第111話 大人が七人、三時間
会議室2は、六人で埋まる。
今日はそこに、大人が七人いた。俺を入れて八人である。
机は六人ぶんで、椅子も六脚しかない。座れたのは、社長と、九条さんと、戸倉さんと、犬飼さんと、法務の人と、俺だった。
有本さんと、宣伝の若い人が、壁際に立っていた。
◇
立っている二人のうち、有本さんのほうは壁から十センチ離れている。若い人のほうは背中を壁につけていた。
部屋の暖房は、入口の上についている。風が出る向きは変えられない。俺の席はその真下だった。
時計は十二時ちょうどを指していた。
土曜日である。事務所の他の階には、人の気配がほとんどなかった。
来る途中の一階も静かで、受付の人はいなかった。代わりに、机の上に小さい札が置いてあった。札には土曜の連絡先が書いてある。
ビルの向かいの白い車は、今日は無かった。無くなったことに気づいたのは、自動ドアを通ったあとだった。
◇
「始める」
社長が言った。それだけで、部屋の音が全部止まった。
九条さんが自分の前の紙を一枚めくった。めくった紙は、みんなの前にも同じものが配ってある。俺の前にも一枚あった。
俺は上から順に読もうとした。四行目で、字が細かくなって止まった。
◇
「昨日から、電話が二十四本です」
有本さんが壁のところから言った。
「内訳は」
「番組が九、雑誌が七、それ以外が八です。それ以外の中には、こちらが知らない相手が四つあります」
「知らない相手はどうした」
「折り返していません。名前と時刻だけ書いてあります」
有本さんはタブレットを持ち直して、そのあとは何も言わなかった。
九条さんが、うなずきもしないでページをめくった。
「番組の九件は、内容を分けてあるか」
「分けてあります。取材の申し込みが四件、出演の確認が三件、残りの二件は用件を言われていません」
「用件を言わない相手は、次に何を聞いてくる」
「そこは、わたしにはわかりません」
有本さんはそこで一度、言葉を切った。
「本数だけお伝えしています」
九条さんはそれ以上は聞かなかった。
九条さんは自分の手帳を開いて、日付のところに何か書き足した。書き足して、閉じた。
◇
法務の人が喋りはじめた。
法務の人は喋るのが速い。速いのに、途中で必ず一度止まる。止まったところで手元の紙を見て、また同じ速さで続ける。
「先方に対して取れる手は三つあります。一つ目は、訂正の申し入れです。二つ目は、こちらの見解を文書で出すことです。三つ目は、何もしないことです」
「三つ目は手なのか」
「手です。向こうは来週も紙を出します。出すには材料が要ります」
「材料」
「訂正を申し入れれば、申し入れたことが材料になります。文書を出せば、文書が材料になります」
「何も出さなければ」
「こちらからは、一つも取れません」
「取れないと、どうなる」
「別の相手のところへ行きます」
俺は、三つ目が手になるという話を、頭の中でもう一度並べ直した。
並べ直しても、同じ三つだった。二つ目と三つ目の差が、どこにあるのかはわからなかった。
◇
「一つ、確認させてください」
「はい」
「高町さんは、この写真の日のことを覚えていますか」
「覚えています」
「何時に店を出た」
「わかりません」
「時計を見たか」
「見ていません」
法務の人は、俺の答えを紙に書かなかった。書かないで、隣の人のほうを見た。
「覚えていないほうが、ここでは普通です」
◇
「もう一つ、確認させてください」
「はい」
「この夜、車に乗ったのは何人ですか」
「四人です」
「四人の名前を、順番に言えますか」
「俺と、澪さんと、有本さんと、運転の人です」
「運転の人の名前は」
「知りません」
法務の人は、そこで初めて紙に何か書いた。書いたのは一行だけだった。
書いているあいだ、部屋の誰も喋らなかった。ペン先の音だけが、机の向こうから届いた。
書き終わると、ペンを紙の上に横に置いた。転がらないように、下敷きの縁に沿わせて置いた。
「知らないというのは、こちらにとっては良い材料です」
「良いんですか」
「良いというより、動かせない材料です。動かせないものは強い」
俺には、動かせないものが強いという話がよくわからなかった。
わからなかったので、はいと言った。
◇
戸倉さんが手元の紙を横に寄せた。
「取材の申し込みが、今朝までで十一件来ています。うち八件は、うちが窓口を持っていない相手です」
「断れるか」
「断れます。断ると、断ったことが記事になります」
「じゃあ受けるのか」
「受けると、受けた相手だけが得をします」
「神楽坂さんの側は」
「真壁さんを通して、二度入れています。返事はまだ来ていません」
「揃えられるか」
「揃いません。同じ会社でも、出す出さないは本人が決めます」
戸倉さんは、どちらとも言わなかった。
言わないまま、次の紙を出した。
◇
俺の前の紙は、まだ四行目のところで止まっている。
字が細かい行の下に、太い字で一行だけ入っていた。〈今後の露出について〉。
その下は表になっていて、左に日付、右に番組の名前が並んでいる。日付は十二月の後半までずっと続いていた。
俺は表の右の端を見た。端のところに、細い縦の線が一本引いてある。
線の右側には何も書いていない。書いていないところが、紙の三分の一くらいあった。
誰かが、あとで書き足すために空けたのだと思う。
◇
「順番の話をします」
戸倉さんが言った。
「先に会見をやるか、先に記事の側を潰すか。両方は同時にできません。人が足りません」
「人は増やせるか」
「増やせません。増やすと、増やしたことも記事になります」
九条さんが、初めて口を開いた。
「映画のほうへは、うちからいつ入れる」
「入れる必要がありますか」
「向こうは今週、書類を並べている。並べている机の上で、うちの名前が別の理由で出るのは避けたい」
◇
「高町くん、一つ聞く」
「はい」
「君は、二月のことを気にしていたそうだな」
「気にしています」
「今日の話は、二月とは別のものだ」
「はい」
「別だが、机の上では隣に並ぶ」
「はい」
九条さんは眼鏡を外して、レンズを見た。見ただけで、拭かなかった。
◇
暖房の風が、俺の頭のてっぺんに当たり続けている。
昼飯は来る前に食べた。犬飼さんに先に食っておけと言われたので、駅の階段を上がったところの店で、丼を一つ食べた。
丼は熱かった。熱いものを食べたあとに、上から温い風が当たっている。
この人たちが黙ったら帰れる。
誰も黙らなかった。
部屋の中で喋っていない人は、俺と、壁際の若い人と、犬飼さんの三人だけだった。
若い人は、時々ペンの尻で自分の腕を突いている。突いてから、突いたところを見て、また突いた。
◇
犬飼さんは、さっきから一度も紙をめくっていない。
右手を机の下に置いて、左手だけを机の上に出している。机の上の手は、指を組んでいない。
途中で一度、ポケットから薬の箱を出した。出して、蓋を開けないで、また置いた。
置いた箱は、机の端から二センチのところにある。
◇
「会見をやるなら、いつです」
宣伝の若い人が、壁際から言った。声が少しだけ裏返っていた。
「早いほうがいい」
「早すぎると、向こうが次の号を作ります」
「遅すぎると、隠していたと書かれます」
「では、間です」
「間というのは何日だ」
俺は、間というのは何日だろうと思った。
思っているあいだに、話は別のところへ行っていた。
◇
部屋の空気が、だんだん重くなってきた。
人が八人いて、窓は無い。空気の出入りは入口の上の一箇所だけで、そこから温い風が出続けている。
俺は椅子に背中をつけて座っていた。
背もたれの角度は、少しだけ後ろへ倒れている。
◇
ドアの外から見れば、大人に囲まれてまっすぐ座っている新人が一人いるだけだ。
「高町くん、いま何と言われたかわかりますか」
戸倉さんの声だった。
「わかりません」
「はい」
「はい?」
「わからないと言えるなら、それでいいです」
◇
法務の人が、また紙を一枚めくった。
紙のめくれる音は、部屋の中でいちばん規則的な音だった。
誰かが水を注いだ。注いだ音は一回だけで、そのあとは続かなかった。
暖房は止まらない。
声は続いている。誰の声かは、途中から区別がつかなくなった。
紙の音と、暖房の音と、声。三つのうち、いちばん近いのは暖房だった。
目の前の紙の四行目を、もう一度読もうとした。
字は同じところにある。読もうとするたびに、行の端が少しずつ下へずれていく。
◇
目が覚めた。
時計は二時三十五分を指していた。
部屋の中の人の並びが変わっている。九条さんが立っていて、戸倉さんが座っていた。法務の人の前の紙は、束が半分になっている。
俺の前の紙は、四行目のところで止まったままだった。
机の上のコップの水が、来たときより減っている。減っているのは俺のではない。俺のコップは、まだ縁のところまで入っていた。
壁際の若い人は、座っていた。誰かが席を譲ったらしい。
◇
「起きたか」
社長が言った。
「起きました」
「よく寝てた」
「すみません」
「謝ることじゃない」
社長は椅子の背にもたれたまま、俺のほうを顎で示した。
「この状況で寝るやつが、うちの新人だ。肝が据わってる」
法務の人が、それを紙に書いた。書いてから、上に線を引いて消した。
犬飼さんは、机の下に置いていた右手を、初めて上に出した。
出して、何もしないで、また下ろした。
◇
宣伝の若い人が、譲られていた椅子から立った。
立って、椅子を元の人に返して、また壁際へ戻った。戻ったところは、最初に立っていた位置より、半歩ぶん入口に近い。
◇
「決まったことを言います」
戸倉さんが紙を一枚、俺の前に置いた。
「訂正の申し入れはしません。文書も出しません。うちからは、紙を一枚も出しません」
「はい」
「出すのは、高町くん本人です。一回だけです」
「はい」
「来週の金曜、午後に会見をします。場所はこちらで取ります。時間は、三十分から四十分です」
「はい」
「話すのは高町くんです。わたしが横にいます」
「はい」
「内容は、事実だけです。謝りません。怒りません。何も足しません」
「はい」
俺は紙の上の日付を見た。来週の金曜の午後である。
午後だから、学校の途中で出る。出るときには、教室のうしろの戸を使う。前の戸を使うと、宮坂先生の前を通る。
「高町くん、いま何を考えましたか」
「教室のうしろの戸のことです」
「そうですか」
「前の戸だと、先生の前を通るので」
「そうですか」
戸倉さんは紙をもう一枚めくった。めくった手が、途中で一度止まった。
◇
「もう一つあります」
戸倉さんは俺の目のあたりを見て言った。
「今から三日、外に出ないでください」
「はい」
「……理解してます?」
「たぶん」
戸倉さんは目を閉じなかった。閉じないで、俺の後ろの壁を見た。
壁には何も掛かっていない。
「外に出ないというのは、コンビニもですか」
「買い物は、ご家族に頼んでください」
「三日ぶんの食い物が家にありません」
「三日ぶんは、たぶん入ります」
「頼みます」
「高町くん、いま初めて困った顔をしましたね」
「顔は動きません」
◇
九条さんが、立ったまま最後の紙を配った。
配りながら言った。
「会見までのあいだ、うちは何も出さない。何も出さないというのは、何もしないという意味ではない」
「はい」
「高町くん、君がやることは一つだけだ。金曜まで、いつも通りにしていること」
「わかりました」
「わかったと言ったな」
「言いました」
九条さんは、それ以上は聞かなかった。
◇
三時になった。
社長がいちばん先に立った。立ったときに椅子が後ろの壁に当たって、壁際に立っていた宣伝の若い人が半歩よけた。
社長はドアのところで一度止まって、犬飼さんのほうを見た。
「犬飼、一つだけだ」
「はい」
「金曜まで、高町を一人にするな」
「します」
「するのか」
「一人にはしません」
社長は出ていった。
◇
部屋に残ったのは、犬飼さんと、戸倉さんと、俺と、有本さんだった。
有本さんは壁から離れて、机の上のコップを集めはじめた。集めたコップは六つあって、そのうち中身が減っていたのは二つだけだった。
犬飼さんは薬の箱をポケットに戻した。三時間、机の上に出したまま、一度も開けていない。
シャツの襟のところが、右だけ外に出ていた。来たときは出ていなかったと思うが、いつ出たのかは見ていない。
犬飼さんは椅子に座ったまま、しばらく立たなかった。立たないで、机の木目のほうを向いていた。
それから、机に手をついて立った。
立つとき、机の角に膝が当たった。当たった音が思ったより大きくて、有本さんがこっちを見た。
犬飼さんは膝を押さえなかった。押さえないで、そのままドアのほうへ二歩だけ歩いて、そこで止まった。
止まって、入口の上の吹き出し口を見上げた。見上げていた時間は、そこまで歩くのに使った時間より短かった。
「犬飼さん」
「なんだ」
「駅の上の店は、夜もやってますか」
「三時間座ってただけだろ」
「座ってました」
「やってる。帰りに寄れ」
◇
戸倉さんが、部屋を出る前に振り返った。
「高町くん、一つ言い忘れました」
「はい」
「金曜の朝、六時に電話をします。出てください」
「出ます」
「寝ていても出てください」
「はい」
戸倉さんは、そこで初めて少しだけ息を吐いた。
吐いてから、俺の前の紙を指した。
「その紙、持って帰らなくていいです。持って帰ると、置き場所で困ります」
「壁があります」
「壁?」
「部屋の壁です。もう二枚貼ってあります」
「……三枚目は、貼らないでください」
◇
俺は椅子を引いた。
引いたら、後ろの壁までの距離が、思っていたより短かった。八人が入っているあいだ、椅子は最初の位置から一度も動かせなかった。
机の下から鞄を出した。
鞄の底が、三時間ぶん冷えていた。
◇
部屋を出るとき、いちばん最後になった。
入口のところで一度止まって、部屋を振り返った。椅子が六脚あって、そのうち二脚は机から離れたところに置いてある。机の上には紙が何枚か残っていた。
残っている紙のいちばん上は、俺の前にあったやつだった。四行目のところに、俺の指の跡がついている。
廊下は暖房が入っていない。会議室2の中との差が、ドアを出た一歩目でわかった。
犬飼さんが先に階段のほうへ歩いていって、途中で止まって、こっちを待った。待っているあいだ、手すりに手を置かなかった。
廊下の窓は、外向きに一枚だけある。
三時間で終わる約束の会議ではなかったが、終わったのは三時だった。窓の外は、もう昼の色をしていない。
戸倉さんが会議室の照明のスイッチを下ろした。下ろしたあとで、また上げて、机の上の紙を取りに戻った。
紙は三枚あった。三枚とも、持って出た。
俺は鞄を肩に担いだ。




