第5話 名刺の受け取り方がわからない
「高町灯真くん、だね」
男は、そう言いながら鞄の内ポケットに手を入れた。
俺は自転車の鍵を持ったまま立っていた。
名前を知られている。当たり前だ。四十万回再生されて、朝の番組にまで出たのだから。だが、実際に知らない大人から呼ばれると、話は別だった。
背中を、変な汗が伝った。
「少しだけ、時間をもらえないかな」
男が、名刺を差し出した。
◇
両手で受け取るべきなのは知っている。
知っているのだが、俺は今、右手に自転車の鍵を持っている。左手には鞄。
持ち替えるべきか。だが持ち替えている間、この人は名刺を差し出したまま待つことになる。それは失礼じゃないか。
じゃあ片手か。片手は失礼だと、たしかどこかで聞いた。
じゃあ鞄を置くか。地面に置いていいのか。制服の鞄を地面に置くのは、それはそれで、なんというか、雑では?
三秒くらい、俺は完全に停止していた。
その三秒のあいだに何が起きていたかというと、それだけである。名刺の受け取り方で脳が焼き切れていた。
やがて俺は、鞄を静かに地面に置き、鍵をポケットに入れ、両手で名刺を受け取った。
男が、少しだけ目を細めた。
「……落ち着いてるね」
落ち着いてない。
この人の目には、たぶん、鞄を置いて姿勢を正して両手を出した高校生が映っている。
実際の俺の頭の中は、地面に置いた鞄の底のことでいっぱいだった。ここはアスファルトで、今日は晴れていて、たぶん汚れてはいない。たぶん、というのが問題である。帰って母さんに何か言われたら、それはこの名刺の責任ということにしよう。
◇
名刺には、こう書いてあった。
〈株式会社ソレイユ チーフマネージャー 犬飼剛〉
その下に、住所。渋谷区神南。
「犬飼です。芸能事務所の人間だ」
俺は名刺を見ていた。
指が、震えていた。
震えていたので、名刺の端がかすかに揺れているのが見えた。これがバレたら終わりだと思って、両手で持ち直した。
傍から見れば、名刺を丁寧に両手で持ち直す高校生である。
「その動画、見た。うちの何人かも見た」
犬飼さんは、まっすぐ俺を見て言った。
「うちで、やってみないか」
◇
断る理由を、俺は必死に探していた。
部活はやっていない。バイトもしていない。将来の夢もない。断るためのカードが一枚もない。
口から出たのは、こうだった。
「……なんで、俺なんですか」
自分でも間抜けな質問だと思った。
犬飼さんはすぐには答えなかった。校門の脇に寄って、通り過ぎる生徒に会釈をして、それから言った。
「正直に言うと、あの動画だけなら声はかけてない」
「え」
「動画は、顔のいい子なら誰でもバズる。四十万なんて、うちの新人でも出す」
バッサリだった。
傷つくというより、感心した。この人は、俺を持ち上げるために来たわけではないらしい。
「だが、あれは撮られた側が何もしていない」
犬飼さんは、自分の顔を指で示した。
「普通の人間はね、カメラを向けられると必ず何かする。目を逸らすか、笑うか、怒るか、構えるか。無意識でも必ずやる。俺はこれを十五年見てるが、例外を三人しか見たことがない」
俺は黙って聞いていた。
黙って人の話を聞いている高校生は、たぶん、言われたことの重さを受け止めているように見える。
俺が受け止めていたのは、三人という数のほうだった。十五年で三人。一年あたり〇・二人。俺はそのうちの一人らしい。割り算にした瞬間に、ありがたみがかなり減った。
「君は、何もしなかった。それどころか――」
彼は、少し言葉を選ぶように間を置いた。
「見られた瞬間に、良くなった」
◇
背中が冷たくなった。
この人は知らないはずだ。
素質のことも、机の右奥の人形のことも、俺自身が一昨日まで知らなかったことも、知っているわけがない。
なのに、外側から見ただけで、そこまで届いている。
鞄の中で、ミューナが小さく言った。
「――言ったでしょ。当てるって」
俺は返事ができなかった。返事をしたら、この人には独り言に見える。
「顔色ひとつ変わらないな」
犬飼さんが、小さく笑った。
「変わらないんです。生まれつき」
「……ああ、そういうことか」
彼は納得したように頷いて、それから、なぜか少しだけ嬉しそうな顔をした。
「なるほどな」
そして、言った。
「それは、武器になる」
◇
武器。
俺の顔が。
十七年間、誕生日のたびに遺影みたいに写ってきたこの顔が。
小学四年のとき、この顔のせいで職員室に呼ばれたことがある。俺は廊下に立っていただけだった。立っていただけなのに、通りかかった先生が「何かあったのか」と聞いてきて、何もないと答えたら、なぜかそのあと二十分話を聞かれた。最後には麦茶が出てきた。
あれが、武器。
世の中の基準は、たぶんどこかで壊れている。
俺は名刺をもう一度見た。渋谷区神南。行ったことはない。渋谷なら年に一回くらい行くが、神南がどのへんかは知らない。
「あの」
「うん」
「俺、演技とか、やったことないです」
「知ってる」
「歌も、うまくないです」
「知ってる」
「体育も、真ん中くらいです」
犬飼さんは真顔で頷いた。
「昨日、持久走で二番だったと聞いたが」
「なんで知ってるんですか」
「校門で二日、立ってたからね。生徒が喋ってることは全部聞こえる」
二日。
昨日と、今日。
昨日というのは、俺が教室で二十人の前で机を叩いた日だ。
「昨日も来てたんですか」
「来てた。声はかけなかったが」
「なんでですか」
「テレビの翌日だ。混乱してるだろうと思って」
この人は、そういう人らしい。
◇
「一応、先に言っておくことがある」
犬飼さんは、鞄から一枚の紙を出した。折り目のついたA4だった。
「君は未成年だ。うちに入るなら、契約書に親御さんの署名と印鑑がいる」
「はい」
「学校は続ける。うちは学業優先を条件に入れる」
「はい」
「それから、これは法律の話だが」
彼は紙の一箇所を指した。
「十八歳未満は、夜十時から朝五時まで働けない。撮影も、レッスンも、全部そうだ」
「……はい」
「つまり君は、現場が押していようが何だろうが、十時になったら帰される」
俺は少し考えた。
考えて、正直に言った。
「それ、いいですね」
犬飼さんの動きが止まった。
「……いいのか」
「早く帰れるので」
彼は俺の顔をしばらく見て、それから声を出して笑った。校門で頭を下げていたときの、あの丁寧な人がいきなり笑ったので、俺のほうが驚いた。
「そうか。いいか」
「はい」
「そういう子は珍しい。だいたい『帰りたくない』と言う」
俺には理解できない感覚だった。
夜の十時。その時間、俺は普段なにをしているか。だいたい風呂から上がっている。上がって、麦茶を飲んで、明日の時間割を鞄に入れて、それで終わりだ。世の中には、その時間になってもまだ働いていたい人間がいるらしい。
家には夕飯がある。
◇
「一度だけでいい」
犬飼さんは言った。
「事務所に来てほしい。オーディションでも契約でもない。見学だ。それで嫌だと思ったら、二度と連絡しない。約束する」
俺は名刺を握ったまま、少し考えた。
正直に書くと、このとき俺の頭の中にあったのは三つだけだった。
一つ。この人、悪い人ではなさそうだ。
二つ。事務所って、そもそも何をするところなんだ。
三つ。これ、帰りが遅くなると夕飯が冷める。
三つ目が、一番強かった。
「……考えます」
俺はそう言った。
犬飼さんは深く頷いた。
「それでいい。返事はいつでもいい」
彼はもう一度頭を下げて、駅のほうへ歩いていった。
背中がまっすぐな人だった。
◇
俺は自転車のところまで戻って、名刺を鞄の内ポケットに入れた。
入れてから、しばらく動かなかった。
手のひらが、まだ濡れていた。
「あんた」
鞄の中からミューナが言った。
「あの男、目がいいわね」
「そうか」
「四十年前にもいたのよ、ああいうの」
「へえ」
「ああいうのに拾われた子は、だいたい伸びるわ」
少し間があった。
「あと、だいたい胃を壊すわ」
拾われる側の話をしてほしい。
「で、どこの事務所ですって?」
(ソレイユ)
「知らないわね」
(四十年前にはなかったんじゃないか)
「失礼ね。わたしの頃にもいい事務所はいっぱいあったのよ。松ノ木プロとか、東亜芸能社とか」
聞いたことがない。
(今もあるのかな、それ)
「あるでしょ」
(調べようか)
「やめて」
やめた。
俺は自転車を押しながら歩き出した。校門を出て、緩い下り坂に入る。
「あんた、行くの?」
(わからない)
「行きなさいよ」
(なんで)
鞄の中で、少し間があった。
「……別に。あんたの人生だし」
(今、行けって言ったよな)
「言ってないわ」
言った。
この人形は、たまに自分の言葉を三秒で撤回する。
◇
帰り道、俺はいつもより遅く自転車を漕いだ。
五月の夕方の風が、Tシャツの襟から入ってきた。桜坂の商店街を抜けて、坂を上って、家の前まで来る。
途中、頭の中で三回くらい断る練習をした。
「すみません、興味がないので」——嘘だ。興味はないが、興味がないと言い切れるほど何も考えていないわけでもない。
「学業に専念したいので」——嘘だ。専念していない。
「親が反対するので」——これはいける。これでいこう。
坂の途中で、スマホが鳴った。
美咲だった。
『高町くん、今どこ』
「坂」
『坂って言われてもわかんないよ』
「桜坂の坂」
『……まあいいや。今日、校門に大人いたでしょ』
俺は自転車を止めた。
「なんで知ってるの」
『昨日から立ってたもん。私、二回見てる』
この幼馴染も、俺より先に気づいていたらしい。
この街で俺だけが何も知らない。
『声かけられた?』
「かけられた」
『名刺もらった?』
「もらった」
『どこの』
「芸能事務所」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
『……行くの?』
「わからない」
『そう』
美咲は、それ以上聞かなかった。
代わりに、こう言った。
『高町くん、ひとつだけ確認していい?』
「うん」
『あなた、その人の前で、ちゃんと"何もできない自分"を見せた?』
「見せてない」
『見せてないよね』
俺は、名刺の入った鞄を見た。
『向こうは、教室のあなたしか知らないんだよ』
それは、そのとおりだった。
犬飼さんは、四十万回再生の動画と、持久走で二番になった話と、机を叩いたという噂しか知らない。
部屋で二十回失敗した男のことは、知らない。
『……ごめん、嫌なこと言った』
「言ってない」
『言ったよ』
「事実は嫌なことじゃない」
電話の向こうで、美咲がふっと息を吐いた。
『そういうとこだよ』
どういうとこだ。
◇
用意した三パターンが、坂を上りきる頃には全部どうでもよくなっていた。
俺は玄関を開けた。
◇
リビングの床に、模造紙が広げてあった。
妹が、その真ん中に正座している。
「兄ちゃん、おかえり。座って」
「なにこれ」
「資料」
模造紙には、でかい字でこう書いてあった。
〈株式会社ソレイユ 徹底調査〉
設立年。所属タレント数。過去の主演作。最寄り駅からの徒歩分数。社長の名前。SNSでの言及数。ご丁寧に、去年の所属タレントの露出回数が棒グラフになっている。棒グラフの下に凡例まである。
俺は模造紙を見た。それから妹を見た。それから、また模造紙を見た。
三往復した。
三往復するあいだ、妹はずっとこっちを見ていた。驚いた兄の顔を待っているのだと思う。だが俺の顔は動かないので、この妹が三日かけて集めた情報に対する俺の評価は、一ミリも伝わっていない。
俺が実際に見ていたのは、棒グラフの色だった。四色使ってある。ということは、家のどこかに四色のマジックがあったということだ。うちに四色もマジックがあるのを、俺は十七年間知らなかった。
「……なんで知ってんの」
「犬飼さんって人、校門に昨日から立ってたよ」
「なんで知ってんの」
「あたし、昨日のうちに声かけて話した」
「なんで」
「兄ちゃんに先に言ったら、逃げるでしょ」
逃げる。全力で逃げる。今まさに三パターン用意していた。
台所から母さんが顔を出した。
エプロンをつけたまま、両手を前で組んでいる。何かを我慢している顔だった。
「灯真」
「なに」
「ひなたから聞いたわよ」
「なにを」
「事務所の人が来たって」
母さんは、そこで一度言葉を切った。
切って、深呼吸をして、それから言った。
「お母さんはね、あなたがやりたいなら、応援します」
立派なことを言っている。
「もう田島さんにも言っちゃったし」
台無しだった。
「言ったのか」
「だって聞かれたんだもの」
「まだ何も決まってない」
「そうよね。だから『まだ何も決まってないんです』って言ったわ」
それは何も言っていないのと同じではない。それは「決まりかけている」と言ったのと同じだ。
町内会の情報伝達速度を、俺はこの三日でだいぶ理解した。
田島さんは三軒隣で、犬を二匹飼っていて、朝と夕方に必ず通りに出ている。あの人に言うというのは、掲示板に貼るのと同じである。しかも掲示板は勝手に喋らない。
「お父さんは?」
「賛成だって」
「なんて言ってた?」
「『おう』って」
三語のうちの一語だった。それで賛成らしい。長年連れ添うと翻訳できるようになるのだろうか。
「あのね、兄ちゃん」
妹はマジックのキャップを閉めた。
「あたし、悪いと思ってるよ」
「思ってないだろ」
「思ってる。勝手に上げたのは、ごめん」
妹は、はっきり言った。
珍しく、目を逸らさなかった。
「でも、あれ上げたの、バズらせたかったからじゃないんだよ」
「じゃあ何だよ」
「もったいなかったから」
妹は模造紙を指でとんとん叩いた。
「兄ちゃん、自分の顔がどう見えてるか、たぶん一生知らないまま終わるでしょ」
「……」
「あたしはそれ、もったいないと思っただけ」
俺は、何も言わなかった。
言わなかったというより、言葉が見つからなかった。
妹は「はい、この話おしまい」と言って、模造紙の一番下を指した。
そこには、赤い字でこう書いてあった。
〈日曜 十四時 現地集合〉
「アポ、取っといたから」
やっぱり悪いと思っていない。




