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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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107/233

第107話 妹が兄離れを始めた

 台所のテーブルの真ん中に、紙が一枚置いてあった。


 二つ折りで、折り目のところが少し膨らんでいる。上から見ると、字が裏返しになって透けていた。


 俺は紙をよけて、その隣に茶碗を置いた。


 冷蔵庫にラップをかけた皿が二つある。片方は煮物で、片方は分からない。分からないほうを先に取った。


 冷蔵庫の扉には、紙が三枚貼ってある。回覧板の当番と、ガスの点検の日と、いちばん下に、去年の暮れに妹が描いた俺の似顔絵。似顔絵は口が線一本で、目が点二つで、それでも家族の全員が誰か分かる。


 俺はそれを見ないで扉を閉めた。閉めたら、いちばん下の紙の端が扉に挟まった。


   ◇


 十一月十三日、木曜日。


 妹は流しの前に立って、携帯を耳から離して持っていた。


 持ったまま、こっちを見ないで言った。


「ゆい、ちょっと待って」


 携帯から声がした。二階まで届きそうな声だった。


「ひなた、お兄さんいる?」

「いる」

「いるの」

「いるって言ってるでしょ」


 妹は携帯を胸のほうへ引き寄せた。引き寄せてから、また離した。離した位置は、さっきと同じところだった。


   ◇


「うちのお母さんがね、うちのお母さんが」


 携帯の声が続いている。


「うちのお母さんが、進路の紙、先に書けって言うの。まだ十一月なのに」

「うちも言われた」

「うちのは、出したあとにまた書き直させるの。三年になったらどうせまた書くのに、なんで一年のうちから三回も書かせるのか、意味わかんない」

「三回?」

「一学期に一回、今、あと二月」

「多いね」

「多いよ」


 妹は空いているほうの手で、蛇口の根元の水滴を拭いた。


「ひなた、書いた?」

「書いてない」

「じゃあ一緒じゃん」

「一緒じゃない。あたし、決まってるもん」


 妹は流しの縁に肘をついた。


 ついた肘が滑って、蛇口に当たった。当たった音が台所の中で一度だけ響いた。


   ◇


 俺は皿のラップを剥がした。


 剥がしたら、中身は魚だった。骨が抜いてある。抜いてある魚は、箸で持ち上げても崩れない。


 俺は座って、箸を取った。


 テーブルの上の紙は、そのままだった。


   ◇


「じゃあ何書くの」

「まだ言わない」

「なんで」

「言ったら、ゆいが先生に言うから」

「言わないよ」

「言うよ。去年、言ったじゃん」


 携帯の向こうで、何か落ちる音がした。


「今の何」

「ドライヤー」

「拾いなよ」

「拾ってる」

「ゆい、まだ髪乾かしてないの?」

「乾かしながら喋ってた」

「聞こえてたのそれか」

「うるさかった?」

「ずっとうるさかった」

「ひなた、明日って学校で言う?」

「言わない」

「言わないんだ」

「先に紙に書く。口で言うと、変えられるもん」


 妹は携帯を持ち替えた。持ち替えて、こっちを見た。


 見て、すぐ戻した。


   ◇


 俺は魚を食べていた。


 食べながら、紙のことを考えた。


 言えることは三つある。一つ目は「書いたのか」で、これは書いていない場合に面倒になる。二つ目は「何て書くんだ」で、これは紙の中を見た人間の言い方になる。三つ目は「その皿、俺のか」で、これは紙の話ではない。


 一つ目を先に言って、返事によっては二つ目へ行く、という順番も考えた。考えたが、一つ目で「書いた」と返ってきたときに、二つ目は急に踏み込みすぎる。


 逆から行くと、一つ目がもう要らない。


 三つ目だけを言う手もある。ただし三つ目は、皿の話をしているように見えて、実際には皿の話である。


 考えているあいだに、魚が半分になった。


 俺は三つとも言わなかった。


   ◇


「切る。ごはん」

「あ、待って。日曜」

「日曜?」

「うち来る?」

「行く」

「じゃあ十時」

「十一時」

「なんで一時間ずらすの」


 妹は電話を切った。切って、携帯をテーブルの端に置いた。


 置いた場所が、紙から遠いほうだった。


 置いた画面が、しばらく明るいままだった。明るいうちに一度光って、そのあと暗くなった。妹はそれを見なかった。


   ◇


 妹は自分の皿を持って、俺の向かいに座った。


 座って、箸を割った。割ったら、片方が斜めになった。斜めになったほうを自分で使った。


「兄ちゃん」

「なんだ」

「そっち、煮物?」

「魚だ」

「あ、それあたしの」


   ◇


 俺は箸を止めた。


 止めたところで、妹はもう煮物のほうのラップを剥がしていた。


「食べていいよ」

「いいのか」

「もう半分食べたじゃん」

「そうだな」

「言っても戻らないし」


 妹は煮物の里芋を一つ取って、口に入れた。入れて、熱かったらしく、皿の上に戻した。


 戻した里芋には、歯の跡が半分だけ付いていた。


「熱いなら冷ませ」

「冷ましてたら伸びる」

「里芋は伸びない」

「気持ちの問題」


 妹は箸で里芋を二つに割って、小さいほうを先に食べた。


 母さんは町内会に出ていて、家にいない。父さんはまだ帰らない。台所には皿の音だけが鳴っていた。


   ◇


「兄ちゃん、二年から選ぶやつがあるの」

「選ぶ」

「文系と理系じゃなくて、そのあとにもう一個ある」

「もう一個か」

「うちの学校、三つに分かれるの」


 妹は指を三本立てた。立てて、真ん中の一本を折った。


「あたし、機械のほう」

「機械」

「機械っていうか、撮るほう」


 妹は折った指を戻した。戻して、三本ともテーブルの上に置いた。


「一個目が、普通の。二個目が、外国語のやつ。三個目が、うちの学校にしか無いやつ」

「無いやつ」

「作ったの、三年前だって。だから、卒業した人がまだ少ない」

「少ないと困るのか」

「困んない。先生が困るだけ」

「先生が」

「進路指導の紙に、その欄が無いんだって。三つ目だけ、手で足すの」


 妹はテーブルの上に、指で四角を描いた。描いて、その中に線を一本引いた。


「あたし、欄が無いほうがいいと思った」

「なぜだ」

「無いと、誰も比べられないじゃん」


   ◇


 俺は麦茶を飲んだ。


 飲んで、湯呑みを置いた。置いたところが、紙の角から二センチのところだった。


 俺は湯呑みを、もう二センチ動かした。


 動かしたら、テーブルの上に輪が残った。輪は紙の角に触っていない。触っていないところまで確かめてから、俺は手を膝に戻した。


   ◇


「撮るほうって、何を撮るんだ」

「なんでも」

「なんでもか」

「機材の名前とか、光の当て方とか、音の拾い方とか、そういうのを一年やって、最後に自分たちで十五分のを一本作るんだって。ゆいのお姉ちゃんがそっち行ったから、話だけ聞いた」

「十五分か」

「十五分は長いんだよ。ゆいのお姉ちゃんのとこは、九人でやって、半年かかったって」

「そうか」

「あたし、去年からそっちがいいと思ってた」

「去年」

「言ってない。言うと、お母さんが先生に言うもん」


 妹は箸を置いた。


 置いた箸が、皿の縁で一度転がって、止まった。


「三年前にできたやつを選ぶのって、変かな」

「変じゃない」

「先生は、実績が無いって言った」

「実績」

「三年前にできたんだから、無いに決まってるじゃん」


 妹は湯呑みを両手で持った。持って、飲まなかった。


   ◇


「あのさ」


 妹は俺の顔を見ていた。見ながら、テーブルの下で足を組み替えたのが、椅子の音で分かった。


「あたしね、ノートつけてるじゃん」

「つけてるな」

「あの、青いやつ」

「知ってる」


   ◇


 妹は椅子から立って、隣の部屋から鞄を持ってきた。


 鞄から、表紙の青いノートを出した。


 出して、テーブルの上で開いた。開いたところは真ん中より少し前で、そこには線が四本引いてある。日付と、時間と、秒と、行数。


「これ、出た日だけ書いてるの」

「そうだな」

「最初はさ、兄ちゃんが二秒しか出てないのを、笑うために書いてたんだよ」

「笑ってたな」

「うん。笑ってた」


   ◇


 妹はページを一枚めくった。


 めくった先には、まだ何も書いていない行があった。


「先月、学校でさ、書き方を教わったの」

「ノートのか」

「授業で。表の作り方」


 妹はページの上の線を、指で左から右へなぞった。


「縦に何を並べるかで、その表が何の表かが決まるんだって。先生がそう言った」

「そうか」

「あたしのこれ、縦に並んでるの、全部兄ちゃんなんだよね」


 妹はノートを閉じた。


 閉じて、両手を表紙の上に乗せた。


「教わってるあいだ、あたし、これのこと考えてた」


   ◇


「これ、あたしのためにやってたわけじゃないんだよね」


   ◇


 妹は表紙の上に乗せた手を、そのままにしていた。


 乗せた指の先だけが、青い表紙の上で一度動いた。動いて、また止まった。


「ここ、まだ半分も埋まってないんだよ」

「そうか」

「一冊使い切ったら、二冊目どうするか決めようと思ってた」

「決めたのか」

「決めてない」


   ◇


 俺は湯呑みを持ち上げた。


 中は空だった。空だと分かったのは、持ち上げてからである。


 妹は俺の返事を待たなかった。待たないで、ノートを鞄に戻した。


 戻すときに、ノートの角が鞄の口に引っかかった。引っかかったので、一度出して、向きを変えて、もう一度入れた。


 入れてから、鞄の口を閉めた。閉めた金具が、二回鳴った。


   ◇


 妹は自分の皿を、手前に引き寄せた。


 引き寄せたときに、皿の上の里芋が一つ、端のほうへ転がっていった。


 転がりきる前に、妹は皿を止めた。止めた指が、皿の縁で少し滑った。


   ◇


「兄ちゃん、二階、電気点けっぱなし」

「点けてない」

「点いてた」


 妹は先に立ち上がって、自分の皿を流しに運んだ。


 運んで、そのまま蛇口をひねりかけて、やめた。


 やめて、俺の皿のほうを見た。俺の皿には、まだ魚が半分残っている。


   ◇


 二階の廊下は、真ん中の板が鳴る。


 鳴るところを踏まないで歩こうとすると、体が右の壁に寄る。右の壁には、去年の夏に妹が貼ったシールの跡が四つ残っていた。剥がしたあとだけ白い。


 突き当たりの窓の下に、洗濯物を入れる籠が置いてある。中は空だった。母さんは、畳む前に町内会へ出ていったらしい。


 俺の部屋の前で、下から声がした。


「兄ちゃんの部屋、明かり点いてる」


 点けていない。


   ◇


 先に笑い声がした。テレビはついていない。


 ドアを開けたら、机の上の電気が点いていた。人形は机の端に座っていた。座って、片足を台座の外へ出している。


 笑ったのは人形だった。俺が入ったら、やめた。


「聞いてたわよ」

「どこからだ」

「魚のところから」

「全部だな」


 俺はドアを閉めた。


 閉めたら、下の音が急に遠くなった。ドアは薄い。薄いのに、台所の皿の音がもう聞こえなかった。


   ◇


「あんた、何も言わなかったわね」

「言うことが無い」

「無いことないでしょう」

「あった」

「あったのに言わなかったの」

「三つあった」


 人形は台座の上で膝を抱えた。


   ◇


 それきり、人形は何も言わなかった。


 俺は床に鞄を置いて、その横に座った。座ったら、机の上の電気が目の高さより上に来た。


 下から、皿を重ねる音がした。二枚重ねて、三枚目でやめた音だった。


 人形は膝を抱えたまま、動かなかった。


   ◇


「ねえ、あんた」

「なんだ」

「下の皿、まだ半分残ってるでしょう」

「残ってる」

「あれ、あの子のよ」

「知ってる」


   ◇


 俺は部屋を出た。


 出て、階段を下りた。


 妹の部屋のドアは閉まっていた。中で、椅子を引く音がした。引いて、また戻す音がした。もう一度引いて、そのあとは鳴らなかった。


 ドアの下の隙間から、明かりが出ている。明かりは机のほうの一つだけで、部屋の電気は点いていない。


 俺は立ち止まらないで、階段を下りきった。


   ◇


 茶碗を洗った。


 俺のぶんと、妹のぶんと、湯呑みが二つ。皿は三枚ある。三枚目は母さんので、町内会へ出る前に使ったらしい。俺はその一枚を、流しの端へ寄せた。


 水は冷たかった。指の先だけが、途中で感覚が鈍くなる。


 スポンジは二つある。緑と、黄色。黄色のほうは油物に使う。


 俺は緑を使った。


 湯呑みは内側に茶渋が付いていて、こすっても取れない。取れないところまでこすってから、伏せた。


 流しの上の窓は、外が見えなかった。映っていたのは台所と、その真ん中に立っている自分の形だけだ。俺は形のほうを見ていた。


 二階で水が動く音がした。動いて、すぐ止まった。妹が顔でも洗ったらしい。


   ◇


 洗い終わって、伏せた。


 伏せた茶碗の下に水が溜まるので、一度持ち上げて、角度を変えて置き直した。


 テーブルの上の紙は、無くなっていた。


 紙があった場所に、麦茶の輪だけが残っていた。輪は乾きかけていて、外側の線だけが濃い。


   ◇


 二階から、妹が下りてきた。


 下りてきて、台所の入口で止まった。手には何も持っていない。


「兄ちゃんが洗ったの」

「洗った」

「明日、あたしの当番だったのに」

「そうか」

「言ってくれれば、やったのに」

「言うと、やるだろ」

「やる」

「だから言わない」

「意味わかんない」

「わからんでいい」


 妹は口を開けて、閉じた。


 閉じた口で、少しのあいだ何かを言おうとしていた。言おうとして、やめた形のまま、流しの縁に手を置いた。


 俺は手を拭いた。


   ◇


 妹は流しの横まで来て、伏せた茶碗を一つだけ持ち上げた。


 持ち上げて、下を見て、また同じ場所に戻した。


「水、残ってる」

「残ってるか」

「兄ちゃん、いつも角度が足りないの」

「角度」

「こう」


 妹は茶碗をもう一度持ち上げて、縁を少し立てて置き直した。


 置き直したやつは、水が下へ落ちた。


 戻してから、こっちを見ないで言った。


「日曜、うち出るから」

「どこへ」

「ゆいんち。カメラ借りる」


   ◇


 妹は台所を出ていった。


 出ていく途中で、一度だけ止まった。止まって、振り返らないで言った。


「一人で行く」


 階段の板が、上から順に鳴った。


 途中の一段だけ、鳴り方が短い。そこは踏まないで上がれる段だが、今日は踏んでいた。


 鳴り終わったあとで、俺は端に寄せてあった一枚を取った。


 緑のスポンジは、まだ濡れていた。

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