第110話 写り、いいですね
金曜の夜に二階へ上がったら、机の上に雑誌が一冊置いてあった。
俺は買っていない。表紙を上にして、机のちょうど真ん中に置いてある。教科書の山の上でもなく、端でもなく、真ん中だ。
置いた人は、俺がここに座ることを知っている。
雑誌の端は少し波打っていた。鞄か何かに一度入れて、また出したやつの形だった。
◇
風呂に入る前だったので、髪がまだ濡れていない。
俺は椅子に座って、雑誌を手前へ引いた。引いたら、表紙の下のほうに折り込みの見本が挟まっていて、それが床に落ちた。
拾って、机の上に置いた。
折り込みには、家の間取りの絵が三つ並んでいた。三つとも、部屋の数のところに丸い数字がついている。
窓の外は暗い。家の前の道には街灯が二本ある。手前の一本が、さっきから点いたり消えたりしていた。
◇
表紙にある雑誌の名前は、週刊真相である。
コンビニの棚だと、いつも右の上のほうにある。俺は買ったことがない。表紙より先を開いたのも、今日が最初だった。
表紙には、政治家の名前と、野球の選手の名前と、値段が並んでいた。
俺の名前は、表紙には無かった。
◇
目次のページは開かなかった。
開かなくても、そのページに指が挟まっていた。誰かが先に開いて、そこで閉じたのだと思う。
俺は指の位置のところを開いた。
開いたページには、料理の写真が三つ並んでいた。ここではないらしい。
俺は指の挟まっていたところを、もう一度見た。ページの角が内側へ小さく折ってある。折ってあるのは一箇所だけだった。
その番号のページをめくった。
◇
見開きの上に、大きい字で題が入っていた。
〈人気俳優、共演者と深夜デート〉
字の下に、写真があった。写真は二点である。
左が、並んで歩いているやつ。右が、車に乗り込むやつ。二点とも夜で、二点とも横からの角度だった。
題の字は太くて、下に細い線が一本引いてある。線は左の写真の上でいったん切れて、右の写真の上でまた続いていた。
字と写真のあいだに、小さい字が何行か入っている。俺はそこを飛ばした。
◇
右の写真は、澪さんが車のドアに手をかけているところだった。
手が写っている。指の関節のところに、影が一つずつ入っている。
左の写真は、二人とも顔がはっきり出ていた。俺のほうは、いつもの顔だ。動いていない。
澪さんのほうは、少しだけ顎を引いていた。
「写り、いいな」
俺は声に出して言った。
言ってから、もう一度左の写真を見た。何回見ても、澪さんの写りはいい。俺の写りは、良いも悪いも無い。
◇
呼吸の音が、部屋にもう一つあった。
人形は机の右の奥に立っていた。台座ごと、雑誌のほうへ体を向けている。
「あんた、いま何て言ったの」
「写りがいいと言った」
「それだけ?」
「それだけだ」
「上の字は読んだの」
「読んだ」
「声に出して読んでみなさい」
俺は上の字を読んだ。
「人気俳優、共演者と深夜デート」
「深夜って書いてあるわね」
「書いてある」
「あんた、深夜に何かしたの」
◇
「してない」
「してないのに書いてあるのよ」
「書いてあるな」
人形は台座の上で腕を下ろした。下ろして、しばらく何も言わなかった。
俺は写真をもう一度見た。
右の写真の車は、後ろのドアが開いている。開いたドアの内側に、シートの縫い目が写っていた。縫い目は二本で、そのあいだが少し盛り上がっている。
「あんた、この車に乗ったことある?」
「ある」
「いつ」
「夏だ」
「夏ね」
「打ち上げの日だ。犬飼さんが呼んだ車で、俺と澪さんと有本さんが乗った。店が二軒あって、二軒目のあとだ」
人形は雑誌のほうを向いたままだった。
「有本さんは、写ってないわね」
「写ってない」
「犬飼さんも?」
「写ってない」
「二人で乗ったみたいに見えるのよ、これ」
「四人で乗った」
「四人だとは書いてないでしょう」
人形は台座の上で足の位置を変えた。変えて、雑誌の左の端まで歩いた。歩くと言っても、台座ごと十センチも動かない。
「あんた、この写真に写ってる自分を見て、何も思わないの」
「思った」
「何を」
「靴が汚れてる」
「靴」
「右の甲のところだ。夏に付いたやつじゃない」
人形は左の写真の上に立って、俺の足元のほうを見下ろした。見下ろすと言っても、机の上からだと俺の肩より下は見えない。
「あんた、腹が立たないの」
「立たないな」
「わたしは立ってるわよ」
「立ってるのか」
「立ってるわよ。台座で立ってるって意味じゃないの」
俺は小さい字のところへ戻って、頭の三行だけ読んだ。読んだが、そこに書いてある店の名前も、時刻も、俺の記憶のどこにも引っかからなかった。
二軒目の店を出たとき、外はまだ人が歩いていた。深夜と呼ぶには早い時間だったと思うが、何時だったかは覚えていない。
「深夜って、何時からだ」
「知らないわよ、そんなの」
「時間が書いてある」
「その時間が本当かどうかを、わたしが知るわけないでしょう」
◇
左の写真では、俺と澪さんの間が一人ぶんくらい空いている。
空いているところに、道の白い線が入っていた。
その線に見覚えがあった。あの道は片側が工事中で、白い線が一度切れて、二メートル先からまた始まる。
右の写真の道には、白い線が無い。
俺はそこで写真を見るのをやめた。線の話をしても、腹は減ったままだからだ。
台所には、飯の茶碗を伏せて置いてきた。汁は残っていた。上がってくる前に飲めばよかったと思った。
もう一度下りるなら、階段を二度使う。使うだけの価値があるかどうかで、少しのあいだ迷った。
迷っているあいだに、廊下の板が鳴った。鳴り方が速い。
◇
ドアが開いた。
開いたというより、内側へ倒れてきた。取っ手のところに、妹の手が残っていた。
妹は携帯を両手で持って、画面をこっちへ向けている。向けているのに、画面は俺のほうを向いていない。角度が九十度ずれていた。
「兄ちゃん」
「なんだ」
「見た?」
◇
妹の顔は、上のほうだけが赤かった。目のふちと、鼻の上と、そこから額まで。口のあたりは白い。
髪は片方だけ耳にかけてあって、もう片方が落ちていた。
「見た」
「どこまで」
「写真まで」
「本文は」
「読んでない」
「読まないでよ、もう」
妹は携帯を持ち直して、今度こそ画面をこっちへ向けた。
向けたが、指が画面の上を滑って、別のものが開いた。
「ちがう。これじゃない」
◇
「兄ちゃん、上がってきたの何時」
「七時過ぎだ」
「じゃあ知らないんだ」
「何をだ」
「朝からずっと出てるの。昼にまた出て、夕方にまた出て、いま三回目が出てる」
妹は自分の部屋のほうへ半分体を向けて、また戻った。
「切り抜きが回ってる。夏のやつ。あたしが上げたやつじゃなくて、他所が作ったやつ」
「他所か」
「他所だよ。あたしのより伸びてる。そこが腹立つ」
◇
「兄ちゃん、この雑誌どこにあった」
「机の上だ」
「置いたのあたし。買ったのもあたし。駅前で三軒回って、三軒目にあった」
「三軒か」
「三軒目のおばさんが、あたしの顔を見てから袋に入れた」
妹は敷居のところで足を止めていた。部屋に入ってきてはいない。片足だけが中で、もう片足は廊下にある。
「学校、どうだったの」
「普通だった」
「普通なわけないでしょ」
「六限まであった」
「そういうことじゃないんだって」
妹は敷居のところで足を踏み替えた。踏み替えて、また元に戻した。
「誰か何か言ってきた?」
「熊沢が、購買の袋の話をしてきた」
「袋」
「来週から色が変わるんだと」
「あたし、いま兄ちゃんの話を聞いてるんじゃないのよ」
それは俺の話だと思うが、言わなかった。
「先に見せたくなかった。でも、あたしが見せなきゃ、兄ちゃんは明日まで知らないでしょ」
「知らないな」
「知らないままでいられると思ってるでしょ、兄ちゃんは」
思っていた。
妹は雑誌のほうへ手を伸ばして、途中でやめた。やめた手を、パーカーの袖の中に引っ込めた。
「一軒目と二軒目は売り切れてた」
「そうか」
「売り切れるんだよ、こういう日は」
「はい」
「兄ちゃん、いま『はい』って言った」
「言った」
「家では言わないでよ、それ」
◇
俺は雑誌を持って立った。
立ったら、妹は先に廊下へ出て、自分の部屋のほうへ歩いていった。歩きながら、こっちを一度振り返って、また前を向いた。
俺はついていった。
◇
妹の部屋のドアは、内側へ開いたままになっていた。
妹の部屋は、机が壁の二面ぶんある部屋である。
机の上に画面が二つ並んでいる。一つは大きくて、一つは小さい。小さいほうに、動画を切る細い線が何本も立っていた。
妹は椅子に座って、大きいほうを俺のほうへ回した。
「これ、朝の」
「見えない」
「見えるって」
「字が小さい」
「ちょっと待って」
妹は文字の大きさを二回変えた。二回目で、行が画面からはみ出した。
妹は舌打ちをして、元の大きさに戻した。戻したら、今度は前より小さくなっていた。
「なんでだよ」
「小さくなった」
「見ればわかるって」
◇
小さいほうの画面の下に、四角い箱が積んである。箱の面に緑の点が並んでいて、点は同じ速さで点滅していない。
部屋の隅に、三脚が畳んで立てかけてあった。脚のゴムのところが片方だけ潰れている。
「兄ちゃん、そこ立ってないで座って」
「座るところが無い」
「床でいいよ」
「床か」
「床がいちばん散らかってないから」
俺は床に座った。座ったら、机の下の配線が目の高さに来た。線は六本あって、そのうち二本は何にも繋がっていなかった。
繋がっていない二本は、先が上を向いている。上を向いたまま、何かを待っているようにも見えるし、そうでないようにも見える。
机の右手に、もう一脚椅子が置いてあった。座面には上着が掛かっていて、背もたれには何も掛かっていない。
◇
「もういい。あたしが言う」
妹は椅子ごとこっちを向いた。
「朝から、兄ちゃんの名前と澪さんの名前が、上のほうにずっと並んでる。片方だけの日は今までもあったけど、二つ並んでるのは初めて」
「並んでるのか」
「並んでる。あと、事務所のことも書かれてる」
「事務所か」
「兄ちゃんとこ、朝からずっと電話が鳴ってるらしいよ」
◇
「あと、澪さんのとこ」
妹は膝を椅子の上に上げて、そこに顎を載せた。
「澪さんのファンの人たちが、二つに割れてる。片方は怒ってて、片方は怒ってる人に怒ってる」
「両方怒ってるじゃないか」
「そうだよ。だから最悪なんだよ」
「そうか」
妹は顎を載せたまま、俺のほうを見た。目のふちの赤いところは、さっきより広がっていた。
「兄ちゃん、澪さんに連絡した?」
「してない」
「しなくていいと思う。今はやめて」
「わかった」
「今の『わかった』、意味わかって言ってる?」
「言ってない」
◇
鞄の中で携帯が震えた。
俺は廊下で鞄を下ろして、中から携帯を出した。妹は椅子から動かずに、こっちを見ていた。
有本さんだった。
「高町さん、今日、電話が十九本ありました」
「十九本ですか」
「十九本です」
「はい」
「本数だけお伝えします。中身は犬飼さんが言います」
有本さんの声の後ろで、紙が動く音がしていた。何枚かがいっぺんに動く音だった。
「有本さん、まだ会社ですか」
「会社です」
「何時までですか」
「そこは、わたしが決めていません」
音が一度止まって、また続いた。
◇
「犬飼さんに代わります」
「はい」
「高町」
「はい」
「明日、十二時に四階だ。土曜だが来い」
「行きます」
「会議室2だ。飯は先に食っておけ」
「食べます」
「妹さんは家にいるか」
「います」
「明日は、家にいるように言っておけ」
「言います」
「それから、今日はもう画面を見るな。君じゃない、妹さんのほうだ」
電話が切れた。
妹は椅子の背もたれに顎を載せて、俺の手元を見ていた。
◇
「なんて」
「明日、事務所に行く」
「何時」
「十二時だ」
「昼ごはんは」
「先に食っていけと言われた」
妹は口を開けて、閉じた。
閉じた口の端が、一度だけ下へ引っぱられた。引っぱられて、すぐ元へ戻った。
「そこは、そこは説明されるところじゃないでしょ」
「言われた通り言った」
「もういい」
◇
妹は机の小さいほうの画面を消した。消してから、大きいほうも消した。
部屋が急に暗くなって、廊下の電球の色だけが残った。
「あたし、今日は寝ない」
「寝ろ」
「寝ない」
「明日、学校は休みだ」
「そういう問題じゃないんだよ」
妹は膝を下ろして、床に足を戻した。戻した足の片方が、床の配線を踏みかけて止まった。
「兄ちゃん、明日、何言われるかわかってる?」
「わかってない」
「怒られるんだよ、たぶん」
「そうか」
「そうかって言うと、もっと怒られるからね」
「わかった」
妹は机の端を指で二回叩いた。叩いてから、その指を握った。
「あたし、明日、ついて行こうか」
「来なくていい」
「なんで」
「十二時からだ。昼になる」
「昼ごはんの話しかしてないじゃん、兄ちゃん」
妹は椅子の上で膝を抱え直した。
「兄ちゃんさ、明日、向こうの人に何か聞かれたら、わかんないことはわかんないって言いなよ。適当に『はい』って言うのが、いちばん厄介なんだから」
「わかった」
「いま『わかった』って言ったけど、それも適当でしょ」
「適当じゃない」
「適当だよ」
◇
妹は椅子を回して、机のほうへ戻った。背中がこっちを向いた。
背中の真ん中で、パーカーの縫い目が一本、まっすぐ下りていた。
妹の肩は、上がったままだった。下がるのを待っていたが、俺が見ているあいだは下がらなかった。
◇
俺は廊下に立っていた。
廊下の電球は、去年替えたやつだ。前のより白い。白いせいで、壁の紙の継ぎ目がよく見える。
妹の部屋の中からは、何の音もしなかった。椅子の音も、机の音もしない。
右手に雑誌を持ったままだった。表紙が上を向いていて、題の字がこっちからも読める。
妹の部屋の明かりが、ドアの下から廊下へ細く出ていた。出ている幅は、さっきより広い。ドアが少しだけ開いたのだと思う。
俺は雑誌を裏返した。




