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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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100/190

第100話 嫌いじゃないかもしれない

 玄関を出たら、妹が俺の自転車を動かしていた。


 自分のを出すのに邪魔だったらしい。前の輪が潰れているので、押しても転がらない。妹は両手でハンドルを持って、後ろの輪だけで半分回した。


「兄ちゃん、これ、いつ直すの」

「直さない」

「空気だけでも入れたら?」

「入らない」

「入れてないだけでしょ」

「入れても入らない」


 妹は自分の自転車にまたがって、先に行った。行くとき、こっちを見ないで片手を上げた。


 俺は歩いた。二十五分かかる。


   ◇


 黒板の右端に、久しぶりに字が入っていた。


 〈9/2(火) 高町 公欠〉


 書いたのは俺ではない。


 六時間目のところに横線が引いてあって、その下に小さく〈五限まで〉と足してある。字は美咲のものだった。


 朝の教室で、それを見た。


   ◇


「高町」


 熊沢が後ろから来て、俺の椅子の背を掴んだ。


「水曜の見たわ」

「そうか」

「お前とケイさんが並んで座ってるやつ」

「座ってた」

「あれさ、うちの母ちゃんが、二人でやってる番組はまだ無いのかって言うんだよ」

「無い」

「無いよな」


 熊沢は椅子の背から手を離した。


「無いのが不思議だって言われた。俺に言われても困る」


 俺にも困る。


   ◇


 二学期の二日目は、授業が六つある。


 一時間目の現代文で、宮坂先生が出席を取った。俺の名前のところで一度止まって、そのまま次に行った。


 今日も止まった。止まった長さは、名簿を一行ぶん送るのにかかる長さと同じだった。


   ◇


 二時間目と三時間目のあいだの休みに、後ろの席の男が振り返った。


 振り返って、両手を膝に置いて、顎を引いて、動かなくなった。


 周りの三人が笑った。


 やっている本人は、俺のほうを見ていない。壁のほうを見ている。俺の顔をやるのに、俺を見る必要は無いらしい。


 三十秒くらいそのままだったが、四時間目の先生が入ってきたので終わった。


   ◇


 昼休みに、美咲が机の横に来た。


「五限で出るなら、六限のプリント、あとで渡すから」

「わかった」

「渡すのは明日ね。今日はもう会えないから」

「わかった」

「去年の今ごろ、高町くん、掃除当番を三回さぼったのよ」

「さぼってない」

「二回はさぼったわ」


 一回は減った。


 美咲は俺の机の上を一度見た。見て、何も直さないで、戻っていった。


   ◇


 昼飯は購買のパンだった。


 熊沢が向かいの席を勝手に借りて座って、自分のパンを袋から出して、俺の机に置いた。


「なあ、お前、今日なんかあんの」

「事務所だ」

「なんの」

「聞いてない」

「聞いてないのに行くんだ」

「行く」


 熊沢はパンを半分に割った。割って、大きいほうを自分で食べた。


「俺さ、こないだ親戚の集まりで、高町灯真と同じクラスだって言ったんだよ」

「そうか」

「そしたら、伯母さんが泣きだしてさ」

「なぜだ」

「わかんねえ。感激したらしいわ」


 わからん。


   ◇


 五限が終わって、鞄を持って教室を出た。


 廊下で、下級生が二人、壁際に寄った。寄らなくても通れる幅がある。


 昇降口で靴を履き替えていたら、上履きが片方だけ倒れた。えんじ色は倒れると目立つ。


   ◇


 事務所に着いたのは十五時五十分だった。


 一階で有本さんが待っていた。


「高町さん、四階です」

「はい」

「今日、電話が十六本ありました」

「はい」

「十六本です」


 有本さんはタブレットを一度見て、それから、こっちを見た。


「部屋、会議室1です」

「1ですか」

「1です」


 有本さんはそれ以上言わなかった。言わないで、エレベーターのボタンを押した。


   ◇


 四階の廊下を突き当たりまで歩いた。会議室1のドアは、他の部屋のより一枚ぶん広い。


 入ったら、十三人いた。奥の壁までのあいだに、空いた椅子が七つあった。


 机が四つ並べてあって、その向こう側に知らない人が六人座っている。手前に犬飼さんと有本さん。壁際に、宣伝の人が三人立っていた。


 ケイは、いちばん端にいた。隣に、ケイのマネージャーの人が座っている。


 部屋の空気が、いつもの会議室1と違っていた。座っている人の数のわりに、誰も喋っていない。紙をめくる音だけがしている。


 ケイのマネージャーの人は、髪をきっちり分けた若い男の人で、膝の上でずっと手帳を開いたり閉じたりしていた。


 俺はケイの隣に座った。座ったら、ケイが横から小声で言った。


「なんか、多ない?」

「多い」

「怖ない?」

「腹が減った」

「聞いた俺があほやったわ」


   ◇


 向こう側の真ん中に座っていた人が立ち上がった。


「東都テレビの桑島です。バラエティのほうを見ています」


 その人は五十歳くらいで、髪を短く刈っている。名刺を配るのに、机を一周した。一周して、自分の席に戻った。


 戻って、紙を一枚めくった。


「単刀直入に言います。お二人で、特番をやってほしいんです」


 桑島さんはそこで、紙を机の上に伏せた。


「うちの局で、この一年に高町さんが出たものを並べてみたんです。コマーシャル、連続ドラマ、音楽番組、それからバラエティ。順番がめちゃくちゃなんですよ。普通は逆なんです」

「逆というのは」

「普通はバラエティから始めます。そこで顔と名前を覚えてもらってから、芝居に行くんです」

「はい」

「高町さんは、いちばん重い順に来ました。そんな人、うちの局に前例が無いです」


 犬飼さんが、机の下で椅子を少し引いた。引いた音は、俺の位置からしか聞こえなかったと思う。


   ◇


「は?」


 ケイが立ち上がった。


 椅子が後ろに倒れて、床で一度跳ねた。跳ねてから、横に転がった。


 誰も拾わなかった。


 ケイは自分で拾って、直して、また座った。座ったあとで、耳が赤くなった。


「……すんません」

「いえ」


 桑島さんは笑わなかった。笑わないで、紙をもう一枚めくった。


   ◇


「番組の名前は、もう決まっています」


 桑島さんは紙を裏返して、机の上を滑らせて寄越した。


 紙の真ん中に、大きい字で一行だけ印刷してあった。


 〈高町・鴻上の おつかれ様です!〉


   ◇


 ケイが紙を両手で持った。持って、しばらく動かなかった。


 俺は横から見た。


 字が大きい。名前が二つ並んでいる。左が俺で、右がケイだった。


「あの」


 ケイが顔を上げた。


「なんで俺の名前、あるんですか」

「二人だからです」

「いや、そうですけど」

「鴻上さんがいないと、この番組は成立しません。うちの局の若い連中が全員、そう言っています」


 ケイは紙を机に置いた。置いて、両手を膝の上に持っていった。


 その手が、握られていた。


 ケイのマネージャーの人が、横から紙を覗き込んだ。覗き込んで、そのまま眼鏡を外して、目のあたりを一度押さえた。押さえてから、眼鏡をかけ直した。


 誰もそっちを見なかった。俺は見た。


   ◇


 俺は机の上の紙を取った。


「これ、もらっていいですか」

「どうぞ」


 俺は紙を二つに折って、鞄に入れた。


 ケイが横から見た。見ただけで、何も聞かなかった。


   ◇


「あとは、収録の時期なんですが」


 桑島さんが言った。


「第一回は九月の下旬を考えています。中身はロケで、まだ詰めている途中なんですが、高町さんには、もしよろしければ——」


「やります」


   ◇


 部屋が、静かになった。


 桑島さんが紙から目を上げた。上げたまま、二秒動かなかった。


 向こう側に座っていた六人のうち、四人がこっちを見た。宣伝の人が三人とも同時に姿勢を直した。


 犬飼さんは、俺のほうを見なかった。見ないで、机の上の自分の手帳を、閉じたまま横にずらした。


 有本さんがタブレットに何かを打ち込んだ。打ち込んで、途中で止まって、消した。


 ケイのマネージャーの人は、手帳を開いたまま固まっていた。


   ◇


 ――自分の名前が入った番組の名前を読み上げられて、眉一つ動かさない十八歳。


   ◇


「……いや、あの、中身、まだ言ってないんですけど」


 桑島さんが言った。


「はい」

「けっこう、体を使うやつなんですけど」

「はい」

「山です」

「はい」

「登ります」

「登ります」


 桑島さんは口を開けて、閉じた。


 閉じてから、隣の人のほうを向いて、小さい声で何か言った。隣の人は首を横に振った。


   ◇


 ケイが横から俺の腕を叩いた。


「お前、いま何に返事したん」

「山だ」

「山って言われて先に返事するやつ、おらへんぞ」

「登るらしい」

「登るらしい、やないねん」


 ケイは自分の椅子を少し引いた。引いて、また戻した。


   ◇


 会議は十七時前に終わった。


 人が出ていって、部屋には犬飼さんと有本さんと、俺とケイが残った。


 有本さんが机の上の紙を集めていた。集めながら、数を数えている。


 犬飼さんは窓の外を見ていた。


「高町」

「はい」

「この部屋だったな」

「はい」

「一年だ」


 犬飼さんは、そこから何も足さなかった。足さないで、椅子から立った。


   ◇


 廊下に出たら、社長が向こうから歩いてきた。


 紙袋を提げている。中に箱が入っていて、箱の角が紙袋の底を押していた。


「高町。聞いたぞ」

「はい」


 社長は紙袋から箱を出して、俺に押しつけた。


 羊羹だった。


「食え」

「はい」

「今すぐ食え、という意味ではない」


 社長は歩き出して、三歩で止まった。


 止まって、振り返らないで言った。


「一年、続いたな」

「はい」

「続けるほうが難しいんだ。始めるのは誰でもできる」


 社長はそのまま歩いていった。エレベーターのほうではなく、階段のほうへ行った。


 ケイが横から箱を覗いた。


「なんて書いてある?」

「羊羹だ」

「それは見たらわかる」


   ◇


 エレベーターの前で、ケイが壁にもたれた。


 もたれて、天井を見た。天井には四角い照明が二つあって、片方の縁が黒ずんでいる。


「なあ、高町」

「なんだ」

「お前、最近ちょっと楽しそうやで」


   ◇


 俺は否定しようとした。


 口を開けた。


 開けたところで、そのまま止まった。喉のあたりに、息が一つ残っていた。


 エレベーターが来て、扉が開いた。


「ほら、乗るで」


 ケイが先に乗った。


   ◇


 ケイは五階で降りた。マネージャーの人が上にいるらしい。


 降りる前に、こっちを見ないで言った。


「二十四日、空けとけよ」

「空いてる」

「聞いてないやろ、まだ日にち」

「二十四日だろ」

「今、俺が言うたやつやんけ」


 扉が閉まった。


   ◇


 犬飼さんの車で駅まで送ってもらった。


 夕方の道は混んでいて、一つ目の信号で止まったまま、二度目の赤になった。


 車のドアポケットに、小さい箱が二つ入っていた。三つ入っている日もある。今日は二つだった。


「桑島は、俺が新人のころに一度だけ一緒に仕事をした男だ」

「はい」

「あのときは、俺が頭を下げるほうだった」


 犬飼さんはそれ以上言わなかった。


   ◇


 二つ目の信号で、犬飼さんは前を向いたまま、ハンドルの下のほうを二回叩いた。


「高町」

「はい」

「この仕事、嫌いか」


   ◇


 俺は、羊羹の箱を膝の上で持ち直した。


 箱の角が、手のひらに当たっていた。


「……嫌いじゃないです」

「そうか」


 信号が青になった。


 犬飼さんは車を出した。出してから、それ以上は何も聞かなかった。


 窓の外は、店の明かりが続いていた。続いているあいだ、車は同じ速さで動いていた。


   ◇


 駅で降りるとき、犬飼さんが言った。


「二十四日は、朝が早い」

「はい」

「靴を用意しろ」

「靴」

「山を登る靴だ」


 俺は持っていない。


   ◇


 電車の中で、携帯が震えた。差出人は有本さんだった。


 〈九月二十四日(水) 四時三十分 ご自宅前 / 登山靴をご用意ください。サイズを教えてください〉


 サイズ。


 俺は二十九センチである。


 その下に、もう一行あった。


 〈用意できない場合は、こちらで探します。ただし二十九センチは、たぶん、店に一足もありません〉


   ◇


 電車を降りて、桜坂駅の階段を上がった。


 羊羹は重い。片手で持つと持ち手が指に食い込むので、途中で持ち替えた。持ち替えたら、反対の指に食い込んだ。


 駅前のパン屋の前を通ったら、明かりが半分だけ点いていた。中で人が床を掃いている。棚は空だった。


   ◇


 玄関の扉を開けた。


 開けたら、正面に妹が立っていた。腕を組んで、玄関の上がり口に立って、こっちを見下ろしている。上がり口に立っているので、俺より高い。


「兄ちゃん、今日、一年だから」

「一年」

「知らなかったの」

「知ってた」

「絶対嘘」


 妹は上がり口から下りて、俺の手の紙袋を取った。取って、中を見た。中を見るのに、袋の口を両手で広げて、顔を突っ込むみたいにした。


「羊羹じゃん」

「羊羹だ」

「わたし、羊羹あんまり好きじゃない」

「食うな」

「食うけど」

「どっちだ」

「明日の朝、緑茶と一緒に食べるとおいしいって、お母さんが前に言ってた。だから明日の朝に食べる」


 妹は紙袋を抱えたまま、台所のほうへ歩いていった。


 羊羹は、俺がもらったやつである。


   ◇


 台所から、においがしていた。


 カレーだった。


 母さんが鍋の前に立っていて、こっちを見ないで言った。


「今日、多めに作ったから」

「明日もあるのか」

「あるわよ」


 二日目まである。


 妹が台所に入ってきて、鍋の蓋を開けた。開けて、閉じた。


「じゃがいも入ってる?」

「入ってるわよ」

「兄ちゃんが全部取るから、わたしのぶん先に取っといて」

「まだ誰も食べてないでしょう」

「先に言っとかないと間に合わないの」


 妹は皿を一枚、自分の前に置いた。置いたやつを、そのあとで鍋の近くへ動かした。動かした先には、鍋つかみが二つ重ねてある。


   ◇


 父さんは二十時前に帰ってきた。


 上着を椅子の背にかけて、座って、皿を受け取って、一口食べてから言った。


「会社でな、今日、三人に言われたぞ」

「何をだ」

「息子さん、あれ、まだ高校生なんですかって」

「高校生だ」

「そう言っといた」


 父さんはカレーをもう一口食べた。


「去年の今ごろは、誰も何も言わなかったけどな」


 母さんが鍋の蓋を閉めた。


 閉めてから、こっちを向かないで言った。


「灯真、明日の朝は何時」

「普通だ」

「普通って何時よ」

「七時だ」

「じゃあ、二日目のぶん、朝に出すからね」


 朝のカレーは、夜のカレーより濃い。鍋の中で水が飛ぶ。飛んだぶんだけ、味が下に残る。


 俺は炊飯器の蓋を開けた。二膳ぶん残っている。足りない。


 足りないと言うと、母さんは夜のうちにもう一度炊く。炊いたぶんは、朝には妹の弁当に入っている。


 俺は蓋を閉じた。


 妹が横で顔をしかめた。しかめただけで、いらないとは言わなかった。


   ◇


 俺は部屋の扉を開けた。


 開けたら、中が暗かった。明かりを点けて、鞄を床に置いた。


 机の上に、羊羹の箱を置いた。置いたら、机の上の場所が半分埋まった。


   ◇


 俺は鞄から紙を出して、机の上で広げた。


 折り目が、名前と名前のあいだを通っている。押さえた手を離すと、紙はそこでまた折れた。


 俺は羊羹の箱を、紙の端に載せた。載せたら、紙は開いたままになった。


 箱の角が、名前を一つ隠していた。隠れたのは、俺のほうだった。

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