第7話 トップアイドルとぶつかる
「兄ちゃん、その鞄、人形入れてるでしょ」
渋谷駅の改札を出た瞬間に、妹が言った。
「入れてない」
「膨らんでる」
「教科書」
「日曜に?」
鞄の中から「教科書ですって」という声がした。
俺は聞こえなかったことにして歩き出した。
(黙っててくれ)
「わたし、教科書に間違えられたのは初めてよ」
(頼む)
「三十年やってて、一度も」
(四十年だろ)
◇
俺は今日、朝の九時から服の前で三十分立っていた。
制服で行くべきか、私服で行くべきか。犬飼さんは何も指定しなかった。指定しなかったということは、どっちでもいいということだ。どっちでもいいというのが一番困る。
制服で行けば「高校生であることを強調しに来た」と思われる気がした。私服で行けば「気合を入れてきた」と思われる気がした。
三十分考えて、結局、いつも学校に着ていくシャツと、去年から履いているズボンを選んだ。
「兄ちゃん、それ、まんま部屋着じゃん」
「違う」
「じゃあ何」
「勝負服だ」
「嘘つけ」
妹はそう言って、俺の襟を三回直した。
直しながら、こう言った。
「まあ、兄ちゃんは何着てても同じ顔だからいいけど」
この妹には、たまに全部を一言で終わらせる能力がある。
◇
神南は、思っていたより静かだった。
駅から十分ちょっと歩くと、人がすっと減る。ビルはあるが看板が少ない。会社ばかり入っている建物で、日曜だからか、どこも電気がついていない。
妹は地図を見ながら三歩前を歩いていた。この一週間、こいつはずっと三歩前にいる。
鞄の中で、ミューナが落ち着かない様子だった。
「あんた、お茶の淹れ方は知ってるの」
(なんで)
「若い子は最初にお茶を淹れさせられるのよ」
(それ四十年前の話だろ)
「基本は変わらないわ」
(俺、緑茶淹れたことない)
「終わったわね」
終わっていないと思う。
「ここ」
妹が止まった。
五階建ての、白いビルだった。入口の脇に金属のプレートがはめ込んである。〈ソレイユビル〉。その下に、小さく〈株式会社ソレイユ〉。
俺は見上げた。
想像していたのと違った。
俺が思っていた芸能事務所は、全面ガラス張りで、天井が高くて、受付にきれいな人が三人くらい並んでいる場所だった。目の前にあるのは、歯医者と税理士事務所が入っていそうな、ごく普通のビルだった。
「思ったより地味だな」
「中で言わないでね」
「言わない」
「顔にも出さないでね」
「出ない」
「そうだった」
妹は納得して先に自動ドアをくぐった。
俺はもう一度プレートを見た。
ここが、俺の人生を変える建物である。そういうことになっているらしい。
だが、正直に書くと、そのとき俺が気にしていたのは、靴下の左だけが微妙にずり落ちていることだった。
◇
一階のロビーには、ソファが四脚と、自販機が二台あった。
右がブラック。左が微糖。
俺は迷わず左を押した。
押してから、これは何か試されているのではないかと思った。事務所に着いて三十秒で飲み物を買う高校生は、たぶん普通ではない。だが、金はもう入れた。缶は落ちてきた。取り消せない。
「兄ちゃん、なんで買ってんの」
「渇いた」
「これから見学だよ」
「見学中に渇いたら困る」
妹は無言で俺の手から缶を取り、自分のトートバッグに入れた。
没収だった。
ロビーの奥に、ガラスのケースがあった。
中に、賞状とトロフィーが並んでいる。一番手前の盾は磨いてあったが、奥のほうは埃をかぶっていた。何の賞なのかは、字が小さすぎて読めなかった。
ケースの横に、色の褪せた集合写真が一枚だけ貼ってあった。
三十人くらいが二列に並んで、全員が笑っている。真ん中の男の人だけが笑っていない。
俺は少しだけ親近感を持った。
◇
階段のほうから足音がした。
「よく来てくれた」
犬飼さんだった。
日曜なのにスーツで、髪は相変わらずきっちり分けてある。降りてきて、俺と妹に同じ角度で頭を下げた。同じ角度、というのが妙に印象に残った。高校生でも中学生でも変えないらしい。
背中が、まっすぐだった。
「ひなたさんも、ようこそ」
「お邪魔します」
妹が完璧な角度でお辞儀をした。
うちの妹はこういうときだけ十四歳に見えない。家では床に座ってタブレットを見ている女である。
「今日は見学だ。誰も君に何もさせない。何も決めさせない。歩いて、見て、帰る。それだけだ」
俺は少しだけ安心した。
この人は毎回、先に「何をしないか」を言う。
その安心と同時に、犬飼さんは上着の内ポケットから小さい箱を出して、中身を一粒、水なしで飲んだ。
「それ、なんですか」
「胃薬だ」
「日曜なのに?」
「日曜が一番効く」
意味はわからなかったが、聞き返さないほうがいい気がした。
◇
三階は、大部屋だった。
机の島が四つあって、日曜なのに七人くらいが座っていた。電話をしている人。書類をめくっている人。モニターを二枚並べて何か作っている人。
想像していた「芸能」の匂いはどこにもなかった。そこはどう見ても、ただの会社だった。
「日曜も仕事なんですね」
「うちは日曜のほうが動く。現場が日曜にあるからな」
何人かが顔を上げた。
こっちを見て、「ああ、犬飼さんの」という顔をして、また画面に戻った。
音は、遠のかなかった。
輪郭も、はっきりしなかった。背筋も伸びなかった。
――今のは、点かないのか。
七人が顔を上げた。第3話の教室は二十人だった。人数の問題なのか。それとも、この人たちが顔を上げたのは音がしたからで、俺を見たわけではないからか。
わからん。
わからないので、俺は考えるのをやめた。かわりに、犬飼さんの机を見た。窓際から二番目だった。
机の右奥に、さっきと同じ胃薬の箱が置いてあった。
同じ箱が、この人の周りには二か所ある。
「犬飼さーん」
島の一つから、女の人が顔を出した。二十代くらいで、髪を後ろで留めていて、手にファイルを三冊抱えている。
「その子ですか。例の」
「まだ何も決まってない」
「わ、背が高い」
「有本、仕事に戻れ」
「戻ります」
女の人は戻った。戻りながら、まだこっちを見ていた。
妹が横で「今の人、感じいいね」と言った。
俺は何も思わなかった。人の感じの良し悪しは、俺には三か月くらいかからないとわからない。
◇
四階には会議室が二つあった。
大きいほうは二十人くらい入る部屋で、小さいほうは六人用らしい。犬飼さんは大きいほうのドアを開けて、中を見せて、すぐ閉めた。
「こっちは、まあ、会議室だ」
「小さいほうは」
「……こっちも会議室だ」
言い方が、違った。
俺は聞かなかった。聞くと長くなる予感がした。
廊下の壁にはポスターが並んでいた。
端から順に見ていくと、色の褪せ方が違う。奥に行くほど古い。手前の一枚だけが、明らかに新しかった。
白い衣装の女の人が、まっすぐこっちを見ている。
〈神楽坂 澪〉
「知ってる?」
妹が横で言った。
「顔は知ってる」
「顔は知ってる?」
「テレビで見た」
「兄ちゃん。この人、うちの学年の女子の三割が髪型真似してるからね」
「そうなのか」
「そうなの」
俺はポスターをもう一度見た。
髪型のことは、俺にはよくわからなかった。
◇
屋上にも上がった。
フェンスと、灰皿が一つと、ベンチが二脚あるだけの場所だった。フェンスの向こうにビルが並んでいて、その奥の低いところに、渋谷らしい賑やかさが見えた。
「ここは何をする場所ですか」
「息をする場所だ」
犬飼さんはベンチに座らなかった。フェンスに手をかけて、遠くを見ていた。
「うちの連中はな、行き詰まるとここに来る。全員来る。日曜の夕方が一番混む」
「混むんですか」
「混む」
俺はベンチを見た。
二脚しかない。
「高町くん」
「はい」
「見学だけで帰った子は、これまで何人もいる」
犬飼さんはフェンスから手を離した。
「一人も追いかけてない。それでいい。合わない場所に人を置くのが、この仕事で一番よくない」
「はい」
「だから、今日は本当に見るだけでいい」
俺は頷いた。
頷きながら、俺はさっきの自販機のことを考えていた。あの微糖は妹のトートバッグの中にある。あれをいつ返してもらえるのか。帰りまでか。帰りの電車でか。
人生の岐路で、俺が考えていたのはそれだった。
◇
二階に降りると、空気が変わった。
廊下が急に狭くなって、床が固くなって、どこかから低い音が聞こえていた。音楽だ。壁の向こうで鳴っている。
「レッスン室が二つある。Aが広いほう、Bが防音のボイトレ用だ」
犬飼さんがAのドアを開けた。
二十畳くらいあった。三面が鏡で、壁にバーがついている。床には古いテープの剥がし跡が何本も残っていた。誰かが前に、ここで立ち位置を決めた跡だ。
中には、誰もいなかった。
俺は一歩入った。
入口から三枚目の床板が鳴った。
ぎ、という短い音だった。俺は足を止めて、もう一度そこを踏んだ。同じ音が鳴った。
「そこ、鳴るんだ」
犬飼さんが後ろで言った。
「十年前から鳴ってる。直す予算がつかない」
「直さないんですか」
「もう誰も気にしてない」
俺はその板をもう一度踏んで、部屋を出た。
◇
廊下に出たところで、ぶつかった。
正確に書くと、俺が出て、向こうが来て、ちょうど同じ場所に二人が入った。
肩と肩が当たった。
紙の束が、廊下にぶちまけられた。
白い紙が、床いっぱいに広がった。表を上にしたものと裏を上にしたものが混ざって、滑りながら壁のほうへ流れていく。
「邪魔」
声が、低かった。
俺は膝をついて、一番近い紙に手を伸ばした。
◇
拾いながら、俺は枚数を数えていた。
これは癖である。散らばったものを見ると、俺は必ず数える。小学生のとき給食の牛乳を倒したときも、割れた植木鉢の破片を集めたときもそうだった。数えたところで何の役にも立たない。
二十六枚あった。
紙には細かい表が印刷されていた。時間が縦に並んでいて、横に場所と名前がある。何かの予定表らしい。
上のほうに赤い字で書き込みがあった。
その字が、驚くほど下手だった。
俺の隣で、相手も拾っていた。
その手が、視界に入った。
◇
指が短くて、関節が太かった。
爪は、深爪に見えるくらい短く切ってある。手の甲は白いのに、指の付け根のところだけが硬くなって、色が変わっていた。マメだ。潰れて、また硬くなって、その上にまた新しいのができている。
中指の付け根に、絆創膏が貼ってあった。
俺は自分の手を見た。
紙を拾っている俺の手には、何もなかった。柔らかくて、傷のない手だった。
――この人の手のほうが、仕事をしている。
思ったのは、それだけだった。
◇
最後の一枚を拾って、顔を上げた。
その人が、立っていた。
小柄だった。ポスターより、ずっと小さかった。灰色のスウェットで、髪は後ろで一つに束ねてあって、化粧はしていない。
首から肩にかけての線だけが、周りの誰とも違っていた。
まっすぐ立っているだけなのに、まっすぐの種類が違う。
何も言わなかった。
俺は紙の束を差し出した。
彼女は受け取って、枚数も確かめずに脇に抱えた。
それから、一秒だけ、俺の顔を見た。
◇
一秒だった。
値踏みでもなかった。面白がる目でもなかった。
その人は俺の顔を見て、何も思わなかった。
そういう目だった。
この六日間で浴びた視線のうち、これだけが唯一、何も起こさなかった。
「新人?」
「まだです」
犬飼さんが横から答えた。
「そう」
それだけ言って、彼女は行った。
早足だった。角を曲がる直前、抱えた紙の束を持ち直すのが見えた。持ち直し方まで速かった。
◇
妹が、俺の袖を掴んでいた。
掴んだまま、一言も喋らない。
「ひなた」
「……」
「おい」
「……本物」
「本物だな」
「本物」
うちの妹が語彙を失うのを、俺は初めて見た。
「すまん」
犬飼さんが言った。
「あれが神楽坂澪だ。うちの看板で、今日はオフだ」
「オフ」
「休みだ」
「休みなのに、なんでいるんですか」
犬飼さんは、少し黙った。
「……いつもいる」
妹が、ようやく袖を離した。
「兄ちゃん、今の人、一言も謝らなかったよ」
「そうだな」
「『邪魔』だけだったよ。それで終わりだよ」
「そうだな」
「兄ちゃんも謝ってないけどね」
「ぶつかったのは俺だ」
「兄ちゃんじゃないよ。あの人が曲がってきたんだよ」
俺は廊下の角を見た。
もう誰もいなかった。
どっちが曲がってきたのかは、正直、わからなかった。俺はレッスン室の床板を踏むのに忙しかったからだ。
◇
俺は廊下の隅に落ちていた最後の一枚を拾って、犬飼さんに渡した。
拾い忘れが一枚あった。二十六枚のうちの、二十七枚目である。
数えた意味が、完全になかった。
「これ、なんて書いてあるんですか」
「スケジュールだ。あの子の、今月の」
俺は表をもう一度見た。
縦の列が、朝の六時から始まっていた。
そこから下に、隙間なく字が埋まっている。空白の欄が、一つもない。
俺は「休」という字を探した。
一つだけあった。
その「休」の欄に、赤い字で何か書き足してあった。
例の、下手な字だ。
「この赤いの、なんですか」
「本人の書き込みだ」
「なんて書いてあるんですか」
「レッスン室A、と書いてある」
俺は紙を犬飼さんに返した。
休みの日の予定に、練習場所を書き足す人間がいる。
俺は昨日の午後、二時間半ソファで寝ていた。
◇
鞄の中で、ミューナが小さく言った。
「……あの子、素質はないわね」
(わかるのか)
「わかるわけないでしょ」
(今、わかるみたいに言った)
「言ってないわ」
言った。
少し間があって、ミューナが続けた。
「でも、あの手はね」
(うん)
「四十年前にも、同じ手をした子がいたわ」
(その子、どうなったんだ)
「わたしより売れた」
それきり、ミューナは黙った。
◇
一階に戻ったところで、犬飼さんのスマホが鳴った。
彼は画面を見て、それから、俺のほうを見た。
目つきが変わった。
校門で初めて会ったときと、同じ変わり方だった。
「高町くん」
「はい」
「すまん。予定が一つ増えた」
「はい」
「五階だ」
犬飼さんは、内ポケットからまた薬を出した。
今度は粒ではなかった。細長い紙の袋を破って、粉を口に流し込んでいた。
「社長が、会いたいと言っている」
◇
妹が、俺の腕を掴んだ。
「兄ちゃん」
「なに」
「社長って、何する人?」
「知らん」
「知らんって」
「会社の一番上の人だろ」
「それはわかってるよ」
妹の手に力が入った。
この一週間、こいつは俺より落ち着いていた。事務所を調べて、模造紙に書いて、アポまで取って、今日もずっと三歩前を歩いていた。
その妹の手が、今、俺の袖を握っている。
俺の顔は、動かなかった。
◇
五階の廊下に出たところで、犬飼さんが足を止めた。
一番奥のドアの前だった。ドアには、何も書いていなかった。
「言っておくが」
犬飼さんが、声を落とした。
「うちの社長は、判断が速い」
「速いと、どうなるんですか」
彼は少しだけ間を置いた。
言葉を選ぶときの、あの間だった。
「……たまに、その日のうちに人生が変わる」




