第2話 兄の顔で稼ぐ妹
朝、自転車置き場に着いた時点で、俺は異変に気づいた。
三年生の集団が、こっちを見ていた。
三年生というのは、二年生から見ると別の生き物である。廊下ですれ違っても目を合わせない。存在を認識されていない。それが当たり前だと思っていた。
その三年生が、五人くらいで固まって、明らかに俺を見ていた。
俺は自転車のスタンドを立てた。
立てながら、頭の中では「見られている」「なぜ」「昨日の動画」「四十万」という四つの単語が高速で回転していた。心臓が肋骨の内側を殴っていた。今すぐ自転車にまたがって家に帰りたい。帰って布団をかぶって、夕方まで出てこないでいたい。
だが、俺の顔は動かない。
だから、たぶん、向こうからはこう見えている。
――自転車置き場で、上級生の視線を浴びても眉一つ動かさない男。
実際は、スタンドがうまく下りなくて二回踏み直しているだけの男だ。
◇
校門をくぐったら、拍手が起きた。
拍手。朝の八時十五分に。
「高町先輩ー! 見ましたー!」
知らない一年生が三人、手を叩きながら並んでいた。真ん中の子が手を差し出してくる。
握手。
握手を求められている。
俺の脳は、そこで停止した。
握るべきか。握らないと感じが悪いか。というか俺、今朝トーストを食べたが、口の横にパンくずがついていないか。ついていたら、この子は一生「高町灯真はパンくずをつけていた」と覚えている。それは困る。何が困るのかは自分でもわからないが、困る。
三秒くらい固まったあと、俺は黙って手を握った。
「うわっ、無言で握手された!」
「かっこよ……」
かっこよくない。
返事が思いつかなかっただけだ。
◇
教室に入ると、机の周りに人だかりができていた。
早坂千尋が真ん中に立っていた。まるで自分の手柄みたいな顔をしている。実際、半分は彼女の手柄なのだが。
「高町くん、おはよう!」
「おはよう」
「ごめん! でも撮ったのあたしだから!」
「うん」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「絶対怒ってるじゃん、目が」
目は生まれつきこれだ。
「なあ高町、四十万だぞ、四十万」
熊沢が横から入ってきた。
「うちの学年、二百人もいねえんだぞ。四十万って何人だと思ってる?」
「四十万人」
「そう!」
「知ってる」
知っている。だが、実感が一切ない。
四十万人という数は、俺にとって「じゃがいもが五百個くらい」と同じくらい想像しにくい数字だった。想像しにくい数字は怖くない。怖いのは、今この教室にいる三十六人のほうだ。
一時間目が始まる前に、廊下側の窓に人が並んだ。
最初は二人だった。二人が三人になって、五人になって、そのうち誰かが「あっ」と声を出した。声を出したのはたぶん見に来た側なのに、なぜかこっちが悪いことをしている気分になった。
早坂が窓に向かって手を振った。
「見世物じゃないですよー!」
お前が撮ったんだろ。
「あ、ごめん、あたしのせいだった」
自覚はあるらしい。
俺は教科書を開いて、下を向いた。下を向いていれば見えない。見えなければ存在しない。三歳児の理屈だが、他に手がなかった。
「高町くん」
早坂が小声で言った。
「そういうとこだよ」
「どこ」
「そうやって動じないから、みんな余計に見に来るの」
動じている。今、猛烈に動じている。
だが、下を向いた俺の顔は、教科書のページと同じくらい何も語らない。
◇
二時間目は体育だった。
持久走。校庭の外周を八周する。
俺は持久走が嫌いだ。長いし、しんどいし、途中で何を考えていいのかわからなくなる。毎年だいたい真ん中より後ろでゴールしている。
ただ、一つだけ、毎年言われることがある。
「高町ってさあ」
スタート前、熊沢が横に来て言った。
「ラストだけ異常に速いよな」
「そうか?」
「毎年言われてるだろ」
「言われてる」
言われている。中学のときも言われていた。小学生のときも言われていた。
最初の七周は遅い。ずっと遅い。それが最後の直線に入った瞬間だけ、なぜか身体が勝手に動く。ゴールの手前で三人か四人抜いて、そこそこの順位で終わる。
自分でも理由がわからないので、俺はいつも「最後だけ本気出してる」ということにしていた。
ピー、と笛が鳴った。
◇
一周目から七周目まで、俺はいつもどおり遅かった。
クラスの真ん中あたりを、だらだら走る。頭の中では今日の弁当のことを考えていた。今日は母さんが作った日で、たぶん冷凍のから揚げが入っている。あれは温め直すとうまい。だが弁当は温め直せない。人生とはそういうものだ。
八周目の後半に入った。
校庭の端に、女子のグループが座って見学していた。その向こうに、他クラスの体育の列があった。さらにその向こう、校舎の二階の窓に、人が並んでいた。
窓。
二階の窓に、生徒が七、八人、こっちを見て並んでいた。
――見られている。
その瞬間だった。
音が、遠のいた。
風の音も、誰かの息の音も、地面を蹴る音も、全部が薄い膜の向こうに行った。代わりに、輪郭がはっきりした。
トラックの白線の、剥げている場所が見えた。前を走る奴の右足が、少しだけ外を向いて着地しているのが見えた。その癖のせいで、こいつはカーブでロスしていると、なぜか俺にはわかった。
背筋が伸びた。
俺は、抜いた。
一人抜いて、二人抜いて、三人目を抜いたところで直線に入った。地面が近く感じた。呼吸が苦しくない。というより、呼吸をしていることを忘れていた。
ゴールの白線を越えた。
二番だった。
◇
「は?」
最初に声を上げたのは熊沢だった。
俺の三つ後ろでゴールして、両手を膝について、こっちを見上げている。
「お前、何した」
「走った」
「いや、何したんだって!」
体育教師がストップウォッチを持ったまま、こっちに歩いてきた。
「高町」
「はい」
「お前、陸上やってたか」
「やってません」
「後半のラップ、うちの中距離より速いぞ」
「そうですか」
そうですか、としか言いようがなかった。
なぜなら、俺自身が一番わけがわからなかったからだ。
体育教師は俺の顔をじっと見て、それから小さく笑った。
「動じないな、お前」
動じている。
内側では、さっきから同じ言葉がぐるぐる回っている。
――今の、何。
◇
昼休み、俺は屋上へ続く階段の踊り場で弁当を食べた。
人が来ない場所を選んだのは、単に疲れたからだ。
座って弁当箱を開けて、から揚げを食べた。冷たかったが、うまかった。冷たいから揚げには冷たいから揚げの良さがある。
それにしても、身体が重い。
持久走のあとだから当たり前だと思ったが、それにしても重かった。腕が重い。まぶたが重い。から揚げを噛む顎まで重い。あと、猛烈に腹が減っていた。弁当を全部食べても足りない気がした。
そして、眠かった。
異常に眠かった。
◇
「見つけた」
美咲が階段を上がってきた。手には購買のパンとパック牛乳を持っている。
「なんで俺の場所知ってるの」
「小学校のときから、あなた困るとこういうとこ来るから」
「困ってない」
「ふうん」
美咲は俺の二段下に座った。
「持久走、聞いたよ。二番だって」
「うん」
「あなた、去年は何番?」
「十九番」
「三十六人中の十九番から、二番」
「うん」
「何があったの」
俺は、から揚げの最後の一個をつまんだ。
「わからない」
「わからない?」
「見られてたら、なんか、身体が動いた」
言ってから、自分でも変なことを言っていると思った。
美咲は牛乳のストローをくわえたまま、しばらく黙っていた。
「……高町くん」
「うん」
「それ、ちょっと怖いよ」
俺もそう思う。
◇
五時間目と六時間目は、正直あまり覚えていない。
覚えていない理由ははっきりしていて、寝ていたからだ。
俺は普段、授業中に寝ない。眠いことはあるが、寝るところまではいかない。だが今日は、五時間目の開始三分で意識が飛んだ。次に気づいたら六時間目の終わりだった。
起こしてくれた早坂が言った。
「高町くん、めっちゃ寝てたね」
「うん」
「先生も見て見ぬふりしてた。なんか、寝てても様になるって」
様になるわけがない。よだれの心配をしてほしい。
◇
帰りに、ハミングマート桜坂店に寄った。
寄った理由は、腹が減っていたからだ。昼に弁当を全部食べたのに、まだ足りない。夕方になっても足りない。今日は一日じゅう、腹の底に穴が空いているみたいだった。
飲み物の棚の前に立って、俺は少しだけ身構えた。
昨日、微糖が売り切れていた。
棚の右端を見る。
あった。
微糖が、四本並んでいた。
俺は一本取って、レジに持っていった。それからおにぎりを二個と、肉まんを一個追加した。店長のおじさんが肉まんをつまみながら「学生さん、今日はよく食べるね」と言った。
俺は無表情のまま頷いた。
店を出て、自転車のかごに袋を入れて、缶を開けた。
一口飲んだ。
甘さと苦さがちょうどいいところで手を繋いでいた。
人生には中間が必要だ。
◇
家に帰ったのは五時半だった。
リビングに入ると、妹が床に座ってタブレットを触っていた。制服のままだ。この家の女は制服を脱がない。
「兄ちゃん、おかえり」
「ひなた」
「なに」
「消してくれ」
妹は顔を上げた。
「無理」
「なんで」
「もう四十万回見られたあとに消したら、逆に燃えるから。中途半端が一番燃えるの」
中学三年生が言うことじゃない。
「そもそも、なんで俺に断らずに上げた」
「断ったら、上げちゃダメって言うでしょ」
「言う」
「じゃあ聞く意味なくない?」
論理としては通っている。通っているのが腹立たしい。
「あのさ、兄ちゃん」
妹はタブレットを置いて、こっちに向き直った。正座した。この妹が正座をするときは、だいたい何かをやらかしたあとか、これから何かをやらかす前だ。
「兄ちゃんの顔って、すごいんだよ」
「顔面の故障だ」
「そうじゃなくて」
妹はまっすぐ俺を見た。
「兄ちゃんの顔、何も考えてないのに、考えてるように見えるの」
……。
「それって、たぶん、すごく珍しいことなんだと思う」
「褒めてないだろ、それ」
「褒めてる。素材としては最高だよ」
素材。
妹は俺のことを、はっきり素材だと思っている。悪気はゼロだ。悪気がゼロなのが一番厄介だということを、俺は今日一日で二回学んだ。
「ねえ兄ちゃん」
「なに」
「今日、体育で二番だったって本当?」
俺は妹を見た。
「なんで知ってんの」
「咲山の子から聞いた」
「お前、情報網どうなってんの」
「兄ちゃんの担当だから」
また出た。
「それでね」
妹はタブレットを引き寄せて、何かを打ち込み始めた。
「兄ちゃん、去年は十九番だったよね」
「なんで去年の順位まで知ってんだよ」
「去年、兄ちゃんが帰ってきて『十九番だった』って言ったの、あたし覚えてる」
言った覚えはあった。三十秒で忘れる会話だったはずだ。
「一年で十七人抜くのって、普通なの?」
「知らない」
「調べたけど、普通じゃなかった」
妹はタブレットから顔を上げなかった。
「あとさ、今日、何時に寝る?」
「なんで」
「なんとなく」
俺は答えなかった。
答えなかったが、そのとき既に、まぶたが重かった。
◇
夕飯のとき、母さんが妙にそわそわしていた。
三回くらい俺の顔を見て、三回とも何も言わなかった。四回目に、味噌汁をよそいながら言った。
「灯真」
「うん」
「あのね、今日、お隣の田島さんに会って」
「うん」
「田島さんの娘さんが、その、灯真の動画を見たって」
「うん」
「それでね、お母さん、つい」
「つい」
「『うちの子なんです』って言っちゃった」
母さんは味噌汁の椀を差し出しながら、ちょっと得意そうな顔をしていた。
俺は椀を受け取った。
受け取りながら、この情報が桜坂三丁目のどこまで広がるのかを計算していた。田島さんは町内会の役員だ。町内会には回覧板がある。回覧板は全戸に回る。
終わった。
「お父さんにも言った」
父さんは、俺の向かいで焼き魚をほぐしていた。箸を止めて、顔を上げた。
「……おう」
それだけ言って、また魚に戻った。
この人は本当にこれで一日を過ごす。俺の顔が動かないのは、たぶん半分くらいこの人のせいだと思っている。
◇
風呂に入って、部屋に上がった。
机の右奥では、赤いドレスのフィギュアが相変わらず腰に手を当てて、偉そうに上を向いていた。
俺はベッドに座って、今日一日を思い返した。
朝、視線。校門で拍手。教室で人だかり。持久走で二番。そのあと、異常な眠気と空腹。五、六時間目は記憶がない。
変だ。
どう考えても変だ。
だが、変だと思った次の瞬間には、まぶたが落ちていた。
結局、俺は九時前に寝た。十七歳の男が、火曜日の夜九時前に寝た。人生でこんなに早く寝たのは小学二年生以来だと思う。
◇
その夜、隣の部屋で妹が何をしていたかを、俺はしばらくあとになるまで知らなかった。
妹は、大学ノートを一冊開いていた。
一ページ目の一行目に、日付が書いてあった。
その下に、こう書いてあった。
〈持久走のあと、兄ちゃん寝た〉
〈五時間目〜六時間目〉
〈たぶん一時間半くらい〉
妹は、ノートを閉じて、机の引き出しに入れた。
◇
翌朝、七時四十分。
俺はトーストをくわえたまま、リビングのテレビの前を通りかかった。
朝の情報番組がついていた。爽やかな音楽と、天気予報の女性の声。俺はそのまま通り過ぎようとした。
「――さて、続いてはこちら。今、ネットで大変な話題になっている動画です」
足が止まった。
スタジオの後ろの大きなモニターに、見覚えのある教室が映っていた。
窓際の席。斜めに入る光。顔の左半分。
「都内の高校生とみられるこちらの男子生徒。何とも言えないこの表情のなさが、逆に――」
テーブルの向こうで、妹が味噌汁をすすりながら、俺に向かって親指を立てた。
俺は、口からトーストを落とした。
顔は、動かなかった。




