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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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第8話 三行の台本

「まあ、座って。羊羹、食べる?」


 それが、株式会社ソレイユ代表取締役社長、白鳥隆盛の第一声だった。


 社長室は、無駄に広かった。


 部屋の三分の一しか家具がない。壁の一面が全部ポスターで埋まっていて、色の褪せ方がばらばらだった。四階の廊下と同じで、奥にいくほど古い。一番古いやつは、写っている人の髪型が完全に別の時代だった。


 その部屋の真ん中に、白髪の老人が座っていた。


 丸眼鏡をかけて、灰色のセーターを着ている。日曜の午後の、近所の将棋の相手みたいな服装だった。


 テーブルの上に、切った羊羹が四つ載っていた。


   ◇


 俺は羊羹を見た。


 問題が発生した。


 食べていいのか。「食べる?」と聞かれた。だが、あれは社交辞令の可能性がある。社交辞令に手を出す人間はどう見られるか。図々しい。


 じゃあ断るか。断ったら、せっかく切ってくれたものを断ることになる。それは失礼だ。


 じゃあ一つだけか。一つなら遠慮しているように見えるか。それとも中途半端に見えるか。


 そもそも、爪楊枝が三本しか刺さっていない。四つに対して三本だ。この一本足りない状態には何か意味があるのか。


 俺が二十秒くらいそれを検討しているあいだに、妹が羊羹を取って食べた。


「おいしいです」

「そうかい。よかった」


 解決していた。


「君も食べなさい」

「……いただきます」


 俺は羊羹を取った。


 うまかった。


   ◇


「白鳥です」


 社長は名乗った。名刺は出さなかった。


「今日はね、私は来る予定じゃなかったんだ。犬飼くんが日曜に見学を入れたって聞いてね、それで来た」

「すみません」

「謝ることじゃないよ。日曜は暇なんだ」


 社長は湯呑みを持ち上げて、一口飲んだ。


「あの動画、見たよ」

「はい」

「妹さんが撮ったんだって?」

「はい」


 妹が背筋を伸ばした。


「編集もあたしがやりました」

「上手だったねえ」

「ありがとうございます」

「あの、暗くなるとこ。あれは狙ったの?」

「狙いました」

「うん、いいね」


 妹と社長のあいだで、俺の知らない会話が始まっていた。


 俺は羊羹をもう一つ取った。


 二つ目は、一つ目より早く決断できた。


   ◇


「犬飼くんから、報告書が来てね」


 社長が言った。


「報告書」

「うちはね、スカウトすると必ず一枚書かせるんだ。誰を、どこで、なぜ、って。三行でいいことになってるんだが、犬飼くんのは長くてね」


 犬飼さんが、少しだけ視線を落とした。


「何枚だったんですか」

「四枚」

「四枚」

「うん。十五年で一番長かった」


 俺は犬飼さんを見た。


 犬飼さんは天井のあたりを見ていた。


「そこに、こう書いてあった。『撮られている間だけ、本人が変わる』」


 社長は湯呑みを置いた。


「私はね、この業界にいて四十年になるんだが」


 それから、ゆっくり言った。


「そういう子を、二人だけ知っている」


   ◇


 鞄の中で、ミューナが息を吸う音がした。


 俺は無表情のまま、羊羹の最後のひとかけらを飲み込んだ。


 飲み込みながら、正直なところ、こう思っていた。


 ――この羊羹、どこの羊羹だろう。


 うまい。かなりうまい。うちの祖母の家で正月に出てくるやつより、はっきりうまい。


 人生で一番重要な情報が机の上に置かれた瞬間に、俺の頭は羊羹の産地を検討していた。


   ◇


「さてね」


 社長がテーブルに紙を一枚置いた。


 A4のコピーだった。折り目が四つついていて、端が少し茶色くなっている。ずいぶん前に刷られたものらしい。


「読んでみてくれるかい」


 俺は紙を手に取った。


 三行しか書いていなかった。


 上のほうに小さく「男(十七)」と印刷されていて、その下に、こうあった。


 ――親父は、帰ってこない。


 ――知ってて待ってんだよ、母さんは。


 ――……いいから、座れよ。冷めるだろ。


 それだけだった。


 前の行も、後ろの行もない。


「これ、何の話ですか」


 俺は聞いた。


「わからないだろう」

「わかりません」

「わからないままでいい」


 社長は眼鏡を上げた。


「あのね、意味がわかっている人間の読み方は、だいたい似るんだ。わかっていない人間のほうが、たまに面白い」


 わからん。


「その紙はね」


 社長が言った。


「二十年くらい前に、うちで作った練習用のやつだ。前後は最初からない。三行だけ書いて、それだけ読ませる」

「意味がないほうがいいってことですか」

「意味がないんじゃない。前後がないだけだ。人はね、前後がないと自分の持ってるもので埋める。そこに、その子の全部が出る」


 俺は紙をもう一度見た。


 俺が持っているもので埋める。


 俺が持っているものは、たぶん、二日目のカレーとコンビニのくじと机の右奥の人形くらいである。


 埋まらない気がした。


   ◇


「犬飼くん、下は誰か残ってるかい」

「日曜なので、十人ほどかと」

「じゃあ、四階を借りようか」


 犬飼さんの動きが、止まった。


「……社長。今日は見学ということで」

「見学だよ」

「今のは見学ではありません」

「見て学ぶんだよ。私が」


 犬飼さんは何か言おうとして、やめた。


 やめたあと、内ポケットから薬を出した。


 これで三回目である。


   ◇


 階段を下りながら、鞄の中でミューナが早口になった。


「あんた、いい? 落ち着きなさい」

(落ち着いてる)

「顔が動かないだけでしょ」

(それはそう)

「深呼吸しなさい。吸って、吐いて」

(人形が呼吸の話をするな)

「わたしはね、こういうときのために四十年待ってたのよ」

(四十年何もしてないだろ)


 少し間があった。


「……あんた、たまに殴りたくなるわね」


 殴れないだろう、と思ったが、言わないでおいた。


「いい、一つだけ言うわ」

(うん)

「上手くやろうとしないこと」

(なんで)

「あんた、上手くやろうとすると下手になるから」


 これは、たぶん、この人形が四十年ぶりに言った正しいことだった。


   ◇


 四階の大きいほうの会議室に、人が集まってきた。


 最初は三人だった。犬飼さんが電話で二人呼んだ。二人が来て、そのうちの一人が「ちょっと待ってください」と言って誰かを呼びに行った。三階から二人下りてきた。その二人が誰かに何か言って、また二人増えた。そのあとも、一人、二人と増えた。


 増え方に、見覚えがあった。


 教室と同じだ。人は、こういうふうにしか増えない。


「ごめんね。すぐ終わるからね」


 社長がのんびり言った。


 誰も帰らなかった。


   ◇


 部屋の後ろのほうで、小声が聞こえた。


「見学の子でしょ、今日」

「見学でなんで四階なの」

「社長が来てる」

「日曜に?」

「日曜に」


 この会社の情報伝達速度も、うちの高校とだいたい同じらしかった。


 俺は壁の時計を探した。


 ない。この部屋には時計がなかった。


 これは困る。今が何時なのかがわからないと、家に何時に着くのかがわからない。家に何時に着くのかがわからないと、夕飯の位置がわからない。


 人が十人以上集まっている部屋の真ん中で、俺が本気で困っていたのはそれだった。


   ◇


 俺は部屋の前のほうに立たされた。


 立たされた、というと大げさで、正確には「そのへんに立っててね」と言われて、そのへんに立った。


 紙は手に持っている。


 三行。


 もう覚えている。三行だ。覚えないほうが難しい。


 問題は、この三行をどう読むかである。


 俺には、まったくわからなかった。


 演劇部でもないし、この台詞を言う男が誰なのかも知らない。親父が帰ってこないのが何日なのか、何年なのかもわからない。母さんが待っているのが玄関なのか台所なのかもわからない。冷めているのが味噌汁なのかカレーなのかも書いていない。


 カレーだったらいいと思った。


   ◇


 俺は顔を上げた。


 数えた。


 ドアの横に三人。テーブルの向こう側に六人。壁際に四人。


 十三人。


 それに犬飼さんと、社長と、妹。


 十六人。


 十六人が、こっちを見ていた。


 全員、俺の顔を見ていた。誰も手元を見ていなかった。誰もスマホを触っていなかった。誰も他の話をしていなかった。


 この部屋にある十六人ぶんの意識が、いま、全部こっちに向いている。


   ◇


 会議室の音が、遠のいた。


 エアコンの音も、廊下の足音も、誰かがペンを置いた音も、全部が薄い膜の向こうに行った。


 かわりに、輪郭がはっきりした。


 テーブルの木目が見えた。ドアの横に立っている男の人の、シャツの第二ボタンが取れかけているのが見えた。窓の外のビルの、屋上に立っている鉄の柱の錆が見えた。


 紙の上の字が、急に近くなった。


 背筋が、伸びた。


   ◇


「親父は、帰ってこない」


 声が、低いまま部屋に落ちた。


 張り上げていない。むしろ小さい。なのに、部屋の一番奥まで届いているのがわかった。


 俺は一拍置いた。


 置こうと思って置いたのではない。そこに一拍がある、としか言いようがない。


「知ってて待ってんだよ、母さんは」


 語尾が、わずかに掠れた。


 俺は視線を、一度だけ床に落とした。落とした理由はない。落ちた。


 それから、顔を上げた。


「……いいから、座れよ。冷めるだろ」


   ◇


 誰も、動かなかった。


 十六人が、口を閉じたまま止まっていた。ドアの横の男の人が、ゆっくり腕を組み直した。それが部屋で唯一の動きだった。


 俺は紙を下ろした。


 そして、こう思った。


 ――口の中に、まだ羊羹の粉が残ってる。


 舌で前歯の裏をなぞった。ざらついている。二つ目を急いで食べたせいだ。


 誰も喋らない部屋の真ん中で、俺は自分の前歯の裏の掃除をしていた。


   ◇


 ドアの横の男の人が、小さく息を吐いた。


「……なんだ、今の」


 誰も答えなかった。


 壁際で誰かが「もう一回聞きたい」と言った。言ってから、自分でも驚いたような顔をして口を閉じた。


 妹は、部屋の隅で固まっていた。


   ◇


「うん」


 社長が言った。


「もう一回、やってくれるかい」

「はい」

「あ、その前に」

「はい」

「紙は、持ったままでいいですか」


 言ったのは俺だった。


 社長が丸眼鏡の奥で、一瞬きょとんとした。


「……いいよ」

「わかりました」


 部屋のどこかで、短い笑い声が起きた。


 俺は真面目に聞いただけである。紙を置く場所がなかった。テーブルは遠いし、床に置くのは違う気がした。


 あとで妹に聞いたところ、あの質問は「余裕がありすぎて逆に怖かった」と受け取られたらしい。


 余裕は一ミリもなかった。置き場所の話をしていた。

「今度はね、お母さんが、目の前にいないと思って読んでみて」


 俺は一秒考えた。


 考えたが、意味はわからなかった。


 目の前にいないと思う、というのが何をどうすることなのか、俺には見当がつかない。だいたい、最初から誰も目の前にいない。この部屋にいるのは十六人の知らない大人だ。


 だから俺は、言われたことをそのまま実行した。


 目の前を、見ないことにした。


   ◇


 俺は、壁を見た。


「親父は、帰ってこない」


 同じ三行だった。


 だが、まるきり別の場面になっていた。


 一度目は、誰かに向かって言っていた。二度目は、誰にも向かっていなかった。台所の壁に向かって喋っている男の声だった。


「知ってて待ってんだよ、母さんは」


 声が、さっきより硬かった。


 俺は最後の一行の前で、二拍待った。


 待ったというより、そこに二拍あった。


「……いいから、座れよ。冷めるだろ」


   ◇


 部屋の後ろで、椅子が鳴った。


 誰かが立ち上がりかけて、そのまま座り直した音だった。


 壁際の女の人が、口元を手で押さえていた。


 テーブルの向こうの男の人が、犬飼さんの顔を見た。犬飼さんは、その視線に気づかなかった。


 犬飼さんは、俺を見ていた。


   ◇


 十秒くらい、誰も何も言わなかった。


 誰かが咳をした。咳をした人が、自分の咳の音の大きさに驚いていた。


「あの」


 壁際の女の人が手を挙げた。三階の島から顔を出した、あの人だった。


「今の、二回目のほう。あれ、指示通りなんですか」

「そうだと思うが」


 犬飼さんが答えた。


「指示、『お母さんが目の前にいない』だけですよね」

「そうだ」

「それだけで、あんなに変わります?」


 犬飼さんは答えなかった。


 俺は答えられた。答えられたが、答えなかった。


 俺がやったのは、前を見るのをやめて壁を見た、それだけだ。


 言っても、たぶん信じてもらえない。言えば「またそういうこと言ってる」で終わる。そして「謙虚な子」という設定が一つ増える。


 増えるだけだ。減らない。


 俺はこの件について、既に完全に諦めている。


   ◇


 俺は紙を持ったまま立っていた。


 立ったまま、こう考えていた。


 ――帰りは何時になるんだろう。


 時計を探した。この会議室には掛け時計がない。ポケットのスマホは、鞄と一緒に部屋の隅に置いてある。取りに行くのは、たぶん今ではない。


 それから、腹が減っていることに気づいた。


 羊羹を二つ食べた。二十分前だ。二十分前に食べたのに、腹の底に穴が空いている。


 この感覚には、覚えがあった。


 持久走の日と、教室で机を叩いた日。


 あの日と同じ穴だった。


 指先が、少しだけ冷たくなっていた。


 紙を持っている右手に、うまく力が入らない。落とすほどではない。ただ、握っている感じが薄い。


 俺は左手を添えた。


 傍から見れば、台本を両手で持ち直す少年である。


   ◇


「高町くん」


 社長が言った。


「怖くなかったかい」

「何がですか」

「知らない大人が十何人も見てる中で読むのは、普通は怖いよ」


 俺は少し考えた。


 考えて、正直に答えた。


「羊羹が、歯についてないか気になってました」


 部屋が、静かになった。


 さっきの静かさとは種類が違う静かさだった。


 社長が、ふっと笑った。


「そうかい」

「はい」

「ついてないよ」

「よかったです」


 誰かが下を向いて肩を揺らしていた。


 俺は真剣な確認をしただけである。


 あとから犬飼さんに聞いたところ、その場にいた何人かは「この子、本気で何も緊張していない」と受け取ったらしい。半分は合っている。俺は緊張していた。緊張しながら、羊羹の心配をしていた。


 二つは同時に成立する。


   ◇


 鞄の中で、ミューナが何か言った。


 声が、いつもより低かった。何と言ったのかは聞き取れなかった。三行のあいだ、この人形は一度も茶々を入れなかった。それが少しだけ気になった。


 妹が、部屋の隅に立っていた。


 こっちを見ていた。両手でスマホを持っていたが、画面はついていなかった。撮っていない。


 うちの妹が、兄を撮らなかったのは、たぶんこの一週間で初めてだった。


   ◇


 社長が、立ち上がった。


 セーターの裾を軽く引いて、眼鏡を直して、それからテーブルを回ってこっちに来た。


 犬飼さんが「社長」と言った。


 社長は聞いていなかった。


 俺の正面に立って、下から俺の顔を見上げた。身長差が二十センチ以上ある。見上げているのに、見下ろされている気がした。


「君、名前は」

「高町灯真です」

「高町くん」

「はい」


 白鳥隆盛は、丸眼鏡の奥で一度だけ目を細めた。


 そして、言った。


「明日から来い」


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