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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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第12話 練習の仕方を知らない

「ご用件をお伺いします」


 受付のお姉さんにそう言われて、俺は止まった。


 用件。


 今日の俺の用件は何だ。見学ではない。見学は日曜に終わっている。オーディションでもない。あれも終わっている。契約は昨日の夜、うちのリビングで終わった。


 じゃあ今日は何をしに来たんだ。


 名前を言うだけでいいのか。だが名前だけ言う人間は不審者では? かといって「今日から所属になりました」は、自分で言うにはやたら重い。重いし、たぶん間違っている。まだ何にもなっていない男が言う台詞ではない。


「……高町です」


 三秒くらい黙ったあとで、俺はそれだけ言った。


 受付のお姉さんは、にっこり笑った。


「高町灯真さんですね。伺っております」


 伺っていた。


 最初からそれでよかった。


   ◇


 その二時間前、俺は学校の昇降口で藤堂美咲に捕まっていた。


 彼女は俺の前に立って、スマホの画面をこっちに向けた。カレンダーだった。日付のところに、色のついた四角がいくつも並んでいる。


「高町くん、これ見て」

「なに」

「来週の提出物」

「なんで美咲が持ってんの」

「クラス委員だから」


 美咲は画面をスクロールした。


「月曜、現代文の要約。火曜、数学のプリント。木曜、化学のレポート。それと来週の水曜に小テスト」

「うん」

「今、何個やった?」

「……」

「答えないのは、ゼロってことだよね」


 この幼馴染は、俺の沈黙を全部正しく翻訳する。


「あのね」

「うん」

「今日から事務所でしょ」

「うん」

「それは別にいいよ。私が言いたいのはそこじゃなくて」


 彼女はスマホをしまった。


「あなた、今まで課題を出せてたのは、家に何もなかったからだからね」


 俺は少し考えた。


 考えて、それが正しいことに気づいた。


 俺は真面目な生徒ではない。ただ、放課後に何もすることがなかっただけだ。部活もバイトもないので、家に帰ると宿題しかやることがなかった。夏休みの宿題を最終日にやるのも、最終日までは他にやることがあるからだ。


 その「何もない時間」が、今日から減る。


「わかった」

「わかってないでしょ」

「わかった」

「じゃあ今日、事務所から帰ったら何する?」

「……夕飯」

「その次」

「……」


 美咲は深く息を吐いた。


「私、しばらくこれ、毎朝言うから」


 言うんだろうな、と思った。


 この女は、小学四年のときに俺が飼育係を三人ぶんやっていたのを、五年生の四月に職員室に行って一人で解決した。俺には一言も相談しなかった。


   ◇


 三階に上がった。


 マネジメント部の大部屋というところで、机が四つの島になって並んでいる。電話の音と、キーボードの音と、誰かが誰かに「そこ二十日で押さえて」と言っている声がした。


 犬飼さんが立ち上がって、部屋の真ん中に俺を連れていった。


「すみません、少しだけ」


 声が、いつもより二段階大きかった。


「今日付けで所属になりました、高町灯真くんです」


 部屋の中の顔が、いくつかこっちを向いた。


「高町です。よろしくお願いします」


 俺は頭を下げた。


 拍手が起きた。


   ◇


 拍手は、七、八秒で終わった。


 終わったあと、部屋は元の音に戻った。電話の音と、キーボードの音と、「だから二十日って言ってるでしょう」という声。


 俺はまだ頭を下げたところから戻ったばかりの姿勢で、部屋の真ん中に立っていた。


 傍から見ると、たぶん、こうだ。


 ――拍手を浴びても顔色ひとつ変えない新人。


 実際は、次にどっちの足から動かせばいいのかわからなくなっていた男である。


 そして、もう一つわかったことがあった。


 来なかった。


 電話の音も、キーボードの音も、「だから二十日って言ってるでしょう」という声も、全部さっきと同じ大きさで俺の耳に入っていた。


 今、この部屋には二十人以上いる。日曜の四階の会議室にいた人数より多い。あの日は十六人で、あれだけ派手に来た。


 なのに、今日は一ミリも来ない。


   ◇


「――そりゃそうよ」


 鞄の中でミューナが言った。俺は廊下に出て、階段の踊り場まで来ていた。


「あの部屋、誰もあんたを見てないもの」

(見てただろ。拍手してた)

「拍手は音よ。目じゃないわ」


 人形は、たぶん腰に手を当てている。


「あんた、あの部屋で一人でも、手を止めた人がいた?」


 俺は思い出した。


 電話をしていた人は、受話器を肩に挟んだまま片手で叩いていた。パソコンを見ていた人は、画面を見たまま叩いていた。一番奥の島の人は、こっちを見ていたが、目が半分閉じていた。


 誰も、手を止めていない。


「日曜はね、あの人たちは『何が来たのか』を見てたの。今日は『新人が入った』ってだけ。もう答えを知ってる顔に、燃料はないわ」

(面倒くさい仕組みだな)

「そうよ。面倒くさいわよ」


 ミューナは、少しだけ声を落とした。


「だから、みんな死ぬ気で見てもらうのよ」


   ◇


 手続きは、犬飼さんの席で三十分で終わった。


 契約書の控えを渡された。それから、社員証みたいなカードを渡された。首から下げるやつだ。〈高町 灯真〉と印刷されていて、その下に小さく〈2F 3F〉と書いてある。四階から上には入れないらしい。


 それから、スケジュールを共有するアプリを入れさせられた。


「予定はここに全部入る。撮影も、レッスンも、打ち合わせも」

「はい」

「通知は切らないでくれ。切る新人が多い」

「はい」

「あと、学校の予定も入れてくれ。テストの日は必ず」

「はい」


 犬飼さんが自分の画面をこっちに向けた。


「高町くんの欄は、こうなる」


 そこに、赤い字で一行が入っていた。


 〈高町 22:00 上がり〉


「これは何をしても動かない。法律だ」

「はい」

「押している現場でも、二十二時になったら君は帰る。周りがどれだけ困っていても帰る」

「はい」

「……不満か」

「いえ」


 俺は正直に言った。


「二十二時なら、夕飯が残ってます」


 犬飼さんは、少し黙って、それから胃のあたりを押さえた。今のは笑ったほうだと思う。


   ◇


 手続きの途中で、大部屋のドアが開いた。


 入ってきたのは、社長だった。


 白鳥隆盛。日曜に四階の会議室で会ったときは、いちばん奥に座って、俺の三行を聞いて、五秒で決めた人だ。


 今日はネクタイをしていなかった。


 社長は部屋を横切って、犬飼さんの島の前で止まった。


「犬飼」

「はい」

「これか」

「はい」


 これ、と言われた。


 俺は椅子から立ち上がって、頭を下げた。


「高町です。よろしくお願いします」


 社長は、俺の顔を三秒くらい見た。


 それから、犬飼さんのほうを向いた。


「学校は」

「学業優先で入れました。担任にも会ってきました」

「親は」

「昨日、判子をもらいました」

「そうか」


 社長はそれだけ言って、歩き出した。


 二歩進んで、止まって、こっちを振り返った。


「高町」

「はい」

「飯は食えてるか」

「食えてます」

「そうか」


 社長は行ってしまった。


 俺は椅子に座り直した。


 この事務所で今まで会った大人は三人で、そのうち二人が俺の食事の話をしている。


「……あの」

「うん」

「なんで、飯の話だったんでしょうか」


 犬飼さんはキーボードを叩きながら答えた。


「あの人は、辞める子を三十年見てるからだ」

「はい」

「辞める前、みんな飯が減る」


 俺は少し考えた。


 考えたが、俺の場合は今日、朝に三枚、昼に購買のコロッケパンを二個食べている。


 当分、大丈夫だと思う。


   ◇


 帰りに、一階の自販機の前で止まった。


 ロビーには自販機が二台ある。右がブラックで、左が微糖だ。日曜に来たときに確認しておいた。


 俺は左を押した。


 缶が落ちてくる音がした。俺はそれを取って、蓋を開けて、一口飲んだ。


 甘かった。


 ちゃんと甘かった。


 微糖が売り切れていたコンビニのレジで、俺がブラックを掴んだ日から十日ほど経っていた。ようやく正しい飲み物にたどり着いた。


 俺の顔は動かなかったが、この十日間で一番いいことが起きていた。


   ◇


「高町くん」


 犬飼さんに呼ばれて、俺は二階に上がった。


 更衣室の場所を教えておく、と言われた。土曜の朝、着替えるところがわからないと困るからだ。


 二階の廊下は狭い。片側に「レッスン室A」と書かれたドアがあって、その先に「B」があって、突き当たりが更衣室とシャワー室だ。日曜に書類をぶちまけたのは、ちょうどこのあたりだった。


 Aのドアの前を通ったとき、中から音楽が聞こえた。


 ドアが開いた。


   ◇


 中から出てきたのは、神楽坂さんだった。


 髪をうしろで一つに縛って、黒いタンクトップの上にパーカーを羽織っている。首にタオルをかけていた。前髪が全部濡れている。


 俺と犬飼さんを見て、立ち止まった。


「お疲れさま」


 犬飼さんが言った。


「うちに入った高町くんだ。今日から所属になった」


 神楽坂さんは、俺を見た。


 日曜のときは一瞬だった。ぶつかって、書類が散って、「邪魔」と言われて、それで終わりだった。


 今日は、三秒あった。


 その三秒のあいだに、俺の中で何かが起き――かけた。


 教室の音が遠のく、あの感じの、入口のところまでは来た。ドアノブに手がかかったくらいのところだ。


 だが、開かなかった。


 神楽坂さんが目を逸らしたからだ。


「高町です。よろしくお願いします」


 俺は頭を下げた。


「……どうも」


 それだけだった。


   ◇


 神楽坂さんは自販機のほうへ歩き出そうとして、止まった。


 止まって、こっちを向いた。


 視線が、俺の顔ではなく、下に落ちていた。


 俺の手だった。


 俺は自分の右手を見た。缶コーヒーを持っている。特に何もない手だ。爪はこの前切った。指が長いと美咲に言われたことがあるが、それだけだ。マメも、タコも、絆創膏も、テーピングも、何もない。


 日曜、俺は床に散らばった書類を拾いながら、この人の手を見た。


 人差し指の付け根が硬くなっていて、色が変わっていた。


 今日は、逆だった。


「あなた」


 神楽坂さんが言った。


「練習したことないでしょ」


   ◇


 廊下が静かになった。


 犬飼さんが「神楽坂」と言った。低い声だった。


 神楽坂さんは聞いていなかった。


「ないです」


 俺はそう答えた。


 自分でも、返事が早すぎたと思う。


 神楽坂さんの眉が、わずかに動いた。


「……ない」

「はい」

「一回も?」

「一回も」


 神楽坂さんはもう一度、俺の手を見た。それから、自分の手を見た。見て、パーカーの袖を少し引いた。隠したのかもしれないし、汗を拭いただけかもしれない。俺にはわからない。


「そう」


 それだけ言って、彼女は階段のほうへ歩いていった。


 濡れたスニーカーが、床を鳴らしていた。


   ◇


 犬飼さんが、深く息を吐いた。


「……悪かった」

「何がですか」

「あれは、言い方が良くない」


 彼は胸ポケットに手をやりかけて、やめた。


「あいつは十四で入って、五年ああやってる。土曜も日曜も、あの部屋にいる。だから、そうじゃない人間を見ると、たまに口が出る」

「はい」

「気にしないでくれ」


 俺は少し考えた。


 考えて、正直に言った。


「気にしてないです」


 犬飼さんが俺を見た。


「……そうか」

「はい」

「強いな」


 強くない。


 全部合っていただけだ。


 俺は練習したことがない。一度もない。先週、部屋で二十回やって二十回とも失敗した男である。あれは練習ではなく、検証だった。しかも結果は全敗だった。


 だから、あの人の言ったことには、訂正するところが一つもない。


 俺は廊下の突き当たりのほうを見た。もう誰もいなかった。


「あの」

「うん」

「神楽坂さんって」


 自分でその名前を口に出したのは、初めてだった。日曜からずっと、俺の頭の中では「日曜にぶつかった人」で処理されていた。


「毎日、いるんですか」

「いる」


 犬飼さんは即答した。


「元日もいた」

「元日」

「三日と四日は休ませた。休ませないと来る」


 休ませないと来る、という日本語を、俺は初めて聞いた。


   ◇


 帰り際、犬飼さんが紙を一枚くれた。


 〈第一回レッスン 予定表〉


 土曜日。九時から十二時。二階レッスン室A。


 九時、ウォーミングアップとストレッチ。十時、基礎。十一時、ダンス。


 その下に、講師の名前が二つ書いてあった。読み方がわからないほうがダンスだった。


「新人は最初、全員この形でやる」

「はい」

「同期が三人いる。土曜に会う」

「はい」

「――高町くん」


 犬飼さんが、少し言葉を選ぶように間を置いた。


「初日は、たぶん、面白くないと思う」


   ◇


 家に着いたのは七時前だった。


 夕飯は鮭の塩焼きだった。俺は二切れ食べた。


 妹はテーブルの向かいでタブレットを立てて、なんの音も出さずに何かを編集していた。指だけが動いている。


「兄ちゃん」

「なに」

「明日、レッスンでしょ」

「うん」

「練習しないの?」


 俺は箸を止めた。


「明日、練習しに行くんだけど」

「そうじゃなくて。練習の練習」


 妹は画面から目を離さずに言った。


「初日ってさ、だいたい前日に一回やっとくもんじゃないの。部活の体験入部でも、みんな家で一回やってくるよ」


 この妹は、ときどき、ごく普通に正しいことを言う。


 俺は箸を持ったまま、三秒くらい停止していた。


   ◇


 部屋に戻ってから、俺は電気をつけて、床の真ん中に立った。


 立って、それから、何もしなかった。


 わかったことが、三つある。


 一つ。俺は明日、ストレッチと、基礎と、ダンスをやる。


 二つ。この三つのうち、俺は一つも中身を知らない。


 三つ。仮に中身を知っていたとしても、俺には練習のやり方がわからない。


 謙遜のつもりはない。ついでに書いておくと、腹も減っている。


 運動部に入ったことがない。何かを毎日続けたこともない。夏休みの宿題は最終日にやる。ピアノもそろばんも習っていない。合唱コンクールの指揮は、家で一回も振らなかった。


 つまり、俺は十七年間、一度も「上手くなるためにやる」という行為をしたことがない。


 人間、やったことのないことは、やり方もわからない。


「あんた、さっきから突っ立ってるけど」


 机の右奥からミューナが言った。


「何してるの」

「練習」

「動いてないじゃない」

「何をすればいいのかわからない」


 少し間があった。


「……あんた、それ、本気で言ってる?」

「本気」


 ミューナは、たぶん腰から手を離した。


「四十年前はね」

「うん」

「新人は、毎朝五時に起きて、河原で発声してたわ」

「河原」

「そう。腹から声を出すの。近所から苦情が来るまでやるのよ」

「うちの近くに河原がない」

「じゃあ橋の下」

「橋もない」

「あんた、そういうところだけ返しが早いわね」


 俺は床に座った。


 座って、とりあえず前屈をしてみた。


 膝を伸ばしたまま、手を下ろす。中学の体力測定でやったやつだ。あのとき何センチだったかは覚えていない。


 指先が、床から遠かった。


 もう一回やった。同じだった。三回目に、少しだけ近づいた気がしたが、たぶん膝が曲がっていた。


「……あんた」

「なに」

「それ、ストレッチのつもり?」

「うん」

「明日、恥かくわよ」


 俺は前屈をやめて、床に手をついた。


「なあ」

「なによ」

「見られてないときって、本当に何もできないんだよな」

「そうよ」

「じゃあ、練習って、意味あるのか」


 人形は、しばらく黙っていた。


 珍しく、長かった。


 それから、いつもより少しだけ小さい声で言った。


「……それ、わたしも四十年考えたのよ」


   ◇


 俺は十一時前に寝た。


 目覚ましを七時にかけて、机の上にジャージを畳んで置いた。中学のやつは丈が足りなかったので、母さんが夕方に買ってきた黒いやつだ。値札が付いたままだったので外した。


 布団に入って、天井を見た。


 明日、九時。二階のレッスン室A。


 初日は面白くないと思う、と犬飼さんは言っていた。


 俺はそれについて三十秒くらい考えて、それから、明日の朝ごはんが何かを考えて、寝た。


 寝る前に一つだけ思い出した。


 あの人は「面白くない」とは言ったが、「大変だ」とは一言も言っていない。


 言わなかった理由を、俺は次の日の九時二十分に知ることになる。


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