第112話 にらまれても、量は同じ
玄関を出るとき、たたきの上に新聞が三日ぶん重ねてあった。
畳んだ新聞の上に、足が乗っていた。
人形は、いちばん上の一枚の折り目のところに立っている。足の裏が、印刷の見出しの字を半分隠していた。
(そこで何をしている)
「待ってたのよ」
(何を)
「あんたを。今日はわたしも行くわ」
◇
俺は靴を履いた。
履いてから、人形を摘まんで、鞄の前のポケットに入れた。前のポケットは薄いので、頭が上に出る。
「そこじゃないでしょう」
(そこしか空いてない)
「中に入れなさい」
(中は教科書だ)
「あんた、女を教科書の下に入れるつもり? わたしはね、そういう扱いをされたことは一度も無いのよ」
(じゃあ前のポケットだ)
「そのままでいいわ」
人形は、鞄の口から顔だけ出した格好になった。頭の上に、鞄の布の縁が当たっている。
◇
「あんた、鞄の中に何が入ってるの」
(教科書と、ノートと、体操着だ)
「体操着は昨日持って帰ったでしょう」
(持って帰って、また入れた)
「洗ったの」
(洗った。妹が洗濯機を回すときに一緒に入れた)
「あんた、自分では回さないのね」
(回し方は知ってる)
「知ってるのと、やるのは違うのよ」
人形は鞄の口のところで、少しだけ体の位置を直した。
◇
外は寒かった。
家の門の柱は、上のところが少し欠けている。欠けたところに、朝は霜がつく。今日はついていた。
道に出たら、向かいの家の人がゴミの袋を持って出てきた。
俺は頭を下げた。向かいの家の人も頭を下げた。下げたあと、袋を持ち直すのに二回かかっていた。
「おはようございます」
「おはようございます。えっと、あの、なんか、大変ね」
「大変ですか」
「大変じゃない? わたし、あの、テレビとか、ああいうのは、よくわからないんだけどね」
その人は、袋を集積所のほうへ持っていった。持っていく途中で、一度だけこっちを見た。
見たあとで、歩く速さが上がった。
◇
新聞が三日ぶん溜まっていたのは、誰も取りに出なかったからだ。
土曜と日曜は俺が家にいて、家にいるあいだ、玄関のほうへは一度も行かなかった。昨日は学校へ出たが、行きも帰りも、たたきの上をまたいだ。
俺は上の一枚を持ち上げて、下の二枚と揃えて、たたきの端へ寄せた。
寄せたら、人形が乗っていたところの折り目が、少しだけ立っていた。
立った折り目の下の面に、大きい字の見出しが半分だけ見えている。俺はそれを読まないで、上下をひっくり返して置いた。
ひっくり返しても、紙は紙のままだった。裏の面には、天気の欄が出ていた。
◇
(土曜から、外の用が一つも入っていなかった)
「三日ね」
(三日だ。昨日で終わった)
「終わったの?」
(戸倉さんがそう言った)
「あの人がそう言ったなら、そうなんでしょうよ」
人形は、それについては何も言わなかった。
言わないで、鞄の口のところから道の先を見ていた。
◇
道は途中で一度、下りになる。
下りのところに、置き看板が出ている店が二軒あった。片方は開いていて、片方はまだ閉まっている。開いているほうの店先で、人が水を撒いていた。
水を撒いていた人が、手を止めた。
止めたまま、ホースの先から水が細く落ちていた。
◇
桜坂の駅までは、家から歩いて八分である。
途中に踏切が一つと、自販機が二つある。自販機の一つは、去年から売り切れの赤い字が三つ並んだままだ。
俺は今日も、その前を通った。
通ったとき、前から来た男の人が、俺の顔を見た。
見て、通り過ぎて、それから振り返った。
振り返ったのは、五歩くらい行ってからだった。俺はもう十歩くらい進んでいたので、振り返られた時点で、間はだいぶ空いていた。
その人は、携帯を出さなかった。出さないで、また前を向いて歩いていった。
◇
俺は歩き方を変えなかった。
歩き方を変えると余計に見られる、と犬飼さんが前に言っていた。言われた日から、俺は同じ速さで歩いている。
踏切のところで、遮断機が下りた。
俺の横に人が溜まった。溜まった人は、みんな棒の向こうを見ている。
(電車が来る)
「あんた、いま何を見てるの」
(棒だ)
「わたしは、人を見てなさいと言ってるのよ。あんたの目は、こういうときだけ役に立たないわね」
(見てどうする)
「どうもしないわ。でも見てなさい」
◇
電車が通り過ぎて、遮断機が上がった。
上がったら、六人が一斉に歩き出した。俺も歩き出した。
歩き出したところで、後ろから足音が二つ、同じ速さでついてきた。同じ速さのまま、駅の手前まで来た。
駅の手前で、その二つは別のほうへ曲がっていった。
曲がった先はバスの乗り場で、朝の便を待つ列が屋根の下から二人ぶんはみ出していた。
◇
駅前は、朝はいつも人が多い。
改札の手前に売店があって、その横に細い通路がある。通路を抜けたほうが早いので、俺はいつもそっちを通る。
通路の入口で、女の人が二人立っていた。
二人とも携帯を持っていて、片方は画面を見ていて、片方は見ていなかった。
見ていないほうが、俺のほうを見た。
◇
その人は、隣の人の腕を軽く叩いた。
叩かれたほうが顔を上げて、こっちを見た。見てから、画面に目を戻して、また上げた。
二人とも、口は動いていた。声は聞こえなかった。
「あの人たち、笑ってないわよ」
人形の声が、鞄の口のところから来た。
(笑う理由が無い)
「前は笑ってたわ」
(そうか)
「そうか、じゃないのよ。前はね、目が合った人はみんな、口の端をちょっとだけ上げてから逸らしてたのよ」
(覚えてない)
「あんたが覚えてなくても、わたしは覚えてるの」
◇
売店の棚は、通路の入口から見える。
いちばん上の段に雑誌が並んでいて、右の端のところに、金曜に妹が三軒回って買ってきたやつと同じ表紙があった。
同じ表紙が、横に何冊も並んでいる。
棚の前に立っている人はいなかった。
棚の下の段には、新聞が二種類と、透明の袋に入った菓子が並んでいる。菓子のほうは、朝はいつも同じ場所にある。
売店の中の人は、レジの脇で釣り銭を数えていた。数え終わって顔を上げて、こっちを見て、また下を向いた。
◇
俺は通路を抜けた。
抜けた先の券売機の前で、小学生が三人並んでいた。三人とも俺の腰くらいの背で、三人ともこっちを見なかった。
改札を通った。
通ったところに、駅員さんが立っていた。いつもの位置である。
その人が、俺のほうを見た。
見て、すぐ別のほうを見た。
◇
ホームは寒い。
屋根がホームの真ん中までしか無い。端のほうは風が来るので、俺はそこに立つ。
今朝は、端に人が立っていた。
俺が立ったところの前にも後ろにも人がいる。何人かは、俺が立ってから、そっちへ動いてきた。
俺は線路のほうを見た。
線路の砂利のあいだに、白い紙屑が一つ落ちている。風が来るたびに、少しだけ位置が変わった。
◇
(腹が減った)
「あんた、いま何て言ったの」
(腹が減ったと言った)
「わたしの話を聞いてた?」
(聞いてた)
「じゃあ、いま何の話をしてたか言ってごらんなさい」
(笑ってない人の話だ)
「合ってるけど、それだけじゃないの。あんた、さっきから前しか見てないでしょう。わたしはずっと後ろを見てるのよ」
(後ろに何がある)
「人がいるわ。それだけよ」
人形は鞄の口から少し身を乗り出した。
乗り出して、ホームの端から端まで、ゆっくり顔の向きを動かした。
◇
電光の表示が切り替わって、次の電車まであと二分になった。
二分のあいだ、ホームの端は静かだった。誰も喋らない。喋らないのに、人の向きだけが少しずつ変わる。
風は線路の向こうから来る。今朝は、それが顔の右側に当たっていた。
(寒い)
「そうね」
(鞄、閉めるか)
「閉めなくていいわ。閉めたら、わたしが何も見えなくなるでしょう」
(見て何をする)
「見るだけよ。あんたが見ないから、わたしが見てるの」
◇
電車が来た。
乗った車両は混んでいた。俺はドアの横の、手すりのところに立った。
立ったら、隣にいた人が半歩ずれた。ずれたぶんだけ、その隣の人もずれた。
俺の前に、ドア一枚ぶんの隙間ができた。
混んでいるのに、そこだけ空いている。
◇
隙間ができたところに、途中の駅から乗ってきた人が入ってきた。
入ってきて、俺の顔を見て、また一歩だけ下がった。下がった先はもう混んでいて、下がりきれないで止まっていた。
その人は、それから携帯を出した。出して、画面を見た。画面を見たまま、二回だけ顔を上げた。
二回目のとき、俺と目が合った。
合ったのに、その人は目を逸らさなかった。逸らさないで、画面へ戻して、また上げた。
三回目は、上げてから下ろすまでが長かった。
◇
吊り革は、俺の背だと持たなくても立てる。
持たないで立っていると、窓の外の景色が真横に流れる。今朝は曇っていて、川を渡るところで水の色が濃く見えた。
川を渡り終わったあたりで、車両の奥のほうから、携帯を持ち上げる腕が見えた。
腕は、上げてすぐ下りた。
◇
「あんた、うしろ」
人形の声が、さっきより低かった。
(うしろ)
「うしろじゃなくて、いい。前を見てなさい」
(どっちだ)
「前」
俺は前を見た。
前はドアで、ドアのガラスに車内が映っている。映っている中で、こっちを向いている顔が、いくつかあった。
俺は自分の靴の先に目を落とした。右の甲の擦れは、まだ残っている。
靴の先の向こうに、床のタイルの継ぎ目があった。継ぎ目の線は、電車が揺れるたびに少しだけ位置を変える。
揺れが大きいところで、隣の人の鞄が俺の腿に当たった。当たって、すぐ離れた。
離れたあと、その鞄は俺のほうへは寄ってこなかった。
◇
「あんた、いま何を考えてるの」
(降りたら、パン屋の前を通る)
「それだけ?」
(あそこの棚は、朝はまだ全部ある)
「わたしはね、あんたのそういうところに、いま初めて助けられてるのよ」
(何の話だ)
「何でもないわ。あんたは、降りたらパンのことだけ考えてなさい」
(考えてる)
「そう。それでいいのよ」
人形の声は、それきり止まった。
◇
電車を降りた。
降りるときに、後ろから押されて半歩よろけた。よろけた先にいた人が、俺の顔を見て、鞄のほうを見た。
鞄の前のポケットからは、人形の頭が出ている。
その人は、人形のほうを二秒見て、それから離れていった。
ホームの階段は、朝は下りるのに時間がかかる。
階段の途中で、前の人が急に止まった。止まった理由は、上ってくる人とぶつかりかけたからだった。
俺も止まった。止まっているあいだ、後ろの人が俺の鞄の横を覗いた。覗いて、目が合って、下を向いた。
◇
改札を出て、学校までの道に入った。
この道は途中から一本になる。一本になるところに、パン屋がある。パン屋の前はいつも匂いがする。
匂いのほうへ顔を向けたら、店の中の人と目が合った。
目が合って、その人は、俺の顔から目を離さなかった。離さないまま、手だけで奥の人を呼んでいた。
奥から出てきた人は、パンの盆を持っていた。持ったまま、ガラス越しにこっちを見た。
盆の上のパンは、上の段が空いていて、下の段だけ埋まっていた。並べている途中だったのだと思う。
俺は速さを変えずに通り過ぎた。パン屋の前を過ぎると、匂いは二歩で消える。
歩きながら、下の段のやつが何のパンだったかを考えた。
考えたが、色しか覚えていなかった。
◇
(あのパン屋、朝は五時からやってるらしい)
「あんた」
(なんだ)
「その話、今しないといけない?」
(今しか思い出さない)
「……いいわ。もう」
(怒ったのか)
「怒ってない。怒ってないけど、あんたの鞄から見える景色が、先週と違うのよ」
(同じ道だ)
「道の話をしてるんじゃないの」
(量は前と同じなんだけどな)
「量の話もしてないの」
人形の声が、そこで小さくなった。
小さくなってから、しばらく何も言わなかった。鞄の口のところで、頭の向きだけが少しずつ動いていた。
◇
学校の前まで来た。
校門の手前は、朝はいつも詰まる。自転車を引いた三年と、走ってきた一年と、坂の下から上がってくる列が、そこで一度混ざる。
混ざるところで前が動かなかった。
俺は歩く速さを落とした。
落としたら、前を歩いていた二人が振り返った。振り返って、俺を見て、そのまま立ち止まった。
立ち止まられると、こっちが進めない。
◇
「あんた」
(なんだ)
「今日、教室に入ったら、鞄を閉めて」
(閉めるのか)
「閉めて。わたしは中でいいわ」
(さっきは中は嫌だと言った)
「言ったわね。……あの二人、まだこっち見てるでしょう」
(見てる)
「あれをずっと見てると、わたしのほうが持たないの。だから閉めて。あんたは前だけ見てなさい」
人形は、そこで言葉を切った。
切ってから、自分から鞄の口の内側へ体を下ろした。下ろす途中で、頭が布の縁に引っかかって、一度止まった。
◇
校門の柱には、学校の名前が縦に彫ってある。
彫ってあるところの塗りが、下の三文字だけ剥げている。自転車のハンドルが当たる高さだ。
俺は柱の手前で止まっていた。柱の根元には、砂利が少しはみ出している。止まっているあいだに、後ろから来た列が横を抜けていった。
抜けていく人のうち、何人かが顔だけこっちへ向けた。
向けたまま、誰も何も言わなかった。
◇
立ち止まっている二人は、まだ動かなかった。
片方が、もう片方の袖を引いた。引かれたほうが半歩下がって、それでも顔はこっちを向いたままだった。
二人の足元で、柱からはみ出した砂利が歩道のほうへ細く流れている。止まっているあいだに、そこを何人かが踏んでいって、また平らになった。
平らになったところに、次の列が乗った。
上着の背中が、朝より冷たくなっていた。家の門を出るときに柱へ当たったところで、霜が溶けて染みたのだと思う。
鞄の中で、人形は何も言わなかった。口のところの布は、さっき自分で下ろした形のままだった。
俺は、その二人をよけて通った。




