第102話 中身が全国に流れた
昼休みに、熊沢が俺の机へ自分の弁当箱を置いて、教室の時計を指した。
「今夜、七時から二時間やろ」
「そうだ」
熊沢は自分の質問に自分でうなずいた。うなずいてから、弁当箱の蓋を開けた。
「俺、うちの母ちゃんに言われてん。今日は録画するから、あんたは口を開くなって。俺、この家の息子やねんけどな」
語尾が向こうのものになっている。
◇
後ろの席の男が振り返った。
「二時間、なにやんの」
「歩いてた」
その男は前を向いた。前を向いて、隣の席の女子に何か言った。言われたほうが、俺のほうを振り返った。
振り返って、両手を膝に置いて、顎を引いた。
周りの四人が笑った。やっている本人は、笑っていない。笑わないところまでやるようになっている。
早坂が斜め前の席から振り向いた。
「高町くん、あの、うち、今日、家族で見ます」
「そうか」
「お父さんが早く帰るって言ってて、それが今年で二回目です」
早坂は下敷きで自分の顔の半分を隠した。
◇
美咲が窓側から歩いてきた。
歩いてきて、俺の机の前で止まって、鞄から紙を一枚出した。
「明日の日直、変わっておいたから」
「変わってない」
「変わったの。あなたが明日の朝、黒板の前に立ってると、授業が始まらないのよ」
「始まる」
「今日の夜のあとは、始まらないと思う」
美咲は紙を俺に渡した。渡すときに、こっちが受け取るまで手を離さなかった。
俺が持ったところで、離した。離して、自分の席には戻らないで、そのまま教室を出ていった。出ていく前に、教室の後ろの黒板を一度だけ見た。
紙は明日の当番表だった。俺の名前のところに、線が一本引いてある。線は定規で引いてあった。
◇
放課後、事務所へ寄った。
四階の廊下で、有本さんが台車を押していた。台車の上に、段ボールが三つ載っている。
「高町さん、今日は何も予定を入れてません」
「はい」
「犬飼が、家で見ろと言っていました」
「はい」
「わたしは、ここで見ます」
有本さんは台車を壁に寄せた。寄せて、いちばん上の段ボールの蓋を開けて、中を見て、また閉じた。
「その箱、何が入ってるんですか」
「電話機です」
「電話機」
「明日の朝までに、この階に三台増やします」
「増やすんですか」
「増やしておくと、増やさなくてよかったねと言えます。増やさないでおくと、明日の昼に、わたしが三往復します」
有本さんは台車の持ち手を握り直した。握り直したら、上の段ボールが少し前へ滑った。
廊下の奥で、宣伝の人が電話を切って、切ってすぐにまた掛けていた。掛けながら、こっちへ手を上げた。上げた手を、そのまま自分の耳の横へ戻した。
◇
犬飼さんは会議室2の前に立っていた。
ドアを開けたまま、中を見ている。中には誰もいない。六人しか入らない部屋の机の上に、線の巻かれた電話機が一台だけ出してあった。
「高町」
「はい」
「今日は帰れ」
「はい」
「明日は、たぶん、忙しい」
犬飼さんはドアを閉めた。閉めてから、上着のポケットに手を入れて、そのまま出した。
出した手で、ドアのノブをもう一度確かめた。
◇
家に着いたのは十八時半だった。
茶の間のちゃぶ台が、いつもより壁から離れていた。座布団が四枚並べてある。テレビの正面に三枚、横に一枚。
妹が横の一枚に座っていた。
「兄ちゃん、そこ」
「どこだ」
「真ん中。真ん中で見て」
俺は真ん中に座った。座布団は薄い。下の畳の目が尻に来る。
母さんがリモコンを俺に渡した。渡されたリモコンは、電池の蓋がテープで留めてある。テープは去年から同じ位置に貼ってあって、端のほうが茶色くなっていた。
◇
十九時になった。
◇
最初に出たのは、四時半の俺の家の前だった。
暗い道に門灯が一つ点いていて、そこへワゴンが入ってくる。ドアが開いて、俺が乗る。
母さんが声を出した。
「うち、映ってる」
「映ってる」
「玄関、片付けとけばよかった」
「玄関は映ってない」
「門から中は、見えてるでしょう」
妹が横から画面を指した。
「自転車、映ってる」
「映ってる」
「前の輪、潰れてるやつ。全国で潰れてる」
◇
登りが始まった。
画面の下に〈体力おばけ〉と出た。出たまま、なかなか消えなかった。
父さんが茶を一口飲んだ。
「これ、ずっとこれか」
「ずっとだ」
「二時間か」
「二時間だ」
ケイが画面の中で膝に手をついていた。ついたまま、カメラのほうへ何か言っている。字幕が出た。〈もう無理です〉と出た。
そのすぐあとに、俺が後ろから普通に歩いてきて、ケイを追い越した。
妹が畳を叩いた。
「ひどい」
「何がだ」
「ひどいって、番組が。追い越したとこ、わざとくっつけてるでしょ、いま」
「くっつけてた」
「鴻上さん、かわいそうじゃん」
画面の中のケイは、そのあとで顔を上げて、カメラに向かって何か叫んでいた。字幕は〈こいつ人間ちゃう〉と出た。
母さんが茶碗を置き直した。
「この鴻上さんって人、面白いのね」
「面白い」
「あなたより喋るのね」
「みんな俺より喋る」
◇
俺は、どの場面が使われるかを考えていた。
登りは長い。長いぶん、削られる。削られるなら、次に来るのは山頂である。山頂の次は握り飯だ。
握り飯が流れる前に、妹を二階へ上げておいたほうがいい。
上げるには、いま画面を止めて、何か理由を作る必要がある。
俺の手にはリモコンがあった。
◇
握り飯の場面が流れた。
◇
俺は一つ目を食べていた。
食べ終わったところで、隣の人が自分のぶんを差し出す。俺はそれを受け取って、二つ目を食べる。
二つ目を食べているところは、二回流れた。二回目は、ゆっくりだった。ゆっくりのほうには、音楽が付いていた。
妹が座布団の上で正座に直した。
「今の、なに」
「握り飯だ」
「二個目じゃん」
「二個目だ」
「もらってたじゃん、人から。全国で、人からもらって食べてたじゃん」
母さんが台所のほうを向いて笑った。父さんは何も言わないで、茶をもう一口飲んだ。
◇
妹の携帯が光った。
置いてあった場所で、伏せたまま光った。消えて、また光って、三度目は長く光ったままだった。
妹は裏返して、画面を見て、また伏せた。
「もう三人」
「三人か」
「兄ちゃんが二個食べたって、三人から来た。うちのクラスの子が二人と、部活の子が一人」
妹は携帯を座布団の下に入れた。入れてから、五秒で出した。
◇
山頂の場面が続いた。
画面の中で、俺が立ち上がった。座っている人が十三人いて、その真ん中で一人だけ立っている。
字幕は出なかった。〈体力おばけ〉も消えた。
◇
歌が流れた。
茶の間の音が、テレビの音だけになった。
父さんは湯呑みを持ったまま、口まで運ばなかった。母さんは立ち上がりかけて、そのままの姿勢で止まった。妹は座布団の上で膝を抱えて、テレビの下のほうを見ていた。
テレビの低い音が出ていない。風の音がほとんど消えて、声だけが残っていた。
◇
歌が終わって、画面が引いた。
引いたところで、山が全部映った。
妹が膝から顔を上げた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「わたし、いま、腕がすごいことになってる」
妹は自分の腕を父さんのほうへ突き出した。父さんは湯呑みを置いて、その腕を見て、それから自分の腕を見た。
「俺もだ」
「お父さんのは、いつもでしょ」
「いつもじゃない」
母さんは何も言わないで台所へ立った。立って、水を出して、そのまま止めた。
◇
二十時を過ぎて、下りの場面になった。
道が二つに分かれているところで、俺が左へ歩き出した。
笛が鳴った。
画面が止まって、俺の左足のところに丸が付いた。丸は、俺の足と一緒に左へ動いていった。
妹が座布団から横へずり落ちた。
「なんで」
「右だった」
「ガイドさんが言ってたじゃん、さっき」
「言われたのは、そのあとだ」
「言われる前に行かないでよ。全国で反対に歩かないでよ」
妹は畳に手をついたまま、しばらく起き上がらなかった。
母さんが台所から戻ってきて、妹の背中を一度叩いた。叩いて、自分の座布団に座り直した。
「灯真、あなた、小学校の遠足のときも、一人だけ違う門から出たわよね」
「出た」
「先生から電話が来たのよ」
父さんが横で笑った。笑って、湯呑みを持ち上げて、中が空なのに気づいて、置いた。
画面の中では、ガイドの人が笛を服の中に戻していた。
◇
テレビの前から見れば、全国に中身をさらされている十八歳だが、当人はさっきから、二個目の握り飯の味を思い出していただけだった。
◇
俺は立ち上がった。
「どこ行くの」
「コンビニだ」
「今?」
「今だ」
妹が畳の上から俺の足首を掴んだ。掴んだ手を、俺は外した。
◇
外は暗かった。
俺はイヤホンを両方入れて、歩いた。
家の前の道は、この時間になると人より自転車のほうが多い。今日は、その自転車も少なかった。角の家の窓が明るくて、中でテレビの光が動いているのが、レースのカーテン越しに見えた。
道は空いている。すれ違った自転車が一台、俺の横で速度を落として、そのまま行った。
落とした速度が、行ったあとでもう一度落ちた。後ろで、ブレーキの音が二回鳴った。
◇
コンビニの肉まんは、十月から出る。
俺は二つ頼んだ。
レジの人が蒸し器の扉を開けて、トングを入れて、そこで手を止めた。止めて、俺の後ろのほうを見た。
俺も振り返った。
店の奥の天井に、小さいテレビが付いていた。音は出ていない。
画面の中で、ワゴンの窓の内側に俺が映っていた。
◇
俺は口を開けて寝ていた。
首が横に倒れていて、シートベルトのところに顎が乗っている。倒れた首が、車が曲がるたびに反対側へ動いて、また戻る。
字幕が出た。〈おつかれ様です〉と出た。
◇
レジの前に、客が三人並んでいた。
三人とも、俺の後ろの天井を見ていた。
いちばん前の人が、俺の顔を見て、それから天井を見て、それからもう一度俺の顔を見た。
「あの、本人ですか」
「本人です」
「……口、開いてますよ」
開いていた。
その人は自分の言ったことに自分で驚いた顔をして、財布を出して、そのまま何も買わずにレジを離れた。離れてから、戻ってきた。
「すみません、いま、失礼なこと言いました」
「言ってないです」
「言いました。テレビの人に、口が開いてますよって、面と向かって言いました」
「開いてました」
「開いてても、言わないんですよ、普通は」
その人は自分の買うものを二つ取って、また列に並んだ。並び直したところが、いちばん後ろだった。
◇
レジの人が袋の口をねじった。ねじって、テープを貼った。
「うち、二十四時間やってるので」
「はい」
「テレビ、ずっと点いてるんです。だから、たぶん、今日はあと三回くらい見ます。夜勤の人とも見ます」
その人は肉まんの袋を俺に渡した。渡すときに、両手で渡した。
◇
帰り道で、肉まんを歩きながら食べた。
一つ目は、歩き出す前に終わった。二つ目は、家の前まで持った。
イヤホンは入れたままにしていた。何も鳴っていない。鳴っていないほうが、外の音が減る。
家の前まで来て、玄関を開けないで、一度、窓を見上げた。
茶の間の明かりがついていた。中で妹が動いているのが、カーテン越しにわかった。動き方が大きい。
◇
俺は二階の部屋に入って、ドアを閉めた。
電気を点ける前から、そこだけ色があった。
机の端に、赤いものが立っていた。腕を組んで、窓のほうを向いている。
「見なかったのか」
「見たわよ。あの箱の前に、四人も座って」
「三人だ。俺を入れて四人だ」
「一人多いのよ。あんたが向こう側にもいるんだから」
人形は組んでいた腕を下ろした。下ろすと、台座の縁が机の木に当たって、小さい音がした。三センチの台座である。
「あんた、あれで平気なの」
「何がだ」
「口を開けて寝ているところを、知らない人が何百万人も見たのよ」
「腹が減ってた」
「そこは関係ないでしょう」
「関係ある。朝に何も食ってない」
人形は机の端を三歩だけ歩いた。歩いて、止まって、こっちを見上げた。
「あんた、明日は事務所でしょう」
「明日だ」
「みんな、あんたに何か言うわよ」
「何をだ」
「知らないわよ。言う側にも、まだ言葉が無いんだから」
(言葉が無いのに、何か言うのか)
「言うわよ。無いほうがよく喋るの」
人形は机の端に腰を下ろした。腰を下ろすときに、ドレスの裾を両手で膝の下へ入れた。
「……あんた、その調子でいなさいよ」
◇
俺はイヤホンを抜いた。
抜いたら、下から音が入ってきた。テレビの音と、妹の声と、妹の携帯の音が、一度に上がってきた。
妹が誰かに向かって、二個、と言っている。
◇
机の上で、携帯が鳴った。
画面に有本さんの名前が出ていた。
「高町さん、電話が十四本ありました」
「はい」
「オンエアが始まってからです。局からと、代理店からと、あとは、うちに直接かかってきたぶんです」
「はい」
「十四本です」
有本さんは、そこで一度息を吸った。
「明日、事務所に来られますか」
「行けます」
「明日です」
「はい」
電話が切れた。
◇
俺は机の上の紙を一枚どけて、その下から進行表を出した。
山でポケットに入れたままだったやつで、角が折れている。時刻だけが並んでいる。〈十九時 解散〉のところまで、全部そのとおりに終わっていた。
◇
俺は椅子に座らないで、床に座った。
膝を立てて、そこに片方の腕だけ載せた。空いているほうの手に、イヤホンが片方だけ残っている。残りの片方は、コードの先で机の下へ落ちていた。
下からは、まだ音がしていた。テレビは消えている。残っているのは、妹の声と、妹の携帯の音だけだった。
俺は落ちているほうを拾わなかった。




