第109話 一次通過より、早退できるかどうか
朝、教室に入ったら、俺の席に鞄が二つ載っていた。
一つは俺のじゃない。持ち手のところに定期券入れが挟まっていて、中の写真は熊沢だった。
俺は熊沢の鞄を、熊沢の席へ移した。移してから、自分の鞄を下ろした。
「悪い」
「いい」
「昨日、置いて帰った」
「知ってる」
熊沢は自分の席に着いて、鞄の中を上から覗いた。覗いて、蓋を閉めた。
「明日、体育なんだっけ」
「持久走じゃないほうだ」
「それ、答えになってねえよ」
◇
窓の外は曇っていた。
教室の窓は上と下に分かれていて、上だけが開いていた。開いているほうから、下のグラウンドの音が入ってくる。誰かが笛を吹いていて、二回鳴ったあとは、しばらく鳴らなかった。
早坂が俺の席の横を通って、後ろのロッカーを開けた。開けて、何も出さないで閉めた。
閉めてから、もう一度開けて、今度は体操着の袋を出した。
袋を持ったまま、俺の机の前で一度止まった。
「おはよう」
「おはよう」
「……えっと、ロッカー、開けにくくてごめん」
「開けにくくない」
「ごめん」
早坂は袋を抱えて、前のほうの席へ戻っていった。戻る途中で袋の口の紐が肩から落ちて、拾い直していた。
◇
昼休みに、熊沢が俺の机の横を三回通った。
一回目は水筒を持っていた。二回目は何も持っていなかった。三回目はまた水筒で、中身は一回目と同じ高さのところで揺れていた。
四回目に、机の横で止まった。
「なあ、高町」
「聞いてる」
「聞いてるって顔じゃねえけどな」
「聞こえてはいる」
「そこじゃねえんだよ」
熊沢は前の席の椅子を引きずってきて、背もたれを前にして座った。
「言わねえからな、俺は。この前、言っただろ。受かったら教えろ、落ちたときは言わなくていいって」
「言った」
「だから聞かねえ」
「聞いてないな」
「聞いてねえだろ」
熊沢は水筒の蓋を開けて、そのまま閉めた。
「でもさ、うちの母ちゃんがまた言ってんだよ。あれ、いつ結果が出るのって。俺に聞かれても知らねえっつうの」
「知らないな」
「お前が知らねえのはおかしいだろ」
「おかしいか」
「おかしいよ」
熊沢は椅子を元に戻して、自分の席へ帰っていった。
帰る途中で、後ろの窓のカーテンを半分だけ引いた。日は出ていなかった。
◇
五限は世界史だった。
先生は黒板に四角を書いて、その中に人物の名前を並べる。並べ終わってから、名前と名前のあいだに線を引く。線が交わったところに丸を付けて、丸の横に短い言葉を足す。
今日の四角は五つで、線は七本あった。
俺の席は窓際の後ろから二番目だから、黒板の右の端がいちばんよく見える。右の端には日付だけが入っていた。
教室の後ろで、椅子が一度鳴った。
◇
六限は古典だった。
助動詞の表を写す時間である。先生は黒板に縦の表を書いて、埋まっているところと空いているところを作る。空いているところは、当てて答えさせる。
俺のところは当たらなかった。当たったのは、俺の二つ前の席までだった。
二つ前で止まったのは、そこで先生が時計を見たからだ。
表は、下の三行が空いたまま残った。残ったところで、先生は続きは次だと言った。
熊沢は表を写していなかった。写していないのに、俺のノートを横から覗いて、書いてある行の数を数えていた。
「お前、字ぃ小せえな」
「小さい」
「なんで全部そこに入んの」
「入れてる」
窓の外は、まだ曇っていた。グラウンドのほうで、また笛が鳴っている。朝より短い間隔で鳴っていた。
俺は表の空いているところを、二つだけ鉛筆で薄く埋めた。合っているかどうかは、次にわかる。
◇
六限のあと、鞄の中で携帯が震えた。
俺は廊下へ出た。廊下は声が響く。自分の声が階段の下まで届いていないかを、先に確かめてから出た。
「高町」
「はい」
「通った」
「何がですか」
「一次だ。書類の」
「はい」
「うちが出した紙が、向こうの机の上に残った。今日わかったのはそれだけだ」
「残ったんですか」
「残った」
電話の向こうで、椅子の脚が床を擦る音がした。二回した。
「事務所が少し騒がしい」
「はい」
「うるさいのは有本だ」
◇
「次があるんですか」
「ある。最終審査だ」
「いつですか」
「二月の中旬だ」
「二月ですか」
「まだ先だ」
俺は窓の外を見た。校庭の隅で、二年が跳び箱を片付けている。上の段から順に運んでいて、いちばん下の段だけがまだ残っていた。
「その日は、平日ですか」
「平日だ」
「じゃあ、学校がありますね」
「ある」
「早退できますか」
電話が、少しのあいだ無音になった。
「高町」
「はい」
「君が最初に聞くことが、それか」
「はい」
「……できる。書類はこっちで出す」
「わかりました」
◇
「一つ、言っておく」
「はい」
「二月までに、うちは君の予定をいじらない。冠特番も、来月の収録も、全部そのままだ」
「はい」
「向こうの都合で動くのは向こうの表で、うちの表じゃない」
「はい」
「表は二枚ある。君が見るのは、うちのだけだ」
電話が切れた。
◇
俺は携帯を鞄に入れた。
入れたところで、廊下の窓の外から掛け声が上がった。跳び箱がしまい終わったらしい。下の段を運んでいた二人が、手を叩き合っていた。
二月の中旬に、学校を半日抜ける。抜けるには紙が要る。紙は事務所が作ると言っていた。
俺がやることは、その日に早退の届を出すことだけだ。
腹が減っていた。購買へ回ったら、棚の下の段に袋が一つだけ残っていた。中身はチョコの薄いやつだった。俺はそれを買って、階段の踊り場で立ったまま食べた。
◇
ソレイユの前の道は、一方通行である。
夕方の五時前に着いた。ビルの向かいに、白い車が停まっていた。
前のタイヤを縁石に寄せていて、エンジンは切ってある。窓は上がっていた。中に人が二人いて、運転席のほうも助手席のほうも、まっすぐ前を見ていた。
宅配の人だと思った。
思ってから、荷物のことを考えた。
◇
この道に面しているのは、ソレイユのビルと、向かいの三階建てと、その隣の駐車場だけだ。駐車場へ荷物を運んでいる人は、俺は見たことがない。だとすると向かいか、こっちかのどっちかになる。
向かいの三階建ては、一階が花屋である。二階から上に何が入っているのかは知らない。花屋なら朝に届くはずで、朝に届くものを夕方に持ってくる理由が思いつかない。
ソレイユなら、荷物は受付に置いていく。受付は一階で、受付の人は六時までいる。まだ五時前だから、置いて帰ればいい。置いて帰れるのに、車の中で待っている。
待っているということは、相手が不在なのだと思った。不在なら、また来る。また来るなら、いま待たなくていい。
二人乗っているのは、荷物が大きいからだ。大きい荷物なら台車が要る。台車は後ろに積む。
俺は車の後ろを見た。後ろのガラスは黒くて、中は見えなかった。
台車が見えないということは、荷物はもう置いたのかもしれない。置いたのに車の中にいるということは、次の家が近いのだ。次の家が近いなら、歩いていけばいい。
そこで考えるのをやめた。
俺は自動ドアを通って、エレベーターのボタンを押した。
◇
受付の人が、こちらを見て会釈をした。
俺も頭を下げた。下げたあとで、受付の台の上に段ボールが一つ載っているのが見えた。
伝票の紙が上に貼ってあって、宛名のところが、俺の立っている角度からは読めなかった。
エレベーターは三階で止まっていて、そこから下りてくるのに時間がかかった。
扉が開いたら、中に誰もいなかった。
乗って、四階のボタンを押した。押したあとで、閉まるボタンも押した。押さなくても閉まる速さだった。
◇
四階は、いつもより人が多かった。
会議室2の前にあるホワイトボードが、廊下の突き当たりまで引き出してある。誰かが押していったらしくて、脚の車輪の下に細い跡が二本ついていた。
ボードの真ん中に、紙が一枚、マグネットで留めてあった。
ファクスの紙だった。上のほうに細い横線が入っていて、字が全体に薄い。
その前に有本さんが立っていた。
「高町さん、四階だと聞きました」
「聞きました」
「聞いてます」
「はい」
有本さんはタブレットを持ったまま、ボードのほうを一度指した。指してから、指を下ろした。
「わたしは、まだ何も言っていません」
「はい」
「言うのはたぶん犬飼さんです」
有本さんはそこで足の位置を少し変えた。変えたが、その場から動かなかった。
◇
窓際に犬飼さんが立っていた。
横に、知らない人がいた。背の高い女の人で、髪を後ろで一つに結んでいる。紙も携帯も持っていなくて、両手を体の横で軽く握ったまま下ろしていた。
二人とも、窓の下を見ている。
「朝からです」
「何時からだ」
「わたしが着いたのが八時半で、そのときにはもう停まっていました」
「動いたか」
「一度、前に二メートル出て、また戻りました。運転席の人は替わっていません」
「うちの何を撮る」
「入口です。誰が入って、誰が出るか」
俺はボードの紙のほうを見ていた。半分だけ声が届いていたが、車の話をしているのだとは思わなかった。
紙には、映画の題と、事務所の名前と、俺の名前が並んで刷ってあった。名前のあいだの点が一つだけ大きい。ファクスを通ると、点だけ太くなることがあるらしい。
その下は白かった。白いところに、誰かがボールペンで小さく丸を書いていた。丸の中には何も入っていない。
◇
「高町くん、少しこっちへ」
その人は、俺のほうを見ないでそう言った。
俺が横に立ってから、初めてこちらを向いた。
「宣伝部の戸倉です。取材の対応と、外に出る話を、うちでまとめています」
「はい」
「高町くん、下に車が停まっていたのは見ましたか」
「見ました」
「どう思いましたか」
「宅配の人だと思いました」
戸倉さんは、そこで一度、窓のほうへ顔を戻した。
戻して、また俺を見た。
「宅配の人は、車の中で八時間待ちません」
「はい」
「はい、ではなくて」
「はい」
◇
犬飼さんが、窓の縁から手を離した。
「戸倉さん」
「はい」
「この子は、今のを聞いてない」
「聞いていますよ」
「聞いてはいる」
犬飼さんはポケットに手を入れて、そのまま出さなかった。
「言い方を変えます」
戸倉さんは俺のほうへ半歩寄った。
「高町くん、明日から、ビルの前で立ち止まらないでください。中に入るまで止まらない。誰かに声をかけられても止まらない」
「止まりません」
「はい、と言うだけの人が、いちばん止まります」
「止まらないようにします」
戸倉さんは俺の顔を三秒くらい見て、それから犬飼さんのほうを見た。
犬飼さんはポケットの中で何かを一度握って、また離した。
◇
「一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「二月の中旬に、学校を半日抜けます」
「はい」
「その届は、うちが出すんですか。それとも俺が担任に出すんですか」
戸倉さんの手が、体の横で一度開いて、また軽く握られた。
「書類はうちが作ります。学校へ出すのは、たぶん犬飼さんです」
「わかりました」
「高町くん、いま聞くことは、それですか」
「はい」
戸倉さんは窓のほうを向いた。向いたまま、少しのあいだ何も言わなかった。
窓の下では、白い車がまだ同じところに停まっている。
◇
廊下の向こうで、笑い声がした。
若い社員が二人、ボードの紙を撮っていた。撮ってから、片方が声を出して、もう片方が口の前に手を立てた。
有本さんは撮らなかった。撮らないで、タブレットに何か打って、画面を伏せた。
九条さんが階段のほうから来て、ボードの前で足を止めた。止まって、紙の上のほうを指で押さえた。
「紙が反ってる」
「はい」
「マグネットを一つ足しなさい」
九条さんは階段のほうへ戻っていった。戻る途中で、若い社員の二人が横に避けた。
◇
廊下には、いつのまにか七、八人が出ていた。
制作の人が二人と、経理の人が一人と、名前を知らない人が何人か。全員がボードのほうを向いているわけではない。半分は誰かと喋っていて、喋りながら時々ボードを見る。
「これ、うちの母に送っていい?」
「なんで」
「見たいって言うから」
「見せてどうすんだよ」
「どうもしないよ。見たいだけだって」
「……あとで戸倉さんに聞け」
「聞くと駄目って言われるじゃん」
俺は腹が減っていた。階段の踊り場で食べたチョコの薄いやつは、包みを開けた時点でだいたい終わっていた。
この階に自販機は無い。自販機は一階にある。俺はさっき一階を通ってきた。
傍から見ると、通過の紙の前から動かない新人だが、中身は一階の自販機までの距離を測っていた。
◇
「高町、聞いてるか」
「聞いてます」
「今日、家に帰ったら寝ろ」
「寝ます」
「早く寝ろ」
「はい」
犬飼さんは俺の顔を見て、それから戸倉さんのほうを見た。
「今の、伝わってるか」
「寝ろ、ですね」
「そっちじゃない」
◇
「発売は金曜です」
戸倉さんが言った。
「今日は火曜だ」
「はい。三日あります」
「三日で何ができる」
「何もできません。出るものは出ます。うちがやるのは、出たあとの三時間です」
犬飼さんは黙って、窓の下をもう一度見た。
「先に相手へ入れますか」
「入れない」
「入れると、向こうは書き足します」
「知ってる」
「じゃあ、当日の朝に動きます。朝の六時に一度、わたしから電話をします」
「六時か」
「六時です。そのころには刷り上がっています」
犬飼さんは窓の縁を指の腹で二回叩いた。叩いて、手を離した。
二人は、雑誌の話をしているらしかった。何という雑誌かは、どちらも言わなかった。
◇
有本さんが、廊下の端から俺を呼んだ。
「高町さん、今日はもう上がっていいそうです」
「上がります」
「帰りは、駅まで送るように言われました」
「歩いて五分です」
「五分だと聞いています」
有本さんはタブレットを持ち直した。持ち直しただけで、行こうとはしなかった。
「送ります」
「はい」
「わたしが決めたことではないので、そこは戸倉さんに聞いてください」
◇
ボードの紙は、いちばん下の行だけ字が小さかった。
〈最終審査 二月中旬〉。そこまでは、離れていても読めた。
その先に、括弧でくくった短い一行がある。字が小さくて、ここからでは読めない。
廊下の人はもう半分に減っていて、残っている人は誰もボードを見ていない。
俺は紙のほうへ腕を伸ばした。




