第1話 無表情なだけです
カシャッ、と音がした。
六時間目の現代文。窓際の、後ろから二番目の席。俺は黒板のほうを向いたまま、二日目のカレーのことを考えていた。
昨日の夜に作ったやつだ。今日で二日目。じゃがいもが煮崩れて、ルーの中に溶けかけているはずだった。あれが一番うまい。母さんは「形が残ってるほうが好き」と言うが、あれは間違っている。断固として間違っている。
「うわ、やば」
斜め前の席で、早坂千尋がスマホを両手で持ったまま固まっていた。
早坂はクラスで一番よく喋る女子で、休み時間ごとに教室のどこかで笑っている。その早坂が、今は笑っていなかった。画面を見て、俺を見て、また画面を見ている。
「高町くん、今の顔、やばくない?」
俺は早坂のほうを向いた。向いただけだ。
「ちょ、待って、それもやばい」
何が。
「え、なに、なんの話」
隣の席の子が覗き込む。その隣も覗き込む。三人目が「うそ」と言った。四人目が椅子ごとこっちを向いた。教室の空気が、じわっと一箇所に集まっていくのがわかった。
やめてほしい。
俺は今、心の中で全力で「やめてくれ」と叫んでいる。両手を上げて振り回している。土下座も辞さない。
だが、俺の顔は動かない。
◇
正確に言うと、表情筋がほとんど仕事をしていない。
生まれつきだ。笑おうとしても口角が上がらないし、驚いても眉が動かない。小学生のとき、母さんに連れられて大きい病院に行ったこともある。白衣の先生は俺の顔を三分くらい観察して、それから母さんに向かって言った。
「珍しいですが、生活に支障はありません」
支障はないらしい。
支障はないが、たとえば十七年生きてきて、誕生日ケーキの前で写真を撮られるたび、俺だけ葬式みたいな顔で写るのはどうなんだと思う。去年のアルバムを見返したら、家族三人が笑っている真ん中で、俺だけが遺影だった。妹には「兄ちゃんの写真、加工しても直らないんだよね」と言われた。加工しないでほしい。
だから、俺が何を考えているかは、誰にもわからない。
俺は困っていても顔に出ないし、焦っていても顔に出ないし、二日目のカレーのことを考えていても顔に出ない。
その結果、何が起きるか。
「高町って、なんか、常に怒ってない?」
怒ってない。
「いや、怒ってはなくない? 冷めてるだけじゃん」
冷めてもない。
「達観してる感じ」
達観していない。じゃがいもの話をしている。
◇
「これ、見て」
早坂がスマホをこっちに向けてきた。
画面の中に、俺がいた。
窓からの光が斜めに入っていて、顔の左半分だけが明るい。俺はまばたきを一回して、それから、ほんの少しだけ目を細めている。
たしかに、なんというか。
何か重大なことを決めた人間みたいに見えた。
実際には、その瞬間の俺は「じゃがいもは崩れているべきか否か」という問題に決着をつけていた。それだけだ。それだけなのに、画面の中の男は、明日この街を出ていく決意でもしたような顔をしている。
「ね?」
「……別に」
絞り出した二文字が、なぜか教室を静かにさせた。
早坂が「はぁ〜」と長い息を吐いた。
「クールすぎない?」
クールではない。
顔面の故障だ。
◇
「高町、モノマネできる?」
後ろの席から声がした。熊沢大河。クラスで一番声がでかく、一番何も考えていない男だ。
「できない」
「今のさ、ドラマの人みたいだったって!」
「できない」
「一回!」
熊沢が両手を合わせて拝んでくる。周りの何人かが笑った。笑いながら、こっちを見ている。
視線が、増えた。
そのとき、変な感じがした。
うまく言えないのだが、教室の音がすっと遠のいて、代わりに輪郭がやたらはっきりした。
黒板の右下に消し残しのチョークの粉が三か所あるのが見えた。誰かの鞄のファスナーが半分開いているのが見えた。窓の外で野球部が声を出しているのが、急に近く聞こえた。
背筋が、勝手に伸びていた。
俺はもともと猫背だ。姿勢が悪いと美咲によく怒られる。なのに今、体が勝手にまっすぐ立っている。
「――高町?」
早坂の声で、すっと元に戻った。
教室の音が戻ってきて、輪郭がぼやけて、俺はまた猫背の高校生になった。
「なんか今、ちょっと怖かった」
怖いのはこっちだ。
◇
六時間目が終わって、掃除の時間になった。
俺は箒を持って廊下に出た。担当は南校舎の三階、三年の教室の前まで。毎週やっているので、どこに埃が溜まるかはだいたい把握している。窓際のレールのところだ。
箒を動かしていると、廊下の向こうから誰かが歩いてきた。
知らない女子二人組だった。たぶん一組か二組の子だ。二人はこっちを見て、それから顔を見合わせて、少し早足で通り過ぎていった。
通り過ぎたあとで、後ろから声が聞こえた。
「今の人でしょ」
「ぜったいそう」
「思ったより背高くない?」
俺は箒を動かし続けた。
動かし続けながら、頭の中では猛烈な勢いで状況を整理していた。
今の人、とは何か。何の話だ。俺の話か。俺の話だとして、なぜ知っている。あの動画は早坂のスマホの中にあるはずだ。あれから四十分しか経っていない。四十分で何が起きた。
教室に戻ると、答えが置いてあった。
熊沢が自分のスマホを掲げて、五人くらいに囲まれていた。
「熊沢」
「お、高町」
「それ何」
「早坂からもらった」
「もらった?」
「クラスのグループに流れてきた」
クラスのグループ。
三十六人。
その三十六人にはそれぞれ友達がいて、その友達にもまた友達がいる。俺は数学が特別得意なわけではないが、これがどういう形の増え方をするかくらいは想像がつく。
「消してくれ」
「なんで?」
「なんでって」
「かっこいいのに」
熊沢は本気で不思議そうな顔をしていた。
悪気がない。この男には本当に悪気がない。それが一番厄介だ。
「高町、無表情でこういうこと言うから迫力あるんだよなあ」
迫力を出したことは人生で一度もない。
◇
放課後、藤堂美咲が俺の机の横に立った。
クラス委員長で、小学三年のときからうちの合鍵の場所を知っている女だ。腕を組んで、俺を上から見下ろしている。
「高町くん」
「はい」
「今日、日直」
「はい」
「日誌」
「はい」
俺は日誌を開いた。「今日の一言」という欄がある。毎日これに苦しめられている。
十五分かけて、三行書いた。
美咲が横から覗き込んで、読み上げた。
「『特に何もありませんでした。良い一日だったと思います。明日も頑張ります』」
「うん」
「あなた、今日わりと大事件だったと思うけど」
「書くことじゃない」
「そういうとこだよ」
美咲はため息をついて、俺の隣の椅子に座った。
「さっきの、なんだったの」
「熊沢が拝んできた」
「そうじゃなくて。撮られたやつ」
「窓のほう見てただけ」
「何考えてたの」
「カレー」
「知ってた」
美咲は一ミリも驚かなかった。
こいつだけが、俺の中身がだいたい空っぽだと知っている。ありがたい話だが、彼女はそれを一ミリも同情してくれない。むしろ小学生の頃から一貫して「もうちょっとまともなことを考えろ」という態度である。
「みんな、あなたが何か深いこと考えてると思ってるからね」
「知ってる」
「訂正しないの?」
「訂正の仕方がわからない」
これは本当だ。
訂正するには、まず「俺は今カレーのことを考えていました」と言わなければならない。言ったところで、たぶん誰も信じない。「またそういうこと言ってる」で終わる。そして「照れ隠しがうまい男」という新しい設定が一つ増える。
増えるだけだ。減らない。
俺はもう、この件に関しては完全に諦めている。
「まあ、悪いことじゃないんじゃない」
美咲は立ち上がりながら言った。
「損はしてないでしょ」
「毎日心臓に悪い」
「顔に出てないから大丈夫」
それは慰めじゃない。
「ていうか高町くん、さっきの掃除のとき」
「うん」
「三年の教室の前で、二年生が三人見に来てたの気づいてた?」
「気づいてない」
「箒持ったまま微動だにしないから、余計に見られてたよ」
「掃除してた」
「わかってるよ。私はね」
美咲は鞄を肩にかけ直した。
「たぶん明日、もうちょっと増えると思う」
「何が」
「見る人」
俺は日誌を閉じた。
閉じながら、明日の時間割を思い出していた。一時間目が数学で、二時間目が体育。体育は持久走だ。走る。全校生徒の前で走るわけではない。クラスの三十六人の前で走るだけだ。
三十六人。
さっき聞いたばかりの数字だった。
◇
昇降口を出たのは四時半だった。
五月の夕方の、ぬるい風が吹いていた。校門の脇のツツジがほとんど終わりかけていて、地面にピンクの花が落ちている。野球部の声がまだ聞こえていた。
俺は自転車を押しながら歩いた。
スマホを見ると、母さんからメッセージが来ていた。
〈カレー、まだあるよ〉
〈ひなたが夜に食べるって言ってるから、先に帰ったほうがいいかも〉
俺は自転車にまたがった。
二日目のカレーは戦争である。うちの妹は中学三年で、身長百五十五センチで、体重は聞いたことがないが、カレーを三杯食う。三杯目は「味見」と言い張る。三杯目に味見はない。
俺はペダルを踏んだ。
◇
途中でコンビニに寄った。
ハミングマート桜坂店。うちから歩いて四分で、小学生の頃から通っている。店長のおじさんは俺の顔を覚えているが、俺の名前は覚えていない。ずっと「学生さん」と呼ばれている。
なぜ寄ったかというと、腹が減っていたからだ。
カレーを死守するためには一刻も早く帰る必要がある。だが同時に、俺には今すぐ何かを口に入れたいという問題があった。人間は矛盾する。
俺は飲み物の棚の前に立った。
缶コーヒーを取ろうとして、手が止まる。
微糖がない。
棚の右端、いつも微糖が並んでいる場所が、ぽっかり空いていた。残っているのはブラックと、やたら甘いやつだけだ。俺は微糖派である。ブラックは苦い。甘いやつは甘い。人生には中間が必要だ。
三十秒くらい迷って、ブラックを取った。
レジに持っていくと、レジ横に箱が置いてあった。
「対象の缶コーヒーお買い上げでくじ引けますよ〜。ハズレなしです」
バイトのお姉さんがやたら元気に言った。
ハズレなし。
この言葉が世の中でどういう意味を持つかを、俺はこのあと十五秒で学ぶことになる。
俺は紙を一枚引いた。開いた。
〈D賞〉
ハズレなしとは。
「D賞ですね〜。こちらになります」
渡されたのは、手のひらサイズの箱だった。
開けてみると、十五センチくらいのフィギュアが入っていた。赤いドレスを着た女の人が、腰に両手を当てて、胸を張ってこっちを見上げている。髪は肩までで、目つきがやたら強い。
台座に、小さく印刷されていた。
〈昭和の名女優コレクション〉
誰だこれ。
「わ、それ、けっこうレアなやつです」
「そうなんですか」
「反応薄い」
反応はしている。表に出ていないだけだ。
俺はフィギュアをリュックに突っ込んで、店を出た。
缶コーヒーを開けて、一口飲んだ。
苦かった。
顔には出なかったが、けっこう傷ついていた。
◇
家に着いたのは五時四十分だった。
世田谷区桜坂三丁目。二階建てで、玄関の横に母さんの自転車が停めてある。妹の自転車はない。まだ帰っていない。
勝った。
俺は靴を脱いで、まっすぐキッチンに向かった。
鍋の蓋を開ける。
あった。
カレーは、あった。表面に薄く膜が張っていて、その下でじゃがいもが完全に崩れている。完璧だ。完璧な二日目だ。
俺は無表情のまま、小さくガッツポーズをした。
傍から見れば、鍋の前で腕を軽く曲げただけの男である。
背後で足音がした。
「あら、帰ってたの」
母さんが風呂場から出てきた。ゴム手袋をつけたままだ。
「早いじゃない」
「うん」
「ひなたが夜に食べるって」
「知ってる。だから先に食べる」
「そう」
母さんは特に止めなかった。この家では、カレーに関しては早い者勝ちという法が成立している。成立させたのは俺だが、成立してからのほうが被害が大きい。
俺は皿に盛った。ごはんを軽く、ルーを多めに。
テーブルについて、一口食べた。
うまい。
じゃがいもは完全に崩れていて、輪郭がない。にんじんだけが原形を保っている。にんじんはいつも生き残る。あいつは強い。
「学校、どうだった」
母さんが冷蔵庫から麦茶を出しながら聞いた。
「別に」
「そう」
会話が終わった。
この家の会話はだいたいこの長さで終わる。父さんが帰ってくるともう少し短くなる。父さんは「おう」と「ああ」と「そうか」の三語で一日を過ごせる人だ。俺の顔が動かないのは、たぶん半分くらいこの人のせいだと思っている。
◇
皿を洗って、自分の部屋に上がった。まだ六時前だった。
二階の南向き、六畳。机とベッドと本棚しかない。壁には何も貼っていない。ポスターを貼ろうと思ったことがないわけではないが、貼りたいものが思いつかなかった。
リュックを床に置いて、中身を出す。
教科書、日誌、財布、空になった缶コーヒー。それから、さっきの箱。
俺は箱からフィギュアを出して、しばらく手のひらに乗せて眺めた。
赤いドレスの女の人は、腰に手を当てたまま、まっすぐ上を向いている。角度のせいか、やたらと偉そうに見えた。塗装は思ったより丁寧で、まつ毛の一本一本まで入っている。台座の裏に小さく製造国が印刷されていた。
どうしよう、これ。
捨てるほどのものでもない。かといって飾るほどでもない。
俺は机の右奥に置いた。
ペン立てと壁のあいだ、ちょうど十五センチくらいの隙間がある。フィギュアはそこにぴったり収まった。ぴったり収まってしまったので、なんとなく、そこが定位置ということになった。
人生でこれ以上どうでもいい決定をしたことはない。
◇
六時過ぎに妹が帰ってきた。
高町ひなた。中学三年。玄関からリビングまで五歩で移動し、鞄を床に置き、そのまま床に座ってタブレットを開いた。制服のままだ。
「兄ちゃん、おかえり」
「おかえりは俺のセリフだ」
「カレー食べた?」
「食べた」
「二杯?」
「一杯」
「じゃあ残りあたしのね」
交渉が成立していない。
俺はテレビの前のソファに座って、スマホを見ていた。母さんは風呂を洗っている。父さんはまだ帰っていない。ごく普通の月曜日の夜だった。
「兄ちゃん」
妹が床から言った。顔は上げていない。
「なに」
「ちょっと来て」
「なんで」
「いいから」
俺は立ち上がって、妹の後ろに回った。
タブレットの画面を、上から覗き込む。
画面の中に、俺がいた。
教室だった。窓際の席で、光が顔の左半分に当たっている。今日の六時間目だ。
だが、写真じゃなかった。
動いていた。
俺がゆっくりまばたきをする。少しだけ目を細める。それから、早坂の声に応えて「……別に」と言う。そこで映像がスローになって、静かな音楽が入って、画面がふっと暗くなった。
文字が出た。
〈クールすぎる兄を晒す〉
「……なにこれ」
「あたしが編集した」
「なんで持ってんの」
「クラスの子から送ってもらった。うちの中学、咲山高校の子と繋がってる子いっぱいいるから」
「なんで送ってもらってんの」
「あたし、兄ちゃんの担当だから」
「担当って何」
妹は答えなかった。
代わりに画面を指でスクロールして、ある場所で止めた。
「ねえ兄ちゃん」
そこに、数字が並んでいた。
俺は三回読み直した。
一回目は、桁を間違えたと思った。二回目は、そういう表示の仕様だと思った。三回目に、そうではないと理解した。
再生回数。
四十万回。
「バズった」
妹が、初めて顔を上げた。
にっこり笑っていた。
俺の顔は、動かなかった。




