第101話 体力おばけと呼ばれた
玄関で靴紐を結ぶのに、五分かかった。
局が用意した登山靴だった。箱から出したばかりで、革が固い。指で押しても凹まない。二十九センチが本当に届いたので、俺は少し感心した。
左を結んで、右を結んで、立ち上がった。足首が動かない。
外はまだ暗い。四時十五分である。
◇
ワゴンは四時半に来た。
有本さんが助手席から降りて、後ろのドアを開けた。二列目にケイが座っている。座ったまま目を閉じて、片手だけ上げた。
「高町さん、靴、届いてましたか」
届いた、と言う前に、三列目から声がした。
「届いてるに決まってるでしょう。履いてるじゃないの、その足に」
返事をしたのは、俺じゃなかった。
「届きました」
「よかったです。今日は、上りより下りのほうが長く感じると、ガイドの方が言っていました」
有本さんはドアを閉めた。
◇
三列目の真ん中に、赤いものが座っていた。足を組んで、窓の外を見ている。
高さは十五センチで、下に三センチの台座が付いている。台座の底には〈オリジナルフィギュア 全六種〉と型で押してあって、その下の、缶コーヒーの名前があったはずのところは、擦れて白くなっていた。
(なんでいる)
「あんたが昨日、玄関で三回言ってたのよ。四時半、四時半って」
(三回は言っていない)
「二回でも同じことよ」
人形は窓の外へ顎を向けた。向けたまま、しばらく黙っていた。
「山に登って、それをテレビで流すのね」
(そうらしい)
「登るところを、二時間」
(二時間だ)
「わたしの出た時代にも、そういう仕事はあったのよ。人が困っているところを撮るの。困り方が上手な人は、それだけで一生食べていけたわ」
有本さんが、運転席の後ろから三列目へ手を伸ばした。折り畳みの傘が置いてある。
手が来る前に、人形が横へ一歩ずれた。
有本さんは傘だけ取って、前に戻った。人形は、ずれたところに立ったままだった。
俺はシートに背中をつけた。窓の外は暗くて、街灯だけが等間隔で流れていった。
◇
ケイは目を閉じたまま喋った。
「俺、今日、二時半に起きてん」
「早いな」
「早いやろ。髪だけ整えて出てきた。山やのに髪整えてどうすんねんて、車に乗ってから気づいた」
ケイはそこで目を開けた。開けて、俺の足元を見た。
「お前、なんでそんな新品なん」
「もらった」
「俺のは事務所の倉庫にあったやつやで。片方だけ底がすり減ってて、平らなとこ歩いても勝手に曲がんねん」
ケイはもう一度目を閉じた。閉じて、五分で寝た。
◇
有本さんが、信号で止まったときに紙を一枚寄越した。
進行表だった。
〈四時三十分 自宅前/七時 登山口/十一時二十分 山頂/十五時 下山/十九時 解散〉
時刻だけが並んでいて、そのあいだに何をするのかは書いていない。
「有本さん、あいだは何をするんですか」
「歩きます」
「ずっとですか」
「ずっとです」
◇
登山口に着いたのは七時前だった。
舗装が終わったところに車が五台停まっていて、その横にテントが一つ張ってあった。テントの下で、スタッフが機材を地面に並べている。
空気が冷たい。九月なのに、息が少し白く見えた。
俺は車を降りて、地面を一度踏んだ。土が柔らかい。靴の底が半分沈んで、そこで止まった。
◇
ADの人が、名簿を持ってワゴンのところへ来た。
開いたドアから中を覗いて、指で一人ずつ差した。二列目にケイ、助手席に有本さん、運転席に局の人。それに、いま降りた俺を足す。
「車、四人ですね」
「四人です」
有本さんが答えた。
ADの人は名簿に線を引いて、次の車へ行った。
三列目の真ん中で、赤いものが足を組み替えた。組み替えた膝は、いまADの人の手があったところの、すぐ横にあった。
◇
有本さんは車の横に残った。
「わたしはここにいます。上には行きません」
「はい」
「登れないので」
「はい」
「一度、社員旅行で試したんです。三十分で、みんなに置いていかれました」
有本さんはタブレットを助手席に戻して、ドアを閉めた。
◇
ガイドの人がいた。
五十代くらいの男の人で、日に焼けていて、帽子の縁が白くなっている。首から笛を提げていた。
「高町さん、鴻上さん。今日はよろしくお願いします」
「お願いします」
「今日は雨の心配はないです。ただ、上のほうは風が出ます。上着は途中で脱いで、頂上の手前でもう一度着てください」
「はい」
「それを守ってもらえたら、あとは何も言いません」
ガイドの人は笛を服の中に入れた。
◇
ディレクターの人が走ってきた。
「高町さん、今日の企画、説明します」
「はい」
「登ります」
「はい」
「以上です」
ディレクターの人は紙を持ったまま、少し困った顔をした。
「……いや、すみません、本当に以上なんです。登るところをずっと撮るだけなので」
「わかりました」
「わかってもらえると助かります。僕は昨日、会社で三回説明して、三回とも変な顔をされました」
◇
カメラは二台だった。
一台は前を歩いて、後ろ向きに撮る。もう一台は後ろから付いてくる。
前のカメラの人は、俺より先に歩いて、俺より先に止まって、俺を撮る。それを朝から夕方までやるらしい。
◇
歩きはじめて、三十分が経った。
道は最初、平らだった。平らなところが終わって、木の根が段になっているところに入った。
ケイは俺の前を歩いていた。
「余裕やな、こんなん」
「そうだな」
「俺、中学のとき陸上部やってん。短距離やけど」
ケイは振り返って言った。振り返って言うので、足元を見ていない。
根に躓いた。
◇
一時間で、ケイは俺の後ろに来た。
一時間半で、ケイは喋らなくなった。喋らなくなったあとも、足音だけは俺の後ろで続いていた。歩幅が短くなって、そのぶん、音の間隔が細かくなった。
二時間で、前のカメラの人が横にどいた。どいて、膝に手をついて、そのまま動かなくなった。後ろから来たADの人が、カメラを受け取って、代わりに前へ回った。
ADの人は十分もった。
◇
制作進行の人が、列のいちばん後ろで荷物を配り直していた。
俺は横を通った。
「持ちますか」
「大丈夫です」
「持てます」
「いや、あの、高町さんに持たせたって聞いたら、うちの部長が倒れるので」
その人は笑った。笑ってから、少し咳をした。
◇
ガイドの人が俺の横に来た。
「高町さん、水は飲んでますか」
「飲んでます」
「歩きながら飲まないでください。立ち止まって飲んでください」
「はい」
「歩きながら飲む人は、たいてい後半で足が止まります。わたしは足が止まった人を下ろすのが仕事なので、そうならないほうが楽です」
ガイドの人は水筒を出して、その場に立ち止まって飲んだ。俺も立ち止まって飲んだ。
飲んでいるあいだに、後ろの列が三人ぶん詰まった。詰まった三人は、詰まったところで座った。
◇
ケイの声が、後ろから聞こえた。
「トーマ、お前、しんどないんか」
「しんどい」
「嘘つけ。顔が一緒やんけ」
顔は変わらない。足は重い。
「なんか喋れや。喋ってたら気ぃ紛れるやろ」
「握り飯が出るらしい」
「食いもんの話はやめてくれ。上がってくんねん、いろんなもんが」
ケイは口を手で押さえた。押さえたまま、五歩だけ足を速めて、また元の速さに戻った。
◇
三時間目に入ったところで、道が岩になった。
手を使う。片手で足りるが、みんな両手を使っていた。両手を使うと、荷物を背負っている人は背中が重くなる。重くなったぶんだけ、足が遅くなる。
俺は片手で登った。もう片方の手は空いていた。進行表はポケットの中で、角が折れていた。
◇
十一時二十分に、上に出た。
上は平らだった。
岩が転がっていて、そのあいだに草が生えている。向こう側に、山が並んで見えた。手前のほうが濃くて、遠いほうが薄い。
風が来る。ガイドの人の言ったとおりだった。
俺は上着を着た。
◇
みんな座った。
上に着いた順ではなく、荷物を下ろした順に崩れていった。
座らなかったのは、ガイドの人と、俺と、遅れている人を待っているADの人だけだった。
◇
握り飯が配られた。
保冷バッグから出てきたやつで、一人一つずつだった。俺は一つ受け取って、その場で食べた。
食べ終わったら、隣に座っていたスタッフの人が、自分のぶんをこっちへ差し出した。
「僕、今、無理なんで」
「いいんですか」
「はい。それ食べてる人を見てると、ちょっと戻ってくるので」
俺は二つ目も食べた。
◇
ディレクターの人が、両手を膝について立ち上がった。
立ち上がって、しばらく前に進めなかった。進めないまま、こっちを向いて言った。
「高町さん。最後、ここで一曲お願いします」
「一曲」
「打ち合わせで言いました。二回言いました」
二回聞いた覚えがある。中身は残っていない。
「歌うのは、上でないと駄目なんですか」
「上でないと、絵が違います」
◇
俺は立った。
立ったところで、周りを見た。
岩に背中をつけて座っているのが四人。地面に直接座っているのが六人。膝を抱えているのが二人。うつ伏せになっているのが一人。
十三人が座っていて、そのうち十三人が動かない。
顔だけが、全部こっちを向いていた。
◇
山の音が遠のいた。
輪郭がはっきりした。
背筋が伸びた。
俺は歌った。
伴奏は無い。出だしの高さは自分で決める。息を吸って、吐く量を先に決めた。決めた量のまま、最初の一行を出した。
カメラが二台、正面と横から回っている。正面のレンズの中に、俺の上着の襟が映っていた。襟は片方だけ立っている。立っているほうから風が入っていた。
風は上から来た。声は後ろへ流れた。流れたぶんだけ、前に出した。前に出すと、喉ではなく腹の下のほうが硬くなる。硬くなったところを、そのまま押し続けた。
足の裏に、岩の傾きがあった。左のほうが少し低い。低いほうへ体が寄るので、右の膝で押し返した。押し返しているあいだ、右の膝だけが熱かった。
目の前に、座っている人が十三人いる。いちばん近い人の膝の上に、握り飯の包み紙が載っていた。開いたままで、風で端が持ち上がって、また落ちた。持ち上がって、落ちた。もう一度持ち上がって、また落ちた。
その向こうに、岩が三つ転がっている。さらに向こうに、山が四つ重なっていた。手前から二つ目のところを、雲の影が一つ、右から左へ動いていった。影が端まで動いても、まだ途中だった。
十三人とも、姿勢を変えなかった。ADの人の無線機が、腰のところで一度だけ鳴った。鳴った音は風の中に入って、すぐ聞こえなくなった。
最後の一行のところで、風がやんだ。
やんだので、声だけが残った。残った声は向かいの斜面まで行って、そこから戻ってこなかった。
握り飯は、もう一つも残っていない。
◇
進行表の上では、ここは〈十一時二十分 山頂〉という一行である。
◇
ADの人が、無線機を口元まで持ち上げて、そのまま下ろした。カメラの人は、撮ったまま構えを変えなかった。ガイドの人は帽子を取って、それを膝の上に置いた。
風がもう一度来て、草が全部同じ方向へ倒れた。
ディレクターの人は、次の指示を出す位置に立っていた。立っていたが、手に持った紙を一度も見なかった。見ないまま、紙を反対の手に持ち替えて、それからもう一度、元の手に戻した。
制作進行の人が、下ろした荷物を並べ直しはじめた。並べ直す必要のあるものは、一つも無かった。
◇
最初に喋ったのは、握り飯をくれたスタッフの人だった。
「……僕、いま、立てないんですけど」
「はい」
「立てないままで、腕に鳥肌が立ってて、それがすごい嫌です」
その人は自分の腕をこすった。
◇
ケイは、いちばん端の岩の上にいた。
両足を投げ出して、後ろに手をついて、上を向いている。上を向いたまま、俺のほうを見なかった。
ケイが言った。
「俺、ここまで三時間かかってんねん。三時間かけて登ってきて、着いた瞬間に座り込んで、そのまま座って聞いてた」
ケイは手をついたまま、体を起こした。
「立ちたかったわ」
ケイは立たなかった。
◇
ディレクターの人は、モニターを覗き込んだまま動かなかった。
隣の人と何か言い合っている。言い合いながら、二人とも一度も画面から目を上げない。
上げたときに、こっちへ来た。
「高町さん。テロップ、入れていいですか」
「テロップ」
「画面の下に出る字です。〈体力おばけ〉って入れます」
「体力おばけ」
「登ってるところに出します。すみません、それしか思いつかなかったです」
「歌うところではないんですか」
「歌のところは、字を出さないです。出したら邪魔になるので」
俺は体力おばけらしい。
◇
下りは、上りより速かった。
速いが、膝に来る。前のカメラの人は、下りでもう一度交代した。
ケイは俺の後ろを、両手を前に出したまま下りてきた。二回滑って、二回とも尻をついた。
◇
途中で道が二つに分かれていた。
俺は左へ歩き出した。
後ろで笛が鳴った。
「高町さん、右です」
「右ですか」
「右です。左は、上の別の山へ行きます」
ガイドの人は、笛を口から離して、服の中に戻した。
カメラの人が、俺の左足のあたりを撮っていた。
◇
十五時に、登山口へ戻った。
舗装のところへ足を乗せた瞬間に、膝から下が自分のものでなくなった。
俺は車のドアに手をついた。ついたまま、少し待った。
「高町さん、大丈夫ですか」
「歩けます」
「歩けてないです」
「歩けます」
有本さんはドアを開けて、そのまま何も言わなかった。開けたドアを持ったまま、俺が座るのを待っていた。
ディレクターの人が、窓の外側に小さいカメラをくくりつけていた。
「帰りも回します。すみません、これも仕事なので」
「はい」
「何も映らなかったら、それはそれで使います」
◇
俺は二列目に座った。
座ったら、足が上がらなかった。靴を脱ごうとして、紐に指をかけて、そこで手が止まった。
俺は目を閉じた。
◇
起きたら、家の前だった。
窓の外に、家の門灯が見えた。有本さんがドアを開けている。ケイはもういない。どこで降りたのかを、俺は見ていない。
「高町さん、オンエア、十月八日の水曜です。十九時から二時間です」
「はい」
「二時間です」
有本さんは、それ以上は付け足さなかった。
◇
俺は玄関で登山靴を脱いだ。
脱ぐのに、履くときより時間がかかった。紐を緩めて、踵を押さえて、片方ずつ引き抜いた。
抜いたら、中から小石が二つ出てきた。片方は爪くらいで、もう片方はもっと小さい。指で押すと、廊下の板の上を少しだけ転がった。
上から下まで、俺は一度も靴を脱いでいない。それでも二つ入っていた。
俺は小石を靴の横に並べた。並べて、そのままにした。
◇
妹が階段を下りてきた。
下りてきて、いちばん下の三段を残して止まった。止まって、玄関の靴を見た。
「兄ちゃん、その靴」
「登った」
「登ったって、どこまで」
「上までだ」
妹は残りの三段を下りた。下りて、靴のところにしゃがんだ。しゃがんで、片方を持ち上げて、底を見た。
「泥」
「そうだ」
「これ、洗うの誰」
「知らん」
「これ、いつやるの」
「十月八日だ。七時から二時間だと言われた」
「二時間?」
「二時間だ」
「二時間ずっと歩いてるだけの番組を、うちの学校の人がみんな見るんだけど。わたし、その日から何を言われるかわかんないんだけど」
妹は靴を元の場所に戻した。戻して、階段を上がっていった。
上がりきったところで、妹が携帯を耳に当てた。
「もしもし。うちの兄ちゃん、山に登ったんだけど」




