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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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105/233

第105話 全部出していいらしい

 一階の自販機に、微糖が二本あった。


 二階のとは並びが違う。一階のは、微糖が二列目の左にある。二本並んでいるのを見たのは、久しぶりだった。


 俺は財布を開けた。


 十円玉が三枚あった。それだけだった。


 朝、駅前のパン屋で千円札を崩した。崩した釣りは、鞄の中のどこかにある。


 鞄を床に置いて、手を突っ込んだ。教科書の下、体操着の袋の横、内側の小さいポケット。順に探した。


 出てきたのは、消しゴムの角だった。


 角は丸くなっていて、字を消せる面がもう残っていない。捨てるつもりで鞄に入れて、そのまま二週間経っている。


 受付の時計は、十六時五十分を指していた。


 八十円あれば、上がる前に一本買える。


   ◇


 四階でエレベーターを降りたら、廊下が静かだった。


 会議室1のドアは閉まっていた。この階のドアの中でいちばん広い一枚で、それが閉まっていると、廊下の突き当たりが平らな壁に見える。


 中から声がしていた。


 誰の声かは、ドアの外からでは分からない。低いのが二つと、高いのが一つある。三つが同時に鳴っている時間が、ときどきあった。


 俺は壁に背中をつけて立った。


 廊下の椅子は二脚とも、座面に段ボールが積んであった。


 俺は立ったままでいた。


   ◇


 傍から見ると、大人が自分の話をしている部屋の前で、動かずに順番を待っている高校生だが、中身は八十円がどこにも出てこないことのほうが大きかった。


   ◇


 中の声が、一度そろって止まった。止まって、紙をめくる音が三回した。それから、椅子が引かれた。


 ドアが開いた。


 犬飼さんが出てきて、後ろ手で閉めた。閉めるときに、最後だけ手を添えて音を殺した。


 出てきてすぐ、こっちを見た。


「高町」

「はい」

「呼んだのは十七時だ」

「十七時前に来ました」

「入ってこい、と言ったつもりだった」

「聞いてないです」


 犬飼さんは廊下の椅子のほうを見た。見て、いちばん上の箱を手で押した。箱は動かなかった。


   ◇


 犬飼さんは、上着の内側から折った紙を出した。


 出して、広げないで、指で二回叩いた。


「火曜の話は、まだ終わってない」

「はい」

「終わってないが、決めるのは俺だと言われた」


 俺は紙を見た。折り目のところが白くなっている。


「君は火曜、自分の話なのに、わかりませんと一言言っただけだったな」

「はい」

「聞いてなかっただろ」


 聞いてはいた。ただ、机の上に湯呑みが五つ並んでいて、そのうち一つだけ蓋が動いていなかったので、そっちを見ていた。


 動いていなかったのは、犬飼さんの前のやつである。


   ◇


「火曜、部長は紙を三枚並べた」

「はい」

「うちの部長は、会社の都合を喋る人だ。それは正しい。会社の都合を喋る人間が一人もいない会社は潰れる」

「はい」

「三枚並べて、結論は出なかった。出ないまま、社長が担当が決めろと言って帰った」


 犬飼さんは紙を持ち替えた。持ち替えて、また同じ場所を指で叩いた。


「三日、考えた」

「はい」

「三日考えて、答えは火曜にあの部屋を出る前から出ていたことに気づいた。時間の使い方としては最悪だ」

「はい」

「部長は、分け方に君を戻せば半年で済むと言った。うちの会社が売っているのは形だ、というのがあの人の言い分で、それも正しい」

「はい」

「正しい話が二つあるときは、どっちかを選ぶ。選んだほうが、あとで間違いになることもある」


 犬飼さんは、そこで間を置かなかった。置かないで、そのまま次を言った。


「間違いになったら、俺が謝りに行く。君は行かなくていい」


   ◇


 会議室1のドアが開いた。


 出てきたのは九条さんだった。紙の束を両手で持っていて、いちばん上の一枚だけ角が折れている。


 俺の顔を見て、それから犬飼さんを見た。


「議事録は部長預かりで残します。わたしは賛成しなかったと、そこに書きますよ」

「書いてください」

「書きます。会社としては、それで残る」

「はい」

「今日は三時間半かかりました。三時間半かけて、うちの部の言い分が一つも通らなかったのは、わたしが部長になってから初めてです」

「そうですか」

「そうですかで終わらせないでください」


 九条さんは一歩こっちへ寄った。


「高町くん、決まったことに、わたしはこれから従う。従うが、わたしが賛成したことにはならない」

「はい」

「それだけです」


 九条さんは犬飼さんのほうへ、もう一度顔を向けた。


「宣伝には、わたしから言います。去年うちが出した紹介文が、今日で使えなくなったので」

「頼みます」

「頼まれます」


 九条さんはエレベーターのほうへ歩いていった。


 歩きながら、紙の束のいちばん上の一枚を下へ回した。角の折れた一枚が、見えなくなった。


   ◇


「先に、片付けるほうから言う」


 犬飼さんは紙を上着に戻した。


「来月のドラマ、二件あった」

「はい」

「一件は火曜に流れた。残りは今日、俺が断った」

「はい」

「聞き返さないんだな」

「はい」


 犬飼さんは廊下の窓のほうを一度見た。外はもう暗い。


「さっきの人は、俺より十年長くこの会社にいる」

「はい」

「十年ぶん正しいことを言った。それでも、今日は俺が決める番だった」

「はい」

「番が回ってきただけだ。偉くなったわけじゃない」


   ◇


「断った理由を、一つだけ言っておく」


 犬飼さんは窓のほうを向いたまま続けた。


「どちらも、うちが君にやらせたい形で来た話じゃなかった。持ってきた人が悪いんじゃない。うちが去年から出してきた形が、そう見えるように出来ていただけだ」

「はい」

「そこを直す」


 俺は聞いていた。


 直すものが何なのかは、はっきりしなかった。


   ◇


「番場さんの現場は、モニターで三回見た。袖に入ったのは一度だ」


 犬飼さんは、そこで一度、廊下の床を靴の先で押した。


「一回目は、君が座ってるだけの日だった。二回目も座ってるだけだった。三回目に、あの人は台本を持ち上げて、君と鴻上のあいだを指でなぞって、机に戻した。開かなかった」

「見てました」

「見てたか」

「なぞったところだけ見てました」


 犬飼さんは短く息を吐いた。


「あの人は、君が黙ってるのを、その場で二秒で拾った。考えたのは若いのだが、使い切ったのはあの人だ。三十年やってる人間が拾ったものを、うちが後ろから隠す理由は一つも無い」

「はい」

「火曜、俺はこれを言わなかった」

「はい」

「あの場で言えば、そのまま決まる。決めるための材料を並べる会議だと、部長が最初に言った」

「はい」

「材料を並べる会議で決めた話は、あとで誰も守らない」

「はい」

「うちは去年から、君を静かなほうへ静かなほうへ寄せてきた。寄せたのは俺だ。誰かに言われたわけじゃない」


 犬飼さんは紙を持っていない手を、上着のポケットへ入れた。入れて、すぐ出した。


「寄せたぶん、番組の人がやりたいことが、毎回一段ずつ削れてた。俺はそれを、うちの仕事だと思ってた」


 犬飼さんは体をこっちへ半分だけ向けた。


「だから、こうする」


   ◇


「隠さなくていい。全部出せ」


   ◇


 廊下の突き当たりで、エレベーターの扉が閉まる音がした。


 閉まってから、階数の表示が下へ動いていく音が、しばらく続いた。


   ◇


 俺は、出すものを思い浮かべた。


 握り飯を二つ食ったことと、車で寝たことと、下山道で逆のほうへ歩いたこと。


 全部、もう出ている。


「言っておくが、出せというのは、何かを増やせという意味じゃない」


 犬飼さんは、俺の顔を見ないで続けた。


「増やそうとするやつは、だいたい二か月で減る。君は何もしなくていい。うちが、隠すのをやめる」


 鞄の中には、教科書と、体操着と、角の丸くなった消しゴムが入っている。


   ◇


「一つ、こっちの都合を言う」


 犬飼さんは紙を出さなかった。


「これから半年、君の名前で来る話は増える。増えたぶんの九割はうちが断る。断る理由は、そのつど君に言わない。言うと、君が数えるようになるからだ」

「数えないです」

「知ってる」

「はい」

「知ってるから、言わない」


   ◇


「もう一つある」

「はい」

「これから、現場で君に妙なことを頼む人間が増える。座ってろ、黙ってろ、そこにいろ。うちはそれを全部通す」

「はい」

「断るのは、君の寝る時間が無くなるときだけだ」

「はい」

「寝てるか」

「寝てます」

「どのくらい」

「気づいたら朝です」


 犬飼さんは、そこで初めて廊下の天井を見た。見て、すぐ戻した。


   ◇


「返事は」

「はい」

「わかってないだろ」

「はい」


 犬飼さんは口の端を一度だけ横に動かして、戻した。


   ◇


「これから、君に来る仕事の中身が変わる」


 犬飼さんは壁のほうを向いた。向いたまま続けた。


「今までは、喋らない役の話が来ていた。これからは、喋らせる話が来る。断るのはこっちの仕事だ。君は行くところへ行けばいい」

「はい」

「腹が減ったら言え」

「減ってます」

「今か」

「さっきからです」


 犬飼さんは俺の顔を三秒見た。三秒見て、視線を鞄のほうへ下ろした。


 鞄は俺の足元に置いたままだった。上げるのを忘れていた。


「一階に自販機がある」

「あります」

「知ってる」

「はい」

「君が下にいたのは、受付が電話をくれたから知ってる」


 受付の人は、俺の名前を言っていなかった。言っていなかったが、電話は掛けたらしい。


   ◇


「一つ、君に聞いておく」

「はい」

「学校は、まだ楽しいか」

「楽しいという感じではないです」

「そうか」

「昼に、購買のパンが二種類あります」

「二種類か」

「先に行くと、選べます」

「先に行けるのか」

「四限が体育の日は行けます」


 犬飼さんは何も言わなかった。


 言わないで、廊下の突き当たりの窓のほうへ歩いて、窓枠のところで止まった。


   ◇


 犬飼さんは窓枠に手を置いた。置いて、ガラスに近いほうの指だけ、二回動かした。


「今週の土曜、うちは仕事を入れてる」

「はい」

「娘の誕生日に仕事を入れるのは、三年続けてだ」


 俺は聞き返さなかった。


 犬飼さんも、それ以上言わなかった。言わないで、上着の袖の折り返しを直した。左だけ折り返しが浅かったのを、右と同じところまで戻した。


 直してから、窓枠から手を離した。


「土曜の現場は、朝が早い」

「はい」

「君は関係ない。君は学校だ」

「学校です」

「そうしろ」


   ◇


「下まで行く」

「はい」


 犬飼さんは階段のほうへ歩き出した。エレベーターのボタンは押さなかった。


 俺は鞄を持ち直して、あとから行った。


 背中が、壁から離れていた。


   ◇


 犬飼さんは、踊り場に来るたびに手すりへ一度手を置いた。三つとも同じ場所だった。


   ◇


 三つ目の踊り場に、消火器が置いてある。


 犬飼さんはそれをまたいだ。俺はまたがずに横を通って、鞄の角を当てた。金属の音が一度だけした。


 犬飼さんは振り返らなかった。振り返らないで、二段下から言った。


「そこは狭い」

「はい」

「毎回当てる人間が、うちに四人いる」

「四人ですか」

「四人だ。二人は同じ場所を凹ませてる」


 犬飼さんは、そこで一段だけ足を止めた。


「消火器を動かせば済む話なんだが、誰も動かさない」

「動かさないんですか」

「動かすと、置いた人間に理由を聞かなきゃならん。全員それが面倒なんだ」

「はい」

「会社で起きることの半分は、それだ」


   ◇


 一階に降りたら、受付の人がもういなかった。


 自販機の明かりだけが、床に四角く落ちていた。


   ◇


 犬飼さんは自販機の前で止まった。


 止まって、財布を出さないで、ズボンのポケットから直接小銭を出した。出した小銭を手のひらの上で一度数えて、そこから三枚だけ入れた。


 残りはポケットへ戻した。戻すときに、一枚だけ床へ落ちた。


 犬飼さんはそれを拾わなかった。拾わないで、ボタンを押した。


 押したのは、二列目の左だった。


   ◇


 落ちてきた缶を、犬飼さんは拾った。


 拾って、こっちに寄越した。


 俺は受け取った。


 犬飼さんは自分のぶんを買わなかった。


「一本で足りるか」

「足ります」

「足りない顔だ」

「顔はこれです」


 犬飼さんは、自販機のボタンの列を上から下まで一度見た。見て、押さなかった。


「明日は学校か」

「学校です」

「行け」

「はい」


   ◇


 犬飼さんは床の一枚を拾った。


 拾って、ズボンのポケットへ入れた。入れてから、通用口のほうへ歩いていった。


 途中で一度も振り返らなかった。ガラスの扉が開いて、閉まって、外の音が一瞬だけ入って、また切れた。


   ◇


 缶は、まだ冷たかった。


 俺は自販機の横のベンチに座って、缶を膝の上に置いた。


 置いたら、ズボンの布が一枚ぶん冷たくなった。


   ◇


 プルタブを起こした。


 起こしたところで指が滑って、爪が缶の縁に当たった。当たった音が、天井のほうまで行って戻ってきた。


 俺は一口飲んだ。


 微糖だった。


   ◇


 鞄を膝に載せて、内側の小さいポケットにもう一度手を入れた。


 入れたら、指の先に硬いものが当たった。


 百円玉だった。


   ◇


 俺はもう一口飲んだ。二口目は、一口目より温い。


   ◇


 ロビーの明かりが、半分落ちた。落ちたのは奥のほうだけで、自販機の周りは点いたままだった。


   ◇


 俺は缶を持ったまま、しばらくベンチに座っていた。


 二列目の左には、まだ一本残っている。明日も残っているかは、明日にならないと分からない。


 俺は百円玉を財布に入れて、財布を鞄に入れた。缶は入れなかった。


 立ったら、鞄が思ったより軽かった。


 中身は朝と同じで、減ったのは消しゴムの角だけである。俺はそれを、通用口の横のごみ箱に落とした。


 落ちた音は、思ったより高かった。中が空だったらしい。


 ガラスの扉を押したら、外の風が缶の口のところに当たった。当たったところだけ、匂いが強くなった。


 俺は缶を右手に持ったまま、通用口を出た。持ち替えなかった。半分残っているものは、持ち替えると重さの位置が変わる。


 駅までの道は、店の明かりが左側にだけ並んでいる。俺は明かりの無いほうの端を歩いた。


 歩きながら、思い出した。


 ――月曜、文化祭の係決めがある。


 あれは、休むと勝手に決まる。

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