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見られている間だけ天才 ~無表情なだけの俺が、いつのまにか国民的俳優にされていた~  作者: 灰路


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112/235

第112話 にらまれても、量は同じ

 玄関を出るとき、たたきの上に新聞が三日ぶん重ねてあった。


 畳んだ新聞の上に、足が乗っていた。


 人形は、いちばん上の一枚の折り目のところに立っている。足の裏が、印刷の見出しの字を半分隠していた。


(そこで何をしている)

「待ってたのよ」

(何を)

「あんたを。今日はわたしも行くわ」


   ◇


 俺は靴を履いた。


 履いてから、人形を摘まんで、鞄の前のポケットに入れた。前のポケットは薄いので、頭が上に出る。


「そこじゃないでしょう」

(そこしか空いてない)

「中に入れなさい」

(中は教科書だ)

「あんた、女を教科書の下に入れるつもり? わたしはね、そういう扱いをされたことは一度も無いのよ」

(じゃあ前のポケットだ)

「そのままでいいわ」


 人形は、鞄の口から顔だけ出した格好になった。頭の上に、鞄の布の縁が当たっている。


   ◇


「あんた、鞄の中に何が入ってるの」

(教科書と、ノートと、体操着だ)

「体操着は昨日持って帰ったでしょう」

(持って帰って、また入れた)

「洗ったの」

(洗った。妹が洗濯機を回すときに一緒に入れた)

「あんた、自分では回さないのね」

(回し方は知ってる)

「知ってるのと、やるのは違うのよ」


 人形は鞄の口のところで、少しだけ体の位置を直した。


   ◇


 外は寒かった。


 家の門の柱は、上のところが少し欠けている。欠けたところに、朝は霜がつく。今日はついていた。


 道に出たら、向かいの家の人がゴミの袋を持って出てきた。


 俺は頭を下げた。向かいの家の人も頭を下げた。下げたあと、袋を持ち直すのに二回かかっていた。


「おはようございます」

「おはようございます。えっと、あの、なんか、大変ね」

「大変ですか」

「大変じゃない? わたし、あの、テレビとか、ああいうのは、よくわからないんだけどね」


 その人は、袋を集積所のほうへ持っていった。持っていく途中で、一度だけこっちを見た。


 見たあとで、歩く速さが上がった。


   ◇


 新聞が三日ぶん溜まっていたのは、誰も取りに出なかったからだ。


 土曜と日曜は俺が家にいて、家にいるあいだ、玄関のほうへは一度も行かなかった。昨日は学校へ出たが、行きも帰りも、たたきの上をまたいだ。


 俺は上の一枚を持ち上げて、下の二枚と揃えて、たたきの端へ寄せた。


 寄せたら、人形が乗っていたところの折り目が、少しだけ立っていた。


 立った折り目の下の面に、大きい字の見出しが半分だけ見えている。俺はそれを読まないで、上下をひっくり返して置いた。


 ひっくり返しても、紙は紙のままだった。裏の面には、天気の欄が出ていた。


   ◇


(土曜から、外の用が一つも入っていなかった)

「三日ね」

(三日だ。昨日で終わった)

「終わったの?」

(戸倉さんがそう言った)

「あの人がそう言ったなら、そうなんでしょうよ」


 人形は、それについては何も言わなかった。


 言わないで、鞄の口のところから道の先を見ていた。


   ◇


 道は途中で一度、下りになる。


 下りのところに、置き看板が出ている店が二軒あった。片方は開いていて、片方はまだ閉まっている。開いているほうの店先で、人が水を撒いていた。


 水を撒いていた人が、手を止めた。


 止めたまま、ホースの先から水が細く落ちていた。


   ◇


 桜坂の駅までは、家から歩いて八分である。


 途中に踏切が一つと、自販機が二つある。自販機の一つは、去年から売り切れの赤い字が三つ並んだままだ。


 俺は今日も、その前を通った。


 通ったとき、前から来た男の人が、俺の顔を見た。


 見て、通り過ぎて、それから振り返った。


 振り返ったのは、五歩くらい行ってからだった。俺はもう十歩くらい進んでいたので、振り返られた時点で、間はだいぶ空いていた。


 その人は、携帯を出さなかった。出さないで、また前を向いて歩いていった。


   ◇


 俺は歩き方を変えなかった。


 歩き方を変えると余計に見られる、と犬飼さんが前に言っていた。言われた日から、俺は同じ速さで歩いている。


 踏切のところで、遮断機が下りた。


 俺の横に人が溜まった。溜まった人は、みんな棒の向こうを見ている。


(電車が来る)

「あんた、いま何を見てるの」

(棒だ)

「わたしは、人を見てなさいと言ってるのよ。あんたの目は、こういうときだけ役に立たないわね」

(見てどうする)

「どうもしないわ。でも見てなさい」


   ◇


 電車が通り過ぎて、遮断機が上がった。


 上がったら、六人が一斉に歩き出した。俺も歩き出した。


 歩き出したところで、後ろから足音が二つ、同じ速さでついてきた。同じ速さのまま、駅の手前まで来た。


 駅の手前で、その二つは別のほうへ曲がっていった。


 曲がった先はバスの乗り場で、朝の便を待つ列が屋根の下から二人ぶんはみ出していた。


   ◇


 駅前は、朝はいつも人が多い。


 改札の手前に売店があって、その横に細い通路がある。通路を抜けたほうが早いので、俺はいつもそっちを通る。


 通路の入口で、女の人が二人立っていた。


 二人とも携帯を持っていて、片方は画面を見ていて、片方は見ていなかった。


 見ていないほうが、俺のほうを見た。


   ◇


 その人は、隣の人の腕を軽く叩いた。


 叩かれたほうが顔を上げて、こっちを見た。見てから、画面に目を戻して、また上げた。


 二人とも、口は動いていた。声は聞こえなかった。


「あの人たち、笑ってないわよ」


 人形の声が、鞄の口のところから来た。


(笑う理由が無い)

「前は笑ってたわ」

(そうか)

「そうか、じゃないのよ。前はね、目が合った人はみんな、口の端をちょっとだけ上げてから逸らしてたのよ」

(覚えてない)

「あんたが覚えてなくても、わたしは覚えてるの」


   ◇


 売店の棚は、通路の入口から見える。


 いちばん上の段に雑誌が並んでいて、右の端のところに、金曜に妹が三軒回って買ってきたやつと同じ表紙があった。


 同じ表紙が、横に何冊も並んでいる。


 棚の前に立っている人はいなかった。


 棚の下の段には、新聞が二種類と、透明の袋に入った菓子が並んでいる。菓子のほうは、朝はいつも同じ場所にある。


 売店の中の人は、レジの脇で釣り銭を数えていた。数え終わって顔を上げて、こっちを見て、また下を向いた。


   ◇


 俺は通路を抜けた。


 抜けた先の券売機の前で、小学生が三人並んでいた。三人とも俺の腰くらいの背で、三人ともこっちを見なかった。


 改札を通った。


 通ったところに、駅員さんが立っていた。いつもの位置である。


 その人が、俺のほうを見た。


 見て、すぐ別のほうを見た。


   ◇


 ホームは寒い。


 屋根がホームの真ん中までしか無い。端のほうは風が来るので、俺はそこに立つ。


 今朝は、端に人が立っていた。


 俺が立ったところの前にも後ろにも人がいる。何人かは、俺が立ってから、そっちへ動いてきた。


 俺は線路のほうを見た。


 線路の砂利のあいだに、白い紙屑が一つ落ちている。風が来るたびに、少しだけ位置が変わった。


   ◇


(腹が減った)

「あんた、いま何て言ったの」

(腹が減ったと言った)

「わたしの話を聞いてた?」

(聞いてた)

「じゃあ、いま何の話をしてたか言ってごらんなさい」

(笑ってない人の話だ)

「合ってるけど、それだけじゃないの。あんた、さっきから前しか見てないでしょう。わたしはずっと後ろを見てるのよ」

(後ろに何がある)

「人がいるわ。それだけよ」


 人形は鞄の口から少し身を乗り出した。


 乗り出して、ホームの端から端まで、ゆっくり顔の向きを動かした。


   ◇


 電光の表示が切り替わって、次の電車まであと二分になった。


 二分のあいだ、ホームの端は静かだった。誰も喋らない。喋らないのに、人の向きだけが少しずつ変わる。


 風は線路の向こうから来る。今朝は、それが顔の右側に当たっていた。


(寒い)

「そうね」

(鞄、閉めるか)

「閉めなくていいわ。閉めたら、わたしが何も見えなくなるでしょう」

(見て何をする)

「見るだけよ。あんたが見ないから、わたしが見てるの」


   ◇


 電車が来た。


 乗った車両は混んでいた。俺はドアの横の、手すりのところに立った。


 立ったら、隣にいた人が半歩ずれた。ずれたぶんだけ、その隣の人もずれた。


 俺の前に、ドア一枚ぶんの隙間ができた。


 混んでいるのに、そこだけ空いている。


   ◇


 隙間ができたところに、途中の駅から乗ってきた人が入ってきた。


 入ってきて、俺の顔を見て、また一歩だけ下がった。下がった先はもう混んでいて、下がりきれないで止まっていた。


 その人は、それから携帯を出した。出して、画面を見た。画面を見たまま、二回だけ顔を上げた。


 二回目のとき、俺と目が合った。


 合ったのに、その人は目を逸らさなかった。逸らさないで、画面へ戻して、また上げた。


 三回目は、上げてから下ろすまでが長かった。


   ◇


 吊り革は、俺の背だと持たなくても立てる。


 持たないで立っていると、窓の外の景色が真横に流れる。今朝は曇っていて、川を渡るところで水の色が濃く見えた。


 川を渡り終わったあたりで、車両の奥のほうから、携帯を持ち上げる腕が見えた。


 腕は、上げてすぐ下りた。


   ◇


「あんた、うしろ」


 人形の声が、さっきより低かった。


(うしろ)

「うしろじゃなくて、いい。前を見てなさい」

(どっちだ)

「前」


 俺は前を見た。


 前はドアで、ドアのガラスに車内が映っている。映っている中で、こっちを向いている顔が、いくつかあった。


 俺は自分の靴の先に目を落とした。右の甲の擦れは、まだ残っている。


 靴の先の向こうに、床のタイルの継ぎ目があった。継ぎ目の線は、電車が揺れるたびに少しだけ位置を変える。


 揺れが大きいところで、隣の人の鞄が俺の腿に当たった。当たって、すぐ離れた。


 離れたあと、その鞄は俺のほうへは寄ってこなかった。


   ◇


「あんた、いま何を考えてるの」

(降りたら、パン屋の前を通る)

「それだけ?」

(あそこの棚は、朝はまだ全部ある)

「わたしはね、あんたのそういうところに、いま初めて助けられてるのよ」

(何の話だ)

「何でもないわ。あんたは、降りたらパンのことだけ考えてなさい」

(考えてる)

「そう。それでいいのよ」


 人形の声は、それきり止まった。


   ◇


 電車を降りた。


 降りるときに、後ろから押されて半歩よろけた。よろけた先にいた人が、俺の顔を見て、鞄のほうを見た。


 鞄の前のポケットからは、人形の頭が出ている。


 その人は、人形のほうを二秒見て、それから離れていった。


 ホームの階段は、朝は下りるのに時間がかかる。


 階段の途中で、前の人が急に止まった。止まった理由は、上ってくる人とぶつかりかけたからだった。


 俺も止まった。止まっているあいだ、後ろの人が俺の鞄の横を覗いた。覗いて、目が合って、下を向いた。


   ◇


 改札を出て、学校までの道に入った。


 この道は途中から一本になる。一本になるところに、パン屋がある。パン屋の前はいつも匂いがする。


 匂いのほうへ顔を向けたら、店の中の人と目が合った。


 目が合って、その人は、俺の顔から目を離さなかった。離さないまま、手だけで奥の人を呼んでいた。


 奥から出てきた人は、パンの盆を持っていた。持ったまま、ガラス越しにこっちを見た。


 盆の上のパンは、上の段が空いていて、下の段だけ埋まっていた。並べている途中だったのだと思う。


 俺は速さを変えずに通り過ぎた。パン屋の前を過ぎると、匂いは二歩で消える。


 歩きながら、下の段のやつが何のパンだったかを考えた。


 考えたが、色しか覚えていなかった。


   ◇


(あのパン屋、朝は五時からやってるらしい)

「あんた」

(なんだ)

「その話、今しないといけない?」

(今しか思い出さない)

「……いいわ。もう」

(怒ったのか)

「怒ってない。怒ってないけど、あんたの鞄から見える景色が、先週と違うのよ」

(同じ道だ)

「道の話をしてるんじゃないの」

(量は前と同じなんだけどな)

「量の話もしてないの」


 人形の声が、そこで小さくなった。


 小さくなってから、しばらく何も言わなかった。鞄の口のところで、頭の向きだけが少しずつ動いていた。


   ◇


 学校の前まで来た。


 校門の手前は、朝はいつも詰まる。自転車を引いた三年と、走ってきた一年と、坂の下から上がってくる列が、そこで一度混ざる。


 混ざるところで前が動かなかった。


 俺は歩く速さを落とした。


 落としたら、前を歩いていた二人が振り返った。振り返って、俺を見て、そのまま立ち止まった。


 立ち止まられると、こっちが進めない。


   ◇


「あんた」

(なんだ)

「今日、教室に入ったら、鞄を閉めて」

(閉めるのか)

「閉めて。わたしは中でいいわ」

(さっきは中は嫌だと言った)

「言ったわね。……あの二人、まだこっち見てるでしょう」

(見てる)

「あれをずっと見てると、わたしのほうが持たないの。だから閉めて。あんたは前だけ見てなさい」


 人形は、そこで言葉を切った。


 切ってから、自分から鞄の口の内側へ体を下ろした。下ろす途中で、頭が布の縁に引っかかって、一度止まった。


   ◇


 校門の柱には、学校の名前が縦に彫ってある。


 彫ってあるところの塗りが、下の三文字だけ剥げている。自転車のハンドルが当たる高さだ。


 俺は柱の手前で止まっていた。柱の根元には、砂利が少しはみ出している。止まっているあいだに、後ろから来た列が横を抜けていった。


 抜けていく人のうち、何人かが顔だけこっちへ向けた。


 向けたまま、誰も何も言わなかった。


   ◇


 立ち止まっている二人は、まだ動かなかった。


 片方が、もう片方の袖を引いた。引かれたほうが半歩下がって、それでも顔はこっちを向いたままだった。


 二人の足元で、柱からはみ出した砂利が歩道のほうへ細く流れている。止まっているあいだに、そこを何人かが踏んでいって、また平らになった。


 平らになったところに、次の列が乗った。


 上着の背中が、朝より冷たくなっていた。家の門を出るときに柱へ当たったところで、霜が溶けて染みたのだと思う。


 鞄の中で、人形は何も言わなかった。口のところの布は、さっき自分で下ろした形のままだった。


 俺は、その二人をよけて通った。

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