第4話 自称・大女優
俺は、フィギュアを見た。
フィギュアも、俺を見た。
十五センチの赤いドレスの女が、腰に手を当てたまま、明らかに首だけこっちに向けている。台座に足はくっついたままだ。物理的におかしい。
俺は無言で立ち上がった。
机まで三歩。フィギュアを持ち上げて、ひっくり返して、底を見た。
〈D賞/昭和の名女優コレクション〉
製造国が印刷されている。定価の表記はない。景品だからだろう。
俺は机に戻した。
そして、三歩下がった。
「ちょっと」
フィギュアが言った。
「乱暴に扱わないでよ。わたし、こう見えて塗装が繊細なの」
俺はもう一歩下がった。背中が壁に当たった。
「……」
「なによ」
「……」
「なんとか言いなさいよ」
言うことは山ほどある。
山ほどあるのだが、そのどれもが口から出てこなかった。頭の中では「え」と「は」と「なんで」が高速で衝突している。心臓が耳の裏で鳴っている。手のひらが冷たい。
俺の顔は、動かなかった。
「……落ち着いてるわね」
フィギュアが腕を組んだ。
腕が、動いた。
「もっと驚きなさいよ。せっかく出てきたのに」
「……驚いてる」
「顔に出てないわよ」
「よく言われる」
こいつ、話が通じる。
◇
「わたし、ミューナ」
フィギュアは台座の上で胸を張った。十五センチの女が胸を張っても、迫力は十五センチぶんしかない。
「みゅーな」
「芸名よ。本名じゃないわ」
「はあ」
「四十年前は、この名前を知らない人間は日本にいなかったの」
「はあ」
「『はあ』?」
「はあ」
ミューナは眉間に皺を寄せた。皺が寄った。表情筋が動いている。俺より動いている。
「あんた、ほんとに感情ないの?」
「あります」
「じゃあ出しなさいよ」
「出ないんです」
俺は部屋を見回した。
カーテンは閉まっている。窓の外は暗い。隣の部屋からは妹が動画を見ている音がする。階下ではテレビの音がしている。至って普通の水曜日の夜だった。
「……疲れてるのかな」
「疲れてないわよ。あんた、さっき一時間半も寝たでしょ」
「なんで知ってんの」
「わたしはずっとここにいたの。机の右奥。あんたが自分で置いた場所よ」
置いた。たしかに置いた。
人生でこれ以上どうでもいい決定をしたことはない、と思いながら置いた。
◇
「座りなさい」
ミューナが言った。
俺は座った。なぜ座ったのかは自分でもわからない。十五センチの人形に指示されて座る十七歳。冷静に考えると相当まずい。
「話が早いほうがいいから、結論から言うわね」
ミューナは腰に手を当て直した。
「あんた、素質持ちよ」
「……たれんと」
「そう」
「事務所に入ってる人のこと?」
「違うわよ! ……いえ、まあ、結果的にはそうなるんだけど」
ミューナは咳払いをした。人形が咳払いをした。
「世の中にはね、ごく稀に、他人の注目を燃料に変える人間がいるの」
◇
説明を要約すると、こうだった。
数万人に一人。何万人と会って、一人いるかどうか。
彼らは、見られている間だけ異常に上手くなる。身体の動かし方、声の出し方、間の取り方、一度見たものを再現する精度。全部が跳ね上がる。
燃料は注目だ。ただ視界に入っているだけでは足りない。本気で見られていることが条件になる。
「昨日の持久走。八周目に、二階の窓に人が並んだでしょ」
「なんでそれも知ってんの」
「あんたが帰ってきてから、リビングであの妹に喋ってたじゃない。『二番だった』って」
「聞いてたのか」
「聞こえるのよ」
ミューナは指を一本立てた。
「今日の昼、教室で二十人。あれも同じ。人が見た瞬間に点いた」
「点いた」
「そう。点くの。いい表現でしょ」
いい表現かどうかは知らないが、感覚には近かった。
スイッチが入る、という感じではない。もっと下から来る。足の裏から背骨に何かが上がってきて、頭のてっぺんで開く。あの感じだ。
「そんで、点いてない時のあんたは」
ミューナは言葉を切って、俺を見た。
「ただのカスよ」
「言い方」
「事実でしょ。さっきの二十回、全部聞いてたわ。ひどかったわね。特に十五回目」
「聞くな」
「十五回目、途中で『あ、小テスト』って言ったでしょ」
「聞くな」
俺は特に反論しなかった。
反論するための材料がない。二十回とも下手だったのは事実で、事実を言われて怒るのは筋が違う。
十五センチの人形に人格を全否定されて、眉一つ動かさない男。この部屋を外から覗いた人間がいたら、そう見えたはずだ。
実際に俺が考えていたのは、冷蔵庫のプリンのことだった。生姜焼きのあとに食べようとして忘れたやつだ。あれは朝まで置くと消える。この家の食べ物は、放置すると質量が保存されない。
◇
俺は椅子の背もたれに体を預けた。
思い当たることが、多すぎた。
多すぎて、逆に怖い。
小学三年の学芸会。俺はただの木の役だった。セリフは一言もなかった。左右に揺れるだけの役だった。それなのに、全校生徒と保護者の前で揺れたあと、担任の先生が泣きながら「木の演技で泣いたのは初めて」と言った。母さんは「あの子、家で練習してるの見たことないんですけど」と困惑していた。実際、家でやったら「棒じゃん」と言われて終わった。
中学二年の合唱コンクール。うちのクラスは練習が最悪だった。誰も声を出さなかった。本番の三日前に音楽の先生が「今年は諦めます」と言った。俺は指揮者だった。
優勝した。
持久走。毎年、最後の直線だけ速い。
全部だ。
全部、そういうことだったのか。
俺は椅子の上で足を組み替えた。
組み替えながら、木の役のことを思い出していた。あのとき俺が考えていたのは「早く終われ」だけである。体育館は暑かったし、衣装の茶色いタイツは膝の裏が痒かった。泣いた先生には悪いが、俺の中にあったのは痒みだけだった。
合唱コンクールもそうだ。俺は指揮の振り方を知らなかった。知らないまま前に立って、腕を上下させたら、後ろでクラス全員が勝手に歌った。俺は途中で腕が疲れて、二番の頭で肘を下げた。あれを音楽の先生は「タメ」と呼んで、翌年から後輩に見本として見せていたらしい。
見本ではない。疲れただけだ。
◇
「あと、あんたの顔ね」
ミューナが言った。
「それは素質と関係ないわ」
「関係ない?」
「ええ。あんた、単純に表情筋が死んでるだけ」
知ってる。
「そこだけは絶対に良くならないわよ。注目が集まろうが何しようが、あんたは一生笑えない」
言い切られた。医者より断定が速い。
「悪いけど、それは治らない」
「はい」
「……あら、平気なの?」
「十七年やってるので」
ミューナは何か言おうとして、やめた。
やめたあとで、小さく「ふうん」と言った。
◇
「それから、代償の話」
「代償」
「点いたあと、身体が使い物にならなくなるでしょ」
俺は今日の帰り道を思い出した。ペダルが泥の中にあるみたいだった。肉まんを二個食べて、それでも足りなかった。ソファで一時間半落ちた。
「あれ、そうなのか」
「そうよ。三時間くらいね。腹が減って、だるくて、眠い。人によっては手が震えるわ」
「三時間」
「だいたいね。使った量による」
ミューナは台座の上を一歩、こちらへ寄った。
「いい? ここが大事なんだけど」
人形が声を落とした。落とす必要は一切ない。この部屋には俺しかいない。
「人前で崩れちゃダメよ」
「なんで」
「崩れたら、全部バレるから」
◇
「じゃあ、練習すれば強くなるの」
俺は聞いた。
わりと素朴な質問のつもりだった。
ミューナは、少しのあいだ黙った。
「……ならないわ」
「ならない?」
「点いてない状態で何回やっても、素質のぶんは一ミリも伸びない。あんたが今日証明したでしょ。二十回」
俺は、天井を見た。
つまり、こういうことだ。
俺は本番だけ強い。練習では弱い。そして、練習で強くなることもない。
「じゃあ俺、何も持ってないってことじゃないか」
ミューナは腕を組んだまま、俺を見ていた。
「……あんた、意外と嫌なとこ突くわね」
「悪い」
「謝らないでよ。腹が立つから」
それから彼女は、腰に当てていた手を下ろした。
「その話はね」
「うん」
「いつかするわ。今日じゃないけど」
「いつ」
「わたしの気が向いたとき」
「それ、一生来ないやつだろ」
「よくわかってるじゃない」
人形が、鼻で笑った。
音は出ていない。出ていないのに、鼻で笑ったことがはっきりわかった。この人形は表情筋が全部生きている。俺の顔についていない機能が、十五センチのほうに全部載っている。世の中の配分はおかしい。
◇
その後、俺はいくつか質問をした。
結果として、この人形の役に立たなさが判明した。
「未来はわかるのか」
「わからないわよ」
「他人の考えてることは」
「わかるわけないでしょ」
「物は動かせるのか」
ミューナは、机の上の消しゴムに手を伸ばした。
伸ばして、押した。
消しゴムは、一ミリも動かなかった。
「……動かないわね」
「動かないな」
「わたしに触れるのはあんただけよ。あんた以外には見えないし、聞こえないの」
「じゃあ何ができるんだ」
「経験からの助言」
「経験」
「四十年前の」
俺は聞いた。
「今のテレビって、何チャンネルあるか知ってる?」
「五つでしょ」
「そうか」
「違うの?」
違う。
「スマホは」
「なにそれ」
この人形、本当に四十年前で止まっている。
念のため、もう二つ聞いた。
「電子レンジは」
「あるわよ。四角くて、重くて、あたためると味が落ちるやつでしょ」
「合ってる」
「でしょ」
「洗濯機は」
「回すと服が絡まって出てくるやつ」
合っている。
四十年前から進歩していないのは、たぶん人形のほうではなく電子レンジと洗濯機のほうだ。
「じゃあ、俺以外にもいるのか。その、素質持ちって」
ミューナの動きが、一瞬止まった。
「……いるわよ」
「今も?」
「たぶんね」
「会ったことある?」
また、止まった。
さっきより長かった。
「ないわ」
嘘だ、と思った。
なぜそう思ったのかはわからない。人形の表情なんて読めるはずがない。読めるはずがないのに、俺はそのとき、はっきりと「今のは嘘だ」と思った。
俺は追及しなかった。
追及して、面倒なことになった経験が人生に何度かある。
◇
そのとき、ドアが開いた。
ノックはなかった。この家の女はノックをしない。
「兄ちゃん、ドライヤーどこ――」
妹だった。
俺は反射的に机のほうを見た。
ミューナは、腰に手を当てた姿勢のまま、完全に静止していた。
完全に、である。さっきまで腕を組んだり眉を寄せたりしていた女が、今は瞬き一つしない。塗装された樹脂の塊に戻っている。
「……なにその人形」
妹が入ってきた。
俺の返事を待たずに机に近づいて、ひょいと持ち上げた。
持ち上げた。
俺は一瞬、息を止めた。
「うわ、けっこう作り込んであるね。まつ毛まで入ってる」
「……昨日のくじ」
「へえ。コンビニの?」
「うん」
「レア?」
「レアらしい」
「ふうん」
妹はミューナを目の高さまで持ち上げて、ぐるっと一周させた。
俺はその光景を、無表情のまま見ていた。
内心では「やめろ」「戻せ」「たぶん怒ってる」の三つが同時に鳴っていた。
妹はミューナを机に戻した。向きが九十度ずれた。
「ドライヤー、洗面所の下」
「ありがと」
ドアが閉まった。
三秒後。
「――ちょっと!」
ミューナが両手を振り上げた。
「なんで止めないの!」
「止めたら不審だろ」
「回されたのよ! 一周!」
「見てた」
「見てたじゃないわよ!」
ミューナは自分で向きを直そうとして、直せなかった。台座が動かせないらしい。
俺は指で、そっと元の向きに戻してやった。
「……ありがと」
「うん」
「別に、お礼を言ったわけじゃないわよ」
言った。
◇
「じゃあ、そのタレントってやつ、どうすればいいんだ」
俺は聞いた。
「どうもしないわ」
「は?」
「今のところ、あんたは高校生でしょ。学校で点いて、家で消えて、それで終わり」
「じゃあ何しに出てきたんだよ」
ミューナは、そこで初めて、言葉を選ぶような間を置いた。
「……見てられなかったのよ」
「何が」
「あんたが二十回、下手なのを」
◇
俺は結局、その夜は十一時に寝た。
ベッドに入ってから、天井を見ながら考えた。
俺は数万人に一人らしい。見られている間だけ天才で、見られていないとカスらしい。三時間の反動があって、練習しても伸びないらしい。ついでに一生笑えないらしい。
情報が多すぎる。
だが、いちばん引っかかっているのは、そこじゃなかった。
――だから何なんだ。
明日も学校がある。数学の小テストは来週で、範囲は変わらないらしいが何もやっていない。給食はないので弁当がいる。母さんは明日の朝も同じ時間に起こしてくる。
俺の生活の中に、この情報を置く場所がない。
置く場所がないまま、俺は寝た。
◇
翌朝、登校は少し楽だった。
理由はわかっている。四日目で、みんな飽き始めているのだ。人の噂も七十五日というが、高校生の集中力はもっと短い。せいぜい七十五時間くらいだと思う。
廊下ではもう誰も場所を空けなかった。窓に並ぶ人もいなくなった。熊沢は今日は熊沢で、隣のクラスの奴と部活の話をしていた。
俺は自分の席に着いて、鞄を机の横にかけた。
鞄の中から声がした。
「暗いんだけど」
(黙ってて)
「わたし、大女優よ。物みたいに扱わないで」
(今、物なんだよ)
ちなみに、他の人にはこの声は聞こえないし、動いているところも見えないらしい。
昼休みに試しに机の上に置いてみたら、通りかかった美咲が「なにその趣味の悪い人形」と言って通り過ぎた。
ミューナは三時間ふてくされた。
◇
その日は、平和に終わった。
六時間目まで平和で、掃除も平和で、鞄を持って昇降口を出るまで平和だった。
校門のところに、大人が立っていた。
黒いスーツで、髪をきっちり分けている。歳は四十くらいか。生徒が横を通り過ぎるたびに、丁寧に頭を下げていた。誰かの保護者だと思った。
保護者にしては、下げすぎだった。
三人通れば三回下げる。五人通れば五人ぶん下げる。俺が見ているあいだに十一回下げた。あの角度を下校時間のあいだ続けたら、首から先が終わると思う。
俺は自転車置き場のほうへ歩いた。
その人が、俺を見た。
見た瞬間に、目つきが変わった。
俺は足を止めた。
止めた理由は自分でもわからない。強いて言えば、その人の見方が、この四日間で浴びたどの視線とも違ったからだ。
面白がる目じゃない。
仕事の目だった。
鞄の中で、ミューナが小さく息を吸う音がした。
「……あんた」
声が、これまでで一番低かった。
「気をつけなさい。あの手の人間は、当てるわよ」




