第10話 階段が遠い
階段は、二十七段ある。
小学四年のときに数えた。数えて、それ以来ずっと覚えている。二十七段のうち、上から九段目だけが少し欠けていて、雨の日は滑る。
二十七段だ。
今の俺には、それが山だった。
◇
一段目に足をかけた瞬間、膝が抜けた。
折れたのでも、崩れたのでもない。抜けた、としか言いようがない。膝から下に入っていた何かが、すっと持っていかれた感じだった。
俺は右手で壁を押さえた。
押さえて、そのまま止まった。
痛くはなかった。どこも痛くない。それが逆に落ち着かなかった。痛ければ「痛い」で説明がつく。痛くないのに動かないというのは、説明のしようがない。
視界の下半分が、白かった。
◇
俺は壁に手をついたまま、階段を見上げた。
二十七段。
上りきったところに改札の外の通路があって、そこを抜けると自転車置き場があって、そこから家まで歩いて八分。
八分。
その八分が、今日は月まで歩くのと同じ距離に思えた。
◇
人が、横を通り過ぎていった。
日曜の夕方の桜坂駅は、それなりに人がいる。買い物袋を提げた人。部活帰りの中学生。ベビーカーを畳んで抱えている人。
みんな、俺の横を通って階段を上っていった。
誰も止まらなかった。
二人組の女の人が、少しだけこっちを見た。見て、そのまま通り過ぎた。通り過ぎたあとで、後ろから声が聞こえた。
「今の人、なんか、待ってるのかな」
「電話じゃない?」
「そういう感じだった」
「余裕あるよね、ああいうの」
◇
余裕はない。
立てないだけだ。
俺は壁に手をついて、階段の一番下で、動かない足を引きずり上げる方法を検討していた。
だが、顔は動かない。
背中は壁に寄りかかっていない。寄りかかると崩れるので、手だけをついている。手をついた男が、階段の前でまっすぐ立ったまま止まっている。
傍から見ると、たしかに、電話を待っているクールな男だった。
俺の人生でこれ以上ひどい誤解はないと思ったが、まだ第一章の途中である。
◇
もう一人、階段の下で立ち止まった人がいた。
部活帰りらしい中学生だった。ラケットのケースを背負っていて、スマホを見ながら階段の前で足を止めて、それから俺のほうを見た。
二秒くらい見て、それから、一段目を上るのをやめた。
わざわざ、反対側の端に回って上っていった。
道を、空けられた。
俺は壁に手をついて立っているだけの男である。目つきが悪いのは生まれつきで、動かないのは膝から下の問題である。
だが、たしかに、いま俺の前に立ちはだかっているのは階段だけで、それ以外の全部が俺を避けて通っていく。
三日目の廊下と、まったく同じだった。
あのときは動画のせいだと思っていた。
今日は、動画のせいではない。
◇
「あんた」
鞄の中から、声がした。
「反動よ」
(はんどう)
「言ったでしょ。四日前に。点いたあと、身体が使い物にならなくなるって」
(言ってた)
「三時間くらいね。今日は多めに使ったから、きっちり来るわ」
俺は壁を見ていた。
目の高さに駐車場の広告が貼ってあって、その端がめくれていた。
(三時間、これが続くのか)
「続くわね」
(動けないのか)
「動けるわよ」
ミューナの声は、いつもより落ち着いていた。
「歩けるし、喋れるし、痛くもない。ただ、力が入らないだけ。手が震えて、腹が減って、眠くて、視界が白む。それだけよ」
それだけ、というには多い。
◇
「覚えておきなさい。四つだけ」
ミューナが言った。
「一つ。反動は必ず来る。避ける方法はないわ」
(ない)
「二つ。眠れば解ける。寝るのが一番早い」
(寝る)
「三つ。糖分とカフェインで誤魔化せる。でも総量は減らないの。あとで同じぶん来るわ。前借りよ」
(前借り)
「四つ。これが一番大事」
少し間があった。
「人前で崩れちゃダメ」
◇
(なんでだ)
「崩れたら、全部バレるからよ」
俺はもう一度、階段を見上げた。
二十七段。
この駅に、俺を知っている人間はたぶんいない。いないが、いつかいるようになる。今日、俺は「明日から来い」と言われた。言われたということは、いつか誰かが俺の顔を知る日が来るかもしれない、ということだ。
そのときも、この三時間は来る。
毎回、来る。
――なるほど。
俺はそう思った。
思っただけだった。悲しいとか、まずいとか、そういうものは特に出てこなかった。雨が降ったら傘が要る、というのと同じ種類の情報として、俺はそれを受け取った。
◇
三分くらい、そこにいた。
正確に測ったわけではない。ただ、階段を上っていく人を数えていて、十四人目のところで、足に少し力が戻ってきた。
これも癖である。俺は何かを待つとき、必ず何かを数える。
音は、遠のかなかった。
当たり前だ。今この駅で、俺を見ている人間は一人もいない。
◇
「兄ちゃん」
上から声がした。
妹が、階段の途中に立っていた。
半分くらい上ってから、戻ってきたらしい。羊羹の箱を胸に抱えている。
「なにしてんの」
「休んでた」
「立ったまま?」
「立ったまま」
妹は下りてきて、俺の隣に立った。
何も言わずに、俺の鞄の持ち手に手をかけて、そのまま自分の肩にかけた。ミューナごと持っていかれた。
「重っ」
「教科書だ」
「日曜に」
妹は俺の三歩前ではなく、真横に立った。
この一週間で、初めてだった。
◇
二十七段を上るのに、たぶん一分半かかった。
妹は何も言わずに、俺の速さで上った。一段ずつ、ゆっくり。途中で一度、俺が九段目で止まったときも、何も聞かなかった。
上りきったところで、妹が言った。
「兄ちゃん」
「うん」
「三分と、四十秒」
俺は妹を見た。
「なにが」
「なんでもない」
妹はトートバッグから黄色いノートを出して、また二行、何か書いた。
書いて、閉じて、しまった。
「宿題か」
「宿題」
◇
ハミングマート桜坂店に寄った。
妹が「なんか買っていくでしょ」と言ったので、寄った。この妹は、たまに俺より俺の状態を知っている。
俺は肉まんを二個と、ゼリー飲料を一本と、微糖の缶コーヒーを買った。
レジで、店長のおじさんが袋にそれを詰めながら言った。
「学生さん、今日は多いね」
「腹が減ってて」
「部活?」
「やってないです」
「そうかい」
おじさんはそれ以上聞かなかった。
この人は小学生の頃から俺を見ているが、いまだに俺の名前を知らない。俺もこの人の名前を知らない。それで十二年やってきた。
俺は店の前で肉まんを一個食べた。
半分食べたところで、家まで持たない気がして、二個目も開けた。
「兄ちゃん、それ、家で食べなよ」
「持たない」
「何が」
「俺が」
◇
歩いている途中で、スマホが鳴った。
熊沢だった。トークのメッセージが五件まとめて届いていた。
〈高町〉
〈今日事務所行った?〉
〈クラスのグループやばいことになってる〉
〈早坂が「たぶん今日行ってる」って言い出した〉
〈なんで知ってんの早坂〉
俺も知りたい。
最後にもう一件来た。
〈明日、学校で全部話せよ〉
話さない。
俺はスマホをポケットに入れた。入れながら、明日の時間割を思い出した。一時間目が現代文で、担任の宮坂先生である。
あの人は、たぶん何も聞かない。
「範囲は変わらん」とだけ言う。
この一週間で、俺が一番ありがたいと思っている人間は、間違いなくあの人だった。
◇
家に着いたのは、六時ちょうどだった。
玄関を開けると、味噌汁のにおいがした。
カレーの、においではなかった。
「おかえりー」
台所から母さんの声がした。
俺は靴を脱いで、まっすぐ台所に行った。
鍋の蓋を開けた。
肉じゃがだった。
「……カレーは」
「え?」
「今朝、カレーにするって言ってなかった?」
「言ってないわよ」
「言った」
「言ってないわよ。カレーは先週でしょ」
母さんはお玉で鍋をかき混ぜながら、こっちを見た。
「あんた、朝『じゃがいも買っといて』って言ったのは覚えてるけど」
俺は鍋を見た。
じゃがいもは、ちゃんとあった。
肉じゃがの中に。
◇
俺は無表情のまま、その場に立っていた。
立ったまま、今日一日を振り返った。
事務所に行った。トップアイドルとぶつかった。社長に会った。羊羹を二つ食べた。台本を三行読んだ。大人十六人が黙った。「明日から来い」と言われた。
その全部を、俺は「今日の夕飯はカレーだ」という前提のもとでやり遂げた。
前提が、間違っていた。
◇
「あんた、顔色悪いわよ」
母さんが言った。
「顔は動かないだろ」
「顔じゃなくて色よ。色は動くの」
うちの母さんは、たまに正確なことを言う。
「疲れた?」
「疲れた」
「じゃあ食べて寝なさい」
この人の判断は、いつもこの深さで下される。
そして、だいたい正しい。
◇
俺は肉じゃがで三杯食べた。
肉まんを二個食べた三十分後である。それでも足りなかった。じゃがいもを全部食べたら、母さんが「明日のぶんも残しなさい」と言った。
向かいで、父さんが新聞を読みながら箸を動かしていた。
俺の茶碗を見て、それから、俺の顔を見た。
「……行ってきたのか」
「行ってきた」
「そうか」
それだけだった。
この人の一日の語彙は三語である。
しばらくして、父さんは自分の皿から肉を一枚こっちに寄こした。
「食え」
四語目だった。
◇
食べ終わった頃に、電話が鳴った。
美咲だった。
『高町くん』
「うん」
『声、小さくない?』
「腹が減ってる」
『三杯食べたって、ひなたちゃんが言ってたけど』
「なんで知ってんの」
『さっき送られてきた』
この二人はいつのまにか連絡先を交換している。俺は許可した覚えがない。
『それで、決めたんだ』
「決めた」
『そう』
少し間があった。
『高町くん』
「うん」
『前に私、言ったよね。向こうはあなたの"何もできないほう"を知らないって』
「言った」
『あれ、撤回はしない』
美咲はそういう女である。撤回しない。かわりに、続きを言う。
『でも、行くなら、ちゃんと行ってきなよ』
「行く」
『あと』
「うん」
『課題、金曜が期限だからね』
現実が戻ってきた。
◇
風呂に入って、部屋に上がったのは八時二十分だった。
机の右奥にミューナを戻して、俺はベッドに座った。
「まだ重いか」
「……いや」
言われて気づいた。
軽くなっていた。
手を握ってみた。握れた。指に力が入る。視界の端も、もう白くない。腹はまだ減っているが、これはたぶん、いつもの腹の減り方だ。
「三時間くらい、って言ったでしょ」
「言った」
「そういうものよ」
ミューナは台座の上で腰に手を当てた。
「今日ので、あんたはだいたい覚えたはずよ。点いたら、そのぶん、あとで来る。点かなければ来ない」
「シンプルだな」
「シンプルよ。世の中の大事なことは、だいたいシンプルなの」
人形が急にいいことを言い出したので、俺は少し警戒した。
「あと、あんた」
「うん」
「今日、階段の下で三分立ってたでしょ」
「立ってた」
「あれ、悪くなかったわ」
◇
「誰も、あんたが立てないって気づかなかった」
ミューナは言った。
「四十年前にね、階段で座り込んだ子がいたのよ。撮影所の裏の階段。それを見た人が三人いて、次の日には劇団中が知ってたわ」
「その子、どうなったんだ」
「別に、どうもならないわ。ただ、それからずっと『体が弱い子』って呼ばれてた」
少し間があった。
「呼ばれた本人は、それが一番きつかったって」
俺は天井を見た。
俺は今日、階段の下で三分立っていた。誰にも気づかれなかった。
気づかれなかったのは、俺の顔が動かないからだ。
十七年間、誕生日のたびに遺影みたいに写ってきたこの顔が、今日、初めて役に立った。
◇
俺はその夜、九時半に寝た。
母さんが「早いわねえ」と言ったが、返事をする前に落ちた。
夢は見なかった。
◇
翌朝、月曜日。
六時五十分に起きて、下に降りたら、玄関のところに妹がしゃがんでいた。
新聞受けの下に、何か落ちている。
「兄ちゃん」
「なに」
「これ、朝いちで来てた」
封筒だった。
厚い。A4が入る大きさで、角がきっちりしている。表に、印刷ではない字で宛名が書いてあった。
〈高町 灯真 様〉
裏を見た。
〈株式会社ソレイユ 犬飼 剛〉
昨日の夕方に別れた人が、日曜の夜のうちにこれを書いて、月曜の朝には家の新聞受けに入っている。
どういう速さなんだ、この会社は。
◇
妹が「開けていい?」と言った。開ける前に、もう指がかかっていた。
中身は、二つだった。
一つは、分厚い書類だった。表紙にこう書いてある。
〈専属マネジメント契約書〉
その下に、小さく〈保護者同意欄あり〉と付箋が貼ってあった。
もう一つは、A4が一枚。
表になっていた。縦に時間が並んでいて、横に場所と内容がある。昨日、廊下でぶちまけたあの紙と、同じ形式だった。
一番上に、こう印刷されていた。
〈高町灯真 レッスン初日〉
俺は日付を見た。
妹が横から覗き込んで、声を出した。
「兄ちゃん、これ」
俺も、同じところを見ていた。
場所の欄に、こうあった。
〈2F レッスン室A〉
◇
三面が鏡の、二十畳の部屋だ。
壁にバーがついていて、床に古いテープの剥がし跡が残っていて、入口から三枚目の床板が鳴る。
昨日、俺が二回踏んだ部屋である。
そして、昨日拾った二十六枚の紙の、たった一つの「休」の欄に、下手な赤い字で書き込まれていた場所でもある。
俺は予定表をもう一度見た。
時間の欄は、十七時三十分から十九時三十分まで。
その二時間、俺はあの部屋にいることになるらしい。
「兄ちゃん」
妹が、契約書の表紙をめくりながら言った。
「これ、判子いるって書いてある」
俺は封筒を持ったまま、廊下の奥を見た。
台所で母さんが味噌汁を温めている音がする。父さんはもう出た。
判子。
この家の判子が、どこにあるのか。
俺は、十七年住んでいて、一度も知らなかった。




