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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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第9話 今日の夕飯はカレーだったな

「明日から来い」


 そう言われた瞬間、俺の頭の中にあったのは、今日の夕飯のことだった。


 正確に書く。


 今朝、家を出るときに母さんが「今日、カレーにするから」と言った。言ったはずだ。玄関で靴を履いているときで、俺は「うん」と答えた。カレーだ。たぶんカレーだ。


 カレーだとすると、今日は一日目である。


 一日目のカレーは、じゃがいもに角がある。角があるカレーは、まだ完成していない。完成するのは明日だ。つまり明日の夜が本番であり、今日はその前夜祭にすぎない。


 ――今日の夕飯はカレーだったな。


 俺はそう思った。


 人生で一番大事な瞬間に、俺はじゃがいもの角のことを考えていた。


   ◇


「はい」


 俺は言った。


 それだけだった。


 二文字だった。


   ◇


 部屋の空気が、変わった。


 どう変わったのかは、うまく書けない。誰も声を上げなかったし、拍手も起きなかった。ただ、十六人が同じ角度でわずかに姿勢を変えた。


 ドアの横の男の人が、隣の人に何か囁いた。


 その囁きが、俺のところまで届いた。


「即答したぞ」

「肝、据わってんな」

「十七だろ、あれ」


 据わっていない。


 じゃがいもの話をしていた。


   ◇


 犬飼さんだけが、動かなかった。


 部屋の全員が姿勢を変えた中で、この人だけが同じ位置に立ったままだった。


 俺と目が合った。


「高町くん」

「はい」

「今、何を言われたかわかってるか」

「明日から来い、と」

「そうだ」

「はい」

「意味は」

「……仕事、ですか」


 犬飼さんは、深く息を吐いた。


「うちは事務所だ。所属するというのは、君の名前をうちが預かるということだ。仕事の話は全部うちに来る。断るのもうちがやる。君は、自分で判断しなくていい」


 俺は少し考えた。


「じゃあ俺、何をするんですか」

「呼ばれた場所に行って、言われたことをやる」

「それだけですか」

「それだけだ。最初の三年は」


 わからん。


 わからないが、悪くない気がした。行って、やって、帰る。掃除当番と同じである。


   ◇


 犬飼さんが前に出てきた。


「社長、明日は無理です」

「なんでだい」

「月曜です。学校があります」


 社長が止まった。


 丸眼鏡の奥で、二回まばたきをした。


「……そうか。学生だったな」

「そうです」

「学生だ」

「学生です」


 この会社で一番判断が速い人が、曜日を忘れていた。


「じゃあ、いつなら来れるんだい」


 社長が俺を見た。


 俺は真面目に考えた。


「木曜なら、六時間目のあと空いてます」

「木曜か」

「あと、土曜も空いてます」

「土曜」

「日曜も空いてます」


 部屋の後ろで、誰かが笑いを噛み殺した音がした。


「君、けっこう暇なんだね」

「暇です」


 これは事実である。部活はやっていない。バイトもしていない。将来の夢もない。俺の一週間には、穴しかない。


   ◇


「あの」


 妹が手を挙げた。


 全員が振り向いた。十四歳が、大人十六人の視線を浴びて、一切ひるまなかった。


「確認していいですか」

「どうぞ」

「兄は高校三年で受験があります。学校は続けさせてください」

「そのつもりだ」

「レッスンは週に何回ですか」

「最初は週二だね」

「それは平日ですか、休日ですか」

「相談できるよ」

「じゃあ、平日は一日だけにしてください。あと」


 妹は指を三本立てた。


「兄は、夜十時を過ぎると死にます」


 部屋が静まった。


「……法律的にもそうなんだが」


 犬飼さんが小さく言った。


「そうじゃなくて、本当に死ぬんです。十時半には寝ないと、次の日ずっと機嫌が悪いので」


 機嫌は顔に出ない。


 だが、悪い。


   ◇


 俺は妹の横顔を見ていた。


 この一週間で、いろいろあった。無断で動画を上げられて、四十万回再生されて、朝の番組に顔が出て、廊下で道を空けられて、机を叩いて、人形が喋った。


 その全部の中で、いま俺が一番驚いているのは、これだった。


 中学三年が、大人と条件の交渉をしている。


 しかも、押している。


 ――こいつ、どこで覚えたんだ。


   ◇


 社長は、五階に戻ろうと言った。


 部屋を出るとき、十二人が一斉に立ち上がった。


 立ち上がって、俺に道を空けた。


 三日目の廊下と同じだった。あのときは高校生で、今は大人で、それ以外は完全に同じ光景だった。


「お疲れさまでした」


 誰かが言った。


「あ、はい。お疲れさまです」


 俺は言った。言ってから、これは正しかったのかと不安になった。まだ何も所属していない高校生が「お疲れさまです」と返すのは、順番として合っているのか。


 合っていなかった場合、俺はさっき、初対面の大人十二人に対して、何かを間違えたことになる。


 ドアを閉めるまでのあいだ、俺はずっとそれを考えていた。


 うしろで、誰かが「落ち着いてんなあ」と言うのが聞こえた。


 社長と犬飼さんと妹と俺の四人で、また階段を上がった。会議室に残った十二人は、誰も持ち場に戻らなかった。ドアが閉まる直前、部屋の中で何人かが一斉に喋り始める音が聞こえた。


 社長室の羊羹は、まだ二切れ残っていた。


 妹が一つ食べた。


   ◇


 俺は、壁のポスターを見ていた。


 全部で二十枚くらいある。左の端が一番古くて、右にいくほど新しい。右端の一枚だけが、四階の廊下で見たのと同じ、白い衣装の人だった。


「気になるかい」


 社長が言った。


「なんで、貼ってあるんですか」

「壁が寂しいからだよ」


 答えになっていない。


「あとね、辞めた子のも貼ってある」


 社長は左端のほうを指した。


「あの三枚はもう業界にいない。一人は美容師で、一人は工務店で、一人は連絡がつかない」

「それでも貼るんですか」

「うちにいた事実は消えないからね」


 俺はもう一度、壁を見た。


 二十枚のうち、何枚が残った人なのかを数えようとして、途中でやめた。


 数えても何にもならないことは、今日、廊下で学んだばかりだった。


   ◇


「高町くん」


 社長は椅子に深く座った。


「君ね、うちに来ても、すぐには何もないよ」

「はい」

「半年、何もない子もいる。一年ない子もいる。レッスンだけして、帰る」

「はい」

「それでも来るかい」

「はい」


 社長は、少し笑った。


「返事が短いねえ」


 短いのは、長く喋ると余計なことを言うからだ。


 黙っていれば「はい」で済む場面は、世の中に想像以上に多い。


「うちはね」


 社長は湯呑みを手に取った。


「売れる子より、辞めない子を探してるんだよ」


 湯呑みを一口飲んで、続けた。


「うちを作ったとき、最初に取ったのが六人でね。一年で三人辞めた。三年で五人辞めた。残った一人が、いま四十を過ぎて、まだうちにいる」

「その人、有名なんですか」

「まったく有名じゃないよ」


 社長は、なぜか嬉しそうだった。


「でもね、その子が二十年ぶんの現場を知ってるから、うちの若い子が現場で困らない。それが会社なんだ」


 俺は羊羹の皿を見ていた。


 残り二切れ。妹が一つ食べたので、実質一切れである。あれを俺が食べていいのか、という問題が、社長の話と並行して俺の頭の中で進行していた。


   ◇


 その言葉の意味は、正直、そのときはよくわからなかった。


 わからなかったが、覚えてはいた。


 俺は昔から、意味のわからない言葉ほどよく覚えている。中学のとき、宮坂先生に言われた「お前は覚えるのは得意だが、使うのが下手だ」というのも、意味がわからないまま六年間覚えている。


「ただし、条件が一つある」


 社長が言った。


「君は未成年だ。契約には親御さんの署名と印鑑が要る」

「はい」

「親御さんは、なんて言ってる」

「母は賛成してます」

「お父さんは」


 俺は一度考えた。


「『おう』と言ってました」

「……それは、賛成なのかい」

「賛成です」


 社長は「そうか」と言って、それ以上聞かなかった。


 この人も、判断が速い。


   ◇


 最後に、社長が俺の顔をじっと見た。


 二秒か、三秒だった。


 その二秒だけ、音が少しだけ遠のいた。


 だが、すぐ戻ってきた。輪郭は、はっきりしなかった。背筋も伸びなかった。


 ――さっき、使い切ったのか。


 そう思った瞬間、視界の端が白くなった。


   ◇


 立ちくらみ、というやつだ。


 立ち上がったときになるあれが、座ったままで来た。


 部屋の輪郭がぐにゃりと寄って、また戻った。時間にして一秒か二秒。誰も気づかなかった。俺の顔が動かないので、気づきようがない。


 俺は膝の上で、指を一度だけ握り直した。


 握った感じが、薄かった。


   ◇


 鞄の中で、ミューナがようやく口を開いた。


「あんた」

(うん)

「あの社長、なんて言った?」

(明日から来い)

「その前」


 俺は思い出した。


(そういう子を二人だけ知っている、と言ってた)

「……そう」


 声が、低かった。


(心当たりあるのか)

「ないわ」


 嘘だ、と思った。


 この人形が嘘をつくときは、返事が一秒早い。


 俺は追及しなかった。四日前に一度追及しかけて、やめている。今日もやめておくことにした。


 かわりに、こう言った。


(羊羹、うまかったな)

「あんた、本当に、ほんっとうに」


 ミューナは、そこで言葉を切った。


「……まあ、いいわ。それが一番いいのかもね」


   ◇


「じゃあ、また来週」


 社長は立ち上がって、あっさり手を振った。


 それから思い出したように棚を開けて、紙の箱を出して、妹に渡した。


「これ、持っていきなさい。羊羹」

「いいんですか」

「日曜に来てくれたお礼だよ」

「ありがとうございます!」


 妹の声が、今日一番大きかった。


   ◇


 一階まで下りるのに、いつもの倍かかった。


 階段が、やけに長かった。


 二階と三階のあいだで、俺は一度、手すりに手を置いた。置いただけだ。止まってはいない。犬飼さんが振り返ったが、俺はそのまま下りた。


 ロビーで、妹がトートバッグから缶を出した。


 微糖だった。


「はい。もういいでしょ」

「ありがとう」

「ぬるくなってるけど」


 俺はその場で開けて、半分飲んだ。


 甘かった。


 甘さが、体の真ん中にすとんと落ちていくのがわかった。こんなに露骨に落ちていく感じは、初めてだった。


   ◇


「駅まで送る」


 犬飼さんが言った。


「歩いてすぐです」

「送る」


 三人で歩いた。日曜の夕方の神南は、来たときよりさらに人が少なかった。


「高町くん」

「はい」

「一つ聞いていいか」

「はい」

「なんで『はい』と言ったんだ」


 俺は少し考えた。


 そして、正直に言った。


「断る理由が、なかったので」


 犬飼さんは、しばらく黙って歩いた。


「……そうか」

「変ですか」

「いや」


 彼はまっすぐ前を向いたまま言った。


「うちに来た子で、その理由を言ったのは君が初めてだ」


   ◇


 交差点で信号に引っかかった。


 妹が羊羹の箱を抱え直しているあいだに、犬飼さんが言った。


「さっき、廊下でぶつかった子な」

「はい」

「神楽坂澪だ」

「聞きました」

「あの子は、十二でうちに来た。同期が十二人いた」


 信号が青になった。


 犬飼さんは歩き出しながら、前を向いたまま続けた。


「三年で、十一人辞めた」


 俺は何も言わなかった。


 言うことが思いつかなかったからだ。


「別に、あの子みたいになれという話じゃない。ああいう子もいる、というだけだ」

「はい」

「君は君の速さでいい」


 俺は頷いた。


 頷きながら、俺が考えていたのは、あの人の休みの欄に書いてあった赤い字のことだった。


 ――あの字、あんなに下手なのに、なんで毎回書くんだろう。


 書かなくても、たぶん覚えているのに。


   ◇


 改札の前で、犬飼さんは頭を下げた。


 俺と妹に、同じ角度で。


「明日、学校で何か言われても、何も答えなくていい。全部こっちに回してくれ」

「はい」

「それから」


 彼は、内ポケットの上を軽く押さえた。


「今日はよく寝ろ」


 なぜそんなことを言うのか、そのときの俺にはわからなかった。


   ◇


 電車は空いていた。


 座れた。


 座った瞬間、体が座席に沈むのがわかった。沈む、という表現以外に思いつかない。背中と座席のあいだから力が抜けて、俺はそこに置かれた荷物になった。


 妹が横で羊羹の箱を膝に載せて、スマホを見ていた。


「兄ちゃん」

「うん」

「今日のこと、動画にしていい?」

「よくない」

「だよね」


 妹はそれ以上言わなかった。


 言わなかったのが、少し意外だった。


 かわりに、妹はトートバッグから小さいノートを出した。


 表紙が黄色い、薄いやつだ。妹はそれを膝の上で開いて、ボールペンで何か書いた。二行くらいだった。書き終わると、すぐ閉じてバッグに戻した。


「なに書いてんの」

「宿題」

「日曜の夕方に?」

「宿題」


 同じ返事を、四日前にも聞いた。


 あのときはノートで、今日もノートだった。


 俺は追及しなかった。追及するには、腕が重すぎた。


   ◇


 スマホを出して、美咲にメッセージを送った。


 〈事務所、行ってきた〉


 既読がついた。返信は一分後だった。


 〈で?〉

 〈明日から来いって言われた〉

 〈明日?〉

 〈月曜だから無理だって断られた〉

 〈誰に〉

 〈事務所の人に〉

 〈高町くんが断ってないの、なんかもう、あなたらしいね〉


 どういう意味だ。


 〈で、やるの〉


 俺は指を止めた。


 止めて、しばらく画面を見ていた。


 〈やる〉


 送った。


 既読がついて、それから、返事が来なかった。


   ◇


 鞄の中で、ミューナが小さく言った。


「あんた」

(なんだ)

「家まで持つ?」

(何が)


 返事はなかった。


   ◇


 桜坂駅に着いたのは、五時十分だった。


 俺はホームに降りた。降りた瞬間、足の裏が地面より一センチ手前にあるような気がした。


 妹が先を歩いていく。改札のほうへ。いつもの三歩前だ。


 俺は改札を抜けた。


 抜けて、階段の前に立った。


 この階段は、小学生の頃から数えきれないくらい上っている。二十七段ある。数えたことがあるから知っている。


 俺は右足を上げた。


 一段目に、足をかけた。


 そこで、膝から力が抜けた。


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