第104話 クール系ではなかったという説
机の上に、湯呑みが五つ並んでいた。
部屋にいるのは六人である。
俺は数え直した。社長、知らない人、犬飼さん、有本さん、宣伝の人、俺。六人いて、湯呑みは五つだった。
有本さんは自分のぶんを持っていない。持たないで、ポットを両手で抱えて、壁際に立っていた。
◇
会議室1は、二十人入る部屋だった。
その部屋で、六人が机の同じ側に固まっていた。
俺はいちばん端に座った。端の席は、他の五人から一つぶん離れている。離れているのは、椅子を一つ抜いてあるからだった。
抜いた椅子は、壁のほうに寄せてある。
机は一つしか出していない。二十人ぶんの椅子のうち、六つだけが机のまわりにあって、残りは壁に沿ってきれいに並べてあった。全員が机の同じ側にいるので、誰かが喋るたびに、五つの顔がまとめて同じ方向を向く。
窓のブラインドは半分だけ下ろしてあった。下ろしてある側から、細い光が机の上に何本も落ちていて、その線が湯呑みの縁のところで一度切れて、机の向こう側でまた続いていた。
◇
有本さんが最初に喋った。
「朝から、電話が六本です」
「少ないな」
「昨日が十二本で、そのうち九本に折り返しました。今日はその返事が来る日なので、こちらから数えるほうが多いです」
社長はうなずいて、湯呑みの蓋を取った。
◇
知らない人が立ち上がった。
「九条です。マネジメント部の部長をしています」
俺は頭を下げた。下げたときに、机の下で自分の膝が机の裏に当たった。当たった音が思ったより大きくて、五人のうち三人が、そちらを見た。
「高町くんとは、入社のときに一度、この階の廊下ですれ違っています。覚えていないと思いますが、こちらは覚えています。あのとき、君は帰る方向を間違えて、非常階段のほうへ歩いていきました」
九条さんは五十歳くらいで、上着のボタンを二つとも留めていた。座るときに、下の一つだけ外した。
◇
九条さんは、机の上に紙を三枚並べた。
三枚とも、こちらからは裏側になっている。
「今日は結論を出すために集まったのではありません。何が起きているかを、全員が同じ形で見る場です」
社長が湯呑みを持ち上げた。持ち上げて、そのまま置いた。
「長い」
「はい」
「短く言え」
「一切笑わない人だと思われていたのが、そうでもないと思われはじめました」
社長は湯呑みをもう一度持ち上げて、今度は飲んだ。
◇
九条さんは紙を一枚だけ表に返した。
「うちに来ている話の中身が、放送の前と後で変わりました。前まで来ていたのは、無口な役、無表情の役、それから、喋らないことに意味がある役です。いま来ているのは、体を張るもの、旅、食べるもの、それから、番組の中で他人と十日ほど一緒に暮らすやつです」
「暮らすのか」
「暮らします」
「暮らして、何になる」
「暮らすところを撮ると、その人の普段が出ます。普段が出る人は、いま、業界に足りていません」
社長は蓋を裏返して、湯呑みの横に置いた。
「本数は」
「放送の前は月に二件でした。先週の木曜から今日までで九件です。うち六件が、鴻上くんとの二人での話です」
「二人での話は、向こうの事務所と揃えるんだろう」
「揃えます。先方も、今日やっているはずです」
◇
俺のポケットで、携帯が震えた。
一度で止まった。すぐに二度目が来た。三度目も来た。
社長が顎で入口のほうを示した。
「出ろ」
俺は廊下へ出た。ドアは、押しても開かない。引いて出た。
◇
「高町。お前んとこ、今日、会議やろ」
「今やってる」
「今?」
「今だ」
「切るわ」
「切るな」
電話の向こうで、椅子の動く音がした。いま出てきた部屋のと、同じ種類の音だった。
「俺も呼ばれてん。呼ばれて、十分で廊下に出された。当人がおったら喋りにくいんやて」
「俺は中にいる」
「なんでおるねん」
「呼ばれた」
「そっちの部長は、出せって言わへんの」
「知らん」
向こうの廊下で、誰かがケイを呼んだ。呼んだのは「鴻上さん」だった。
「あ、戻れるわ。ほな」
「戻るのか」
「戻る。俺、ここで待っとくの、いちばんしんどいねん」
電話は切れた。
◇
俺は携帯をポケットに戻して、部屋へ戻った。
五人が、こっちを見た。俺は何も言わないで、端の椅子に座り直した。
九条さんが紙の端をそろえた。そろえたときに、三枚の角がぴったり重なった。
「鴻上くんは、いま廊下にいるそうです」
「なぜわかる」
「先方の担当から、五分前に来ています」
九条さんは携帯を伏せて、次の紙へ移った。
◇
犬飼さんが、そこで初めて口を開いた。
「それは、こっちで選べるのか」
「選べません」
犬飼さんは腕を組んだ。組んだまま、机の上のどこも見なかった。
◇
九条さんが指を組んだ。
「イメージには値段が付いています」
「そうだろうな」
「契約書に書いてあるのは去年の紹介文です。撮影は来月で、撮られるのは来月の高町です」
「破れるのか」
「破れません。次の交渉で、向こうが新しいほうを出してきます。新しいほうに、うちはまだ値段が無いです」
社長は組んでいた指のほうを見た。九条さんの指である。
九条さんの左手の甲に、ボールペンのインクが一本ついていた。組んだときに、その線が上に来た。
◇
「クール系というのは、なんですか」
俺が言った。
六人のうち五人が、こっちを見た。
「番組表や、記事の頭に付く分け方です。うちが作るものではなくて、よそが作ります。合わせておくと、こちらの説明が要らなくなります」
九条さんはこちらを見ないで答えた。答えてから、一枚目を裏に返した。
「いま、その分け方が外れました。先週の水曜の夜、二時間で外れました」
◇
わからん。
◇
宣伝の人が手帳のページを二枚めくって、そこに挟んであった紙を出した。
「他社の紹介の文を、三つ持ってきました。うちのと同じ枠で使われているものです。一つ目が〈静かな怪物〉、二つ目が〈平熱の天才〉、三つ目が〈笑わない王子〉です」
「三つとも、うちのではないな」
「うちのではないです。ただ、三つとも、去年うちが出した紹介文の言い換えです。言い換えられて戻ってくるまでに、半年かかっています」
「今度は」
「今度は、たぶん、三日です」
九条さんが宣伝の人のほうを向いた。
「三日というのは、何を根拠に」
「根拠は無いです。ただ、放送の日のうちに、もう二つ見ました」
◇
左の足首から下が痺れていた。
痺れているほうを浮かせて、体重を右へ移した。移したときに、椅子の脚が床を擦った。
音は短かった。短かったが、部屋には他に音が無かった。
九条さんが言葉を切った。社長がこちらを見た。宣伝の人がペンを止めた。犬飼さんだけが、見なかった。
俺は動くのをやめた。
部屋は、そのまま四秒くらい止まっていた。止まってから、九条さんが紙のところへ戻った。戻るときに、二枚目ではなく一枚目から並べ直した。
◇
俺は机の上を見た。
犬飼さんの湯呑みだけ、蓋が動いていない。
◇
時計を見た。
入ってから四十分が経っていた。壁の時計は、秒針が十一のところで毎回わずかに引っかかって、そのあと二つぶん一気に進む。四十分のあいだに、俺はそれを何度か見ていた。
母さんが台所を離れるのは十九時前後で、それより早く帰れば、鍋がまだ火の上にある。
いま出れば、間に合う。
出る理由は無い。
理由が無いので、俺は座っていた。
◇
「一件、報告があります」
九条さんが三枚目を表に返した。
「来月のドラマ、二件のうち一件が無くなりました」
犬飼さんが、組んでいた腕をほどいた。
「先方は、なんと言った」
「笑わない役に見えなくなった、と言っています。それだけです」
「それだけか」
「先方は丁寧でした。丁寧に、それだけを言われました」
犬飼さんは、ボールペンの尻で机を一度だけ叩いた。
叩いてから、そのボールペンを机に置いた。置いてから、手を膝の上へ下ろした。下ろした先で、指が一度だけ握られて、すぐほどけた。
◇
「もう一件のほうは」
「まだ来ています」
「向こうは、先週のを見たのか」
「見ています。見たうえで、まだ来ています」
九条さんは三枚目を、他の二枚の上に重ねた。
「だから、今日決めることに意味があります。二件のうち一件が消えて、一件が残っている。この形は、来週には残っていません」
◇
社長が湯呑みを置いた。
置いた音が、机の板を通って俺のところまで来た。
「九条。分け方が外れたら、どうする」
「二つあります。分け方に本人を戻すか、分け方を捨てるかです」
「戻すというのは」
「出す仕事を選びます。芝居と音楽を先に出して、体を張るものを減らします。半年で戻ります」
「捨てたら」
「しばらく、誰も紹介できません。紹介できない期間は、こちらから何も出せません」
社長は腕を組んだ。組んで、天井を見た。
◇
「宣伝は、どっちだ」
「戻すほうが安全です。ただ、安全なだけです」
宣伝の人は、そこで手帳を裏返して机に置いた。置いた手帳の背が、まだ新しくて、折り目が付いていない。
社長は宣伝の人を三秒見た。
「九条は」
「わたしは決められません。決めるための材料が、先週の水曜からしか無いです」
「材料が揃うのはいつだ」
「二週間です。二週間あれば、数字の形で出せます」
「二週間で、この話は終わってるぞ」
「終わっているかもしれません。それでも、わたしの持ち場では二週間かかります」
◇
「犬飼は」
犬飼さんは、すぐには答えなかった。
答えないで、自分の湯呑みを一度見た。見て、手を出さなかった。
「今は答えません」
「なぜだ」
「ここで答えると、そのまま決まるからです」
「決めるための会議だぞ」
「決めるための材料を並べる会議だと、部長が最初に言いました」
九条さんが犬飼さんのほうを見た。見て、机の上の紙を一枚ぶんだけずらした。
社長は椅子の背に体重をかけた。かけたところで、椅子が一度鳴った。
「犬飼。去年、局から一度に話が来たとき、何と言った」
「順番を決めます、と言いました」
「今日は」
「今日も同じです。あのときは断る順番でした。今日は、出す順番です」
犬飼さんは、そこで湯呑みに手を伸ばした。伸ばして、蓋に指をかけて、取らなかった。
◇
部屋が静かになった。
静かになると、ブラインドの隙間から入る音が聞こえるようになった。下の通りで、車が二台続けて曲がっていった。四階なので、エンジンの音より、タイヤの音のほうがよく届く。
有本さんがポットを持ち直した。持ち直したときに、中で湯の動く音がした。
有本さんは壁際に立ったままで、四十分のあいだ、一度も壁に寄りかからなかった。ポットの取っ手を持つ手を、途中で二回だけ入れ替えた。
九条さんは紙を三枚とも裏に返した。
宣伝の人は手帳を開いたまま、書く手を止めていた。止めたまま、ペンの尻で自分の顎を二回押した。
◇
九条さんが、こちらへ体を向けた。
「高町くん。君は、どう出たいですか」
◇
「わかりません」
◇
九条さんはうなずいた。
うなずいてから、社長のほうを向いた。
「本人はこうです。これは、今日の材料になりません」
「なるだろう」
「なりません。わからないという答えを材料にすると、来週、同じことをもう一度聞くことになります。同じ質問を二度する会議は、三度目もやります」
社長は組んでいた腕をほどいた。
◇
九条さんが、机の上に手を平らに置いた。
「では、今日は決めないことにします。決めないと決めたことを、議事録に残します」
「残すのか」
「残します。残しておかないと、来週、誰かが決めたつもりで動きます」
宣伝の人が手帳を閉じた。
有本さんがポットを机に置いた。
◇
社長が立ち上がった。
立ち上がって、入口のほうへ二歩だけ歩いて、そこで止まった。
「犬飼。決めるのは、担当だ」
社長はそのまま出ていった。
ドアが閉まったあと、九条さんが自分の湯呑みを飲み干した。
◇
俺も立った。
立ったら、机の上の湯呑みが目に入った。五つのうち、四つは減っている。
一つだけ、蓋も取っていない。
俺はそのままにした。
有本さんが、俺の湯呑みを見て、それから自分の持っているポットを見た。見て、注ぎ足すかどうかを一瞬考えた顔をして、やめた。
◇
俺は会議室のドアを押した。
開かなかった。
ドアには〈引〉と書いてある。二十人入る部屋のドアで、他の部屋のより一枚ぶん広い。広いぶん、字も大きい。
俺は引いた。
◇
廊下に出たところで、後ろでドアが閉まった。
閉まる直前に、中の音が少しだけ聞こえた。話し声ではなかった。椅子を机の下へ戻す音だった。
戻したのが誰かは、見なかった。
◇
有本さんが追いかけてきた。
「高町さん、金曜に事務所へ来てください」
「はい」
「犬飼から、そう伝えるようにと言われました。時間は、あとで送ります」
有本さんは、そのまま会議室1へ戻っていった。
戻る前に、俺の顔を一度だけ見た。見て、何も言わなかった。手にはまだポットの蓋を持っていて、蓋だけを持って廊下まで出てきたことに、たぶん、気づいていなかった。
◇
エレベーターの前に窓がある。
網戸が開いていて、外の風が入っていた。カーテンが動いている中で、一枚だけ動いていなかった。
その一枚の裾に、赤いものが立っていた。
◇
「終わったの」
(終わった)
「何が決まったの」
(何も決まらなかった)
「一時間半かけて?」
(一時間半かけてだ)
人形はカーテンの裾から出てきて、窓の桟に立った。桟の幅は、台座より少し広い。
「昔はね、こういう部屋に呼ばれるのは、決まったあとだったのよ。呼ばれて、聞かされて、はいと言って帰るの」
(今日は決まらなかった)
「決まらないところに座らされるほうが、あんたには向いてるわ」
(なぜだ)
「決まったことを聞くのは、五分で終わるでしょう。あんた、五分で帰ったら、途中で腹が減るじゃないの」
それは、そうである。
◇
「あんた、あの人たちの顔、見てた?」
(見てた)
「誰がいちばん困ってたの」
(犬飼さんだ)
「なんでわかるの」
(湯呑みに手をつけてない)
人形は窓の桟を三歩だけ歩いた。歩いた先で、こっちへ体ごと向き直った。
「そういうところは、見てるのね」
(腹が減った)
「台無しよ」
風がもう一度入って、カーテンが三枚とも膨らんだ。膨らんだのは三枚で、人形の立っている一枚は、桟のところで押さえられて動かなかった。
◇
エレベーターの表示が四階で止まった。
乗る前に、廊下の突き当たりを見た。会議室1のドアが一度開いて、また閉まった。開いていたのは、人が一人出てこられるだけの時間より短かった。
開いたときも、閉まったときも、中からは誰も出てこなかった。




