第100話 嫌いじゃないかもしれない
玄関を出たら、妹が俺の自転車を動かしていた。
自分のを出すのに邪魔だったらしい。前の輪が潰れているので、押しても転がらない。妹は両手でハンドルを持って、後ろの輪だけで半分回した。
「兄ちゃん、これ、いつ直すの」
「直さない」
「空気だけでも入れたら?」
「入らない」
「入れてないだけでしょ」
「入れても入らない」
妹は自分の自転車にまたがって、先に行った。行くとき、こっちを見ないで片手を上げた。
俺は歩いた。二十五分かかる。
◇
黒板の右端に、久しぶりに字が入っていた。
〈9/2(火) 高町 公欠〉
書いたのは俺ではない。
六時間目のところに横線が引いてあって、その下に小さく〈五限まで〉と足してある。字は美咲のものだった。
朝の教室で、それを見た。
◇
「高町」
熊沢が後ろから来て、俺の椅子の背を掴んだ。
「水曜の見たわ」
「そうか」
「お前とケイさんが並んで座ってるやつ」
「座ってた」
「あれさ、うちの母ちゃんが、二人でやってる番組はまだ無いのかって言うんだよ」
「無い」
「無いよな」
熊沢は椅子の背から手を離した。
「無いのが不思議だって言われた。俺に言われても困る」
俺にも困る。
◇
二学期の二日目は、授業が六つある。
一時間目の現代文で、宮坂先生が出席を取った。俺の名前のところで一度止まって、そのまま次に行った。
今日も止まった。止まった長さは、名簿を一行ぶん送るのにかかる長さと同じだった。
◇
二時間目と三時間目のあいだの休みに、後ろの席の男が振り返った。
振り返って、両手を膝に置いて、顎を引いて、動かなくなった。
周りの三人が笑った。
やっている本人は、俺のほうを見ていない。壁のほうを見ている。俺の顔をやるのに、俺を見る必要は無いらしい。
三十秒くらいそのままだったが、四時間目の先生が入ってきたので終わった。
◇
昼休みに、美咲が机の横に来た。
「五限で出るなら、六限のプリント、あとで渡すから」
「わかった」
「渡すのは明日ね。今日はもう会えないから」
「わかった」
「去年の今ごろ、高町くん、掃除当番を三回さぼったのよ」
「さぼってない」
「二回はさぼったわ」
一回は減った。
美咲は俺の机の上を一度見た。見て、何も直さないで、戻っていった。
◇
昼飯は購買のパンだった。
熊沢が向かいの席を勝手に借りて座って、自分のパンを袋から出して、俺の机に置いた。
「なあ、お前、今日なんかあんの」
「事務所だ」
「なんの」
「聞いてない」
「聞いてないのに行くんだ」
「行く」
熊沢はパンを半分に割った。割って、大きいほうを自分で食べた。
「俺さ、こないだ親戚の集まりで、高町灯真と同じクラスだって言ったんだよ」
「そうか」
「そしたら、伯母さんが泣きだしてさ」
「なぜだ」
「わかんねえ。感激したらしいわ」
わからん。
◇
五限が終わって、鞄を持って教室を出た。
廊下で、下級生が二人、壁際に寄った。寄らなくても通れる幅がある。
昇降口で靴を履き替えていたら、上履きが片方だけ倒れた。えんじ色は倒れると目立つ。
◇
事務所に着いたのは十五時五十分だった。
一階で有本さんが待っていた。
「高町さん、四階です」
「はい」
「今日、電話が十六本ありました」
「はい」
「十六本です」
有本さんはタブレットを一度見て、それから、こっちを見た。
「部屋、会議室1です」
「1ですか」
「1です」
有本さんはそれ以上言わなかった。言わないで、エレベーターのボタンを押した。
◇
四階の廊下を突き当たりまで歩いた。会議室1のドアは、他の部屋のより一枚ぶん広い。
入ったら、十三人いた。奥の壁までのあいだに、空いた椅子が七つあった。
机が四つ並べてあって、その向こう側に知らない人が六人座っている。手前に犬飼さんと有本さん。壁際に、宣伝の人が三人立っていた。
ケイは、いちばん端にいた。隣に、ケイのマネージャーの人が座っている。
部屋の空気が、いつもの会議室1と違っていた。座っている人の数のわりに、誰も喋っていない。紙をめくる音だけがしている。
ケイのマネージャーの人は、髪をきっちり分けた若い男の人で、膝の上でずっと手帳を開いたり閉じたりしていた。
俺はケイの隣に座った。座ったら、ケイが横から小声で言った。
「なんか、多ない?」
「多い」
「怖ない?」
「腹が減った」
「聞いた俺があほやったわ」
◇
向こう側の真ん中に座っていた人が立ち上がった。
「東都テレビの桑島です。バラエティのほうを見ています」
その人は五十歳くらいで、髪を短く刈っている。名刺を配るのに、机を一周した。一周して、自分の席に戻った。
戻って、紙を一枚めくった。
「単刀直入に言います。お二人で、特番をやってほしいんです」
桑島さんはそこで、紙を机の上に伏せた。
「うちの局で、この一年に高町さんが出たものを並べてみたんです。コマーシャル、連続ドラマ、音楽番組、それからバラエティ。順番がめちゃくちゃなんですよ。普通は逆なんです」
「逆というのは」
「普通はバラエティから始めます。そこで顔と名前を覚えてもらってから、芝居に行くんです」
「はい」
「高町さんは、いちばん重い順に来ました。そんな人、うちの局に前例が無いです」
犬飼さんが、机の下で椅子を少し引いた。引いた音は、俺の位置からしか聞こえなかったと思う。
◇
「は?」
ケイが立ち上がった。
椅子が後ろに倒れて、床で一度跳ねた。跳ねてから、横に転がった。
誰も拾わなかった。
ケイは自分で拾って、直して、また座った。座ったあとで、耳が赤くなった。
「……すんません」
「いえ」
桑島さんは笑わなかった。笑わないで、紙をもう一枚めくった。
◇
「番組の名前は、もう決まっています」
桑島さんは紙を裏返して、机の上を滑らせて寄越した。
紙の真ん中に、大きい字で一行だけ印刷してあった。
〈高町・鴻上の おつかれ様です!〉
◇
ケイが紙を両手で持った。持って、しばらく動かなかった。
俺は横から見た。
字が大きい。名前が二つ並んでいる。左が俺で、右がケイだった。
「あの」
ケイが顔を上げた。
「なんで俺の名前、あるんですか」
「二人だからです」
「いや、そうですけど」
「鴻上さんがいないと、この番組は成立しません。うちの局の若い連中が全員、そう言っています」
ケイは紙を机に置いた。置いて、両手を膝の上に持っていった。
その手が、握られていた。
ケイのマネージャーの人が、横から紙を覗き込んだ。覗き込んで、そのまま眼鏡を外して、目のあたりを一度押さえた。押さえてから、眼鏡をかけ直した。
誰もそっちを見なかった。俺は見た。
◇
俺は机の上の紙を取った。
「これ、もらっていいですか」
「どうぞ」
俺は紙を二つに折って、鞄に入れた。
ケイが横から見た。見ただけで、何も聞かなかった。
◇
「あとは、収録の時期なんですが」
桑島さんが言った。
「第一回は九月の下旬を考えています。中身はロケで、まだ詰めている途中なんですが、高町さんには、もしよろしければ——」
「やります」
◇
部屋が、静かになった。
桑島さんが紙から目を上げた。上げたまま、二秒動かなかった。
向こう側に座っていた六人のうち、四人がこっちを見た。宣伝の人が三人とも同時に姿勢を直した。
犬飼さんは、俺のほうを見なかった。見ないで、机の上の自分の手帳を、閉じたまま横にずらした。
有本さんがタブレットに何かを打ち込んだ。打ち込んで、途中で止まって、消した。
ケイのマネージャーの人は、手帳を開いたまま固まっていた。
◇
――自分の名前が入った番組の名前を読み上げられて、眉一つ動かさない十八歳。
◇
「……いや、あの、中身、まだ言ってないんですけど」
桑島さんが言った。
「はい」
「けっこう、体を使うやつなんですけど」
「はい」
「山です」
「はい」
「登ります」
「登ります」
桑島さんは口を開けて、閉じた。
閉じてから、隣の人のほうを向いて、小さい声で何か言った。隣の人は首を横に振った。
◇
ケイが横から俺の腕を叩いた。
「お前、いま何に返事したん」
「山だ」
「山って言われて先に返事するやつ、おらへんぞ」
「登るらしい」
「登るらしい、やないねん」
ケイは自分の椅子を少し引いた。引いて、また戻した。
◇
会議は十七時前に終わった。
人が出ていって、部屋には犬飼さんと有本さんと、俺とケイが残った。
有本さんが机の上の紙を集めていた。集めながら、数を数えている。
犬飼さんは窓の外を見ていた。
「高町」
「はい」
「この部屋だったな」
「はい」
「一年だ」
犬飼さんは、そこから何も足さなかった。足さないで、椅子から立った。
◇
廊下に出たら、社長が向こうから歩いてきた。
紙袋を提げている。中に箱が入っていて、箱の角が紙袋の底を押していた。
「高町。聞いたぞ」
「はい」
社長は紙袋から箱を出して、俺に押しつけた。
羊羹だった。
「食え」
「はい」
「今すぐ食え、という意味ではない」
社長は歩き出して、三歩で止まった。
止まって、振り返らないで言った。
「一年、続いたな」
「はい」
「続けるほうが難しいんだ。始めるのは誰でもできる」
社長はそのまま歩いていった。エレベーターのほうではなく、階段のほうへ行った。
ケイが横から箱を覗いた。
「なんて書いてある?」
「羊羹だ」
「それは見たらわかる」
◇
エレベーターの前で、ケイが壁にもたれた。
もたれて、天井を見た。天井には四角い照明が二つあって、片方の縁が黒ずんでいる。
「なあ、高町」
「なんだ」
「お前、最近ちょっと楽しそうやで」
◇
俺は否定しようとした。
口を開けた。
開けたところで、そのまま止まった。喉のあたりに、息が一つ残っていた。
エレベーターが来て、扉が開いた。
「ほら、乗るで」
ケイが先に乗った。
◇
ケイは五階で降りた。マネージャーの人が上にいるらしい。
降りる前に、こっちを見ないで言った。
「二十四日、空けとけよ」
「空いてる」
「聞いてないやろ、まだ日にち」
「二十四日だろ」
「今、俺が言うたやつやんけ」
扉が閉まった。
◇
犬飼さんの車で駅まで送ってもらった。
夕方の道は混んでいて、一つ目の信号で止まったまま、二度目の赤になった。
車のドアポケットに、小さい箱が二つ入っていた。三つ入っている日もある。今日は二つだった。
「桑島は、俺が新人のころに一度だけ一緒に仕事をした男だ」
「はい」
「あのときは、俺が頭を下げるほうだった」
犬飼さんはそれ以上言わなかった。
◇
二つ目の信号で、犬飼さんは前を向いたまま、ハンドルの下のほうを二回叩いた。
「高町」
「はい」
「この仕事、嫌いか」
◇
俺は、羊羹の箱を膝の上で持ち直した。
箱の角が、手のひらに当たっていた。
「……嫌いじゃないです」
「そうか」
信号が青になった。
犬飼さんは車を出した。出してから、それ以上は何も聞かなかった。
窓の外は、店の明かりが続いていた。続いているあいだ、車は同じ速さで動いていた。
◇
駅で降りるとき、犬飼さんが言った。
「二十四日は、朝が早い」
「はい」
「靴を用意しろ」
「靴」
「山を登る靴だ」
俺は持っていない。
◇
電車の中で、携帯が震えた。差出人は有本さんだった。
〈九月二十四日(水) 四時三十分 ご自宅前 / 登山靴をご用意ください。サイズを教えてください〉
サイズ。
俺は二十九センチである。
その下に、もう一行あった。
〈用意できない場合は、こちらで探します。ただし二十九センチは、たぶん、店に一足もありません〉
◇
電車を降りて、桜坂駅の階段を上がった。
羊羹は重い。片手で持つと持ち手が指に食い込むので、途中で持ち替えた。持ち替えたら、反対の指に食い込んだ。
駅前のパン屋の前を通ったら、明かりが半分だけ点いていた。中で人が床を掃いている。棚は空だった。
◇
玄関の扉を開けた。
開けたら、正面に妹が立っていた。腕を組んで、玄関の上がり口に立って、こっちを見下ろしている。上がり口に立っているので、俺より高い。
「兄ちゃん、今日、一年だから」
「一年」
「知らなかったの」
「知ってた」
「絶対嘘」
妹は上がり口から下りて、俺の手の紙袋を取った。取って、中を見た。中を見るのに、袋の口を両手で広げて、顔を突っ込むみたいにした。
「羊羹じゃん」
「羊羹だ」
「わたし、羊羹あんまり好きじゃない」
「食うな」
「食うけど」
「どっちだ」
「明日の朝、緑茶と一緒に食べるとおいしいって、お母さんが前に言ってた。だから明日の朝に食べる」
妹は紙袋を抱えたまま、台所のほうへ歩いていった。
羊羹は、俺がもらったやつである。
◇
台所から、においがしていた。
カレーだった。
母さんが鍋の前に立っていて、こっちを見ないで言った。
「今日、多めに作ったから」
「明日もあるのか」
「あるわよ」
二日目まである。
妹が台所に入ってきて、鍋の蓋を開けた。開けて、閉じた。
「じゃがいも入ってる?」
「入ってるわよ」
「兄ちゃんが全部取るから、わたしのぶん先に取っといて」
「まだ誰も食べてないでしょう」
「先に言っとかないと間に合わないの」
妹は皿を一枚、自分の前に置いた。置いたやつを、そのあとで鍋の近くへ動かした。動かした先には、鍋つかみが二つ重ねてある。
◇
父さんは二十時前に帰ってきた。
上着を椅子の背にかけて、座って、皿を受け取って、一口食べてから言った。
「会社でな、今日、三人に言われたぞ」
「何をだ」
「息子さん、あれ、まだ高校生なんですかって」
「高校生だ」
「そう言っといた」
父さんはカレーをもう一口食べた。
「去年の今ごろは、誰も何も言わなかったけどな」
母さんが鍋の蓋を閉めた。
閉めてから、こっちを向かないで言った。
「灯真、明日の朝は何時」
「普通だ」
「普通って何時よ」
「七時だ」
「じゃあ、二日目のぶん、朝に出すからね」
朝のカレーは、夜のカレーより濃い。鍋の中で水が飛ぶ。飛んだぶんだけ、味が下に残る。
俺は炊飯器の蓋を開けた。二膳ぶん残っている。足りない。
足りないと言うと、母さんは夜のうちにもう一度炊く。炊いたぶんは、朝には妹の弁当に入っている。
俺は蓋を閉じた。
妹が横で顔をしかめた。しかめただけで、いらないとは言わなかった。
◇
俺は部屋の扉を開けた。
開けたら、中が暗かった。明かりを点けて、鞄を床に置いた。
机の上に、羊羹の箱を置いた。置いたら、机の上の場所が半分埋まった。
◇
俺は鞄から紙を出して、机の上で広げた。
折り目が、名前と名前のあいだを通っている。押さえた手を離すと、紙はそこでまた折れた。
俺は羊羹の箱を、紙の端に載せた。載せたら、紙は開いたままになった。
箱の角が、名前を一つ隠していた。隠れたのは、俺のほうだった。




