第11話 判子の場所を知らない
「判子、どこ」
俺がそう聞いたら、家族三人が三人とも違う場所を答えた。
母さんは「仏壇の引き出し」と言った。妹は「玄関の小物入れ」と言った。父さんは何も言わずに新聞をめくった。
三分後、仏壇の引き出しからは香典袋が四枚出てきて、玄関の小物入れからは自転車の鍵が二本出てきた。
判子は、なかった。
この家に十七年住んでいて、俺は自分の家の判子がどこにあるかを一度も知らなかったらしい。
◇
封筒は、その日の朝に届いていた。
A4がそのまま入る茶色い封筒で、差出人のところに〈株式会社ソレイユ〉と印刷されていた。母さんが「灯真、来てるわよ」と言いながら、両手で持ってきた。持ち方がやたら丁寧だった。
中身は二つあった。
厚いほうが契約書で、薄いほうは一枚の紙だった。
薄いほうを先に見た。〈レッスン初日のご案内〉と書いてある。日付と、時間と、場所。それから持ち物。動きやすい服装、室内用シューズ、タオル、飲み物。
俺は三回読んだ。三回読んでも、書いてあることは同じだった。
厚いほうを開いた。
〈専属マネジメント業務委託契約書〉
一ページ目から、知らない言葉が並んでいた。「独占的代理権」。「パブリシティ権の帰属」。「競業避止」。
わからん。
一つもわからん。
中学三年のとき、公民の教科書で「契約は口約束でも成立する」と習った覚えがある。覚えているのはそこまでだ。その先に十二ページぶんの世界が広がっているとは、誰も教えてくれなかった。
最後のページをめくった。
俺の名前を書く欄があって、その下に、もう一つ欄があった。
〈保護者同意欄〉
名前を書くところと、四角い枠が並んでいた。枠の中に、小さく「印」と書いてある。
◇
判子には種類があるらしい。
母さんが言うには、実印と、銀行印と、認印というものがあるそうだ。実印は市役所に登録してあるやつで、銀行印は通帳のやつで、認印は宅配便に押すやつだ。
俺は封筒の中の紙をもう一度見た。どれを押せばいいかは、どこにも書いていなかった。
ここで俺の頭は、静かに動き始めた。
一番偉いやつを押せばいいなら実印だ。だが実印というのは、たしか家を買うときとかに使うやつのはずだ。芸能事務所の契約書に家を買う判子を押すのは、なんというか、重くないか。
じゃあ認印か。だが認印は宅配便のやつだ。十二ページある書類に、宅配便の判子を押していいのか。荷物と同じ扱いになるんじゃないか。
じゃあ銀行印か。銀行印は絶対に違う。それだけはわかる。
俺は玄関に立ったまま、二分くらい動かなかった。
母さんがゴム手袋を外しながら通りかかって、俺の顔を見て言った。
「灯真、どうしたの。難しい顔して」
難しい顔はしていない。顔は動いていない。
宅配便のことを考えていた。
◇
結局、その日は判子が見つからなかった。
母さんが「明日また探すわ」と言って、話は終わった。父さんは新聞を読み終えて、風呂に入って、「おう」と言って寝た。最後まで、一言も判子の話をしなかった。
夜、俺は自分の部屋で契約書をもう一度めくった。
「あんた、それ、読んでるの?」
机の右奥からミューナが言った。
「読んでる」
「わかってるの?」
「わかってない」
「じゃあ読んでないでしょ」
その通りだった。
「四十年前はね」
ミューナが腰に手を当てた。
「契約書なんてなかったのよ。社長と握手して終わり」
「怖いな」
「怖くないわよ。その代わり、揉めたら全部その場で怒鳴り合いだったけど」
「怖いだろ」
この人形の話には、たまに時代の暗さがそのまま混ざっている。
「あんた、明日どうするの」
「明日は学校に犬飼さんが来る」
「学校に?」
「担任と話すって」
少し間があった。
「……胃、大丈夫かしらね」
昨日から二人目だ。この人形は犬飼さんの胃のことしか心配していない。
◇
火曜日の放課後、俺は職員室の隣の面談室に呼ばれた。
机が一つと、椅子が四つある狭い部屋だ。三者面談のときに使う部屋で、去年ここで進路の話をしたときには、母さんが隣で「この子は特に希望がないんです」と三回言った。
犬飼さんは、俺より先に来ていた。
スーツで、鞄を膝に置いて、背筋をまっすぐ伸ばして座っていた。名刺入れがテーブルの上に出ている。手が、微妙に落ち着かない。
「高町くん」
「はい」
「先生は、どういう方だ」
小声だった。
「宮坂先生です」
「いや、そうじゃなく」
犬飼さんは言葉を選ぶように間を置いた。
「……芸能に、理解のある方だろうか」
俺は少し考えた。
「ないと思います」
「そうか」
「たぶん、一ミリもないです」
「そうか」
犬飼さんが胸ポケットから何かを出して、口に入れた。粉薬だった。水なしで飲んでいた。
ドアが開いた。
宮坂恭子先生が入ってきて、椅子を引いて、座った。書類を一枚テーブルに置いた。その間、犬飼さんの顔を一度も見なかった。
「宮坂です」
「ソレイユの犬飼と申します。本日はお時間を――」
「出席日数」
犬飼さんの言葉が、真ん中で切られた。
「はい?」
「高町の出席日数の話をします」
宮坂先生は書類を指で示した。
「現在まで欠席ゼロ、遅刻二回。二年生の必要出席日数はここです。ここを下回ると進級しません。以上が学校側の条件です」
「……はい」
「それから課題です。提出期限は全教科、学級通信に載ります。期限を過ぎたものは受け取りません。撮影でも、レッスンでも、風邪でも同じです」
「はい」
「以上です」
三十秒だった。
犬飼さんは、鞄から出しかけた書類の束を、そのまま止めていた。
「あの、こちらでご用意した学業優先の確認書が」
「読みます。置いていってください」
「ご質問などは」
「ありません」
宮坂先生は俺のほうを向いた。
「高町」
「はい」
「来週の小テスト、範囲は変わらん」
「はい」
それだけ言って、宮坂先生は立ち上がった。
◇
廊下に出てから、犬飼さんはしばらく黙っていた。
「……高町くん」
「はい」
「あの先生は」
「はい」
「君が芸能事務所に入ることを、どう思ってるんだろうか」
俺は正直に答えた。
「何も思ってないと思います」
「何も」
「たぶん、俺が宇宙飛行士になっても、範囲は変わらんって言います」
犬飼さんが、はっと息を吐いた。笑ったらしい。
「十五年やってるが、学校であんなに話が早かったのは初めてだ」
「はい」
「たいてい、こうはいかない。長い話になる。学校の名前が出るとか出ないとか、他の生徒への影響がどうとか」
彼は階段を降りながら言った。
「あの先生は、君を生徒としてしか見ていない」
「はい」
「それは、たぶん、とても楽だ」
そのとおりだった。
この一週間で俺に起きたことの中で、宮坂先生の三十秒だけが、まったく何も変わらなかった。世界のほとんどが「高町灯真」という新しい設定を勝手に足していく中で、あの人だけが出席日数と提出期限の話をしている。
助かる、というのが正しいのかはわからない。
ただ、あの部屋にいる間だけ、俺は普通に呼吸をしていた。
◇
教室に戻ったら、熊沢大河が待ち構えていた。
「高町!」
「なに」
「面談室、スーツの人いたろ」
「いた」
「見た。窓から見た」
「見るなよ」
熊沢は自分の席の背もたれに肘を乗せて、ものすごく満足そうな顔をしていた。
「お前、契約すんの?」
「たぶん」
「たぶんって」
「まだ判子がない」
「判子?」
熊沢が真顔になった。
この男が真顔になるのは、話がわからないときだけである。
「判子いんの?」
「いる」
「え、そういうの、なんかこう、サインじゃないの。かっこいい感じの」
「保護者同意欄がある」
「保護者」
熊沢の顔から、みるみる何かが抜けていった。
夢を壊してしまったらしい。
だが事実は事実だ。俺は今、朱肉のことを考えている。
斜め前の席で、早坂千尋が椅子ごとこっちを向いた。
「高町くん、なんかもう、いろいろ通り越して落ち着いてない?」
落ち着いてない。
判子の種類が三つあることを、俺は今朝知ったばかりだ。
「普通さ、こういうときって、そわそわするじゃん」
「する人はそうだと思う」
「高町くん、しないもんね」
「顔に出ない」
「そこじゃなくて。空気が」
空気。
俺の空気の問題らしい。俺の空気は、今、宅配便の判子でいいのかどうかで揺れている。
「あたし、高町くんの一番すごいとこって、そこだと思う」
早坂は真剣な顔でそう言った。
俺は黙って頷いた。
頷くしかなかった。ここで「宅配便の判子の話をしていました」と言ったところで、たぶん「またそういうこと言ってる」で終わる。そして「本音を言わない男」という設定が一つ増える。
増えるだけだ。減らない。
◇
その後の三日間、うちの母さんはおかしくなった。
まず、玄関の三和土を洗った。次に、リビングのカーテンを外して洗った。それから客用の座布団を出してきて、天日に干した。
水曜の夜、俺が風呂から出ると、母さんが茶碗を並べて見比べていた。
「何やってんの」
「湯呑み、どっちがいいと思う?」
「どっちでも」
「こっちは去年の引き出物なの」
「じゃあそれで」
「でも五客セットなのに一つ欠けてるのよ」
「四人しかいない」
「そうね」
納得したらしく、母さんは引き出物のほうを選んだ。
妹はソファに寝転んでタブレットを見ていた。母さんの動きを一度も見ていない。
「兄ちゃん」
「なに」
「あの契約書、あたしも読んでいい?」
「読んでどうすんだ」
「読まないほうがまずいでしょ」
俺は自分の部屋から封筒を持ってきて、渡した。
妹はタブレットを置いて、体を起こして、一ページ目から読み始めた。
二十分くらい、何も言わなかった。
それから、ノートを取りに立った。
◇
木曜の夜、七時。
インターホンが鳴って、母さんが「はい!」と、うちのインターホンで出したことのない大きさの声を出した。
犬飼さんが玄関に立っていた。菓子折りを持っていた。
「夜分に失礼します。ソレイユの犬飼と申します」
「まあまあまあ、どうぞどうぞ、狭いところですけど」
「いえ、こちらこそ突然」
「灯真がいつもお世話になって」
まだ何も世話になっていない。
犬飼さんはリビングに通されて、干したての座布団に座った。テーブルの向かい側に母さん。その隣に父さん。父さんは会社から帰ったばかりで、まだネクタイを緩めただけの格好だった。
俺は父さんの隣に座った。
妹は、テーブルの角に、ノートを開いて座っていた。
「本日は、契約の内容をご説明にあがりました」
犬飼さんが鞄から書類を出した。
「まず、契約期間ですが――」
「三年ですよね」
妹が言った。
犬飼さんの動きが止まった。
「……はい」
「自動更新の条項が九条にあります。更新しない場合は三か月前に書面で通知、で合ってますか」
「合っています」
「そこ、こっちからも切れますか」
犬飼さんが、俺のほうを一瞬見た。
俺は首を横に振った。何も知らない。
「……切れます。双方向です」
「わかりました。次に十一条」
妹はノートのページをめくった。
「肖像とパブリシティ権の帰属、契約期間中は事務所、って書いてありますけど」
「はい」
「契約が終わったあとは?」
「終了後は本人に戻ります。十一条の三項に」
「三項、ここですか」
「そこです」
「じゃあ、契約期間中に撮った写真は、終わったあと事務所が使えますか」
犬飼さんが、粉薬を出した。
◇
母さんは、途中から完全に置いていかれていた。
湯呑みに手を伸ばしては戻し、犬飼さんを見ては妹を見て、最後には「ひなた、失礼でしょう」と言った。
「失礼じゃないよ。書いてあることを聞いてるだけ」
「そうですけど、そんな、詰めるみたいに」
「いえ」
犬飼さんが顔を上げた。
「ありがたいです。本当に」
彼は、少し言葉を選ぶように間を置いた。
「この書類を最後まで読む家は、多くないんです。だいたい、親御さんが『先生にお任せします』と言って、そこで終わる」
「はあ」
「終わったあとで揉めるのは、その家です」
母さんは黙った。
妹はノートに何か書き足して、ページを閉じた。
「以上です」
「以上か」
「うん。あとは兄ちゃんの問題だから」
俺の問題らしい。
◇
俺の顔は、動かなかった。
テーブルの向かいで、犬飼さんが説明を続けている。妹がノートを開いている。母さんが湯呑みを両手で握っている。父さんが腕を組んでいる。
四人が、この部屋にいる。
うち三人は、俺のほうを見ていた。
何も来なかった。
母さんの湯呑みの中で茶が揺れる音まで、はっきり聞こえていた。妹がノートのページをめくる音も、父さんが腕を組み直す音もそのままだった。
日曜の事務所では、あんなに派手に来たのに。
こういうときは、やっぱり来ないらしい。
鞄の中でミューナが言った。
「――そりゃそうよ。誰も、あんたの品定めをしてないもの」
品定め。
言われてみると、この部屋には俺を値踏みしている人間が一人もいない。母さんは嬉しいだけだし、妹は書類を疑っているだけだし、犬飼さんはもう決めている。
便利な体だ。要るときに来ない。
◇
「では、こちらにご署名をお願いします」
犬飼さんが、契約書の最後のページを開いた。
俺が先に書いた。〈高町灯真〉。ボールペンの先が紙に触れた瞬間、右手が微妙に重くなった。「町」の字の最後の縦棒が、いつもより長くなった。
傍から見れば、無言で名前を書き終えた高校生である。
実際には、二画目でボールペンを持ち替えている。
「では、保護者様のご署名と、ご捺印を」
母さんがペンを取った。〈高町郁子〉。
書き終えて、母さんが顔を上げた。
「……あの、判子なんですけど」
「はい」
「今、探してまして」
「あ、はい」
「三日ほど探してまして」
空気が止まった。
犬飼さんの手が、また胸ポケットに動きかけた。
そのとき、父さんが立ち上がった。
◇
父さんは、何も言わずにリビングを出ていった。
廊下を歩く音がして、階段を上る音がして、上で引き出しが開く音がした。
三十秒くらいで、戻ってきた。
手に、小さい木の箱を持っていた。
父さんはそれを開けて、中から判子を一本出して、朱肉と一緒にテーブルに置いた。それから、また座った。
誰も何も言わなかった。
「あなた、どこにあったの」
「上」
「上のどこ」
「押入れ」
「押入れのどこ」
「箱」
母さんは何か言いかけて、やめた。
俺も何も言わなかった。
この人は、十七年間ずっとこの家に住んでいて、判子の場所を一人だけ知っていた。誰にも言っていなかった。聞かれなかったからだと思う。
母さんが判子を朱肉に押しつけて、枠の中に押した。
少し曲がった。
◇
「では、これで」
犬飼さんが契約書を鞄に戻した。
母さんが「お茶、もう一杯」と言い、犬飼さんが「いえ、もう」と言い、それでも母さんが立ち上がった。この家では二杯目は断れない。
犬飼さんは俺のほうを向いた。
「高町くん」
「はい」
「最後に一つ、聞いていいか」
俺は頷いた。
「やりたいか」
部屋が静かになった。
母さんがやかんを持ったまま止まっていた。妹がノートから顔を上げた。父さんは湯呑みを見ていた。
この質問は、たぶん、この一週間で初めて出た。
母さんは俺に聞かなかった。妹も聞かなかった。父さんは「見てる人がいるとこに行けばいいんじゃないか」と言っただけだ。学校では誰も聞かなかった。宮坂先生は出席日数の話をした。
この大人だけが、最後に聞いた。
俺は少し考えた。
考えたのだが、頭の中に出てきたのは、〈レッスン初日のご案内〉の紙の、持ち物の欄だった。動きやすい服装。室内用シューズ。タオル。飲み物。
中学のジャージが、まだ入るだろうか。
「はい」
俺はそう言った。
犬飼さんは深く頷いて、鞄を閉じた。
「ありがとう」
◇
玄関で靴を履きながら、犬飼さんが言った。
「明日、放課後に事務所に来てくれ」
「はい」
「所属の手続きと、社内への紹介がある。三十分で終わる」
「はい」
「それから」
彼は靴べらを戻して、こっちを向いた。
「土曜が初日だ。九時に二階のレッスン室に来てほしい」
ドアが閉まって、車のエンジンの音が遠ざかった。
俺はリビングに戻った。
テーブルの上には、湯呑みが四つと、開いたままの朱肉と、父さんの判子が置きっぱなしになっていた。
母さんが片付けながら、ものすごく明るい声で言った。
「灯真、田島さんに言ってきていい?」
もう言ってあるだろ。
妹はノートを閉じて、立ち上がりながら言った。
「兄ちゃん、ジャージある?」
「中学の」
「入るの?」
「たぶん」
「測った?」
「測ってない」
妹は「ふうん」と言って、二階に上がっていった。
その夜、俺は押入れから中学のジャージを引っ張り出した。
上は入った。
下が、くるぶしから五センチ足りなかった。
俺はそれを畳んで、床に置いた。
スマホが鳴った。
犬飼さんからだった。
〈明日の件、追記です〉
〈三階でうちの神楽坂とすれ違うかもしれない〉
〈挨拶だけ、しておいてくれ〉
俺はしばらく画面を見ていた。
神楽坂澪。
日曜に、二階の廊下でぶつかって、書類を床にぶちまけた相手だ。
あのとき彼女が俺に言った言葉は、一つしかない。
「邪魔」である。




