第103話 崩れたら、上がった
通されたのは会議室2で、そのあと二時間、誰も来なかった。
六人しか入らない部屋である。机が一つと、椅子が六つ。壁には何も貼っていない。窓は無い。
俺は入口から二つ目の椅子に座って、待った。
九時十分に入って、十一時十分になった。
黒板に字が入っていた。〈10/9(木) 高町 公欠〉。今朝、教室に入る前に、もう入っていた。書いたのは、たぶん、定規を持っているほうだ。
◇
二時間のうちに、俺は椅子を三回替えた。
入口から二つ目、机の角、それから壁側のいちばん奥。奥のやつは座面が低かった。低いぶん、腰が楽だった。
鞄の中には、朝に妹が押しつけてきたパンが二つ入っている。俺は鞄を開けて、閉じた。
十時になった。十一時になった。
◇
部屋にはポットが置いてあった。
紙コップが伏せて重ねてあって、その横に、緑茶のティーバッグの箱がある。中を数えたら、二つしか残っていなかった。
俺は一つ使った。
残りは一つになった。
◇
部屋の中には、昨日まで無かったものが一つあった。
電話機である。
机の端に置いてあって、線が壁の下のほうへ伸びている。線は新しい。
電話機は、二時間で一度も鳴らなかった。俺は受話器を一度持ち上げて、音がすることだけ確かめて、戻した。
◇
十一時十五分に、ドアが開いた。
入ってきたのは有本さんで、両手に紙の束を持っていて、脇にタブレットを挟んでいた。
「高町さん、お待たせしました」
「はい」
「その紙、昨日の夜からのぶんです」
「はい」
「二十一行あります」
有本さんは紙の束を机に置いた。置いたら、上の五枚が横にずれた。
「有本さん、その紙は何ですか」
「わたしが受けた電話の、相手と時刻です」
「中身は」
「わたしは中身を書きません」
「なぜですか」
「中身を書くと、書いた人の考えが混ざります。わたしは、相手と時刻だけを書きます。そうすると、あとで誰が読んでも同じものになります」
有本さんは束の上から二枚目を指で押さえて、まっすぐに直した。
◇
有本さんは椅子に座らなかった。
立ったまま、タブレットを開いて、指を二回動かした。
「今日、この部屋に何人か来ます。順番は決まっていません」
「はい」
「決まっていないので、わたしがドアの前で並べます」
「並べるんですか」
「三人が同時にこの部屋へ入ると、六人の椅子が埋まります。埋まると、高町さんが出られなくなります」
有本さんは椅子の一つを机の下へ押し込んだ。押し込んで、入口までの幅を目で測った。
「あと、飲み物は自分で入れてください。わたしが入れて持ってくると、その時間ぶん、電話が溜まります」
有本さんは出ていった。
出ていく前に、電話機のコードを一度手で押さえて、机の脚に掛かっていないことを確かめた。
◇
最初に来たのは、宣伝の人だった。
二十代の女の人で、俺は名前を三回聞いたが、三回とも聞いた直後に別の話が始まった。
その人は俺の向かいに座って、紙を一枚こっちへ滑らせた。
「高町さん、これ、うちで集めたものです」
「はい」
「番組の感想を、書き出してあります。全部は無理なので、多かったものだけです」
紙には、短い文が三十行くらい並んでいた。
俺は上から順に読んだ。
◇
読んだ。
〈二個食べた〉と書いてある。
〈道を間違えた〉と書いてある。
〈口が開いていた〉と書いてある。
〈山の上のところで、家族が全員黙った〉と書いてある。
〈父が、テレビの前で正座した〉と書いてある。
〈明日、学校でみんな握り飯を二個持ってくる〉と書いてある。
三十行のうち、俺の名前が入っているのは四行しかなかった。あとは、書いた人の家の話だった。
◇
俺は紙を机に戻した。
「どうですか」
「読みました」
「感想は」
「二個食べました」
宣伝の人は口を開けて、閉じた。
「……はい。二個でした」
◇
その人は紙をもう一枚出した。
「うちの会社に、昨日の夜から問い合わせが来てるんですけど」
「はい」
「内容が、去年と全然ちがうんです。去年は、あの子は誰ですか、でした」
「今年は」
「あの子は、あんな人だったんですか、です」
その人は自分で言って、自分で首を傾げた。
「わたし、この仕事を六年やってますけど、崩れて上がったのは初めてです。普通は、崩れたら下がるんです」
◇
わからん。
◇
その人は、そのあとで手帳を開いた。
「一つだけ、困ってることがあります」
「はい」
「うちが去年から使ってる紹介の文が、使えなくなりました」
「文」
「〈一切笑わない〉です。それを頭に置いて、そのあとに仕事を並べる形でした。昨日から、それを置くと、下の仕事が全部おかしく見えます」
その人は手帳を閉じた。閉じて、また開いた。
「わたし、今朝、その一行を消して、二時間、次の一行が出てこないです」
◇
その人は椅子の背を二回叩いた。
「高町さん、宣伝から一つ、いま出させてください」
「はい」
「今の高町さんを、そのまま出すか、元に戻すかです」
「元」
「一切笑わない人、です。九月まで、その形で仕事が来ていました」
「はい」
「ご本人としては、どっちがいいですか」
俺は答えなかった。
答えなかったのは、どっちも同じだからだ。歩いたのも、二つ食べたのも、道を間違えたのも、全部やった。
「……あの、聞き方が悪かったです。すみません」
その人は紙をまとめて鞄に入れた。入れてから、ドアのところで一度止まった。
「わたし、戻すほうがいいとは言ってないです。出さないと決めるのは怖いので、言っておきます」
その人は出ていった。
◇
十二時に、有本さんが弁当を持ってきた。
持ってきて、机に置いて、そのまま出ていった。
俺は弁当の蓋を持ち上げた。持ち上げたところで、電話機が初めて鳴った。
鳴って、四回で切れた。誰も取らなかった。俺は取らなかった。
二分あとに、もう一度鳴った。
今度は、七回鳴っても止まらなかった。
◇
俺は箸を置いて、受話器を取った。
「はい」
「あ、東都テレビの桑島です。えっと、そちら、どちら様でしょうか」
「高町です」
「高町さん」
「高町です」
受話器の向こうで、椅子の動く音がした。
「……いや、失礼しました。番号を一つ間違えました。犬飼さんの内線を押したつもりでした」
「はい」
「せっかくなので、一つだけ言っていいですか」
「はい」
「昨日のあれ、うちの局の編成の人間が、今朝、会議で二回、握り飯の話をしました。会議は編成の会議です。握り飯の会議ではないです」
電話が切れた。
◇
俺は受話器を戻した。戻すときに、コードが机の角に引っかかって、置いた受話器が一度浮いた。
◇
午後、最初に入ってきたのは社長だった。
ドアを開けて、上半身だけ入れて、部屋を見回した。
「高町。飯は食ったか」
「食いました」
「そうか」
社長はドアを閉めて、行った。
三秒でもう一度開いた。
「昨日のは、見た」
「はい」
「口が開いていた」
今度は閉まったままだった。
◇
十三時半に、溝口さんが来た。
局の外なのに、今日も首にヘッドホンを提げている。座る前に、椅子を机からいったん離して、座ってから自分で元へ戻した。
「高町くん、僕、うちの局の番組じゃないほうの人間なんですけど、今日、朝から三本、電話が来ました」
「はい」
「三本とも、別々の会社です。三本とも、同じことを聞かれました」
「何をですか」
「あれ、仕込んでますよね、って」
溝口さんは椅子を斜めにして、背もたれの角に肘を掛けた。
「仕込んでないですって答えたんですけど、三回目で、僕も自信が無くなってきました」
「仕込んでないです」
「ですよねえ」
◇
溝口さんは、そのあとで机の上の紙を一枚だけ見た。
見て、指で〈山の上のところで、家族が全員黙った〉のところを押さえた。
「高町くん。この行だけ、他のと種類が違います」
「違いますか」
「他のは、高町くんが何をしたかの話です。この行は、見てる側が何をしたかの話です」
「わかりません」
「僕もです。僕は、こういうのが出てきた番組を、二本しか知らないです」
溝口さんは立ち上がった。
「僕は今日、これを言いに来ただけです。呼ばれてもいないのに来ました」
「二本というのは、どの番組ですか」
「言いません」
「なぜですか」
「一本は十年前で、もう一本は二十年前です。どっちも、そのあと三年で終わってます。だから言いません」
溝口さんはヘッドホンを首から外して、手に持った。持ったまま、ドアの前まで行った。
「高町くん。今日は、たぶん、いろんな人がここに来ます。全員、違うことを言います」
「はい」
「全員、自分の持ち場の話をしてるだけです。それだけ覚えといてください」
溝口さんは出ていった。ヘッドホンは、首に戻さないまま行った。
ドアが閉まってから、廊下の向こうで溝口さんが誰かと喋る声が聞こえた。中身はわからない。声の高さだけが、部屋の中で喋っていたときより上がっていた。
◇
十四時に、犬飼さんが入ってきた。
入ってきて、ドアを閉めて、俺の斜め向かいに座った。座って、机の上の紙の束を一度も見なかった。
「高町」
「はい」
「昨日、何時に寝た」
「十一時です」
「そうか」
◇
犬飼さんは、しばらく黙っていた。
黙ったまま、電話機のほうを見た。
「東都の桑島から、朝に電話が来た」
「はい」
「あの人は、三十年あの局にいる。三十年いる人間が、朝の八時に俺の携帯へかけてきて、最初に言ったのが、わからん、だった」
犬飼さんは、そこで一度言葉を切った。
「わからんが、次を作りたい、と言っていた」
◇
「なんて答えたんですか」
「俺が、か」
「はい」
「順番を決めさせてくださいと言った。三十年いる人間に、二年の人間が言うことじゃない」
「怒られましたか」
「そうしろと言われた」
◇
俺は聞いていた。
犬飼さんは机の上で指を一度だけ鳴らした。
「高町。昨日のあれで、何かやったか」
「歩きました」
「それだけか」
「握り飯を二つ食べました」
「知っている」
犬飼さんは背中を椅子へ預けた。預けて、電話機のほうへ目をやった。線を留めている灰色のテープが、床の縁で一枚だけ浮いている。浮いた下に、埃が細く溜まっていた。
「俺は、二年やってる。二年やって、今日はじめて、自分の担当が跳ねた理由を人に説明できない」
犬飼さんは電話機から目を戻した。
「跳ねた理由がわかっていれば、次に同じ形を出せる。出せるなら、値段の交渉ができる。わからないなら、こっちは何も言えない。相手の言い値になる」
「はい」
「今朝から、俺は六件断った。断った理由は、順番を決めるためだ。だが、順番を決めるにも、何が売り物かを言えないと決まらない」
犬飼さんは机の上で手を組んだ。組んで、親指だけを二回動かした。
◇
俺は机の木目のところに目を置いていた。
置いたまま、鞄の中のパンのことを考えた。二つとも、まだ入っている。
犬飼さんが顔を上げた。
「高町」
「はい」
「今、何を考えていた」
「パンです」
「そうか」
犬飼さんは組んでいた手をほどいた。ほどいて、一度だけ短く息を出した。
「それでいい」
◇
――人の置いていった紙が増えていく机の向こうで、朝から一度も立っていない留守番。
◇
俺は椅子に座っていた。
犬飼さんは電話機のほうを見たままだった。見たまま、指をもう一度鳴らした。今度は音が出なかった。
「犬飼さん」
「なんだ」
「説明は、要るんですか」
「要る」
「なぜですか」
「説明ができない商品は、次の値段が付かないからだ」
値段の話らしい。
◇
犬飼さんが、机の上の束の横に、紙をもう一枚置いた。
俺の側から見て、裏になっている。
「宣伝から回ってきた」
「はい」
「そのまま出すか、元へ戻すか。その二つが書いてある」
「戻すというのは」
「九月までの形だ。芝居と音楽を先に出して、バラエティを減らす」
「それは、誰が決めるんですか」
「宣伝じゃない」
「犬飼さんですか」
「俺でもない」
犬飼さんは紙を裏返したまま、束の下へ入れた。入れたので、いちばん上の一枚が少しずれた。犬飼さんはそれを指で押して、角をそろえた。
「部長だ」
◇
十六時に、部屋の外が急に騒がしくなった。
ドアの向こうで、有本さんが誰かに何か言っている。言っているというより、順番を数えている。
三人ぶんの声がした。一人は電話をしながら喋っていて、その人だけ声が二重になっていた。二重になっているほうが、廊下の壁に当たって長く残る。
ドアは開かなかった。
◇
電話機が、また鳴った。
犬飼さんが取った。取って、三言だけ喋って、置いた。
「誰からですか」
「知らん」
「知らん人が、かけてくるんですか」
「今日はかけてくる」
◇
犬飼さんが立ち上がった。
立ち上がって、俺の前まで来た。
来て、俺の襟を直した。
制服の襟が片方だけ内側へ折れていた。犬飼さんはそれを二本の指で外へ出して、それから、肩のところを一度だけ払った。
払った手が、そのまま止まった。
「高町。今日、この部屋で何時間いた」
「七時間くらいです」
「何をしていた」
「座ってました」
「そうか」
犬飼さんは手を下ろした。
「明日は学校へ行け」
「行きます」
「明後日も行け」
「土曜です」
「じゃあ寝ろ」
◇
俺は鞄を持った。
持ったら、中でパンの袋が鳴った。まだあった。
犬飼さんはドアを開けて、先に廊下へ出た。廊下には人が四人立っていて、四人とも、犬飼さんが出てきた瞬間に一歩前へ出た。
犬飼さんは片手を上げて、その四人を止めた。
止めてから、廊下の先を向いたまま言った。
◇
「火曜、会議室1だ」
「何の会議ですか」
「君を、どう出すかを決める」
「決めるのは誰ですか」
「それを決める会議だ」




