒れそうになった。


 次に、肩を回した。


 これは回った。人生で初めて自分の身体を褒めた。


   ◇


 顔を上げると、部屋の様子が見えた。


 鏡が三面あるので、自分の位置から全員の背中と正面が同時に見える。


 神保は、床にべったり上半身をつけていた。開脚したまま、胸が完全に床についている。顔だけ横に向けて、床に頬をつけて、そのまま三十秒静止していた。


 研究生の人たちも、だいたい似たようなことになっていた。一人は脚を頭の後ろに持っていこうとしていた。あれは何のメニューなのかわからない。紙には載っていない。


 俺はもう一度、自分の前屈を見た。


 拳一つ半。


 その日、レッスン室Aで前屈をした八人のうち、床に手が届かなかったのは一人だった。


   ◇


 誰も、俺を見ていなかった。


 これははっきり書いておきたい。八人とも、自分の身体か、鏡の中の自分を見ていた。有本さんは部屋の隅で電話をしていて、片手でタブレットを操作していた。犬飼さんはこの部屋にいない。


 だから、来なかった。


 音は遠のかなかった。輪郭もはっきりしなかった。背筋も伸びなかった。


 むしろ逆だった。


 俺の身体は、生まれてからずっとそうであったとおりの硬さで、そこに転がっていた。太ももの裏が張って、股関節がどこにあるのかもわからず、上半身を前に倒すと呼吸が浅くなった。


 これが俺だ。


 これが、誰にも見られていないときの、高町灯真の全部である。


   ◇


 十分ほどして、有本さんが電話を切って戻ってきた。


 タブレットを構えて、一人ずつ回り始めた。


「柔軟の記録取りますね。最初だけなので」


 彼女は数字を書いていった。前屈の距離、開脚の角度、肩の可動域。淡々と、感情を一切乗せずに書いていく。


 俺の番になった。


「前屈、どうぞ」


 俺は前屈をした。


 有本さんはメジャーを床に当てて、俺の指先までの距離を測った。


「マイナス、十四」

「マイナス」

「床から上にあると、マイナスで書きます」


 なるほど。


 俺は生まれて初めて、身体の記録がマイナスで表記されるところを見た。


「開脚どうぞ」


 俺は脚を開いた。


「……七十二度」


 有本さんの指が、一瞬止まった。


「もう一回いきますね」

「はい」


 俺はもう一回開いた。


「七十度」


 減った。


   ◇


「最後に、その姿勢のまま三十秒だけ止まってください。写真を撮るので」

「はい」


 俺は脚を開いたまま、上半身を起こした姿勢で止まった。


 止まって、天井を見た。天井の板が縦に十四枚あった。数え終わってもまだ何も言われないので、横も数えた。九枚あった。十四かける九で、百二十六枚。そのうち四枚だけ色が違う。たぶん雨漏りだ。


 有本さんの声が、しなかった。


 俺は待った。待っている間、駅前の店の名前を思い出そうとした。うどんの店と、ラーメンの店と、あとは何かの弁当屋があったはずだ。


「……高町さん」

「はい」

「二分二十秒、経ってます」


 俺は脚を閉じた。


   ◇


 研究生が二人、こっちを見ていた。


 見ていたのは俺の脚だ。俺ではない。だから、今日は何も起きなかった。


「今の、ずっと止まってましたよね」

「止まってました」

「あれ、きついですよ。内ももがずっと張るので」


 研究生の一人が言った。


 有本さんはタブレットに何か打ち込んでいた。打ち込みながら、独り言みたいに言った。


「……集中力、異常ですね」


 異常ではない。


 止まれと言われたので止まっていただけだ。やめろと言われていないものを、自分の判断でやめていいのかがわからなかった。そのうえ天井の板が百二十六枚あったので、暇でもなかった。


 だが有本さんは、タブレットの欄を一つ増やして、そこに何かを書いた。


 数字の欄では、なかった。


   ◇


 有本さんが次の人のところへ行ったあと、神保が俺の後ろに来た。


「押しましょうか」

「え」

「開脚のとき、背中押すと入るんですよ」

「はい」


 俺は脚を開いて、上半身を前に倒した。


 神保が背中に手を当てた。


 押された。


 胸が、床から四十センチくらいのところで止まった。


「……あれ」

「はい」

「もう一回いきます」

「はい」


 もう一回押された。


 四十センチだった。


「高町くん」

「はい」

「痛いですか」

「痛くはないです」

「じゃあなんで止まるんですか」

「わからないです」


 神保は手を離した。


 俺は上半身を起こして、彼のほうを見た。神保は自分の手のひらを見て、それから俺の背中を見て、もう一度自分の手のひらを見た。


「普通、押されたら入るんですよ」

「はい」

「入らないってことは、たぶん、股関節じゃなくて背中が」


 彼はそこで言葉を止めた。


 止めて、少し考えて、言い直した。


「……全部です」

「はい」

「全部、硬いです」

「はい」


 俺は素直に頷いた。


 神保が、困った顔をした。


 この男は、たぶん、俺に何か言おうとして何も見つからなかったのだと思う。日曜の三行の話を聞いてここに来て、開脚を四十センチで止める男を見てしまった。


 処理する情報が、多すぎる。


「あの」

「はい」

「高町くんって」


 神保は言葉を選んでいた。犬飼さんと同じ間の置き方だった。


「日曜、社長の前で読んだんですよね」

「はい」

「一発で決まったって聞きました」

「はい」


 神保は俺の脚を見た。まだ七十度で止まっている脚を見た。


「……そうですか」


 彼はそれだけ言って、自分の場所に戻った。


 戻って、そこから一度もこっちを見なかった。


   ◇


 休憩は十分だった。


 俺は壁際に置いた鞄のところへ行って、水筒を出した。出すふりをして、鞄の口を少し開けた。


 中でミューナが、腰に手を当てて立っている。


(どうだった)


 俺は口を動かさずに聞いた。


 返事がなかった。


(おい)


「…………」


(なんか言えよ)


「…………」


 人形は、動かなかった。


 この人形が黙るのは珍しい。四十年前の話をするか、俺に文句を言うか、犬飼さんの胃の心配をするかの三つしかしないはずだ。


(ミューナ)


「……あんた」


 やっと声がした。


「なに」


「あんた、あれで十七年、生きてきたの?」


(生きてきた)


「よく生きてこられたわね」


(生活に支障はない)


「ないでしょうね。芸能以外は」


   ◇


「一つ、聞いていい?」


 ミューナは、いつもより少しだけ声が低かった。


「なんで、みんなあんなに前に倒れるの」


(それ、俺が聞きたい)


「わたしの頃も柔軟はやったわよ。やったけど、あそこまでは……」


 人形は、そこで一度止まった。


「……いえ。やってたわね。むしろあれが普通ね」


(今、四十年前を美化しようとしただろ)


「してないわよ」


 した。


「あんた、一つ覚えておきなさい」


(なに)


「注目で伸びるのは四つだけ。姿勢と、間と、声と、写しよ」


(聞いた)


「四つの中に、股関節は入ってないの」


(入ってないな)


「だから、あんたのあの脚はね」


 ミューナは、そこで一度、言葉を切った。


「点いても点かなくても、七十度よ」


 俺は水筒の蓋を閉めた。


 閉めながら、一つだけ確かめたいことがあった。


(じゃあ、身体が硬いのは直るのか)


「直るわよ。毎日やれば」


(見られてなくても?)


「見られてなくてもよ。それはただの人間の話だから」


 ただの人間の話。


 その言い方は、なんとなく、覚えておいてもいい気がした。


 ただし覚えておいたところで、俺は毎日やらない。


 毎日やる人間は、この部屋にあと七人いる。


   ◇


 十時十五分に、基礎の先生が来た。


 先生は入ってくるなり「遅れました」と言って、鞄を置いて、それから何もせずに全員を三十秒見た。


 見ただけだった。


 俺の中で、何かが起きるかと思った。


 起きなかった。


 あとで考えるに、あの人は俺を見ていなかった。八人の並びと、部屋の空気と、時計を見ていた。人間を見るのと、部屋を見るのは、たぶん違う。


「じゃあ、立ってください」


 先生はそれだけ言った。


「はい」


 全員が立った。


「立つだけです。今日はそれで終わりです」


   ◇


 立つのは、難しかった。


 難しいというより、正しく立つとはどういうことなのかがわからなかった。


 先生は一人ずつ回って、肩を押したり、背中に手を当てたりした。俺のところに来て、背中の真ん中を軽く押した。


「胸、開いて」

「はい」

「開いてないです」

「はい」

「顎、引いて」

「はい」

「引きすぎ」


 俺は肩を上げたり下げたりした。鏡の中の男が、同じことをしていた。首を伸ばして、少し戻して、また伸ばした。


 どうやってもしっくりこない。


 日曜の四階の会議室では、勝手にまっすぐになった。何もしていないのに、背筋が自分で伸びた。


 今は、自分で伸ばそうとして、伸びない。


 先生は俺の背中から手を離して、次の人のところへ行った。


   ◇


 最後に、顔の体操をやらされた。


「顔を、ぎゅーっとしてください。目も口も全部真ん中に寄せる感じで」


 全員が変な顔になった。


「はい、緩めて」


 全員の顔が緩んだ。


「もう一回。ぎゅーっと」


 俺は、ぎゅーっとした。


 正確には、ぎゅーっとしようとした。


 鏡を見ると、そこには、さっきと寸分違わない顔の男が立っていた。目の位置も、口の形も、眉の角度も、何一つ変わっていない。


 周りの七人が全員、顔を握りつぶしたみたいになっている中で、俺だけが平常だった。


 隣の研究生が、緩めた瞬間にこっちを見た。


 見て、何も言わずに前を向いた。


 先生も一度こっちを見て、何か言いかけて、やめた。


 やめてくれてありがたかった。


 説明するには、まず「表情筋が生まれつき動かないんです」と言わなければならない。言えば、この部屋の空気が三分止まる。三分止まったあとで、たぶん誰かが優しいことを言う。そのあとの十分が、俺には一番きつい。


 だから俺は、黙って顔をぎゅーっとしているふりを続けた。


 ふりも、たぶん、できていなかった。


   ◇


 十一時五分前になった。


「はい、休憩十分。そのあとダンスです」


 先生が出ていった。


 全員が床に座り込んで、水を飲んだり、脚を伸ばしたりし始めた。俺も座った。


 太ももの裏が、まだ張っていた。


 この二時間で出た数字を並べると、俺は八人の中で一番下だった。前屈がマイナス十四。開脚が七十度。どちらも文句なしの最下位である。


 鏡が三面ある部屋なので、隠しようもない。


 鏡の中の俺は、背筋を伸ばして水を飲んでいる新人の顔をしていた。


 実際は、あと一時間で終わるということだけを考えていた。


 終わったら駅前で何か食おう、と思った。


 俺は水筒の麦茶を飲んだ。


 冷えていて、うまかった。


   ◇


「高町」


 入口のほうから声がした。犬飼さんが顔だけ出していた。


 「高町くん」ではなく「高町」だった。今日から変わったらしい。理由は聞かなかった。


「調子はどうだ」

「硬いです」

「そうか」

「たぶん、部屋で一番硬いです」


 犬飼さんは頷いて、それから、なぜか少しだけ嬉しそうな顔をした。


「そうか」

「はい」

「――高町」

「はい」


 彼は、少し言葉を選ぶように間を置いた。


「次の一時間だが」

「はい」

「先生は、思ったことをそのまま言う人だ」


 それだけ言って、犬飼さんは引っ込んだ。


 入れ替わりに、ドアが開いた。


   ◇


 入ってきたのは、黒いジャージの人だった。


 髪が短くて、背が低くて、片手にタオルを持っている。


 足が、裸足だった。


 その人は部屋に入って、三枚目で、ぎ、と床を鳴らした。


 鳴らして、こっちを見た。


 部屋の八人のうち、その人の目が最初に止まったのは、俺だった。


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