第6話 家族会議
金曜日の朝、俺はまだ決めていなかった。
日曜の十四時に事務所へ行く。それは妹が勝手に決めた。だが、行ったところで俺が「やります」と言う保証はどこにもない。見学だけして帰る。犬飼さんもそう言っていた。嫌なら二度と連絡しない、と。
つまり、まだ何も始まっていない。
始まっていないのに、俺の家では既に色々と始まっていた。
「灯真、これ」
朝、母さんがテーブルに紙を一枚置いた。
A4の紙に、妹の模造紙が縮小コピーされていた。
「なんで」
「昨日、コンビニで刷ってきたの」
「なんで」
「みんなで見られるようにと思って」
みんな。
この家の「みんな」は四人しかいない。
俺は紙を手に取って、しばらく見た。
母さんは、それを黙って見ていた。テーブルの向こうで、両手を前で組んでいる。息子が自分の進路について真剣に検討していると思ったのだろう。
俺が見ていたのは、棒グラフの一番下が切れていることだった。妹が定規で引いた横線が、コピー機の縁のあたりで消えている。おかげで凡例の三つ目が読めない。「主演」なのか「主催」なのかで、この資料の意味はだいぶ変わる。
「どう?」
「切れてる」
「え?」
「下が」
「あら、ほんと」
母さんは紙を取り上げて、窓の光にかざした。かざしても直らない。
「もう一回刷ってくるわね」
「いい」
「よくないわよ。ひなたが怒るもの」
この家では、妹の機嫌が天気予報より優先される。
◇
鞄の中でミューナが言った。
「あんた、まだ迷ってるの?」
(迷ってはいない)
「じゃあ何なの」
(決めてないだけだ)
「同じでしょ」
同じではない。
迷うというのは、二つの選択肢を天秤にかけている状態のことだ。俺は天秤に何も乗せていない。行くか行かないかを比べるには、まず「行ったらどうなるか」を想像しないといけないのだが、俺には想像するための材料が一つもなかった。
芸能事務所というものが、何をする場所なのかを知らない。
テレビに出ている人が所属している場所。それ以上のことは何も知らない。学校の職員室くらいの解像度しかない。
「四十年前はね」
ミューナが言い出した。
「事務所っていうのは、お茶を出すところだったのよ」
(お茶)
「若い子が朝から晩までお茶を淹れてるの。それで三年たったら、やっと現場に出してもらえる」
(今もそうなのかな)
「そうでしょ」
たぶん違う。
だが、違うと言い切るための材料も俺は持っていない。
自転車を漕ぎながら、俺は自分がお茶を淹れているところを想像してみた。急須がある。茶葉がある。湯を注ぐ。それだけだ。それだけのことを三年続けたら、俺は二十歳になっている。
(お茶、うまく淹れられなかったらどうなるんだ)
「怒られるわよ」
(そのあとは)
「もう一回淹れさせられるわ」
(そのあとは)
「うまくなるわ」
乱暴だが、筋は通っていた。
◇
学校に着くと、熊沢が真っ先に寄ってきた。
「高町!」
「なに」
「昨日、校門にスーツの人いたよな」
「いた」
「スカウトだろ」
この学校の情報伝達速度も相当なものだった。
「行くのか」
「わからない」
「行けよ」
「なんで」
熊沢は、当たり前みたいな顔をした。
「面白そうじゃん」
それだけだった。
この男の判断基準は常に「面白そうかどうか」で、それ以外の要素が一切入らない。将来とか、リスクとか、向き不向きとか、そういうものが頭に浮かばないらしい。
正直、少しうらやましかった。
「なあ高町」
「なに」
「行ったら、俺のこと言っといてくれよ」
「なんて」
「クラスに面白いやつがいるって」
俺は熊沢を見た。
熊沢は真顔だった。この男は、自分が芸能事務所に紹介されうる人間だと本気で思っている。根拠は一つもない。根拠がないまま自信だけが満タンな人間を、俺は初めて間近で見た。
「言っとく」
「まじで?」
「言うだけなら減らない」
「高町、お前いいやつだな」
熊沢が肩を叩いてきた。強い。骨に来た。
俺は無言で叩き返した。
周りにいた何人かが「うわ、高町が笑わずにやり返した」と言って盛り上がっていたが、俺のほうはそのとき、熊沢の口の端に食パンの耳らしきものがついているのを見ていた。朝から四時間ついている計算になる。
教えなかった。
教えると、この男は必ず「なんで早く言わないんだよ」から始めて三分喋る。
◇
昼休み、美咲が俺の机の前に座った。俺の前の席の奴の椅子を勝手に借りて、後ろ向きに座る。小学生のときからこの座り方をする。
「日曜、行くの」
「行く」
「決めたの?」
「見学は行く。そのあとは決めてない」
「そう」
美咲は弁当箱を開けた。卵焼きが四つ入っていた。
「あのさ、高町くん」
「うん」
「私、反対はしないよ」
「うん」
「でも一個だけ言っておく」
彼女は卵焼きを一つ食べてから言った。
「あなた、断るのが下手だから」
俺は何も言えなかった。
事実だからだ。
「昔から、頼まれたら全部やるでしょ。四年生のとき、飼育係を三人ぶん一人でやってたよね」
「……やってた」
「なんで引き受けたの」
「他にやる人がいなかったから」
「それ、あなたがやる理由になってないんだよ」
なっていない。
だが、他にいないなら誰かがやるしかない。ウサギは腹が減る。
「向こうが本気で欲しがってきたら、あなた、たぶん断れない」
美咲は卵焼きの二つ目に箸を伸ばした。
「だから、行く前に決めておいたほうがいいと思う。行ったあとに決めようとしたら、もう決まってるから」
この幼馴染は、ときどき、俺より十年先を歩いている。
俺は黙っていた。
美咲は俺の顔を見て、少しだけ満足そうにした。図星をつかれて黙った、と思ったらしい。
図星ではある。ただ、そのとき俺の目が追っていたのは弁当箱のほうだった。卵焼きは、もう二つに減っていた。最初に四つ入っていた。四つは多い。三つでも多い。この女は毎朝、卵を何個割っているのか。
「なに見てんの」
「卵焼き」
「あげないよ」
「いらない」
「じゃあ見るな」
美咲は弁当箱の蓋を半分閉じた。
半分閉じたところで、手を止めた。
「……高町くん」
「うん」
「日曜、うまくいくといいね」
「うまくいくって、何が」
「わかんない。あなたが何をしに行くのかも、正直わかってないし」
美咲は蓋を最後まで閉めた。
「でも、たぶん、あなたはわかってないほうが強いんだと思う」
俺は返事をしなかった。
返事をしなかったのは、その言葉の意味を考えていたからではない。卵焼きが二つ残ったまま蓋が閉まったからだ。
◇
その日の夜、家族会議が開かれた。
開いたのは母さんである。
夕飯の食器が片付いたあと、テーブルの上に例のコピーが四枚並べられた。四枚とも同じ内容だ。父さんの前、俺の前、妹の前、そして母さんの前。
妹は自分のぶんを手に取って、しげしげと眺めた。
「あたしの資料じゃん」
「よくできてたから」
「印刷、ちょっとずれてる」
「そう?」
俺は自分のぶんを見た。
棒グラフの一番下が、朝と同じところで切れていた。
母さんは刷り直してくると言っていた。刷り直して、同じ場所が同じだけ切れている。つまり原因はコピー機ではなく、原稿の置き方だ。
俺は言わなかった。
言うと、この人はもう一回コンビニに行く。夜の九時にコピー機の前に立つ母親を作り出すのは、俺の本意ではない。
◇
「では、始めます」
母さんが言った。
この人はときどき町内会の役員をやるので、こういうときの口調が妙にしっかりしている。
「議題は、灯真の進路についてです」
「進路じゃないだろ」
「進路よ」
「まだ見学」
「見学も進路のうちです」
押し切られた。
「まず、ひなたから状況の説明を」
「はい」
妹が立ち上がった。立つ必要はない。
「株式会社ソレイユ。渋谷区神南。設立三十一年。所属タレント四十一名。大手ではないけど、うちのタレントは長く続く事務所として業界内で評価が高いです」
「よく調べたわねえ」
「三日かけた」
「三日」
俺は妹を見た。
三日といえば、動画が上がった翌日からずっとということになる。
こいつは、俺が「なんで勝手に上げた」と怒っている間、ずっとこれを調べていたのか。
「特に、社長の白鳥さんって人が『数を撮るな。一人を長く』って言ってて、これは新人を使い捨てにしないって意味なので、兄ちゃんには合ってると思います」
「なんで俺に合ってると思うんだ」
「兄ちゃん、雑に扱われると三日で辞めるでしょ」
辞める。
たぶん辞める。
妹はそこで、手元の紙を一枚めくる仕草をした。紙は一枚しかないので、めくるものがない。それでもめくった。
「続けます。所属四十一名のうち、去年テレビに出たのは十九名。半分弱です」
「少ないだろ、それ」
「少ないです」
「じゃあだめじゃないか」
「だめじゃない。少ないってことは、一人に時間をかけてるってこと」
妹は言い切った。
俺は妹の顔を見ていた。母さんも見ていた。父さんも見ていた。大人二人と兄に正面から見られながら、この中学三年生は一度も詰まらずに喋っている。
この家で人前に強いのは、俺ではなくこっちだ。
そして俺のほうは、四十一という数について考えていた。うちの学年は百八十人いる。一学年より少ない集団の中に入って、そこで何かをするらしい。何をするのかは、いまだに誰も説明してくれていない。
「質問は」
「ない」
「兄ちゃん、一個くらい聞いてよ。準備したんだから」
「じゃあ、なんで棒グラフなんだ」
「見やすいから」
「棒の色が四色ある理由は」
「かわいいから」
根拠が途中で消えた。
◇
「次に、お母さんから」
母さんが咳払いをした。
「お母さんは、賛成です」
「理由は」
「灯真がテレビに出たら、うれしいから」
理由が軽い。
あまりに軽いので、俺は思わず母さんの顔を見た。
この人は三十秒前まで流しで湯呑みを洗っていた。その手をエプロンで拭いて、椅子に腰を下ろした流れのまま「賛成です」と言った。判断に一切時間をかけていない。
そこから、俺の頭は勝手に別の方向へ行った。
母さんが「うれしい」と言っているのは、テレビに映っている俺のことだ。だが実際にこの家にいるのは、そのあと三時間だるくて動けなくなる俺である。同じ人間ではあるが、家事の戦力としては別人だ。誰が皿を洗うのか。ゴミはいつ出すのか。
この家の皿は、だいたい俺が洗っている。
「他には」
「ないわ」
「危ないとか、勉強がとか、そういうのは」
「あるわよ。心配よ」
「じゃあ言えよ」
「言ったら反対になっちゃうでしょ」
なるほど。
この人は、心配と反対を別々の引き出しに入れている。片方を開けるときに、もう片方を絶対に開けない。それができるから、この家は今日まで一度も揉めていないのかもしれない。
「以上です」
「以上か」
「以上よ」
母さんは満足そうに座り直した。
この人の判断は、だいたいこの深さで下される。そして、だいたい間違っていない。それが一番よくわからないところだ。
「じゃあ、次はお父さん」
俺は父さんを見た。
父さんは、テーブルの上のコピーをずっと見ていた。老眼鏡をかけて、棒グラフのところを指でなぞっている。
うちの父さんは、しゃべらない。
朝は「おう」で、帰宅は「ただいま」ではなく「ああ」で、食事の感想は「うまい」か無言だ。俺が中学の卒業式で答辞を読んだときも、帰りの車の中で「おう」しか言わなかった。
俺の顔が動かないのは、たぶん半分くらいこの人のせいだと思っている。
その父さんが、まだ喋らない。
母さんが湯呑みに手を伸ばして、伸ばしたまま止めた。妹がマジックのキャップを開けて、意味もなく閉めた。二人とも、明らかに待っている。
俺は壁の時計を見た。
秒針が十二から一へ動いた。二へ動いた。三へ動いた。
テーブルの三人は、たぶん、父さんが何か重いことを言おうとしていると思っている。俺もそう思っていた。思いながら、俺がやっていたのは秒針を数えることだった。することがない場面では、俺は必ず何かを数える。
二十秒。
父さんの指が止まった。棒グラフの、一番高い棒のところだった。
二十六秒。
父さんは、老眼鏡を外した。
それから、言った。
「灯真は」
全員が父さんを見た。
「昔から、見られてるときだけ、ちゃんとするからな」
◇
俺は、動けなかった。
テーブルの上の湯呑みも、母さんの手も、妹の指先も、全部止まって見えた。
――今、何て言った。
聞き返そうとして、やめた。
やめたのは驚いていたからではなく、聞き返してもこの人は同じことをもう一度言うだけだと知っていたからだ。父さんは言い直しをしない。一回言って、それで終わる。
一昨日の夜、俺は自分の部屋で二十回失敗した。同じ夜に、十五センチの人形から仕組みを説明された。昨日は校門で、会ったばかりの大人に外側から言い当てられた。
その全部を、この人は二十年かけて、たぶん一度も考えないまま見ていた。
「そうよねえ」
母さんが、あっさり頷いた。
「学芸会のときもそうだった。家で練習してるの見たことないのに、本番だけ上手なのよね」
「合唱コンクールも」
妹が言った。
「兄ちゃん、指揮の練習してるとこ一回も見てないもん」
三人が、うんうんと頷き合っている。
この家では、それは昔から知られている事実らしかった。
誰も不思議に思っていない。「灯真はそういう子」で処理されている。だから今日まで、誰も俺に言わなかった。
俺だけが、一昨日の夜まで知らなかった。
父さんは、湯呑みを持ち上げてお茶を一口飲んだ。
それから、こう続けた。
「見てる人がいるとこに、行けばいいんじゃないか」
◇
鞄の中で――正確には、俺が椅子の脇に置いた鞄の中で――ミューナが小さく言った。
「……あの人、当てたわね」
当てた。
犬飼さんに続いて、二人目だ。
しかもこの人は、何も考えずに言っている。深い意味なんて一つもない。「灯真は見られてるときだけちゃんとする」という、二十年近く見てきた事実を、そのまま口に出しただけだ。
それが、いちばん怖かった。
「以上だ」
父さんはそう言って、また黙った。
この人の一日の語彙の、たぶん三日ぶんを使い切った。
◇
「じゃあ、最後に灯真」
母さんが言った。
全員が、こっちを見た。
三人だ。母さんと、父さんと、妹。
三人に見られている。
音は遠のかなかった。輪郭もはっきりしなかった。背筋も伸びなかった。
――こういうときは、点かないのか。
俺はそんなことを考えていた。家族は、たぶん、俺を「本気で見て」いない。ずっと見ているから、わざわざ見ていない。
それは、少しだけありがたいことのような気がした。
もし今ここで点いていたら、どうなっていたか。
俺は家族三人の前で、腹の底から出る立派な声で「日曜、行ってまいります」と宣言していたはずだ。母さんは泣く。妹は録画する。録画したものは、翌日には知らない人間が四十万人見ている。
想像して、腕に鳥肌が立った。
顔には出なかった。
「灯真?」
「……ああ」
俺は口を開いた。
言うべきことは、朝から考えていた。断る理由が一つもないこと。行ったところで何も起きないかもしれないこと。学校は続けたいこと。
だが、実際に出てきたのは、こうだった。
「日曜、行ってくる」
「行くのね」
「行く」
「やるって決めたの?」
「決めてない」
俺は湯呑みを見ながら言った。
「決めてないけど、見に行く」
母さんは「そう」と言って、それ以上聞かなかった。
妹は「はい、閉会」と言って、コピーを四枚とも回収した。自分の資料に愛着があるらしい。
父さんは、既にテレビのほうを向いていた。
◇
その夜、部屋に戻ってから、俺はミューナに聞いた。
「なあ」
「なによ」
「家族って、燃料にならないのか」
ミューナは、台座の上でこっちを見上げた。
「ならないわね」
「なんで」
「見慣れてるからよ」
彼女は少しだけ間を置いた。
「あんたの親は、あんたがどんな顔をしてても驚かないの。二十年見てるんだから当然でしょ。驚かない視線は、燃料にならないわ」
驚かない視線。
俺はそれを、悪くない言い方だと思った。
「じゃあ、逆に言うと」
「なによ」
「知らない人ばっかりの場所に行くと、めちゃくちゃ点くってことか」
ミューナは、少し黙った。
それから、腰に手を当てて、いつもの偉そうな姿勢に戻った。
「……日曜、気をつけなさい」
「なんで」
「事務所っていうのはね」
彼女は言った。
「人を見るのが仕事の人間しかいない場所よ」




