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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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109/234

第109話 一次通過より、早退できるかどうか

 朝、教室に入ったら、俺の席に鞄が二つ載っていた。


 一つは俺のじゃない。持ち手のところに定期券入れが挟まっていて、中の写真は熊沢だった。


 俺は熊沢の鞄を、熊沢の席へ移した。移してから、自分の鞄を下ろした。


「悪い」

「いい」

「昨日、置いて帰った」

「知ってる」


 熊沢は自分の席に着いて、鞄の中を上から覗いた。覗いて、蓋を閉めた。


「明日、体育なんだっけ」

「持久走じゃないほうだ」

「それ、答えになってねえよ」


   ◇


 窓の外は曇っていた。


 教室の窓は上と下に分かれていて、上だけが開いていた。開いているほうから、下のグラウンドの音が入ってくる。誰かが笛を吹いていて、二回鳴ったあとは、しばらく鳴らなかった。


 早坂が俺の席の横を通って、後ろのロッカーを開けた。開けて、何も出さないで閉めた。


 閉めてから、もう一度開けて、今度は体操着の袋を出した。


 袋を持ったまま、俺の机の前で一度止まった。


「おはよう」

「おはよう」

「……えっと、ロッカー、開けにくくてごめん」

「開けにくくない」

「ごめん」


 早坂は袋を抱えて、前のほうの席へ戻っていった。戻る途中で袋の口の紐が肩から落ちて、拾い直していた。


   ◇


 昼休みに、熊沢が俺の机の横を三回通った。


 一回目は水筒を持っていた。二回目は何も持っていなかった。三回目はまた水筒で、中身は一回目と同じ高さのところで揺れていた。


 四回目に、机の横で止まった。


「なあ、高町」

「聞いてる」

「聞いてるって顔じゃねえけどな」

「聞こえてはいる」

「そこじゃねえんだよ」


 熊沢は前の席の椅子を引きずってきて、背もたれを前にして座った。


「言わねえからな、俺は。この前、言っただろ。受かったら教えろ、落ちたときは言わなくていいって」

「言った」

「だから聞かねえ」

「聞いてないな」

「聞いてねえだろ」


 熊沢は水筒の蓋を開けて、そのまま閉めた。


「でもさ、うちの母ちゃんがまた言ってんだよ。あれ、いつ結果が出るのって。俺に聞かれても知らねえっつうの」

「知らないな」

「お前が知らねえのはおかしいだろ」

「おかしいか」

「おかしいよ」


 熊沢は椅子を元に戻して、自分の席へ帰っていった。


 帰る途中で、後ろの窓のカーテンを半分だけ引いた。日は出ていなかった。


   ◇


 五限は世界史だった。


 先生は黒板に四角を書いて、その中に人物の名前を並べる。並べ終わってから、名前と名前のあいだに線を引く。線が交わったところに丸を付けて、丸の横に短い言葉を足す。


 今日の四角は五つで、線は七本あった。


 俺の席は窓際の後ろから二番目だから、黒板の右の端がいちばんよく見える。右の端には日付だけが入っていた。


 教室の後ろで、椅子が一度鳴った。


   ◇


 六限は古典だった。


 助動詞の表を写す時間である。先生は黒板に縦の表を書いて、埋まっているところと空いているところを作る。空いているところは、当てて答えさせる。


 俺のところは当たらなかった。当たったのは、俺の二つ前の席までだった。


 二つ前で止まったのは、そこで先生が時計を見たからだ。


 表は、下の三行が空いたまま残った。残ったところで、先生は続きは次だと言った。


 熊沢は表を写していなかった。写していないのに、俺のノートを横から覗いて、書いてある行の数を数えていた。


「お前、字ぃ小せえな」

「小さい」

「なんで全部そこに入んの」

「入れてる」


 窓の外は、まだ曇っていた。グラウンドのほうで、また笛が鳴っている。朝より短い間隔で鳴っていた。


 俺は表の空いているところを、二つだけ鉛筆で薄く埋めた。合っているかどうかは、次にわかる。


   ◇


 六限のあと、鞄の中で携帯が震えた。


 俺は廊下へ出た。廊下は声が響く。自分の声が階段の下まで届いていないかを、先に確かめてから出た。


「高町」

「はい」

「通った」

「何がですか」

「一次だ。書類の」

「はい」

「うちが出した紙が、向こうの机の上に残った。今日わかったのはそれだけだ」

「残ったんですか」

「残った」


 電話の向こうで、椅子の脚が床を擦る音がした。二回した。


「事務所が少し騒がしい」

「はい」

「うるさいのは有本だ」


   ◇


「次があるんですか」

「ある。最終審査だ」

「いつですか」

「二月の中旬だ」

「二月ですか」

「まだ先だ」


 俺は窓の外を見た。校庭の隅で、二年が跳び箱を片付けている。上の段から順に運んでいて、いちばん下の段だけがまだ残っていた。


「その日は、平日ですか」

「平日だ」

「じゃあ、学校がありますね」

「ある」

「早退できますか」


 電話が、少しのあいだ無音になった。


「高町」

「はい」

「君が最初に聞くことが、それか」

「はい」

「……できる。書類はこっちで出す」

「わかりました」


   ◇


「一つ、言っておく」

「はい」

「二月までに、うちは君の予定をいじらない。冠特番も、来月の収録も、全部そのままだ」

「はい」

「向こうの都合で動くのは向こうの表で、うちの表じゃない」

「はい」

「表は二枚ある。君が見るのは、うちのだけだ」


 電話が切れた。


   ◇


 俺は携帯を鞄に入れた。


 入れたところで、廊下の窓の外から掛け声が上がった。跳び箱がしまい終わったらしい。下の段を運んでいた二人が、手を叩き合っていた。


 二月の中旬に、学校を半日抜ける。抜けるには紙が要る。紙は事務所が作ると言っていた。


 俺がやることは、その日に早退の届を出すことだけだ。


 腹が減っていた。購買へ回ったら、棚の下の段に袋が一つだけ残っていた。中身はチョコの薄いやつだった。俺はそれを買って、階段の踊り場で立ったまま食べた。


   ◇


 ソレイユの前の道は、一方通行である。


 夕方の五時前に着いた。ビルの向かいに、白い車が停まっていた。


 前のタイヤを縁石に寄せていて、エンジンは切ってある。窓は上がっていた。中に人が二人いて、運転席のほうも助手席のほうも、まっすぐ前を見ていた。


 宅配の人だと思った。


 思ってから、荷物のことを考えた。


   ◇


 この道に面しているのは、ソレイユのビルと、向かいの三階建てと、その隣の駐車場だけだ。駐車場へ荷物を運んでいる人は、俺は見たことがない。だとすると向かいか、こっちかのどっちかになる。


 向かいの三階建ては、一階が花屋である。二階から上に何が入っているのかは知らない。花屋なら朝に届くはずで、朝に届くものを夕方に持ってくる理由が思いつかない。


 ソレイユなら、荷物は受付に置いていく。受付は一階で、受付の人は六時までいる。まだ五時前だから、置いて帰ればいい。置いて帰れるのに、車の中で待っている。


 待っているということは、相手が不在なのだと思った。不在なら、また来る。また来るなら、いま待たなくていい。


 二人乗っているのは、荷物が大きいからだ。大きい荷物なら台車が要る。台車は後ろに積む。


 俺は車の後ろを見た。後ろのガラスは黒くて、中は見えなかった。


 台車が見えないということは、荷物はもう置いたのかもしれない。置いたのに車の中にいるということは、次の家が近いのだ。次の家が近いなら、歩いていけばいい。


 そこで考えるのをやめた。


 俺は自動ドアを通って、エレベーターのボタンを押した。


   ◇


 受付の人が、こちらを見て会釈をした。


 俺も頭を下げた。下げたあとで、受付の台の上に段ボールが一つ載っているのが見えた。


 伝票の紙が上に貼ってあって、宛名のところが、俺の立っている角度からは読めなかった。


 エレベーターは三階で止まっていて、そこから下りてくるのに時間がかかった。


 扉が開いたら、中に誰もいなかった。


 乗って、四階のボタンを押した。押したあとで、閉まるボタンも押した。押さなくても閉まる速さだった。


   ◇


 四階は、いつもより人が多かった。


 会議室2の前にあるホワイトボードが、廊下の突き当たりまで引き出してある。誰かが押していったらしくて、脚の車輪の下に細い跡が二本ついていた。


 ボードの真ん中に、紙が一枚、マグネットで留めてあった。


 ファクスの紙だった。上のほうに細い横線が入っていて、字が全体に薄い。


 その前に有本さんが立っていた。


「高町さん、四階だと聞きました」

「聞きました」

「聞いてます」

「はい」


 有本さんはタブレットを持ったまま、ボードのほうを一度指した。指してから、指を下ろした。


「わたしは、まだ何も言っていません」

「はい」

「言うのはたぶん犬飼さんです」


 有本さんはそこで足の位置を少し変えた。変えたが、その場から動かなかった。


   ◇


 窓際に犬飼さんが立っていた。


 横に、知らない人がいた。背の高い女の人で、髪を後ろで一つに結んでいる。紙も携帯も持っていなくて、両手を体の横で軽く握ったまま下ろしていた。


 二人とも、窓の下を見ている。


「朝からです」

「何時からだ」

「わたしが着いたのが八時半で、そのときにはもう停まっていました」

「動いたか」

「一度、前に二メートル出て、また戻りました。運転席の人は替わっていません」

「うちの何を撮る」

「入口です。誰が入って、誰が出るか」


 俺はボードの紙のほうを見ていた。半分だけ声が届いていたが、車の話をしているのだとは思わなかった。


 紙には、映画の題と、事務所の名前と、俺の名前が並んで刷ってあった。名前のあいだの点が一つだけ大きい。ファクスを通ると、点だけ太くなることがあるらしい。


 その下は白かった。白いところに、誰かがボールペンで小さく丸を書いていた。丸の中には何も入っていない。


   ◇


「高町くん、少しこっちへ」


 その人は、俺のほうを見ないでそう言った。


 俺が横に立ってから、初めてこちらを向いた。


「宣伝部の戸倉です。取材の対応と、外に出る話を、うちでまとめています」

「はい」

「高町くん、下に車が停まっていたのは見ましたか」

「見ました」

「どう思いましたか」

「宅配の人だと思いました」


 戸倉さんは、そこで一度、窓のほうへ顔を戻した。


 戻して、また俺を見た。


「宅配の人は、車の中で八時間待ちません」

「はい」

「はい、ではなくて」

「はい」


   ◇


 犬飼さんが、窓の縁から手を離した。


「戸倉さん」

「はい」

「この子は、今のを聞いてない」

「聞いていますよ」

「聞いてはいる」


 犬飼さんはポケットに手を入れて、そのまま出さなかった。


「言い方を変えます」


 戸倉さんは俺のほうへ半歩寄った。


「高町くん、明日から、ビルの前で立ち止まらないでください。中に入るまで止まらない。誰かに声をかけられても止まらない」

「止まりません」

「はい、と言うだけの人が、いちばん止まります」

「止まらないようにします」


 戸倉さんは俺の顔を三秒くらい見て、それから犬飼さんのほうを見た。


 犬飼さんはポケットの中で何かを一度握って、また離した。


   ◇


「一つ、聞いていいですか」

「どうぞ」

「二月の中旬に、学校を半日抜けます」

「はい」

「その届は、うちが出すんですか。それとも俺が担任に出すんですか」


 戸倉さんの手が、体の横で一度開いて、また軽く握られた。


「書類はうちが作ります。学校へ出すのは、たぶん犬飼さんです」

「わかりました」

「高町くん、いま聞くことは、それですか」

「はい」


 戸倉さんは窓のほうを向いた。向いたまま、少しのあいだ何も言わなかった。


 窓の下では、白い車がまだ同じところに停まっている。


   ◇


 廊下の向こうで、笑い声がした。


 若い社員が二人、ボードの紙を撮っていた。撮ってから、片方が声を出して、もう片方が口の前に手を立てた。


 有本さんは撮らなかった。撮らないで、タブレットに何か打って、画面を伏せた。


 九条さんが階段のほうから来て、ボードの前で足を止めた。止まって、紙の上のほうを指で押さえた。


「紙が反ってる」

「はい」

「マグネットを一つ足しなさい」


 九条さんは階段のほうへ戻っていった。戻る途中で、若い社員の二人が横に避けた。


   ◇


 廊下には、いつのまにか七、八人が出ていた。


 制作の人が二人と、経理の人が一人と、名前を知らない人が何人か。全員がボードのほうを向いているわけではない。半分は誰かと喋っていて、喋りながら時々ボードを見る。


「これ、うちの母に送っていい?」

「なんで」

「見たいって言うから」

「見せてどうすんだよ」

「どうもしないよ。見たいだけだって」

「……あとで戸倉さんに聞け」

「聞くと駄目って言われるじゃん」


 俺は腹が減っていた。階段の踊り場で食べたチョコの薄いやつは、包みを開けた時点でだいたい終わっていた。


 この階に自販機は無い。自販機は一階にある。俺はさっき一階を通ってきた。


 傍から見ると、通過の紙の前から動かない新人だが、中身は一階の自販機までの距離を測っていた。


   ◇


「高町、聞いてるか」

「聞いてます」

「今日、家に帰ったら寝ろ」

「寝ます」

「早く寝ろ」

「はい」


 犬飼さんは俺の顔を見て、それから戸倉さんのほうを見た。


「今の、伝わってるか」

「寝ろ、ですね」

「そっちじゃない」


   ◇


「発売は金曜です」


 戸倉さんが言った。


「今日は火曜だ」

「はい。三日あります」

「三日で何ができる」

「何もできません。出るものは出ます。うちがやるのは、出たあとの三時間です」


 犬飼さんは黙って、窓の下をもう一度見た。


「先に相手へ入れますか」

「入れない」

「入れると、向こうは書き足します」

「知ってる」

「じゃあ、当日の朝に動きます。朝の六時に一度、わたしから電話をします」

「六時か」

「六時です。そのころには刷り上がっています」


 犬飼さんは窓の縁を指の腹で二回叩いた。叩いて、手を離した。


 二人は、雑誌の話をしているらしかった。何という雑誌かは、どちらも言わなかった。


   ◇


 有本さんが、廊下の端から俺を呼んだ。


「高町さん、今日はもう上がっていいそうです」

「上がります」

「帰りは、駅まで送るように言われました」

「歩いて五分です」

「五分だと聞いています」


 有本さんはタブレットを持ち直した。持ち直しただけで、行こうとはしなかった。


「送ります」

「はい」

「わたしが決めたことではないので、そこは戸倉さんに聞いてください」


   ◇


 ボードの紙は、いちばん下の行だけ字が小さかった。


 〈最終審査 二月中旬〉。そこまでは、離れていても読めた。


 その先に、括弧でくくった短い一行がある。字が小さくて、ここからでは読めない。


 廊下の人はもう半分に減っていて、残っている人は誰もボードを見ていない。


 俺は紙のほうへ腕を伸ばした。

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