第108話 あの人も応募しているらしい
三階のスタジオで、椅子に座らされた。
背もたれが無い。俺は膝を揃えて、手を膝の上に置いた。手の置き場が、他に無かった。
カメラマンの人が、レンズの前でメジャーを伸ばした。伸ばして、俺の鼻先まで持ってきて、戻した。
「高町さん、少しだけ顎を引いてください」
「引きました」
「あ、はい。引いてますね」
その人は一度カメラから顔を離して、俺の顔を直接見た。
見て、またカメラに戻った。
「高町さん、目、開けてますよね」
「開けてます」
「開けてますね」
その人はファインダーを覗いたまま、右手だけで自分の眉のあたりをこすった。
◇
「これ、何の写真ですか」
俺は聞いた。
「書類に貼るやつです」
「何の書類ですか」
「僕は聞いてないです」
カメラマンの人はシャッターを三回切った。
一枚目のあとで、照明を右に十センチ動かした。二枚目のあとで、白い布の下の端を足で伸ばした。三枚目のあとで、モニターを覗いて、そのまま少し黙った。
「もう一枚、いいですか」
「はい」
「今のが良すぎたので、比較用に普通のが要ります」
普通のが要るらしい。
◇
朝の三階は、他に誰もいなかった。
簡易スタジオは、白い布を壁に垂らして、その前に照明を二つ立てるだけの部屋だ。布の下の端が、床でたわんでいる。たわんだところに、前の人が踏んだ跡が残っていた。
俺の靴は、右の甲だけ擦れている。九月に付いたやつだ。
この部屋に入ったのは、去年の宣材写真のとき以来だった。カメラマンの人は、そのときとは別の人だ。
◇
「高町さん」
廊下で有本さんが待っていた。
タブレットを両手で持って、胸の前に抱えている。抱え方が、今日は少し高い。
「四階です」
「はい」
「今日、電話が九本ありました」
「九本ですか」
「はい」
「九本です」
有本さんが、そこで止まった。
止まって、タブレットの角を胸のところで一度直した。
「……いま、わたしが言うところでした」
「すみません」
「いえ」
「二回目は、わたしが言います」
有本さんはエレベーターのボタンを押した。
「四階のあと、学校へ送ります。四限に間に合います」
「間に合いますか」
「間に合わせます」
エレベーターの扉が開いた。開いたのに、有本さんはすぐには乗らなかった。乗る前に、四階のボタンをもう一度押した。
◇
四階の会議室2は、六人で埋まる。
悪い話をするときにここを使う、と誰かが言っていた。今日は三人しかいない。
犬飼さんと、九条さんと、俺だ。
九条さんは机の向こうに座って、紙を一枚こちらへ滑らせた。
滑らせた紙は、俺の手が届くところより五センチ手前で止まった。俺は椅子を引いて、腕を伸ばした。
◇
紙には、大きい字で題が印刷してあった。
〈映画『無音の海』 出演者募集〉
その下に、監督の名前が一行あった。黒瀬巌。
さらに下に、小さい字で条件が並んでいて、いちばん下の行だけ太くなっていた。
〈十一月二十八日(金)必着〉
◇
「高町くん」
九条さんは眼鏡を外して、机の上に置いた。
「これは、うちが出す。君が出すんじゃない」
「はい」
「書類はこちらで作る。君がやるのは、さっきの写真だけだ」
「終わりました」
「聞いてる」
九条さんは眼鏡を持ち上げて、レンズを息で曇らせて、袖で拭いた。
拭いてから、かけ直した。
「中身の説明はしない。台本はまだ無い。あるのはこの一枚だけだ」
「はい」
「一枚で決めるのは、向こうも同じだ。向こうも、まだ何も持ってない」
犬飼さんが横で、机の上の湯呑みを一度回した。回して、飲まなかった。
◇
「うちは、この一年で君の見せ方を一度変えた」
九条さんは紙のほうを指した。
「変えた直後にこれを出すのは、会社としては早い。早いが、出す。出さないと、次に同じ規模の話が来るのが三年後になる」
「はい」
「三年後、君は二十一だ」
犬飼さんは背中を椅子から離したまま、三秒くらい動かなかった。
それから、机の下で椅子を少し引いた。
引いてから、初めて口を開いた。
「一つだけ、こっちから言っておく」
「はい」
「この紙で通らなかったときに、うちは何も変えない。冠特番も、来月の予定も、全部そのままだ。変わるのは向こうの都合で、うちの予定じゃない」
「はい」
「わかってないだろ」
「はい」
◇
「一つ、聞いておいてほしいことがある」
九条さんは机の上で指を組んだ。
「同じ枠に、よその事務所からも出る」
「はい」
「桐生蓮くんのところも出す」
犬飼さんが、そこで初めて紙のほうへ手を伸ばした。伸ばして、触らないで戻した。
「春のドラマで、君の隣に立ってた子だ」
「はい」
「あのとき二番手だった子が、同じ役を、同じ日に取りに来てる」
「はい」
「そういう商売だ」
俺は紙を見た。
紙には、名前は一つも書いていない。書いてあるのは、日付と、条件と、監督の名前だけである。
俺は紙を裏返した。裏には何も刷っていない。指で押さえたところが、少しだけ透けた。
「裏には何も無いですか」
「無い」
「はい」
「向こうも、まだそこまでしか決めてないんだ」
九条さんは机の上で両手を離した。離して、椅子の背にもたれた。
「一つだけ、こちらの言い方を直しておく」
「はい」
「さっき、うちが出すと言った。正確には、うちが出させてもらう、だ。募集に応じる側に、選ぶ権利は無い」
◇
「高町」
「はい」
「この紙、持って帰るか」
「持って帰ります」
犬飼さんは自分の手元の一枚を、俺のほうへ寄越した。
寄越したのは、九条さんが出したやつではなく、犬飼さんが自分で折っていたほうだった。折り目が二本入っている。
「そっちは会社の控えだ。こっちを持っていけ」
「はい」
「畳んでいいぞ」
俺は四つに畳んで、鞄に入れた。
入れたところで、鞄の中の教科書の角が紙に当たった。当たった位置を直すのに、教科書のほうを動かした。
九条さんはそれを見ていた。見ていたが、何も言わなかった。
◇
部屋を出たところで、九条さんが後ろから言った。
「高町くん、一つだけ」
「はい」
「君は、まだ何も背負ってない。背負うのはこっちだ。そこは間違えないでくれ」
ドアが閉まった。
◇
階段の踊り場に、神保がいた。
壁にもたれて、床を見ている。手に紙袋を提げていて、袋の口から、丸めた布のようなものが出ていた。
俺が下りてきたので、顔を上げた。
「高町くん」
「神保」
「今日、写真だろ」
「そうだ」
「聞いた」
神保は紙袋を持ち替えた。持ち替えて、反対の手を壁につけた。
◇
「俺さ、レッスン室Bの鍵、返してきた」
神保はそう言った。
「借りっぱなしだったんだよ。去年の夏から」
「そうか」
「一年以上、鍵を持ってて、それに気づかれてなかった」
神保は笑った。笑い方が、途中で音になっていなかった。
「返したら、受付の人が名簿から線を引いた」
「線か」
「返却の欄。当たり前だけどな」
神保は自分の靴の先を見た。
「あの部屋さ、窓が無いだろ。窓が無い部屋で二年やってると、外が晴れてるか降ってるかも分かんねえんだよ。今日、出てきて、初めて晴れてるって知った」
「晴れてるな」
「晴れてる」
◇
「今月で、いったん止める」
神保は紙袋を床に置いた。
「いったんっていうか、まあ、そういう話をしてる。犬飼さんじゃなくて、うちの担当と」
俺は何も聞かなかった。
聞かないで、階段の手すりに手を置いた。手すりは冷たかった。
◇
「なんか言えよ」
「なんて言えばいい」
「わかんね」
「わからん」
神保は笑った。今度は音になっていた。
「高町くん、そういうとこだよ」
「何がだ」
「二年言われてるだろ、それ」
「言われてる」
「誰に」
「鴻上に」
「あいつも同じこと言うのか」
「言う」
神保は紙袋を拾った。
拾って、口のところを一度握り直した。握り直したら、中の丸めた布が少し外へ出た。神保はそれを押し込んだ。
「高町くん、俺、レッスン室Aの床の鳴るとこ、いまだにどこか覚えてないんだよ」
「入口から三枚目だ」
「そうなんだ」
「そうだ」
神保は階段を下りていった。
下りる途中で、一度だけ振り返った。振り返って、口を開けて、閉じた。
閉じたまま、下まで行った。
◇
俺は二階まで下りた。
二階の廊下の先が、レッスン室Aである。ドアは閉まっていた。
入口から三枚目の板は、踏むと「ぎ」と鳴る。
俺は下りるのをやめて、その場に二秒立っていた。それから、また下りた。
◇
階段のところで、携帯が震えた。
ケイだった。
「高町。今どこ」
「事務所だ」
「俺、今から入るとこや。すれ違いやんけ」
「すれ違ってる」
「待っとけや」
「帰る」
「帰るんかい」
「なあ、高町」
「聞いてる」
「映画の話、来た?」
「来た」
「そうか」
「鴻上は」
「来てへん」
電話の向こうで、扉の開く音がした。開いて、そのまま閉まらなかった。
「まあ、俺、そういうやつちゃうしな」
「そうか」
「そうかて。おい」
ケイはそこで一度、息を吸った。吸って、別の話を始めた。
「来月の特番、構成の打ち合わせ明日からやねん。お前、日曜あいてる?」
「知らん」
「有本さんが持ってるやろ」
「持ってる」
「お前、ほんまそういうとこやで」
電話が切れた。
今日、二回言われた。
◇
黒板の右端に、字が入っていた。
〈11/26(水) 高町 公欠〉
その下に、小さく〈四限から〉と足してある。字は美咲のものだった。
四限は数学だった。
◇
教室は、三限が終わったあとの匂いがしていた。窓は二つ開いていて、開いているほうの席が三つ空いていた。
俺が入っていったら、熊沢が机ごと後ろを向いた。
「おい、高町。お前、あれ受けるの」
「あれ」
「映画」
「なんの映画だ」
「知らねえのかよ」
言われて、今朝の紙のことだと分かった。題は読んだ。映画だとは、あの紙のどこにも書いていなかった。
熊沢は自分の携帯を出そうとして、途中でやめた。授業が始まる三分前だった。
「うちの母ちゃんが朝から言ってんだよ。外国の人と一緒に作るでかいやつがあって、日本の役者を募集してるって」
「そうか」
「監督の名前が、なんか漢字三文字のじいさんでさ、うちの母ちゃんが若いころに見に行ったんだと」
「そうか」
「お前んとこ、来てねえの」
「来てた」
「来てんのかよ」
熊沢は机の上に肘をついた。
「じゃあ言えよ、先に」
「今、言った」
「聞かれてから言うのは、言ったって言わねえんだよ」
◇
五限のあいだ、俺は日付のことを考えていた。
二十八日は金曜である。金曜は六時間ある。
六時間あるということは、五限まで出ても六限が残る。六限まである日は、購買へ行けるのが昼の一回だけだ。
今日の六限のあと、購買の棚に残っていたのは、下の段の菓子パンが二つだけだった。
◇
放課後に、美咲が机の横に来た。
「三限のプリント」
「わかった」
「それと、金曜、三年は午前で終わりよ」
「金曜」
「二十八日。全校集会が入って、午後が消えたの」
美咲は俺の机の上に紙を置いた。
紙は二枚あった。上の一枚が三限のプリントで、下の一枚は、今月の予定を書き写したものだった。
「下のは」
「今月の残り。三年は行事が二つある」
「二つか」
「一つは金曜。あとの一つは言わない」
「なぜだ」
「あなた、来ないから」
美咲はこっちを見ないで、自分の席へ戻っていった。
午後が消えた。
◇
「なんだそれ、なんかいいことあった?」
熊沢が横から覗き込んだ。
「金曜が午前で終わる」
「それだけ?」
「それだけだ」
「お前、映画の話してたよな、さっき」
「していた」
熊沢は自分の頭を一度掻いて、俺の机の脚を軽く蹴った。
蹴ってから、椅子に座り直した。座り直して、机の木目のほうを向いたまま言った。
「あのさ、受かったら教えろよ」
「受かるとは言ってない」
「受かってからでいいから」
「わかった」
「落ちたときは言わなくていい」
◇
家に着いたのは、七時前だった。
裏口から入って、台所で飯を食って、風呂に入って、二階へ上がった。
妹の部屋のドアは閉まっていた。中から、椅子を引く音がした。
台所のテーブルには、今日は何も置いていなかった。紙も、皿も、湯呑みも無い。母さんが拭いたあとの跡だけが、まだ乾いていなかった。
◇
椅子が、俺が引く前に引いてあった。
机の前の椅子である。俺は座らないで、鞄から四つ折りの紙を出した。
「あんた、それ何」
「紙だ」
「見ればわかるわよ」
人形は机の上に立っていた。台座ごと、こっちを見上げている。
「読んだの」
「読んだ」
「何が書いてあったの」
「日にちだ」
「他は」
「条件と、監督の名前」
「名前は覚えたの」
「読んだ」
人形は片手を腰に当てた。当てたまま、少しのあいだ何も言わなかった。
◇
机の上は、置く場所が無かった。
左には教科書を四冊積んだ。右に、九月の一枚が広げたまま置いてある。〈高町・鴻上の おつかれ様です!〉
紙を二枚目として置くと、机の上に何も書けなくなる。
◇
紙を壁に貼った。
画鋲は引き出しに六つ入っていた。六つとも使った。右の紙に四つ、左の紙に二つ。
貼る場所は、九月の一枚の隣にした。九月のほうも壁へ移した。二枚は同じ高さになった。左が九月ので、右が今日のである。
貼り終わって、一歩下がった。
下がったら、踵が鞄に当たった。鞄は床に置いたままだった。
俺は鞄を横へ寄せて、もう一歩下がった。
◇
「二枚になったわね」
「なった」
「一枚目は、あんたの名前が入ってたわ」
「入ってた」
「二枚目は、入ってない」
俺は壁の前に立っていた。
左の紙は、九月に折って持ち帰ったやつで、折り目が名前と名前のあいだを通っている。壁に貼ったら、折り目のところだけが少し浮いた。
右の紙は、四つに畳んだぶん、折り目が二本ある。二本とも、字のあいだを通っていない。
人形は壁のほうを見ていた。
「入ってないほうが、これから長いのよ」
「長いのか」
「長いわよ」
◇
「あんた、来月は落ち着かないわよ」
「なぜだ」
「そういう紙だからよ」
人形は台座の上で腰を下ろした。
下ろして、それ以上は何も言わなかった。
俺は床に座って、壁の二枚を下から見た。
下から見ると、右の紙のいちばん下の行だけが、字の太さで浮いて見える。左の紙は、真ん中の一行が大きいだけで、下のほうは白い。
窓の外で、車が一台通っていった。通ったあと、しばらく何も通らなかった。
妹の部屋の明かりが、廊下のほうへ細く漏れている。ドアの下の隙間の幅は、ここからだと指一本ぶんに見えた。
俺は壁の紙のいちばん下の行を、もう一度読んだ。
〈十一月二十八日(金)必着〉
二十八日は金曜で、その金曜は午前で終わる。二限のあとの休みと、帰る前と、二回行ける。
◇
俺は床から立って、壁の前に戻った。
二枚は同じ高さに並んでいる。左の紙には俺の名前が刷ってあって、右の紙には無い。
右の四つの画鋲は、左の二つより深く入っていた。押したときに壁の下地へ当たった感じが、まだ指に残っている。
「あんた、その紙、あんた以外にも出す人がいるの」
「いる」
「何人」
「知らん。名前を一つだけ聞いた」
「誰」
「桐生さんだ」
人形は壁のほうを見たままだった。見たまま、少ししてから言った。
「あの子も、二十八日に同じ紙を出すのね」
「出すらしい」
「らしい、じゃないわよ」
右の紙には、まだ誰の名前も入っていない。




