第107話 妹が兄離れを始めた
台所のテーブルの真ん中に、紙が一枚置いてあった。
二つ折りで、折り目のところが少し膨らんでいる。上から見ると、字が裏返しになって透けていた。
俺は紙をよけて、その隣に茶碗を置いた。
冷蔵庫にラップをかけた皿が二つある。片方は煮物で、片方は分からない。分からないほうを先に取った。
冷蔵庫の扉には、紙が三枚貼ってある。回覧板の当番と、ガスの点検の日と、いちばん下に、去年の暮れに妹が描いた俺の似顔絵。似顔絵は口が線一本で、目が点二つで、それでも家族の全員が誰か分かる。
俺はそれを見ないで扉を閉めた。閉めたら、いちばん下の紙の端が扉に挟まった。
◇
十一月十三日、木曜日。
妹は流しの前に立って、携帯を耳から離して持っていた。
持ったまま、こっちを見ないで言った。
「ゆい、ちょっと待って」
携帯から声がした。二階まで届きそうな声だった。
「ひなた、お兄さんいる?」
「いる」
「いるの」
「いるって言ってるでしょ」
妹は携帯を胸のほうへ引き寄せた。引き寄せてから、また離した。離した位置は、さっきと同じところだった。
◇
「うちのお母さんがね、うちのお母さんが」
携帯の声が続いている。
「うちのお母さんが、進路の紙、先に書けって言うの。まだ十一月なのに」
「うちも言われた」
「うちのは、出したあとにまた書き直させるの。三年になったらどうせまた書くのに、なんで一年のうちから三回も書かせるのか、意味わかんない」
「三回?」
「一学期に一回、今、あと二月」
「多いね」
「多いよ」
妹は空いているほうの手で、蛇口の根元の水滴を拭いた。
「ひなた、書いた?」
「書いてない」
「じゃあ一緒じゃん」
「一緒じゃない。あたし、決まってるもん」
妹は流しの縁に肘をついた。
ついた肘が滑って、蛇口に当たった。当たった音が台所の中で一度だけ響いた。
◇
俺は皿のラップを剥がした。
剥がしたら、中身は魚だった。骨が抜いてある。抜いてある魚は、箸で持ち上げても崩れない。
俺は座って、箸を取った。
テーブルの上の紙は、そのままだった。
◇
「じゃあ何書くの」
「まだ言わない」
「なんで」
「言ったら、ゆいが先生に言うから」
「言わないよ」
「言うよ。去年、言ったじゃん」
携帯の向こうで、何か落ちる音がした。
「今の何」
「ドライヤー」
「拾いなよ」
「拾ってる」
「ゆい、まだ髪乾かしてないの?」
「乾かしながら喋ってた」
「聞こえてたのそれか」
「うるさかった?」
「ずっとうるさかった」
「ひなた、明日って学校で言う?」
「言わない」
「言わないんだ」
「先に紙に書く。口で言うと、変えられるもん」
妹は携帯を持ち替えた。持ち替えて、こっちを見た。
見て、すぐ戻した。
◇
俺は魚を食べていた。
食べながら、紙のことを考えた。
言えることは三つある。一つ目は「書いたのか」で、これは書いていない場合に面倒になる。二つ目は「何て書くんだ」で、これは紙の中を見た人間の言い方になる。三つ目は「その皿、俺のか」で、これは紙の話ではない。
一つ目を先に言って、返事によっては二つ目へ行く、という順番も考えた。考えたが、一つ目で「書いた」と返ってきたときに、二つ目は急に踏み込みすぎる。
逆から行くと、一つ目がもう要らない。
三つ目だけを言う手もある。ただし三つ目は、皿の話をしているように見えて、実際には皿の話である。
考えているあいだに、魚が半分になった。
俺は三つとも言わなかった。
◇
「切る。ごはん」
「あ、待って。日曜」
「日曜?」
「うち来る?」
「行く」
「じゃあ十時」
「十一時」
「なんで一時間ずらすの」
妹は電話を切った。切って、携帯をテーブルの端に置いた。
置いた場所が、紙から遠いほうだった。
置いた画面が、しばらく明るいままだった。明るいうちに一度光って、そのあと暗くなった。妹はそれを見なかった。
◇
妹は自分の皿を持って、俺の向かいに座った。
座って、箸を割った。割ったら、片方が斜めになった。斜めになったほうを自分で使った。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「そっち、煮物?」
「魚だ」
「あ、それあたしの」
◇
俺は箸を止めた。
止めたところで、妹はもう煮物のほうのラップを剥がしていた。
「食べていいよ」
「いいのか」
「もう半分食べたじゃん」
「そうだな」
「言っても戻らないし」
妹は煮物の里芋を一つ取って、口に入れた。入れて、熱かったらしく、皿の上に戻した。
戻した里芋には、歯の跡が半分だけ付いていた。
「熱いなら冷ませ」
「冷ましてたら伸びる」
「里芋は伸びない」
「気持ちの問題」
妹は箸で里芋を二つに割って、小さいほうを先に食べた。
母さんは町内会に出ていて、家にいない。父さんはまだ帰らない。台所には皿の音だけが鳴っていた。
◇
「兄ちゃん、二年から選ぶやつがあるの」
「選ぶ」
「文系と理系じゃなくて、そのあとにもう一個ある」
「もう一個か」
「うちの学校、三つに分かれるの」
妹は指を三本立てた。立てて、真ん中の一本を折った。
「あたし、機械のほう」
「機械」
「機械っていうか、撮るほう」
妹は折った指を戻した。戻して、三本ともテーブルの上に置いた。
「一個目が、普通の。二個目が、外国語のやつ。三個目が、うちの学校にしか無いやつ」
「無いやつ」
「作ったの、三年前だって。だから、卒業した人がまだ少ない」
「少ないと困るのか」
「困んない。先生が困るだけ」
「先生が」
「進路指導の紙に、その欄が無いんだって。三つ目だけ、手で足すの」
妹はテーブルの上に、指で四角を描いた。描いて、その中に線を一本引いた。
「あたし、欄が無いほうがいいと思った」
「なぜだ」
「無いと、誰も比べられないじゃん」
◇
俺は麦茶を飲んだ。
飲んで、湯呑みを置いた。置いたところが、紙の角から二センチのところだった。
俺は湯呑みを、もう二センチ動かした。
動かしたら、テーブルの上に輪が残った。輪は紙の角に触っていない。触っていないところまで確かめてから、俺は手を膝に戻した。
◇
「撮るほうって、何を撮るんだ」
「なんでも」
「なんでもか」
「機材の名前とか、光の当て方とか、音の拾い方とか、そういうのを一年やって、最後に自分たちで十五分のを一本作るんだって。ゆいのお姉ちゃんがそっち行ったから、話だけ聞いた」
「十五分か」
「十五分は長いんだよ。ゆいのお姉ちゃんのとこは、九人でやって、半年かかったって」
「そうか」
「あたし、去年からそっちがいいと思ってた」
「去年」
「言ってない。言うと、お母さんが先生に言うもん」
妹は箸を置いた。
置いた箸が、皿の縁で一度転がって、止まった。
「三年前にできたやつを選ぶのって、変かな」
「変じゃない」
「先生は、実績が無いって言った」
「実績」
「三年前にできたんだから、無いに決まってるじゃん」
妹は湯呑みを両手で持った。持って、飲まなかった。
◇
「あのさ」
妹は俺の顔を見ていた。見ながら、テーブルの下で足を組み替えたのが、椅子の音で分かった。
「あたしね、ノートつけてるじゃん」
「つけてるな」
「あの、青いやつ」
「知ってる」
◇
妹は椅子から立って、隣の部屋から鞄を持ってきた。
鞄から、表紙の青いノートを出した。
出して、テーブルの上で開いた。開いたところは真ん中より少し前で、そこには線が四本引いてある。日付と、時間と、秒と、行数。
「これ、出た日だけ書いてるの」
「そうだな」
「最初はさ、兄ちゃんが二秒しか出てないのを、笑うために書いてたんだよ」
「笑ってたな」
「うん。笑ってた」
◇
妹はページを一枚めくった。
めくった先には、まだ何も書いていない行があった。
「先月、学校でさ、書き方を教わったの」
「ノートのか」
「授業で。表の作り方」
妹はページの上の線を、指で左から右へなぞった。
「縦に何を並べるかで、その表が何の表かが決まるんだって。先生がそう言った」
「そうか」
「あたしのこれ、縦に並んでるの、全部兄ちゃんなんだよね」
妹はノートを閉じた。
閉じて、両手を表紙の上に乗せた。
「教わってるあいだ、あたし、これのこと考えてた」
◇
「これ、あたしのためにやってたわけじゃないんだよね」
◇
妹は表紙の上に乗せた手を、そのままにしていた。
乗せた指の先だけが、青い表紙の上で一度動いた。動いて、また止まった。
「ここ、まだ半分も埋まってないんだよ」
「そうか」
「一冊使い切ったら、二冊目どうするか決めようと思ってた」
「決めたのか」
「決めてない」
◇
俺は湯呑みを持ち上げた。
中は空だった。空だと分かったのは、持ち上げてからである。
妹は俺の返事を待たなかった。待たないで、ノートを鞄に戻した。
戻すときに、ノートの角が鞄の口に引っかかった。引っかかったので、一度出して、向きを変えて、もう一度入れた。
入れてから、鞄の口を閉めた。閉めた金具が、二回鳴った。
◇
妹は自分の皿を、手前に引き寄せた。
引き寄せたときに、皿の上の里芋が一つ、端のほうへ転がっていった。
転がりきる前に、妹は皿を止めた。止めた指が、皿の縁で少し滑った。
◇
「兄ちゃん、二階、電気点けっぱなし」
「点けてない」
「点いてた」
妹は先に立ち上がって、自分の皿を流しに運んだ。
運んで、そのまま蛇口をひねりかけて、やめた。
やめて、俺の皿のほうを見た。俺の皿には、まだ魚が半分残っている。
◇
二階の廊下は、真ん中の板が鳴る。
鳴るところを踏まないで歩こうとすると、体が右の壁に寄る。右の壁には、去年の夏に妹が貼ったシールの跡が四つ残っていた。剥がしたあとだけ白い。
突き当たりの窓の下に、洗濯物を入れる籠が置いてある。中は空だった。母さんは、畳む前に町内会へ出ていったらしい。
俺の部屋の前で、下から声がした。
「兄ちゃんの部屋、明かり点いてる」
点けていない。
◇
先に笑い声がした。テレビはついていない。
ドアを開けたら、机の上の電気が点いていた。人形は机の端に座っていた。座って、片足を台座の外へ出している。
笑ったのは人形だった。俺が入ったら、やめた。
「聞いてたわよ」
「どこからだ」
「魚のところから」
「全部だな」
俺はドアを閉めた。
閉めたら、下の音が急に遠くなった。ドアは薄い。薄いのに、台所の皿の音がもう聞こえなかった。
◇
「あんた、何も言わなかったわね」
「言うことが無い」
「無いことないでしょう」
「あった」
「あったのに言わなかったの」
「三つあった」
人形は台座の上で膝を抱えた。
◇
それきり、人形は何も言わなかった。
俺は床に鞄を置いて、その横に座った。座ったら、机の上の電気が目の高さより上に来た。
下から、皿を重ねる音がした。二枚重ねて、三枚目でやめた音だった。
人形は膝を抱えたまま、動かなかった。
◇
「ねえ、あんた」
「なんだ」
「下の皿、まだ半分残ってるでしょう」
「残ってる」
「あれ、あの子のよ」
「知ってる」
◇
俺は部屋を出た。
出て、階段を下りた。
妹の部屋のドアは閉まっていた。中で、椅子を引く音がした。引いて、また戻す音がした。もう一度引いて、そのあとは鳴らなかった。
ドアの下の隙間から、明かりが出ている。明かりは机のほうの一つだけで、部屋の電気は点いていない。
俺は立ち止まらないで、階段を下りきった。
◇
茶碗を洗った。
俺のぶんと、妹のぶんと、湯呑みが二つ。皿は三枚ある。三枚目は母さんので、町内会へ出る前に使ったらしい。俺はその一枚を、流しの端へ寄せた。
水は冷たかった。指の先だけが、途中で感覚が鈍くなる。
スポンジは二つある。緑と、黄色。黄色のほうは油物に使う。
俺は緑を使った。
湯呑みは内側に茶渋が付いていて、こすっても取れない。取れないところまでこすってから、伏せた。
流しの上の窓は、外が見えなかった。映っていたのは台所と、その真ん中に立っている自分の形だけだ。俺は形のほうを見ていた。
二階で水が動く音がした。動いて、すぐ止まった。妹が顔でも洗ったらしい。
◇
洗い終わって、伏せた。
伏せた茶碗の下に水が溜まるので、一度持ち上げて、角度を変えて置き直した。
テーブルの上の紙は、無くなっていた。
紙があった場所に、麦茶の輪だけが残っていた。輪は乾きかけていて、外側の線だけが濃い。
◇
二階から、妹が下りてきた。
下りてきて、台所の入口で止まった。手には何も持っていない。
「兄ちゃんが洗ったの」
「洗った」
「明日、あたしの当番だったのに」
「そうか」
「言ってくれれば、やったのに」
「言うと、やるだろ」
「やる」
「だから言わない」
「意味わかんない」
「わからんでいい」
妹は口を開けて、閉じた。
閉じた口で、少しのあいだ何かを言おうとしていた。言おうとして、やめた形のまま、流しの縁に手を置いた。
俺は手を拭いた。
◇
妹は流しの横まで来て、伏せた茶碗を一つだけ持ち上げた。
持ち上げて、下を見て、また同じ場所に戻した。
「水、残ってる」
「残ってるか」
「兄ちゃん、いつも角度が足りないの」
「角度」
「こう」
妹は茶碗をもう一度持ち上げて、縁を少し立てて置き直した。
置き直したやつは、水が下へ落ちた。
戻してから、こっちを見ないで言った。
「日曜、うち出るから」
「どこへ」
「ゆいんち。カメラ借りる」
◇
妹は台所を出ていった。
出ていく途中で、一度だけ止まった。止まって、振り返らないで言った。
「一人で行く」
階段の板が、上から順に鳴った。
途中の一段だけ、鳴り方が短い。そこは踏まないで上がれる段だが、今日は踏んでいた。
鳴り終わったあとで、俺は端に寄せてあった一枚を取った。
緑のスポンジは、まだ濡れていた。




