↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/192

第5話 名刺の受け取り方がわからない

「高町灯真くん、だね」


 男は、そう言いながら鞄の内ポケットに手を入れた。


 俺は自転車の鍵を持ったまま立っていた。


 名前を知られている。当たり前だ。四十万回再生されて、朝の番組にまで出たのだから。だが、実際に知らない大人から呼ばれると、話は別だった。


 背中を、変な汗が伝った。


「少しだけ、時間をもらえないかな」


 男が、名刺を差し出した。


   ◇


 両手で受け取るべきなのは知っている。


 知っているのだが、俺は今、右手に自転車の鍵を持っている。左手には鞄。


 持ち替えるべきか。だが持ち替えている間、この人は名刺を差し出したまま待つことになる。それは失礼じゃないか。


 じゃあ片手か。片手は失礼だと、たしかどこかで聞いた。


 じゃあ鞄を置くか。地面に置いていいのか。制服の鞄を地面に置くのは、それはそれで、なんというか、雑では?


 三秒くらい、俺は完全に停止していた。


 その三秒のあいだに何が起きていたかというと、それだけである。名刺の受け取り方で脳が焼き切れていた。


 やがて俺は、鞄を静かに地面に置き、鍵をポケットに入れ、両手で名刺を受け取った。


 男が、少しだけ目を細めた。


「……落ち着いてるね」


 落ち着いてない。


 この人の目には、たぶん、鞄を置いて姿勢を正して両手を出した高校生が映っている。


 実際の俺の頭の中は、地面に置いた鞄の底のことでいっぱいだった。ここはアスファルトで、今日は晴れていて、たぶん汚れてはいない。たぶん、というのが問題である。帰って母さんに何か言われたら、それはこの名刺の責任ということにしよう。


   ◇


 名刺には、こう書いてあった。


 〈株式会社ソレイユ チーフマネージャー 犬飼剛〉


 その下に、住所。渋谷区神南。


「犬飼です。芸能事務所の人間だ」


 俺は名刺を見ていた。


 指が、震えていた。


 震えていたので、名刺の端がかすかに揺れているのが見えた。これがバレたら終わりだと思って、両手で持ち直した。


 傍から見れば、名刺を丁寧に両手で持ち直す高校生である。


「その動画、見た。うちの何人かも見た」


 犬飼さんは、まっすぐ俺を見て言った。


「うちで、やってみないか」


   ◇


 断る理由を、俺は必死に探していた。


 部活はやっていない。バイトもしていない。将来の夢もない。断るためのカードが一枚もない。


 口から出たのは、こうだった。


「……なんで、俺なんですか」


 自分でも間抜けな質問だと思った。


 犬飼さんはすぐには答えなかった。校門の脇に寄って、通り過ぎる生徒に会釈をして、それから言った。


「正直に言うと、あの動画だけなら声はかけてない」

「え」

「動画は、顔のいい子なら誰でもバズる。四十万なんて、うちの新人でも出す」


 バッサリだった。


 傷つくというより、感心した。この人は、俺を持ち上げるために来たわけではないらしい。


「だが、あれは撮られた側が何もしていない」


 犬飼さんは、自分の顔を指で示した。


「普通の人間はね、カメラを向けられると必ず何かする。目を逸らすか、笑うか、怒るか、構えるか。無意識でも必ずやる。俺はこれを十五年見てるが、例外を三人しか見たことがない」


 俺は黙って聞いていた。


 黙って人の話を聞いている高校生は、たぶん、言われたことの重さを受け止めているように見える。


 俺が受け止めていたのは、三人という数のほうだった。十五年で三人。一年あたり〇・二人。俺はそのうちの一人らしい。割り算にした瞬間に、ありがたみがかなり減った。


「君は、何もしなかった。それどころか――」


 彼は、少し言葉を選ぶように間を置いた。


「見られた瞬間に、良くなった」


   ◇


 背中が冷たくなった。


 この人は知らないはずだ。


 素質のことも、机の右奥の人形のことも、俺自身が一昨日まで知らなかったことも、知っているわけがない。


 なのに、外側から見ただけで、そこまで届いている。


 鞄の中で、ミューナが小さく言った。


「――言ったでしょ。当てるって」


 俺は返事ができなかった。返事をしたら、この人には独り言に見える。


「顔色ひとつ変わらないな」


 犬飼さんが、小さく笑った。


「変わらないんです。生まれつき」

「……ああ、そういうことか」


 彼は納得したように頷いて、それから、なぜか少しだけ嬉しそうな顔をした。


「なるほどな」


 そして、言った。


「それは、武器になる」


   ◇


 武器。


 俺の顔が。


 十七年間、誕生日のたびに遺影みたいに写ってきたこの顔が。


 小学四年のとき、この顔のせいで職員室に呼ばれたことがある。俺は廊下に立っていただけだった。立っていただけなのに、通りかかった先生が「何かあったのか」と聞いてきて、何もないと答えたら、なぜかそのあと二十分話を聞かれた。最後には麦茶が出てきた。


 あれが、武器。


 世の中の基準は、たぶんどこかで壊れている。


 俺は名刺をもう一度見た。渋谷区神南。行ったことはない。渋谷なら年に一回くらい行くが、神南がどのへんかは知らない。


「あの」

「うん」

「俺、演技とか、やったことないです」

「知ってる」

「歌も、うまくないです」

「知ってる」

「体育も、真ん中くらいです」


 犬飼さんは真顔で頷いた。


「昨日、持久走で二番だったと聞いたが」

「なんで知ってるんですか」

「校門で二日、立ってたからね。生徒が喋ってることは全部聞こえる」


 二日。


 昨日と、今日。


 昨日というのは、俺が教室で二十人の前で机を叩いた日だ。


「昨日も来てたんですか」

「来てた。声はかけなかったが」

「なんでですか」

「テレビの翌日だ。混乱してるだろうと思って」


 この人は、そういう人らしい。


   ◇


「一応、先に言っておくことがある」


 犬飼さんは、鞄から一枚の紙を出した。折り目のついたA4だった。


「君は未成年だ。うちに入るなら、契約書に親御さんの署名と印鑑がいる」

「はい」

「学校は続ける。うちは学業優先を条件に入れる」

「はい」

「それから、これは法律の話だが」


 彼は紙の一箇所を指した。


「十八歳未満は、夜十時から朝五時まで働けない。撮影も、レッスンも、全部そうだ」

「……はい」

「つまり君は、現場が押していようが何だろうが、十時になったら帰される」


 俺は少し考えた。


 考えて、正直に言った。


「それ、いいですね」


 犬飼さんの動きが止まった。


「……いいのか」

「早く帰れるので」


 彼は俺の顔をしばらく見て、それから声を出して笑った。校門で頭を下げていたときの、あの丁寧な人がいきなり笑ったので、俺のほうが驚いた。


「そうか。いいか」

「はい」

「そういう子は珍しい。だいたい『帰りたくない』と言う」


 俺には理解できない感覚だった。


 夜の十時。その時間、俺は普段なにをしているか。だいたい風呂から上がっている。上がって、麦茶を飲んで、明日の時間割を鞄に入れて、それで終わりだ。世の中には、その時間になってもまだ働いていたい人間がいるらしい。


 家には夕飯がある。


   ◇


「一度だけでいい」


 犬飼さんは言った。


「事務所に来てほしい。オーディションでも契約でもない。見学だ。それで嫌だと思ったら、二度と連絡しない。約束する」


 俺は名刺を握ったまま、少し考えた。


 正直に書くと、このとき俺の頭の中にあったのは三つだけだった。


 一つ。この人、悪い人ではなさそうだ。


 二つ。事務所って、そもそも何をするところなんだ。


 三つ。これ、帰りが遅くなると夕飯が冷める。


 三つ目が、一番強かった。


「……考えます」


 俺はそう言った。


 犬飼さんは深く頷いた。


「それでいい。返事はいつでもいい」


 彼はもう一度頭を下げて、駅のほうへ歩いていった。


 背中がまっすぐな人だった。


   ◇


 俺は自転車のところまで戻って、名刺を鞄の内ポケットに入れた。


 入れてから、しばらく動かなかった。


 手のひらが、まだ濡れていた。


「あんた」


 鞄の中からミューナが言った。


「あの男、目がいいわね」

「そうか」

「四十年前にもいたのよ、ああいうの」

「へえ」

「ああいうのに拾われた子は、だいたい伸びるわ」


 少し間があった。


「あと、だいたい胃を壊すわ」


 拾われる側の話をしてほしい。


「で、どこの事務所ですって?」

(ソレイユ)

「知らないわね」

(四十年前にはなかったんじゃないか)

「失礼ね。わたしの頃にもいい事務所はいっぱいあったのよ。松ノ木プロとか、東亜芸能社とか」


 聞いたことがない。


(今もあるのかな、それ)

「あるでしょ」

(調べようか)

「やめて」


 やめた。


 俺は自転車を押しながら歩き出した。校門を出て、緩い下り坂に入る。


「あんた、行くの?」

(わからない)

「行きなさいよ」

(なんで)


 鞄の中で、少し間があった。


「……別に。あんたの人生だし」

(今、行けって言ったよな)

「言ってないわ」


 言った。


 この人形は、たまに自分の言葉を三秒で撤回する。


   ◇


 帰り道、俺はいつもより遅く自転車を漕いだ。


 五月の夕方の風が、Tシャツの襟から入ってきた。桜坂の商店街を抜けて、坂を上って、家の前まで来る。


 途中、頭の中で三回くらい断る練習をした。


 「すみません、興味がないので」——嘘だ。興味はないが、興味がないと言い切れるほど何も考えていないわけでもない。


 「学業に専念したいので」——嘘だ。専念していない。


 「親が反対するので」——これはいける。これでいこう。


 坂の途中で、スマホが鳴った。


 美咲だった。


『高町くん、今どこ』

「坂」

『坂って言われてもわかんないよ』

「桜坂の坂」

『……まあいいや。今日、校門に大人いたでしょ』


 俺は自転車を止めた。


「なんで知ってるの」

『昨日から立ってたもん。私、二回見てる』


 この幼馴染も、俺より先に気づいていたらしい。


 この街で俺だけが何も知らない。


『声かけられた?』

「かけられた」

『名刺もらった?』

「もらった」

『どこの』

「芸能事務所」


 電話の向こうで、短い沈黙があった。


『……行くの?』

「わからない」

『そう』


 美咲は、それ以上聞かなかった。


 代わりに、こう言った。


『高町くん、ひとつだけ確認していい?』

「うん」

『あなた、その人の前で、ちゃんと"何もできない自分"を見せた?』

「見せてない」

『見せてないよね』


 俺は、名刺の入った鞄を見た。


『向こうは、教室のあなたしか知らないんだよ』


 それは、そのとおりだった。


 犬飼さんは、四十万回再生の動画と、持久走で二番になった話と、机を叩いたという噂しか知らない。


 部屋で二十回失敗した男のことは、知らない。


『……ごめん、嫌なこと言った』

「言ってない」

『言ったよ』

「事実は嫌なことじゃない」


 電話の向こうで、美咲がふっと息を吐いた。


『そういうとこだよ』


 どういうとこだ。


   ◇


 用意した三パターンが、坂を上りきる頃には全部どうでもよくなっていた。


 俺は玄関を開けた。


   ◇


 リビングの床に、模造紙が広げてあった。


 妹が、その真ん中に正座している。


「兄ちゃん、おかえり。座って」

「なにこれ」

「資料」


 模造紙には、でかい字でこう書いてあった。


 〈株式会社ソレイユ 徹底調査〉


 設立年。所属タレント数。過去の主演作。最寄り駅からの徒歩分数。社長の名前。SNSでの言及数。ご丁寧に、去年の所属タレントの露出回数が棒グラフになっている。棒グラフの下に凡例まである。


 俺は模造紙を見た。それから妹を見た。それから、また模造紙を見た。


 三往復した。


 三往復するあいだ、妹はずっとこっちを見ていた。驚いた兄の顔を待っているのだと思う。だが俺の顔は動かないので、この妹が三日かけて集めた情報に対する俺の評価は、一ミリも伝わっていない。


 俺が実際に見ていたのは、棒グラフの色だった。四色使ってある。ということは、家のどこかに四色のマジックがあったということだ。うちに四色もマジックがあるのを、俺は十七年間知らなかった。


「……なんで知ってんの」

「犬飼さんって人、校門に昨日から立ってたよ」

「なんで知ってんの」

「あたし、昨日のうちに声かけて話した」

「なんで」

「兄ちゃんに先に言ったら、逃げるでしょ」


 逃げる。全力で逃げる。今まさに三パターン用意していた。


 台所から母さんが顔を出した。


 エプロンをつけたまま、両手を前で組んでいる。何かを我慢している顔だった。


「灯真」

「なに」

「ひなたから聞いたわよ」

「なにを」

「事務所の人が来たって」


 母さんは、そこで一度言葉を切った。


 切って、深呼吸をして、それから言った。


「お母さんはね、あなたがやりたいなら、応援します」


 立派なことを言っている。


「もう田島さんにも言っちゃったし」


 台無しだった。


「言ったのか」

「だって聞かれたんだもの」

「まだ何も決まってない」

「そうよね。だから『まだ何も決まってないんです』って言ったわ」


 それは何も言っていないのと同じではない。それは「決まりかけている」と言ったのと同じだ。


 町内会の情報伝達速度を、俺はこの三日でだいぶ理解した。


 田島さんは三軒隣で、犬を二匹飼っていて、朝と夕方に必ず通りに出ている。あの人に言うというのは、掲示板に貼るのと同じである。しかも掲示板は勝手に喋らない。


「お父さんは?」

「賛成だって」

「なんて言ってた?」

「『おう』って」


 三語のうちの一語だった。それで賛成らしい。長年連れ添うと翻訳できるようになるのだろうか。


「あのね、兄ちゃん」


 妹はマジックのキャップを閉めた。


「あたし、悪いと思ってるよ」

「思ってないだろ」

「思ってる。勝手に上げたのは、ごめん」


 妹は、はっきり言った。


 珍しく、目を逸らさなかった。


「でも、あれ上げたの、バズらせたかったからじゃないんだよ」

「じゃあ何だよ」

「もったいなかったから」


 妹は模造紙を指でとんとん叩いた。


「兄ちゃん、自分の顔がどう見えてるか、たぶん一生知らないまま終わるでしょ」

「……」

「あたしはそれ、もったいないと思っただけ」


 俺は、何も言わなかった。


 言わなかったというより、言葉が見つからなかった。


 妹は「はい、この話おしまい」と言って、模造紙の一番下を指した。


 そこには、赤い字でこう書いてあった。


 〈日曜 十四時 現地集合〉


「アポ、取っといたから」


 やっぱり悪いと思っていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。