第106話 文化祭、二度目
教室の入口に、俺の机が横向きに置いてあった。
置いたのは熊沢である。廊下から見て、いちばん最初に当たる場所だ。
「高町、ここ座ってろ」
「なぜだ」
「係決めのとき、お前いなかったろ」
「いた」
「じゃあ手ぇ挙げなかったろ」
「挙げてない」
「同じことだ」
熊沢は俺の肩を押して、椅子に座らせた。
座らせてから、机の角に紙を一枚貼った。
〈三年三組・喫茶〉
紅茶とクッキー。それだけが書いてある。
◇
十一月一日、土曜日。
九時十五分に、校門が開いた。
最初の十分は、誰も来なかった。
俺は釣り銭の箱を開けて、中を数えた。百円玉が四十枚、五十円玉が二十枚、十円玉が三十枚あった。数え終わって、蓋を閉めた。
閉めたところで、廊下の向こうから足音がした。
十時を過ぎたころから、廊下に人が入ってきた。
最初は下級生が三人だった。次に、別の学校の上着を着た四人が来た。その次に来たのは、制服ではない人たちだった。買い物袋を提げた人が二人と、小さい子を連れた人が一人いた。
十時半に、廊下の右側に列ができた。
列は、隣のクラスの前まで伸びた。
◇
俺は列の先頭を見た。
入口に〈撮影はご遠慮ください〉と貼ってある。貼ったのは熊沢である。
先頭から五人目まで、全員がこっちを見ていた。手に携帯を持っている人は、一人もいない。
六人目から後ろは、ただ並んでいる。
いま裏口から出れば、体育館の裏を回って、駅まで十二分で着く。
着いたところで、家には誰もいない。
◇
――紅茶の杯数を数える係でありながら、朝から一杯も飲んでいない受付。
◇
「高町くん、四番の卓、空いたわ」
美咲が教室の中から出てきて、紙を一枚置いていった。
紙には、卓の番号が六つ書いてある。三と五に丸が付いていた。丸を付けたのは俺ではない。
「丸は」
「使ってるほう」
「わかった」
「ばつじゃなくて丸にしたのは、消すときに楽だから」
美咲は中へ戻った。
俺は四番の卓へ二人を通した。
◇
教室の中は、机を四つ合わせた席が六つある。
窓には暗幕を張ってあった。演劇部から借りたやつで、上の端を突っ張り棒に通してある。
暗いので、卓の真ん中に紙コップを立てて、その中に電池の明かりを入れてある。
紅茶はやかんで沸かしている。クッキーは昨日、家庭科室で焼いた。焼いたのはクラスの五人で、五人のうち三人が初めてだった。
◇
クッキーは、二種類あった。
同じ生地で、同じ型で抜いてあるのに、色が二種類ある。焦げているほうと、焦げていないほうだ。
熊沢は焦げているほうを右の皿に集めていた。
「なんで分けた」
「客に選ばせるんだよ」
「選ぶのか」
「選ばせると、どっちを取っても客のせいになる」
熊沢は右の皿を持ち上げて、こっちに見せた。
焦げているほうが、二十枚以上ある。
◇
最初の客は、四人組だった。
制服が違う。襟がこっちより高い。四人とも、教室に入ってから卓に着くまでのあいだに、一度ずつこっちを見た。
紅茶を運んだのは、同じクラスの女子だった。
運んで、戻ってきて、俺の机の横で立ち止まって、小さい声で言った。
「高町、あの人たち、何も喋ってない」
「そうか」
「注文のときだけ喋って、あとは一言も喋らないで、クッキー食べてる」
「うまいのか」
「焦げてないほうを四枚取ってった」
うまいらしい。
◇
十一時半に、紅茶が足りなくなった。
俺は空のやかんを持って、廊下へ出た。
北校舎の給湯室まで行って、水を入れて、戻ってくる。やかんは満杯にすると重い。
渡り廊下の途中で、下級生の二人組とすれ違った。
すれ違ってから、後ろで足音が止まった。止まって、しばらく動かなかった。俺はそのまま歩いた。
◇
給湯室の前に、宮坂先生がいた。
紙コップを持って、壁にもたれている。今日は名簿を持っていない。
「高町、それ何杯目だ」
「三杯目です」
「重いだろう」
「重いです」
「持ってやらんぞ」
「はい」
先生は紙コップの中を一度覗いて、飲まないで、壁から背中を離した。
「今年は、三年の廊下だけ人が詰まって動かん。去年も文化祭はあったが、去年のこの時間は、体育館のほうに人が全部行ってたからな」
「はい」
「事務所に苦情を言っといてくれ」
「何をですか」
「冗談だ」
冗談は分かりにくい。
「担任として一つだけ言っておくと、今日は誰が何人来ていようが、この学校の生徒の行事だ。金を取ってるわけでもない」
先生は紙コップを潰して、給湯室のごみ箱に入れた。
入れてから、名簿を持っていない手を、上着のポケットに突っ込んだ。
「やかん、こぼすなよ」
「はい」
◇
教室へ戻る途中の廊下で、美咲が立っていた。
壁際に、パイプ椅子を一脚出して、その横に立っている。椅子は畳んでいない。
「それ」
「北校舎の階段の下に置いとくから」
「何のだ」
「使わなかったら片付ける」
美咲は椅子を持って、階段のほうへ歩いていった。
持ち方が、片手だった。
◇
十二時四十分に、熊沢が教室に飛び込んできた。
飛び込んできて、俺の机の前で止まって、両手を膝についた。息が上がっている。
「高町、中庭」
「中庭がどうした」
「一時十分から、お前」
「俺が何をする」
「歌う」
俺は釣り銭の箱の蓋を閉じた。
「聞いてない」
「今、言った」
◇
「軽音の枠が一個空いたんだよ。ドラムの奴が朝から腹壊して、二時間トイレから出てこなくて、さっき親が迎えに来て帰った」
「それで」
「実行委員が中庭で頭抱えてたから、埋められるやつ心当たりあるかって聞かれた」
「それで」
「うちのクラスに一人いますって言った」
「言ったのか」
「言った」
「相談は」
「相談したら断るだろ。断られたら俺が困る。だから先に紙に名前を書いてきた」
「去年もそうだった」
「去年は劇だろ。あれは実行委員が決めた」
「名前を書いたのは」
「俺だよ」
「一年のときは」
「一年んときは受付だけだったろ。お前を前に出したのは、去年が最初だ」
熊沢は紙を持った手を、一度下ろした。
「去年が劇で、今年が歌。二回目だよ。来年は無いからな。卒業だから」
熊沢は上着のポケットから、四つ折りの紙を出した。
広げたら、俺の名前と、曲の名前が書いてあった。字が太い。曲の名前のところだけ、二回書き直した跡がある。
熊沢は俺の顔を見た。見て、二回まばたきした。
「怒ってる?」
「怒ってない」
「顔が怒ってる」
「顔はいつもこれだ」
◇
中庭の仮設ステージは、体育館の舞台より低い。
高さは、机の上に乗るくらいだった。板を並べて、その上に黒い布を敷いてある。布の端が風で持ち上がるので、四隅にブロックが置いてあった。
前に椅子は無い。
立っている人が、ステージの前に集まっている。後ろのほうには、模擬店の列に並んだままこっちを向いている人がいた。制服ではない人のほうが多い。犬を連れた人が一人、校門の内側で止まっていた。
◇
実行委員の子がマイクを持って、熊沢の紙を読んだ。
読むときに、二回つかえた。二回目のところで、後ろの人が笑った。
マイクは一本しかない。スタンドの高さが合っていなくて、俺は膝を少し曲げた。曲げたまま、一番だけ歌った。
息を継いだところで、口の中が乾いていた。朝から紅茶を運んでいて、自分では一杯も飲んでいない。
◇
中庭では、朝からずっと音が重なっていた。
右で焼きそばの鉄板が鳴り、左で二年生が呼び込みをやり、渡り廊下では放送部が自分たちの放送を流していて、そのどれもが誰かの持ち場から出ている音だった。
それが順番に減った。
鉄板が先に止まり、呼び込みの声が語尾のところで切れて、放送部のスピーカーは音量だけが下がった。下がっても消えないので、そこだけが遠くに残った。
二階の窓が、端から一つずつ開いた。窓の内側で、教室の出し物の看板を持ったままの生徒が、看板を持ったまま乗り出していた。
模擬店の列に並んでいた人たちは、列を崩さないで、体だけをこっちへ向けた。並んでいる位置は動かさない。焼きそばは、まだ順番が来ていない。
校門の内側にいた犬が、飼い主の足に座り直した。
◇
歌い終わって、ステージを降りた。
降りるときに、板が一枚たわんだ。
中庭の音が遠のいて、輪郭がはっきりして、背筋が伸びていた。
◇
教室のクッキーは、焦げてないほうが先に減る。戻るまでに一枚も残っていないと思った。
◇
拍手は、渡り廊下の上から先に鳴った。
実行委員の子がマイクに何か言おうとして、言えないで、いったん下ろした。下ろしてから、もう一度上げて、次のクラスの名前を読んだ。
読んだ声が、途中で裏返った。
鉄板の音が戻ってきたのは、そのあとだった。戻ってきた音は、止まる前より大きかった。
◇
ステージの横で、熊沢が立っていた。
両手をポケットに突っ込んで、地面のほうを見ている。俺が近づいたら、顔を上げた。
「なあ、高町」
「なんだ」
「俺さ、お前のこと三年見てるけどさ」
「見てるな」
熊沢は右手をポケットから出して、自分の顎のあたりを一度こすった。
「高町、俺の顔で笑えるようになったら教えて」
俺は返事をしなかった。
熊沢は返事を待たなかった。待たないで、俺の背中を一回叩いて、模擬店のほうへ走っていった。
◇
教室に戻ったら、列がさっきの倍になっていた。
美咲が受付に座っていた。座って、卓の番号の紙に丸を付けていた。六つ全部に丸が付いている。
「戻った」
「四番と六番、もうすぐ空くわ」
「わかった」
「あなたは中で運んで」
俺は中へ入った。
中は暑い。暗幕を張ってあるので、窓が開かない。
◇
三時に、クッキーが無くなった。
焦げているほうが先に無くなって、焦げていないほうが六枚残った。
熊沢はそれを見て、しばらく皿の前に立っていた。
立ったあとで、六枚のうち一枚を自分で食べた。
◇
四時に、片付けが始まった。
暗幕を下ろした。
上の端の突っ張り棒を外して、布の重さを両手で受ける。演劇部のやつは重い。重いので、下ろすときに一度膝で受けた。
窓から光が入って、教室の中が急に明るくなった。
◇
美咲が教室の入口で、当番表を壁から剥がしていた。
剥がして、四つに折って、鞄に入れた。
「明日は」
「あなたは来ないでしょう」
「来ない」
「じゃあ、明日のことは言わない」
美咲は先に出ていった。
北校舎の階段の下のパイプ椅子は、畳んで壁に立てかけてあった。俺は使わなかった。
◇
校門を出たのは、四時二十分だった。
駅までの道に、他校の制服が三つ歩いていた。三つとも、俺とは反対のほうへ行った。
桜坂駅の階段は、二十七段ある。
上から九段目が欠けている。雨の日は滑るが、今日は降っていない。
十二段目で、膝が抜けた。
抜けたので、手すりを掴んだ。掴んだまま、そこに座った。段の縁が、太腿の裏に当たった。
◇
上から人が下りてきて、俺の横を通った。
通るときに、一度だけ足が止まった。止まって、また動いた。
俺は手すりに肘を乗せて、階段の下の自販機を見ていた。ここの三列目は緑茶だ。
改札のほうから、切符を通す音が続けて鳴っていた。土曜の夕方は、鳴り方が長い。
◇
立てるようになってから、残りの十五段を上がった。
上がりきったところで、改札の音が二回鳴った。
◇
家には裏口から入った。
勝手口の前に、母さんのサンダルが片方だけ裏返っている。俺はそれを直さないで、中へ入った。
台所の時計は、四時五十分だった。
茶の間で、父さんと母さんがテレビの前に座っていた。
ちゃぶ台に座布団が四枚並んでいる。二枚は使われていない。
テレビは点いているが、音が小さい。父さんはリモコンを持っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日、学校だったのよね」
「文化祭だ」
母さんはこっちを見なかった。見ないで、テレビの画面のほうを向いたままだった。
「灯真、座る?」
「あとで」
畳の上に、洗濯物が畳まれずに山になっていた。座布団の二枚は、その山の下に半分入っている。
俺は柱に背中をつけて立っていた。
◇
妹は台所にいた。
冷蔵庫を開けて、閉めて、また開けた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「ごはん、もうできる」
「早いな」
「お母さんが今日は早いって」
妹は冷蔵庫の扉に貼ってある紙を見た。見て、指で一度押さえて、離した。
◇
五時十分に、飯が出た。
俺は二膳食った。三膳目を取りに行ったところで、炊飯器が空だった。
「もう無い」
「無いのか」
「兄ちゃんが二膳目のときに、わたし、先に取っといたから」
「取っといたのか」
「先に言っといたでしょ」
「言ってない」
「昨日言った」
昨日は聞いていない。
◇
台所の壁の時計が、五時三十一分を指していた。
妹は自分の茶碗を持ったまま、時計を一度見た。
見て、それから、部屋の隅に置いてあった鞄からノートを出した。定規を当てて、線を一本引いて、その横に数字を書いた。
書いてから、ノートを閉じた。
俺は三膳目のことを考えていた。
◇
階段を上がりきる前に、部屋の明かりがついていた。
ドアを開けたら、机の上の電気だけが点いている。人形は机の端に立って、こっちを見ていた。
「あんた、今日、何人の前で歌ったの」
「知らん」
「数えなかったの」
「数えてない」
俺はドアを閉めた。
「昔はね、こういう日の夜になると、楽屋にみんなで集まって、その日に入った人の数を数えたのよ。数えて、書いて、次の日にまた数えるの」
「面倒だな」
「面倒よ。でも数えないと、次の町でいくら取れるかが決まらないの」
「取るのか」
「取らないと帰れないわ」
人形は台座の上で足を組み替えた。
組み替えて、机の端まで歩いて、そこで止まった。
「今日、あんたの前に出た人たちはね、来年もあそこに立つのよ」
「そうか」
「あんたは立たない」
「卒業するからな」
「そうよ。だから今日のは、一回きりなの」
◇
俺は床に座って、壁に背中をつけた。
膝は、もう普通だった。
「あんた、明日は」
「仕事だ」
「文化祭は」
「明日もある。俺が出るのは今日までだ」
人形は少し離れたところで足を止めた。止めて、別のことを言った。
「クッキー、食べたの」
「六枚のうち一枚は熊沢が食った」
「残りは」
「知らん」
◇
下から、妹の声がした。
二階まで届く声で、風呂の順番の話をしている。父さんが返事をして、母さんが別のことを言った。
俺は立ち上がって、ドアを開けた。
開けたところで、妹が階段の下から俺を見上げていた。手に、二つ折りにした紙を持っている。
「兄ちゃん、これ、見ないでよ」
「見てない」
「今、見た」
「見てない」
「進路のやつだから」
妹は紙を二つ折りのまま、両手で持っていた。持ったまま、上がってこなかった。




