第3話 才能ゼロの証明
三日目である。
三日目にして、俺は学校という場所の仕組みが変わったことを理解した。
昨日までは、廊下を歩くと人がこっちを見た。今日は、廊下を歩くと人が場所を空ける。
誰も俺に触れない。誰も俺の進路に立たない。前を歩いていた集団が、後ろを振り返って、さっと壁際に寄る。俺は何も言っていない。ただ教室に行こうとしているだけだ。
これはあれだ。動物園の、猛獣が通る通路みたいなやつだ。
俺は猛獣ではない。今朝、トーストを二枚食べて、味噌汁をこぼして、母さんに「もう」と言われた男である。
「おはよう、高町くん」
早坂千尋が横に並んだ。この女は場所を空けない。それが今の俺にはありがたかった。
「テレビ、見た?」
「見た」
「あたし、朝から電話三本かかってきたんだけど」
「誰から」
「中学のときの友達。『あれ知り合い?』って」
早坂は嬉しそうだった。
嬉しそうな早坂を見て、俺は少し安心した。この件で誰かが不幸になっているなら、それは問題だ。誰も不幸になっていないなら、まあ、いい。
俺一人が困っているだけなら、それはたぶん、大した問題ではない。
◇
一時間目が始まる前に、担任に呼ばれた。
宮坂恭子。四十三歳。現代文の教師で、感情の起伏というものをどこかに置いてきた人だ。俺と同じ種類の顔面をしているのではないかと、密かに思っている。
「高町」
「はい」
「朝から学校に電話が三件来ている」
「はい」
「テレビ局が二件、それから雑誌が一件」
「はい」
俺は「はい」しか言っていない。
「全部断った」
「はい」
「以上」
宮坂先生は書類に目を戻した。
俺は立っていた。話は終わったのか。終わったなら戻りたい。だが「以上」の一言で解散していいのかがわからない。
「戻れ」
「はい」
俺は踵を返した。ドアに手をかけたところで、後ろから声がした。
「高町」
「はい」
「小テストは来週だ。範囲は変わらん」
それだけだった。
この人は、俺が何万回再生されようが、テレビに映ろうが、宇宙飛行士になろうが、たぶん同じ顔で「範囲は変わらん」と言う。
正直、いちばん助かった。
◇
昼休みに、事件が起きた。
俺が弁当を食べ終わったところに、熊沢大河がスマホを持って現れた。
「高町、これ見て」
「なに」
「昨日の夜のドラマ。めっちゃよかった」
熊沢が画面を差し出してきた。
俺は覗き込んだ。ドラマの一場面だった。会議室みたいなところで、スーツの男が机に手をついて、向かい側の連中を睨んでいる。
男が言った。
「――ふざけるな。誰のために、俺がここに立ってると思ってる」
十秒くらいのシーンだった。画面が暗転して、動画が終わった。
「な、すごいだろ」
「うん」
「やってみて」
「は?」
「モノマネ」
「無理」
「一回!」
熊沢が両手を合わせた。
この男は昨日も同じことをした。昨日は断れた。今日も断ろうとした。
だが、断ろうと口を開いたときには、もう遅かった。
◇
周りが、集まってきていた。
「なになに」
「熊沢がまた変なこと言ってる」
「高町くんにモノマネさせようとしてる」
「見たい」
三人が五人になり、五人が十人になった。誰かが廊下側の窓に向かって手招きをした。窓の向こうにいた他クラスの生徒が、二人、三人と教室に入ってきた。
気づいたら、机の周りに二十人くらいいた。
全員が、俺を見ていた。
――やめてくれ。
そう思った。
思ったのに、そのとき俺の中で、何かが開いた。
◇
教室の音が、遠のいた。
誰かの笑い声も、椅子を引く音も、廊下の足音も、全部が薄い膜の向こうに行った。代わりに、輪郭がはっきりした。
そして、さっきの十秒が、頭の中で勝手に再生された。
思い出している、という感じではなかった。
もっと正確だった。
あの男が息を吸ったタイミング。机を叩く直前に、右肩が半分だけ下がったこと。「誰の」の「の」で、声がわずかに掠れたこと。視線が一度だけ左下に落ちて、それから正面に戻ったこと。
全部、そこにあった。
一回しか見ていないのに、全部あった。
背筋が伸びた。
俺は、立ち上がっていた。
◇
机に手をついた。
掌が板を叩く音が、教室に響いた。
「――ふざけるな」
自分の声じゃないみたいだった。
低くて、腹の底から出ていて、教室の空気が全部こっちに引き寄せられるのがわかった。前列の女子が、肩をびくりと動かした。
俺は一拍置いた。
置こうと思って置いたわけではない。あの男が置いていたから、そこに置くのが正しかった。
「誰のために、俺がここに立ってると思ってる」
言い終わって、俺は普通に椅子に座った。
誰も、何も言わなかった。
二十人が、口を半分開けたまま固まっていた。熊沢は、スマホを持った手を下ろすのも忘れている。
窓際の女子が、小さく「うそ」と言った。
「え」
「今の、何」
「本人じゃん」
「本人より本人じゃん」
教室が爆発した。
俺は無表情のまま、弁当箱の蓋を閉めた。
内心では、こう思っていた。
――今の、俺?
◇
「もう一回!」
「ねえ、他のもできる?」
「動画撮っていい?」
撮るな。
俺は首を横に振った。振ったのだが、なぜかそれが「今日はここまでにしておこう」という余裕のある態度に見えたらしく、教室の温度がさらに上がった。
早坂が人をかき分けて出てきた。
「みんな、ちょっと待って!」
助かった。
「一人ずつ! 順番!」
助かってない。
早坂はノートを一枚破って、そこに何か書き始めた。
「はい、番号ね。一番から」
「おい」
「大丈夫、五人までにしとくから」
「五人もやらないぞ」
「じゃあ三人」
「ゼロだ」
「三人」
交渉になっていない。この学校の女は全員そうなのか。
結局、俺は席を立って教室を出た。
背中に「あー、逃げた」という声が飛んできたが、無視した。無視して廊下を歩いて、階段を下りて、昇降口の脇の自販機の前まで来た。
そこでようやく息を吐いた。
――なんで俺、逃げてるんだ。
悪いことは何一つしていない。していないのに、逃げている。
自販機で微糖を買って、その場で半分飲んだ。少し落ち着いた。
落ち着いてから、さっきのことを思い出した。
あの十秒の映像が、まだ頭の中にあった。薄れていない。男が右肩を落とすタイミングも、声が掠れる位置も、今すぐ再現できる。
……いや。
俺は缶を持ったまま、小さく口を開けた。
「ふざけ――」
声が、出なかった。
正確には出たが、さっきの半分も出なかった。喉の奥で何かが引っかかって、ただの棒読みになった。
自販機の前には、誰もいなかった。
◇
放課後、俺は美咲に空き教室へ連れ込まれた。
三階の端の、使っていない教室だ。机が寄せてあって、埃の匂いがする。美咲はドアを閉めて、腕を組んで、俺の正面に立った。
「昼のあれ、何」
「わからない」
「わからないってことある?」
「ある」
俺は正直に言った。
「俺、演劇部でもないし、あの俳優の名前も知らない。ドラマも見てない。見たのはあの十秒だけだ」
「それであれができたの」
「できた」
「なんで」
「わからない」
美咲は、しばらく黙っていた。
それから、真顔で言った。
「ちょっとやってみて。今ここで」
俺は立ち上がった。
机に手をついた。
「ふざけるな」
空き教室に、俺の情けない声が響いた。
「誰のために……俺が……ここに、立ってると……」
棒読みだった。
学芸会の背景役でも、もう少しマシなことを言う。声は上ずっているし、間はぐちゃぐちゃだし、机を叩いた音は「ぺち」だった。
美咲が真顔のまま、口を押さえた。
「笑うな」
「笑ってない」
「肩が揺れてる」
「……ふふっ」
「笑ってるだろ」
「ごめん。ごめんね。あんまり違うから」
美咲は目尻を拭いて、それから急に真面目な顔に戻った。
「ねえ、さっきの教室、何人いた?」
「二十人くらい」
「今は?」
「二人」
彼女は少し考えて、言った。
「……たまたま、じゃない気がする」
「昼、自販機のとこでもやってみた」
「一人で?」
「一人で」
「どうだった」
「今と同じ」
美咲は寄せてある机に腰を預けた。腕を組んで、天井のあたりを見ている。考えるときの癖だ。小学生のときからこれをやる。
「整理するよ」
「うん」
「昨日の持久走。八周目に、二階の窓から生徒が見てた」
「うん」
「今日の昼。教室に二十人いた」
「うん」
「で、さっきここで、私一人が見てた」
「うん」
「私が見てたのに、下手だった」
俺は黙った。
その通りだった。美咲は俺を見ていた。ちゃんと見ていた。それなのに、俺は「ぺち」と机を叩いた。
「人数、なのかな」
「かもしれない」
「それとも」
美咲は言葉を切って、俺を見た。
「私が、あなたの中身を知ってるから?」
俺は答えられなかった。
答えられなかったが、その仮説はなんとなく、正しいような気がした。
美咲は「まあ、いいけど」と言って、机から降りた。
「ひとつだけ言っておく」
「うん」
「その、なんか起きるやつ。誰にも言わないほうがいいと思う」
「なんで」
「説明できないことを説明しようとすると、だいたい嘘つき扱いされるから」
この女は、たまに、ものすごく正しい。
「あと」
「まだあるのか」
「私にも、これ以上は言わなくていい」
「今、聞いたばかりだろ」
「聞いたけど、ここまで。あなたが自分でもわかってないことを、私が先に整理したら気持ち悪いでしょ」
俺は少し考えた。
たしかに気持ち悪い。
「じゃあ、どうすんの」
「別に。私は見てるだけ」
「見るなよ」
「見るよ。見るだけで、聞かない」
美咲は、寄せてある机の上から自分の鞄を取った。
「わかったら教えて。一生わかんなかったら、一生黙ってていい」
俺は頷いた。
美咲は満足したらしく、ドアのほうへ歩いていった。たぶん、話が一区切りついたことに納得している。
俺のほうは、頷いたついでに冷蔵庫の中身を思い出していた。今朝、豚肉のパックが下の段にあった。あれが今日出るなら、たぶん生姜焼きだ。
◇
帰り道、身体が重かった。
自転車を漕いでいるのに、ペダルが泥の中にあるみたいだった。太ももが張っている。腕がだるい。まぶたが落ちてくる。
そして、猛烈に腹が減っていた。
弁当を全部食べたのに、腹の底に穴が空いている。昨日もそうだった。持久走の日だ。あの日も、走ったあとに同じ穴が空いた。
俺はハミングマート桜坂店に寄って、肉まんを二個買った。二個とも、店の前で食べた。
それでも足りなかった。
◇
「兄ちゃん、おかえり」
家に着くと、妹がリビングにいた。タブレットではなく、今日はノートを開いていた。何か書いている。
「なに書いてんの」
「宿題」
「嘘だろ」
「宿題」
妹はノートを閉じて、机の引き出しに入れた。
俺はそれ以上追及しなかった。追及するには疲れすぎていた。
夕飯まで、俺はソファで寝た。母さんに起こされるまで、一時間半、完全に落ちていた。
起きたら、テーブルに生姜焼きが並んでいた。
俺は三杯食べた。
「よく食べるわねえ」
母さんが感心したように言った。
「育ち盛りだから」
「あなた、去年で背は止まったって言ってなかった?」
「……そうだった」
自分で言っていた。去年の秋の身体測定で、前年と一ミリしか変わらなかった。
じゃあ、この腹の減り方はなんだ。
向かいで父さんが生姜焼きをつまんでいた。俺の茶碗を見て、それから俺の顔を見た。
「……食え」
それだけ言って、自分の皿から一枚よこしてきた。
この人の語彙はやはり三語である。だが、たまに正しい。
◇
夜、俺は自分の部屋で検証した。
鍵を閉めて、カーテンを引いて、机の前に立った。
誰も見ていない。完全に一人だ。
「ふざけるな」
部屋の壁が、その声を吸い込んだ。
「誰のために俺がここに立ってると――」
声が裏返った。人生で一番みっともない裏返り方だった。
俺はもう一度やった。もう一度やった。
三回目で、少し良くなった気がした。四回目で、良くなっていないことがわかった。五回目で喉が痛くなった。
八回目のとき、階下から母さんの「灯真ー、お風呂沸いたよー」という声が聞こえて、集中が切れた。
十二回目に、自分でも何を言っているのかわからなくなった。
十五回目に、宮坂先生の顔が浮かんだ。来週の小テスト。範囲は変わらん。まずい。何もやっていない。
十八回目で、風呂が頭に浮かんだ。八回目に沸いたと言われたやつだ。あれから十回ぶん経っている。今すぐ下りれば、まだ一番風呂の顔ができる。
十九回目の前に、俺は一度、鏡の前に立ってみた。
クローゼットの扉についている、細長い鏡だ。そこに映っているのは、髪の伸びかけた男子高校生だった。目が細くて、眉が動かなくて、口が真横に閉じている。
この顔で、教室では二十人を黙らせたらしい。
鏡の中の男を、俺はしばらく見た。
鏡の中の男も、俺を見た。
当たり前だが、こいつは俺を「本気で見て」はいない。俺が見ているから見ているだけだ。ガラスに映った反射に、意識はない。
俺は鏡から離れた。
離れながら、ひとつだけわかったことがあった。
――自分で自分を見てもダメなんだな。
二十回目。
俺は机に手をついて、言った。
「ふざけるな。誰のために俺がここに立ってると思ってる」
……。
完璧に、下手だった。
二十回のうち、一番下手だったかもしれない。
◇
俺はベッドに腰を下ろした。
わかったことが、二つある。
一つ。見られていると、何かが起きる。
昨日の持久走もそうだ。今日の昼もそうだ。人が本気でこっちを見ている時だけ、音が遠のいて、輪郭がはっきりして、身体が勝手に動く。
二つ。見られていない俺は、この世で一番才能がない。
これは、悲しいとか悔しいとかではなく、単なる報告である。事実として、俺は下手だ。二十回やって二十回とも下手だった。むしろ回を重ねるごとに下手になった。
つまり、俺という人間の中には、何もない。
あるのは、誰かに見られたときにだけ点く、意味のわからない電気だけだ。
俺は天井を見上げた。
そして、口に出して言った。
「……そんなことある?」
「そりゃそうでしょ」
部屋には、俺しかいなかった。
声は、机の右奥から聞こえた。
一昨日コンビニで引いた、赤いドレスのフィギュアが。
腰に手を当てたまま。
こっちを、見上げていた。




